「これ、まだ王宮だったんじゃねぇの?」
ジークがそう思うのも無理はなかった。おおよそ民家とはほど遠い、白壁の宮殿造りの家。大きさもかなりのものである。
位置もまた紛らわしい。王宮のすぐ隣に横づけされて建っていた。よく見ると仕切りのレンガ壁があるものの、知らない人が見れば、王宮の一部や別館にしか見えないだろう。
ジークはただ呆然と、だらしなく口を開けて見上げていた。
「アンジェリカ!」
そこへ女の人の声が響いた。アンジェリカとは違い、もう少し大人びた感じだ。
「遅かったじゃない。心配しいてたのよ」
その女の人はアンジェリカの家から出てきたようだった。門を開け、小走りでアンジェリカの元に駆け寄る。
「頑張りたい気持ちもわかるけど、夜はあんまり遅くならないようにして」
「ごめんなさい」
アンジェリカは素直に謝った。ジークはそんな彼女を見たのは初めてだったので、なにか不思議な気持ちを覚えた。
そして、最も気になること。
アンジェリカのお姉さん……か?
あまりじろじろ見るのはどうかと思いつつも、気になって、視線は彼女を追いかけていた。
まず目をひくのはあざやかな金髪。この暗闇でもわずかな光を受けて輝いている。長さは腰くらいまであるだろうか。そしてかすかにウェーブを描いている。黒髪ストレートのアンジェリカとは対照的だ。しかし、そのあどけない顔立ち、小柄で華奢な体つきは、どことなくアンジェリカと似ている。上半身をカチッと締め、腰からふわりと広がったロングドレスは優美なかわいらしさを、そして大きく開いた胸元はアンバランスな色気を演出していた。
気配を感じたのか、視線を感じたのか、彼女はふいにジークの方に顔を向けた。視線がぶつかる。その瞬間、彼は頭が真っ白になり、体は金縛りにあったように動けなくなった。大きな蒼い瞳が、彼をとらえたまま離さない。それは短い時間だったが、彼にはとても長く感じられた。
「ジークさん、ですね?」
ジークの方に体ごと向き直り、かすかに首を傾け、ありったけの笑顔で彼に問いかける。その声で、ジークはようやく我にかえった。
「あ、はい。でもどうして俺の名前……」
「アンジェリカから、いつも話は聞いていますから」
急に自分の名前を出されたアンジェリカは、とっさに顔を上げる。
「話なんてしていないわ! ……そんなに」
慌てて否定するも説得力はない。彼女は頬をふくらまし、自分の名前を出した相手を、うらめしそうに上目づかいで睨んでいる。
しかし、睨まれた当の本人は、まったくおかまいなしに続ける。
「さ、どうぞ。上がってください」
右手を家の方に向け、左手をジークの背中にそっと添えた。瞬間、ビクっと小さく体を揺らす。そして、前を見たり後ろを見たり、あからさまにうろたえた様子を見せている。
「ただ送ってくれただけなんだからね! 遊びにきたわけじゃないんだから!」
アンジェリカが後ろから声を張り上げ、慌てて引き止める。
だが、金髪の彼女は笑顔を崩さなかった。
「いいじゃない。せっかくここまでいらしたんだから。ね?」
そう言って、ジークに同意を求めた。
ジークは戸惑いながらも、うながされるまま歩き出した。アンジェリカはずっと頬をふくらませたままだったが、しばらくすると彼女も後ろをついて歩き出した。
重厚で格調高そうな扉が音を立て、ゆっくりと開いた。光が闇に飛び出し、ジークたちの顔を照らす。
そして目の前に広がった世界に、ジークはまたしても言葉を失った。
まるで別世界。それは、彼のイメージの王宮そのものだったのだ。高い天井、吹き抜け、中央の幅広く白い階段、赤い絨毯、きらびやかなシャンデリア、古いけれどよく手入れされたインテリア。そのすべてが、彼の初めて目にするものだった。
「さ、こちらよ」
通されたのは玄関ホール隣の応接間。白が基調のただ広い部屋の奥にはソファと机、そして漆黒のグランドピアノ。目につくのはそれくらいだ。贅沢な空間の使い方である。
ここだけでも俺んちよりでかいな…。
ジークはあたりを見まわしながらそんなことを考えていた。
「お飲物は紅茶でいいかしら」
「はい」
ほとんど条件反射で答える。
「わたしレモンティ」
アンジェリカはそう言うと、無造作に鞄を置いて、応接用の長椅子に身を預けた。
「ジークさんも座ってお待ちくださいね」
その言葉を残し、長いブロンドをなびかせながら、彼女は部屋を去っていった。
広い部屋にアンジェリカとジークのふたりきり。独特の不思議な空気。柱時計の振り子の音が静寂を刻む。
「立ってないで座れば」
「ん? ああ」
アンジェリカの言葉にうながされて、彼女の斜め前の席に腰を下ろした。そして、目の端で彼女の様子を盗み見る。
「末っ子?」
しばしの沈黙のあと、ジークは唐突に質問をぶつける。アンジェリカはきょとんとしながらも答える。
「わたし? ひとりっ子だけど?」
その答えに、今度はジークがきょとんとする。
「じゃあ、さっきの人は……?」
アンジェリカは話の流れが読めず、わずかに首をかしげる。
「母親だけど?」
「お待たせしました」
大きめのトレイにティーポットとティーカップ三つを載せて、噂の張本人がゆったりとした足取りで戻ってきた。
ジークは口を半分開けたまま、瞬きも忘れて彼女をじっと見ている。
彼女はトレイを静かにテーブルの上に置くと、視線の送り主の方に顔を向けた。彼の何か言いたげな顔を見ると、目をくりっとさせ、疑問を投げかけるように首を傾けた。
「アンジェリカのお母さん……ですか?」
彼女のしぐさに促され、ジークは喉元で止まっていた言葉をようやく口に出した。
「そういえば自己紹介がまだだったわね」
そう言うと、彼女はまっすぐジークの方に体ごと向き直った。
「レイチェル=エアリ=ラグランジェです。アンジェリカの母親よ。よろしくね」
ふわりと笑いかけ、優雅に右手を差し出す。ジークは慌ててソファから立ち上がり、同じく右手を出した。
「ジーク=セドラックです」
そして、柔らかく握手を交わす。そのとき、ジークはようやくほっとした表情を見せた。
「お茶、冷めちゃうわよ」
その言葉以上に冷めた口調で、アンジェリカがふたりに割って入った。両ひじを自分の膝にのせ、ほおづえをついてむすっとしている。
「あら、私がジークさんと仲良くしてたから怒っちゃった?」
レイチェルはいたずらっぽく笑いながら、上体をかがめ、後ろで手を組んでアンジェリカの表情を覗き込んだ。
「別に、怒っていないわ」
レイチェルの追求を避けるように、目を少し伏せる。
「それなら良かった」
弾んだ声、不自然に強調された語尾。なにか含みを持たせたその言い方に、アンジェリカは困惑するものの、表面上は努めて冷静をよそおった。ただ、その瞳だけがわずかに揺れていた。
ひといきおくと、ティーカップを口に運び、レモンティをゆっくりと流し込む。体の中をあたたかいものが流れていくのを感じながら、静かに目を閉じた。そして、もういちどレモンティを口にした。あたたかさとともに、今度はわずかに含まれていた苦味が口の中に広がっていった。