「おはよう」
背後からの晴れやかな声が、ジークとリックの足を止めた。ふたりははっとして同時に振り返った。
「アンジェリカ! 良かった、元気そうで」
リックは彼女の笑顔を目にすると、ほっとして言った。
「全然たいしたことなかったみたい。ラウルも大丈夫だって」
アンジェリカは肩をすくめて明るく笑った。だが、そんな彼女を見ても、ジークの心配は拭えなかった。
アンジェリカは三日間、アカデミーを休んでいた。「全然たいしたことない」のなら、三日間も休む必要があるだろうか。念のためといわれればそうかもしれない。だが、そうではないかもしれない。
気がかりなことは他にもあった。アンジェリカが明るすぎる、ジークはそう思った。あんなことがあったばかりなのに、彼女に不安はないのだろうか。なぜそんなに屈託なく笑えるのだろうか。
「ジーク? どうしたの?」
ふたりの間に滑り込んできたアンジェリカが、難しい顔のジークを不思議そうに見上げた。ジークはその声で我にかえった。ふいに、下から覗き込むアンジェリカと目があった。近くで見ても彼女の顔色は良かった。肌は白いが、頬はほんのり桜色。そしてバラ色の可憐な唇はつややかに輝いている。
「いや、元気そうでよかった」
顔をそらし、そっけなく言うと、ジークは再び歩き始めた。
「なに、あれ」
アンジェリカは彼の後ろ姿にまばたきを送りながら、きょとんとつぶやいた。リックは小さく笑った。
「多分、照れてるんだと思うよ」
「ふーん……?」
アンジェリカはよくわからないままそう返事をして、軽く首を傾げた。
「おい! 何やってんだ!! 遅刻するぞ!!」
ジークは振り返り、一向についてこないふたりに向かって叫んだ。
「ごめん、いま行く!」
リックは笑顔で手を振り答えると、アンジェリカとともに小走りで駆け出した。
終業のベルが鳴り、一時間目が終わった。
アンジェリカはノート、教本をトントンと揃えると、それらを机の中にしまいこんだ。それから、いつものように後方のジークに目をやった。しかし、その席には誰もいない。そのまわりにもジークはいない。今までそんなことは一度もなかったのに——。彼女に不安がよぎった。
「あれ? ジークはどこ行ったの?」
リックも教室をきょろきょろ眺めまわしながら、アンジェリカに近づいてきた。
「さあ……授業中はいたと思うんだけど」
彼女は目を伏せて、小さな声で答えた。隠そうとしても隠しきれない不安感が、その声に滲んでいた。
リックはそれに気がつき、急に笑顔を作った。
「きっとお手洗いだよ。そんなに心配することはないって」
「別に心配なんてしてないわ」
アンジェリカは精一杯の強がりを見せた。
ジークは一年生の教室へ来ていた。後ろの扉から中を窺うと、近くでしゃべっていた女の子ふたりに声を掛けた。
「悪い。ユールベルを呼んできてもらえるか」
そう言って、窓際の席でひとり外を眺めているユールベルの後ろ姿を指さした。ふたりの女の子は、頬を赤らめながら少しとまどったように返事をすると、連れ立ってユールベルのもとへ駆けて行った。
ジークは壁にもたれ掛かり、腕を組んでため息をついた。別に悪いことをしているわけではない。そう自分に言い聞かせても、若干の後ろめたさは拭えない。
「あなたが会いに来てくれるとは思わなかったわ」
ユールベルの声が、ジークを現実に引き戻した。白いワンピースのユールベルは、棒立ちでジークをじっと見つめた。相変わらず彼女の左目は白い包帯に覆われている。
ジークは話を切り出そうとしたが、まわりの注目を浴びていることに気がつき、口をつぐんだ。そして、場所を探すため、あたりをぐるりと見渡した。
「あっちで話そう」
好奇の目を向ける一年生に睨みをきかせながら、ユールベルを階段の裏へと連れて行った。
「腕は大丈夫?」
先に話しかけたのはユールベルだった。彼女は、ジークの長そでの上からそっと手をのせた。包帯の感触を感じとると、顔を上げ、ジークの目を見つめた。
「ごめんなさい」
「いや、平気だ。傷は浅い」
スピードを上げた心拍に急き立てられるように、ジークは短く早口で言った。ユールベルはゆっくりと目を細めた。
「私のことを嫌いにならないで」
前回の別れ際と同じ言葉。だが、あのときとは違って、ほんの少しだが感情がこもっているように感じられた。
ユールベルは両腕をジークの背中にまわし、彼の胸に顔をうずめた。
突然のことに驚いたジークは、不格好に両肘を張ったまま、行き場をなくした手を宙にさまよわせていた。背中に置かれた細い腕、細い指、腕をくすぐる柔らかな金髪、鼻をくすぐる甘い匂い、薄地の服を通して感じられる微かな体温、押しつけられた柔らかな胸、胸にかかる熱い吐息……。ジークは全身でユールベルを感じた。だんだんと遠のく現実。それでも正気を保とうと、彼の頭は必死でもがいた。そして、ようやく思い出した。自分がなぜここに来たのかを。
「ハンカチ……」
ジークはつぶやくように言うと、ズボンのポケットから手のひら大の紙包みを取り出した。
ユールベルはそれに目を移した。それから顔を上げ、ジークの瞳をじっと見つめた。彼が下を向けば息が触れ合いそうな距離。ジークは少しでも離れようと、背筋を伸ばして顔を前に向けた。
「このまえ借りたやつ、ダメにしちまったんだ。悪い。なるべく似たやつを選んだつもりだ」
ジークは平静を装い、低いトーンで言った。しかし、速いスピードで打つ鼓動までは隠し切れない。彼女には伝わってしまっているだろう。そう意識すると、心臓はますます強く活動する。
