機械仕掛けのカンパネラ

番外編 こじらせ片思い

「はい、おみやげ」
 坂崎は待ち合わせていた学食前に来るなり、笑顔で紙袋を差し出してきた。
 サンキュ、と二階堂は平然とした素振りで受け取る。ちらりと中を見ると、温泉まんじゅうと書かれた平たい箱が入っていた。無難なものだが、好きなひとからもらえるのなら何だって嬉しい。それが新婚旅行のおみやげであったとしても——。

 坂崎七海を初めて見たのは、中学の入学式だった。
 そのときから彼女のことが気になっていた。名門私立ということで名家や資産家のお嬢様が多い中、顔には少女らしい可愛らしさがあったものの、ショートヘアでボーイッシュな雰囲気の彼女は浮いていた。
 その後、いじめで体操服を汚されたり隠されたりしていた彼女に、予備の体操服を貸したことで親しくなった。純粋な親切ではなくいろいろと下心があったのだが、彼女は気付いていないだろう。
 よく一緒にいたので、つきあっていると誤解されることも多かったが、彼女はどう思われてもあまり気にしていないようだった。直に訊かれたときは違うと否定していたが、噂は放置していた。
 そんな様子から、彼女も同じ気持ちなのではないかと感じていた。しかしなかなか確かめる勇気はなく、卒業式のあとでようやく思いきって告白したが、他に好きなひとがいるからと振られてしまった。
 それでも、いままでどおり気の置けない友人ではいてくれた。
 彼女と離れたくなくて同じ高校に進学したが、そこでもつきあっていると誤解されることが多かった。訊かれても曖昧な返事ではぐらかしていたので、なおさら誤解されたのかもしれない。
 そして卒業式のあとで再び告白したが、やはり他に好きなひとがいるからと振られてしまった。それでもつきあっていないらしいので望みはある。友人として隣にいれば、そのうちいつか振り向いてもらえると思った。
 同じ大学に進学し、都合があえば待ち合わせて一緒にお昼を食べている。休日もときどき映画や食事などに行くようになった。これはもうつきあっているも同然ではないか。そう感じ始めていたのに——。
 二十歳の誕生日、彼女はあっさり他の男と婚約したのだ。

「しかし、箱根とは随分しぶいな。世界一周でもするかと思ったのに」
「大学そんな休めないじゃん」
 カフェテリア形式の学食で二人ともカレーとサラダを選び、窓際の席に着くと、隣の椅子に荷物を置きながらそんな話をする。確かに、理系は実験もあるのでなおさら休みにくいだろう。
 いただきます、と二人は手を合わせてカレーを食べ始める。
「でも、夏休みか春休みに一週間くらいどっか行こうって話はしてる。遥の予定がまだ決まってないから、いつになるかはわかんないけど」
「一週間っていうと海外か?」
「国内か海外かも決めてないよ。でも一週間もあるんだったら、せっかくなら遠い海外のほうがいいかなぁ。まだ一回も行ったことないしさ」
 海外へ行ったことがないとは意外だった。
 二階堂の家族は昔から夏季休暇になると海外へ出かける。観光ではなくリゾート地でのんびりとするのが目的だ。中高生のときは部活を理由に残ったこともあったが、たいていは同行していた。
 いい年して家族旅行というのは何となく気恥ずかしいものの、行ってしまえば退屈もせずに楽しんでいる。リゾート地にはいろいろな娯楽が集まっているのだ。日本ではなかなかできない射撃なんかもある。
「ベタだけどハワイはけっこういいぞ」
「んー……それよりイギリスに行ってみたいかな。ベーカーストリートとか、聖バーソロミュー病院とか、クライテリオン・レストランとか、ビクトリア駅とか」
「ああ、はやりの聖地巡礼ってやつ?」
「そんな大層なものじゃないけどさ。やっぱり好きな作品のゆかりの場所って、ちょっと行ってみたいじゃん。見るだけじゃなく五感で感じたいっていうか」
 坂崎はそう言ってはにかんだ。
 二階堂にはそれほど深く思い入れている作品はないが、気持ちはわかる。彼女が婚約するまえにこれを聞いていれば、イギリス旅行へ誘ってみたかもしれない。そうしたら喜んで応じてくれただろうか。
 だが、婚約どころか結婚してしまったいまとなっては、もう手遅れである。たとえ彼女がよくても夫が許さないはずだ。溜息をつきそうになるのをどうにかこらえて、何でもないかのようにカレーを食べ進める。
「あ、でも箱根もよかったよ」
 ふいに坂崎がスプーンを持つ手を止めて、思い出したように言う。
「宿の部屋にも温泉の露天風呂がついててさ。それも二人じゃもったいないくらい広くって。僕、そういうの初めてだったんだけど、すっごく気持ちよかったなぁ」
「ぐっ、ゲホッ、ゲホゲホッ」
「え、ちょっと大丈夫?!」
 すこし気管に入っただけなので大騒ぎされたくない。二階堂はうっすらと涙をにじませてむせながらも、彼女に向けて押しとどめるように手を開き、こくこくと頷いて平気だと伝える。
 わかっている。気持ちがよかったのは温泉だ。
 けれどもうっとりとした顔であんなことを言われたら、違うことを考えてしまうのも無理はない。彼女の発言からすると二人で入ったらしいので、実際にそういうことをした可能性もあるし——。
 顔だけでなく別の部分まで熱くなってきた。座っているときでよかったと思いながら、グラスの水を飲んで深く息をつく。
 思春期に長らく報われない片思いを続けてきたのだ。妄想力が鍛えられたのは必然である。ついには息をするように妄想が浮かぶようになった。そうやってこっそりと自分を慰めるくらい構わないだろう。
 ただ、彼女の口から婚約したと聞かされてからは、彼女が婚約者に抱かれる妄想ばかりになってしまった。自分の意思とは関係なくそうなってしまうのだ。苦しいのに、なぜか興奮してしまう自分が恨めしい。
 まるきり気持ちの悪い非モテ童貞野郎のようだが、童貞はともかく非モテではない。中学、高校、大学とそこそこ告白されている。すべて断っただけで。好きなひと以外とつきあう気など微塵もなかった。
 しかし、その好きなひとはもう正式に他の男のものになっている。けれども彼女を想う気持ちはまだすこしも消えていないし、消えそうにもない。いったいいつまでこの片思いをこじらせればいいのだろう——。
「もう、ほんと気をつけろよ。案外そそっかしいよな」
 むせた原因が自分にあるとは思いもしていないのだろう。彼女は二階堂が落ち着いたのを見るとほっとしてそう言い置き、再びカレーを食べ始める。向かいの人間が微妙な表情を浮かべていることには気付きもしないで。

