「いつまで寝ているつもりだ」
すっかり身支度を整えたラウルが、奥の部屋から出てきた。そのまま足を止めず窓ぎわまで進むと、ガラス戸をガラガラと開ける。ひんやりした空気が、柔らかな光をかきわけ流れ込んできた。ふわりと揺らめいた白い仕切りカーテンには薄い影が映っていた。返事はなかったが、ユールベルがそのベッドで寝ていることは間違いない。
シャッ——。
ラウルはカーテンを半分だけ開いた。ユールベルは布団も掛けず、髪も服も乱したままで横たわっていた。両手両足は無造作に投げ出され、まくれ上がった白いワンピースから、白い上腿があらわになっている。そして、虚ろに開かれた右目は、何も映していないかのように生気をなくしていた。
ラウルは彼女の体の上に、大きな白いタオルを落とした。冷たくなった肌を包み込む、暖かく柔らかな感触。ユールベルはゆっくりとラウルに顔を向けた。
チャリン。
彼の手から枕元に何かが投げ置かれた。ユールベルはラウルを見つめたまま、そろそろと手を伸ばす。冷たく固い、小さなもの。それは輪につながれた鍵ふたつだった。
「私はアカデミーへ行く。食事をとるなり、シャワーを浴びるなり好きにしろ。出るときは鍵を閉めていけ」
ラウルはそれだけ言うと、医務室の扉を開け出ていった。
ユールベルは手にした二つの鍵をじっと見つめた。ひとつは医務室の鍵、もうひとつは……ラウルの部屋の鍵? ラウルの部屋は医務室の奥にある。ほとんど壁と同化している目立たない扉が入口らしい。ラウルがそこから出入りするのを何度か見かけたことがあった。しかし、一度も入ったことはない。
ユールベルは鍵を軽く握り、気だるそうに身を起こした。そして奥の扉をじっと見つめた。
キーン、コーン——。
「午前はここまでだ」
ラウルは教本を閉じ、机の上でトンとそろえると、小脇に抱え教室をあとにした。彼が歩く間にも、次第に廊下は賑やかになっていく。喧噪から逃れるように角を曲がると、そこにはユールベルが待ちかまえていたかのように立っていた。
ラウルは彼女を一瞥し、そのまま通り過ぎようとした。だが、ユールベルは彼の前に飛び出し、行く手を阻んだ。顔を上げ、深い茶色の瞳をじっと見つめる。そして、チャランと小さな音をさせながら、二つの鍵をラウルの鼻先に掲げた。
「机の上のサンドイッチ、食べてしまったわよ」
「好きにしろと言った」
ラウルは目の前の鍵をひったくるように奪い取った。
「もしかして、私のために作っておいてくれたの?」
ユールベルは無表情で尋ねた。ラウルも無表情で彼女を見下ろした。
「用がないのならもう行くぞ」
冷たくそう言うと、左足を横に踏み出し、彼女を通り過ぎようとした。
その瞬間、白いワンピースが風を受けふわりと舞い上がる。ユールベルはラウルに飛び込んでいた。彼の胸に顔をうずめ、背中に手をまわす。そのとき、彼女の長い髪が、ラウルの手に触れた。冷たい。まだ生乾きだった。
「やっぱりあなたのことは嫌い」
ユールベルはラウルの胸元で、淡々とつぶやくように言った。
「そうか」
ラウルは感情のない声で短く返した。
ふたりのまわりがざわつき始めた。遠まきに見ている生徒たちは、興奮しつつ声をひそめて話し合ったりしている。ここはアカデミーの廊下、ふたりは教師と生徒。騒がれるのも当然である。
しかし、ユールベルはまったく意に介していないように見えた。顔を上げ、ラウルを見つめる。そのまま焦茶の長い横髪をぐいと下にひっぱり、彼の顔をすぐ近くまで引き寄せた。甘い匂いがラウルの鼻をくすぐる。それでも彼はまるで表情を変えない。
ユールベルはわずかに眉をぴくりと動かし睨みつけた。そして、つま先立ちして首を伸ばすと、唇を触れ合わせた。
まわりからどよめきが起こった。
彼女はすぐに顔を離し、今度は平手打ちをくらわせた。パンと軽い音が響く。それと同時にあたりは静まった。
しかし、ラウルはまったく動じていなかった。
ユールベルは手の甲で口を拭いながら後ずさりし、彼を睨みつけた。
「さようなら」
小さな声でそう言うと、踵を返し去っていった。
「なんか外が騒がしくねぇか?」
ジークはざわめく廊下に目を向けた。しかし、席に座ったままでは、ほとんど外は見えず、何が起こったのか確認することは出来なかった。
「ちょっと話をそらさないでよ!」
アンジェリカはジークの机に両手をつき、身を乗り出した。軽く口をとがらせた顔を、ぐいっと近づける。
「あ、ああ、ユールベル、な」
ジークは体を引き、背もたれに寄りかかりながら、しどろもどろに言葉を返した。