「私のせいだから、そんなことは気にしなくても良かったのに。優しい人ね」
ユールベルはジークの手から紙包みを受け取ると、ようやく体を離した。ジークはほっとして小さく息を吐いた。「借りを作りたくなかっただけだ」——ジークがそう言おうとした、そのとき。
ユールベルはぎこちなく笑いかけた。ジークは目を見開いた。先日、彼女が笑っていると主張しても、見た目はずっと無表情だった。笑えないのかと思った。だが、今は確かに笑っている。
「あなたの言ったとおりだったわ。私は笑えてなかった」
彼女は目を伏せてそういうと、大きくまばたきをしてジークと視線を合わせた。
「だから、今、きちんと笑えるように練習しているの」
ジークは彼女の蒼の瞳に強い意志を感じた。少なくともそのことに関しては、疑う気になれなかった。
「そうか、頑張れよ」
ジークも微かな笑顔を返した。
「ありがとう」
ユールベルは大事そうにハンカチを両手で握りしめ、再び笑ってみせた。まだ少しぎこちない。だが、ジークの目には、さっきよりも表情が柔らかくなっているように映った。
ジークは自分の教室に戻るために、階段をのぼっていた。
「どんな手を使ったんだ。教えてくれないか」
その声にジークが顔を上げると、踊り場から男が見下ろしていた。レオナルドだった。腕を組んで壁にもたれかかり、嫌みたらしくニヤリと笑っている。ユールベルと話していたところを覗いていたに違いない。
ジークはひと睨みすると、無視をして通り過ぎようとした。だが、レオナルドは素直に逃がしはしなかった。
「ユールベルまでこんなに早く手なずけるとはな。アンジェリカだけでは物足りないか。それともラグランジェ家を乗っ取るつもりか」
レオナルドは挑発的に畳み掛ける。それでもジークは必死に気持ちを抑えていた。だが、その壁も次のレオナルドの言葉で弾け飛んだ。レオナルドはニヤリと笑い、身を乗り出すと、ジークの耳もとでささやくように言った。
「さっきのこと、アンジェリカに言ったらどうなる?」
ジークはレオナルドの胸ぐらに掴みかかり、そのまま壁に叩きつけた。レオナルドは後頭部を打ち顔をしかめた。だが、歯を食いしばったジークのくやしそうな表情を見ると、満足げにせせら笑った。
「悪いのはこっちか? 言われて困るようなことをしていた自分はどうなんだ」
レオナルドはさらに追いつめた。
ジークは何も言葉が出なかった。レオナルドから手を離すと、背を向けこぶしを握りしめた。
「言いたきゃ勝手に言えよ」
吐き捨てるようにそう言ったあと、少しの間をおいて続けた。
「俺は何も悪いことはしてねぇ」
今度は自分に言い聞かせるように、言葉を噛みしめながら言った。しかし、それと同時に、後ろめたさを感じていたのも事実だった。
「あ、ジーク!」
アンジェリカは教室に入ってきたジークと目が合い、声を上げた。ジークはアンジェリカに応えることなく、むすっとしたまま黙って席についた。
「どこへ行っていたの……?」
アンジェリカはおずおずと尋ねた。
「トイレだ」
ジークはぶっきらぼうにそう答えた。だが、その目は明らかに彼女から逃げていた。アンジェリカは不安そうに目をしばたたかせながら、遠慮がちに覗き込もうとした。
「だめだよアンジェリカ。あんまりジークを追いつめちゃ」
リックが優しく彼女を諭した。
ジークはどきりとした。リックが何を言い出すつもりなのかと気が気でなかった。しかし、下手に口出しするのも恐い。彼は成り行きを見守るしかなかった。
リックはアンジェリカににっこり笑いかけて言った。
「おなかの調子が悪いなんて、恥ずかしくて言えないんだから」
「違っ……! リックおまえ何言い出すんだ!!」
ジークは一気に顔を上気させて、椅子から立ち上がった。リックがなぜそう言い出したのかわからず、頭が混乱していた。そんなふうに推測しただけなのだろうか。それとも自分をからかっているだけなのだろうか。
リックは頭に手を置き、明るく笑った。
アンジェリカはそんなふたりを見て、腕を組み、呆れたようにため息をついた。しかし、その表情は安堵で和らいでいた。
ジークはそこで初めて気がついた。リックが自分のためにひと芝居打ってくれたのだということに。リックにも何も言ってはいなかったのだが、アンジェリカより付き合いの長い彼には、何か察するものがあったのだろう。そのごまかし方には納得がいかなかったが、それでもジークは感謝した。
キーン、コーン——。
始業のベルが鳴った。
「始まったぞ。おまえら席に戻れ」
ジークは照れ隠しに、大袈裟に手を振って追いはらった。その拍子に、シャツの袖口から白い包帯がチラリとのぞいた。アンジェリカはそれを目ざとく見つけた。
「どうしたの、それ」
彼女は指さしながら近づいた。
「ああ……」
ジークは一瞬、腕を隠そうとしたが、すぐに思いとどまった。隠した方が不自然であることに気がついたからだ。
「割れたコップで切った。たいしたことねぇよ」
努めて冷静に言ったが、アンジェリカの反応はなかった。
「アンジェリカ?」
「……え? ううん、なんでもない」
彼女は早口でそう言うと、パタパタと小走りで席に戻っていった。
甘い、におい——。
ジークに近づいたとき、微かにふわりと甘い匂いがした。懐かしいような、それでいて落ち着かない気分にさせられる。
何の匂い——?
アンジェリカは得体のしれない不安が静かに胸に広がっていくのを感じた。