遠くの光に踵を上げて

第11話 白と黒

 年中、気候が温暖で過ごしやすいこの世界。
 だが。今朝はいつもと違う。植物には白い霜が降り、吐く息も白い。多少は暑くなったり寒くなったりすることはあるが、ここまで極端に寒くなるということは今までなかった。未知のことが起こっている。人々はいい知れぬ不安に襲われていた。

「凍える……」
 アカデミーへ向かう途中のアンジェリカが、口の前を白くしながらぼそりとつぶやいた。息をするだけで肺の奥に突き刺さりそうなほどだ。その一瞬でも体温を奪われていくのを感じ、つぶやいたことを後悔した。その身には脇が閉まらないくらいの重ね着。見た目など気にしている場合ではない。しかも、まだそれでも足りていない様子だ。背中を丸め、アカデミーの門をくぐろうとしたとき、もやの中にジークとリックの姿を見つけた。やはりふたりともみっともないくらいの重ね着をしている。
「おはよう」
 語尾が消え入った、覇気のない声でリックが挨拶をした。ジークは身をすくめたまま、声を出さず手のひらだけ軽く上げてみせた。アンジェリカも同じポーズを返す。声を出す気にもなれないようだ。リックにはかすかに笑顔が見えるが、アンジェリカとジークは青白く、今にも死にそうな顔をしていた。

 三人同時にアカデミーの門をくぐる。と、突然。何かに包まれたように寒さが和らいだ。暖かいとまでいかないものの、普通に動き、会話ができるくらいだ。3人はお互い顔を見合わせた。
「わけわかんねぇことばかりだな」
 ほとんど独り言のように、ジークが言った。
「ある種の結界みたいなものかしら」
 アンジェリカも独り言のように言う。そう言いながら、見えない何かを探して辺りをきょろきょろ見渡していた。しかし、ちょっと見ただけでそう簡単にわかるものではない。アンジェリカもそのことは承知していたので、本気で探そうとしていたわけではなかった。
 教室に入ると、三人とも着すぎた服を脱ぎにかかった。
「すごく疲れたわよね。ヨロイでも着てたみたいだわ」
「動きづらい分、ヨロイよりもタチが悪いぜ」
 そういいながら、ジークとアンジェリカは、脱いだ服を無造作にロッカーに投げ込んでいた。一方、リックは丁寧にたたんでしまっている。彼がふと横を見ると、同じ動作をしてるふたりがいて、思わず笑えてきた。このふたり、似てるな。そう思ったが、思うだけで口には出さなかった。ものすごい剣幕で否定されることは目に見えていたからだ。
 ガラガラガラ——。
 少しの軋み音を含みながら、前の扉が開いた。
「席につけ」
 いつもの調子でラウルが言う。生徒たちはバタバタと慌てて席についた。空席が目立つ。三割くらいは来ていないようだ。
「突然だが」
 そう前置きして、ラウルは一息おき、続けた。
「四大結界師のひとり、レイ=リューリック=クライスが亡くなった」
 教室内は水を打ったように静まり返った。
「柱のひとつを失ったことで、この世界の秩序がバランスを崩した。今朝からの異常な現象は、それによるものだ。近いうちに後任の結界師も決まり、元に戻るだろう」
 この世界は四大結界師により支えられ護られていることは、誰もが知るところだ。ただ、その柱を欠いたときにどうなるかということは、ほとんどの者は知らなかった。
「夕方から葬送式を行う。各自それなりの格好をして集まれ。家に帰って着替えてもいいし、ここで貸し出しもしている。いったん解散だ」
 そう言っても席を立つものは誰もいなかった。
「アンジェリカ」
 呼ばれるままに席を立ち、ラウルについて教室を出ていった。
 そして、間もなく生徒たちがざわめきだした。

 ラウルの医務室。そのまん中にアンジェリカが立っている。入れたての紅茶をふたつ手にしたラウルが奥から戻ってきた。ひとつをアンジェリカに手渡す。それを無言で受け取り、そして、尋ねた。
「なんで……死んでしまったの? まだ、若かったわよ」
 まっすぐラウルの瞳を見つめる。アンジェリカの大きな瞳はかすかに潤んでいるようにも見えるが、その表情からは感情をうかがうことができなかった。
 ラウルは紅茶をひとくち流し込み、一拍の間のあと答えた。
「事故だ。幼い子がオートバイにひかれそうなところを助けて、代わりに自分がはねられた。打ちどころが悪かった」
 机の上にティーカップを静かに置く。アンジェリカも同じようにティーカップを置く。その中は手渡されたままの状態で、ひとくちもつけられていない。
「魔導の力でオートバイを吹き飛ばすくらいのことは出来たはずだが。そうすると、相手が無事ですまないと思ったのだろう。自分より他人の命が大切とはな」
 軽く息を吐いて、目を閉じた。
 アンジェリカは表情を閉ざしたまま、淡々とつぶやいた。
「私だったら……私が同じ状況になったら……どうするのかしら」

 低くたれ込めた空から白いものが舞い落ちる。それが世界を覆い、目に見えるもの総てを白く染め上げ、音さえも掻き消し、静の世界を創り上げていた。
 色彩も音も奪い去られたその世界に、ただ追悼の鐘の音だけが響き渡った。

 王宮の中庭。ここで葬送式が執り行われる。ここも例外でなく、白く、冷たく、静かだ。そのことがいっそうこの場の厳粛さを増していた。
 家族、親族をはじめ、王室関係者、アカデミーの学生など、何百人もの人々が参列している。アンジェリカたちはアカデミーの学生として最後列あたりに並んでいた。
「あんまり面識がなかったからな。いまいちピンと来ねぇな」
 重苦しい雰囲気の中、ジークは隣のアンジェリカにだけ届くくらいの声でつぶやいた。しばらくの沈黙の後、アンジェリカが口を開く。
「私の父の友人だった」
「え?」
 聞き返すジークの声に反応せず、続ける。
「私も、かわいがってもらっていた……なのに」
 目を微妙に細める。その後に言葉は続かなかった。

「凍てついた涙」
 空から舞い落ちる白いものを誰かがそう呼んでいた。人の温もりに触れて融ける様がそう呼ばせたのだろうか。

 再び、鐘の音が鳴り響いた。鋭くまっすぐなその音が、冷たく世界を締めつけた。