「負けを認めてなかったみたいだし、難しいかもしれないね」
言葉の続かないジークの代わりに、リックが横から冷静に答えた。
アンジェリカは彼に顔を向け、小さく首をかしげた。
「悔しいのはわかるけど、いきなり暴走したり泣き出したり、わけがわからないわ、彼女」
「……きっと」
リックは目を伏せた。
「寂しくて、情緒不安定、なんじゃないかな。なんか……わかるんだ」
ぽつり、ぽつりと言葉を落とし繋いでいく。感情を押し隠したような表情。しかし、すぐに我にかえったように微笑みを作ってみせた。
ジークは腕を組んでうつむいた。
「ふーん」
アンジェリカはあまり納得していないような薄い返事をした。
「でも!」
一転、今度は力を込めて切り出した。腰のあたりで握りこぶしを作り、気合いを入れる。
「何がなんでも約束は守ってもらうんだから」
「…………」
ジークはうつむいたまま考え込んだ。彼女とユールベルの間に何があったのかは知らない。彼自身も気にはなる。だが、サイファがひた隠しにしていることを考えると、やはり知らない方がいいのではないか。いや、知ってはいけないのではないか。そんなふうに思えてくる。しかし、それではアンジェリカが納得するはずはない。今までもさんざん止めようとしてきたが、すべて無駄に終わった。頑固で、強情で、言い出したらきかない。ただ、今回の件に関しては、彼女の気持ちもわかる。だから、つらい。
「私は守るわよ、約束」
アンジェリカの弾んだ声が、ジークを現実に引き戻した。とっさに顔を上げると、彼女はにっこりと笑いかけてきた。
「約束?」
ジークが聞き返すと、アンジェリカは目を丸くした。
「忘れたの? ほら、ジークのいうことをなんでもきくって言ったでしょう?」
「ああ、あれか」
ジークは気の抜けた声で返事をした。そんなことはすっかり忘れていた。
「俺はおまえに頼みたいことなんて何もねえって」
「だめよ! 私はちゃんと約束を守りたいの」
アンジェリカは腰に手をあて、前かがみにジークを覗き込むと、少し怒ったように口をとがらせてみせた。
「約束っておまえが勝手に決めただけだろ!」
ジークは食ってかかった。
またふたりの言い合いが始まる——リックはそわそわし始めた。だが、アンジェリカは反論することなく、再びにっこりと笑いかけた。
「考えておいてね」
ジークの胸はドクンと強く打った。少し耳を赤くしながら、腕を組んで、困ったようにうつむいた。
「さ、食堂へ行きましょう」
アンジェリカは背筋を伸ばして明るくそう言うと、扉に向かって歩き始めた。ジークも立ち上がり、リックとともにあとを追った。
「あっ……」
アンジェリカは教室を出たところで、小さく声を上げ足を止めた。続いて出てきたふたりも、はっとして足を止めた。三人の視線の先には、壁に寄りかかり、じっとこちらを見つめるユールベルがいた。あいかわらず左目は包帯で覆われている。彼女は壁から背を離すと、そっと歩み寄ってきた。ジークは右足をわずかに後ろに引き、小さく身構えた。
「きのうは取り乱してしまってごめんなさい」
ユールベルは無表情で詫びの言葉を口にした。だが、アンジェリカはそれを信じようとしなかった。疑いのまなざしを彼女に向けた。
「約束は守ってくれるんでしょうね」
「ええ、負けは負けだもの。仕方ないわ」
意外なほどあっさりしていた。あっさりしすぎている。
「そう、良かった」
アンジェリカは固い声で返事をした。疑いはまだ拭えない。
「ついて来て。見せたいものがあるの。それから話をするわ」
ユールベルは踵を返そうとした。
「今から?」
驚きを含んだアンジェリカの問いに、ユールベルは足を止め、彼女を見つめた。
「そうよ」
素っ気なく答えると、背中を向け歩き始めた。アンジェリカは彼女の後ろ姿を見つめていたが、やがて黙って足を踏み出した。
「午後の授業はどうすんだよ」
ジークが後ろから声を掛けたが、何の反応もなかった。無視をして歩き続けている。こうなったらもう止められない。
「しょうがねぇなぁ」
困ったように眉根を寄せ、ため息をつく。そして、リックとともに彼女についていこうとした。
すると、ユールベルが振り返り、ふたりに鋭い視線を向けた。
「あなたたちは駄目よ」
「は?」
ジークとリックは顔を見合わせた。
「私が約束したのはアンジェリカだけ。あなたたちに話すとは言ってないわ」
「なっ……」
ジークは口を開けたまま、カクカクと震わせた。