「あー……だいぶ曇ってきたなぁ」
 学食を出ると、空は重々しい鈍色の雲に覆われていた。
 昼前までは薄曇りだったのに、ほんの一時間足らずで驚くほど変わってしまった。いまにも雨が降り出しそうになっている。そのうち雷も鳴り出すのではないだろうか。
「傘、持ってこなかったのか?」
「折りたたみは持ってるよ」
 そう答え、坂崎は軽やかに階段を降りていく。
 人妻になっても彼女は相変わらずの格好をしていた。今日はゆったりとしたTシャツに薄手のパーカー、デニムのショートパンツだ。いやでも形のいい推定Eカップに目がいってしまう。すらりとした健康的な素足もまぶしい。
 いや、決してカラダで彼女のことを好きになったわけではない。初めて会ったときは胸はぺたんこだったし、と心の中で誰にともなく言い訳をしながら、彼女を追って階段を降りた。
「おう、二階堂!」
 声を掛けてきたのは、近くを通りかかった同じ学科の相沢だ。
 明るめの茶髪でいかにもチャラそうな雰囲気だが、講義は滅多に欠席しない。友人といえるほどではないものの、いつも気さくに話しかけてくるので、大学内ではそれなりに親しくしている。
「あれ、それ箱根のおみやげじゃん」
「ああ……」
 あまり詮索されても困るので、あとでリュックにしまうつもりでいたが、いまはまだ手に提げている状態だ。しまったなと思うものの手遅れである。彼はすでに好奇心で目を輝かせていた。
「もしかして婚前旅行か?」
「じゃなくて新婚旅行だよ」
「……えっ」
 二階堂が否定するよりさきに、彼女が訂正した。
 結婚したことを隠すものだと思っていたので驚いた。冗談半分でからかっただけであろう相沢も唖然としている。まさか在学中に結婚するなんて普通は思わないし、それにこの話の流れではまるで——。
「じゃ、僕そろそろ行くよ。またな!」
 当の彼女は何もわかっていないのだろう。腕時計を確認してそう言うと、笑顔で軽く左手を挙げながら走り去っていく。その薬指には真新しいプラチナの指輪が輝いていた。

「えっと、おまえら結婚したってこと?」
「そうじゃない」
 坂崎の姿が見えなくなったころ、相沢が戸惑いながらもようやく口を開いた。彼がそう誤解するのも無理はないのだが、二階堂は神経を逆なでされたように感じて、つい不機嫌な声を返してしまう。
「坂崎はこのまえ結婚して新婚旅行に行ったけど、相手は俺じゃない。これ以上のことは俺が勝手に言うわけにいかないから、知りたいなら坂崎に聞いてくれ。このおみやげはさっき坂崎からもらったんだ」
「おまえ、あの子とつきあってたんじゃないのか?」
「一度もつきあったことなんてない。ただの友人だ」
「マジで?」
 相沢は腕を組み、納得がいかないような顔をして首を傾げた。
 これからいろんな人に同じような反応をされるのだろう。つきあっているとまわりから認識されていることに気付きながら、いい気になってあえて放置していたのだから、自業自得としか言いようがない。表情に出すことなく内心でそう嘆息していると——。
「でもさぁ、おまえはあの子のこと好きだったろ」
「…………」
 不意打ちをくらって凍りついた。
 別に、そういうんじゃ……と頭が働かないまま言葉を絞り出し、うつむいていく。ごまかさなければと思うのにうまくいかない。冷や汗を浮かべて上目遣いでちらりと相沢を窺うと、彼は苦笑していた。
「よし、今日は二人で飲みに行こう。奢る!」
「……ああ」
 つんのめりそうになるほどの勢いで肩を抱かれ、つい頷いてしまった。
 やはり彼女が結婚したことでかなり堪えていたのだろう。アルコールの力を借りないと無理そうだが、誰かに話を聞いてもらうのも悪くないかもしれない。友人ともいえない男の温もりと重みと優しさを感じながら、二階堂は初めてそう思った。