「じゃ、アンジェリカも行かせねぇぞ! 一人だなんて危険だ。行かせられるか!」
大声でまくし立てるジークに、アンジェリカはむっとして振り返った。
「勝手なこと言わないでよ! せっかく手に入れたチャンスなのよ。ふいになんてしないわ」
彼女は強気に言い放った。ジークはますます頭に血がのぼった。
「少しは自覚しろ! 今までどれだけ危険な目に遭ってきたと思ってんだ!」
アンジェリカを指さしながら、怒り顔をつきつける。しかし、彼女は引くどころか、さらに顔を近づけた。
「わかってるわよ。それでも行かなきゃならないの。絶対にゆずれない」
強い意志を秘めた目を彼に向ける。ジークはその漆黒の瞳をじっと見つめると、何かをこらえるように奥歯を食いしばった。彼女は微動だにしない。
「勝手にしろ!」
ジークは吐き捨てるようにそう言うと、背を向け腕を組んだ。
「ジーク!」
はらはらしながら二人のやりとりを聞いていたリックは、投げやりになったジークを見て、たまらず叫んだ。しかし、彼に反応はない。
「アンジェリカ!」
今度は彼女に振り向き、声を掛けた。アンジェリカは微笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。心配しないで」
その言葉を残し、ユールベルとともに歩き去っていった。
「行かせちゃっていいの?!」
リックはジークに詰め寄った。彼は腕を組んでうつむき、唇を噛みしめていた。
「俺には、止められねぇよ」
ジークの声には、隠せない悔しさがにじんでいた。
午後の始まりを告げるベルが鳴った。
ふたりは暗い顔で席についていた。ジークは無意識に、アンジェリカの席に目を向ける。しかし、何度見ても、そこは空いたままだった。
ラウルがガラガラと引き戸を開け入ってきた。教壇に立ち、教本を机に置くと、無言で教室を見渡した。
「自習にする」
唐突にそう言うと教壇を降り、まっすぐジークのもとへ歩いてきた。彼にはその理由がわかった。体中に緊張が走る。
「来い」
そして、今度は反対側のリックに顔を向けた。
「おまえもだ」
ふたりはこわばった顔を見合わせて、立ち上がった。
教室から目の届かないところまで来ると、ラウルは足を止め振り返った。
「アンジェリカはどこへ行った」
腕を組み、ふたりを見下ろす。
「知らねぇよ」
ジークは顔をそむけ、ふてくされながら言った。リックは慌てて一歩前へ出た。
「ユールベルと一緒に出ていきました。でも行き先は知りません」
「なぜ止めなかった」
ラウルの低い声に、リックはびくっと体を震わせた。
「と……止めました。でも……」
「俺らのいうことをきくようなヤツじゃねぇよ」
ジークは後ろから吐き捨てるように言った。だが、その奥には自嘲の色が滲んでいた。
ラウルは陰の落ちたジークの横顔を見て、軽くため息をついた。
「何か手がかりになるようなことは言っていなかったか」
リックはうつむいて考え込んだ。
「……あ、なんか、見せたいものがあるとか」
ラウルの目が鋭く光った。
「ユールベルがそう言ったのか?」
「はい、多分……」
迫力に押され、自信なく答える。
「わかった。おまえたちは戻れ」
ふたりは何も言えず、黙ってとぼとぼと戻っていった。
アンジェリカとユールベルは並んで歩いていた。お互い何も言葉を交わそうとしない。広めの道だが、人通りは少なく、ただふたりの単調な足音だけが耳に響いていた。
「どこへ行くの? けっこう歩いたけど」
アンジェリカが沈黙を破った。不安を悟られないようにまっすぐ前を向き、平静を装っている。
「私の家よ」
ユールベルも前を向いたままで静かに答えた。アンジェリカは彼女の横顔をちらりと見て、すぐに前に向き直った。
「私とあなたが友達だったって、本当なの?」
小さいが凛とした声で尋ねる。
「しつこいわね、あなたも」
ユールベルは淡々と返した。アンジェリカはわずかに眉をひそめた。
「ピンと来ないのよ」
ユールベルは目を閉じうつむくと、小さく笑った。
「そうね」
ゆっくりと顔を上げ、遠くを見つめる。
「最初にあなたに近づいたのは、あなたが『呪われた子』だったから。両親を困らせたかったというところかしら」
「……そう」
別に何かを期待していたわけではない。だが、そんなことに利用されたのだとは思いもしなかった。やりきれない気持ちが胸にわだかまる。
「それからあなたの家にたびたび遊びに行くようになったわ。あなたの家に行けば、おじさまに会えたもの」
ユールベルはあごを上げ、遠くを見たまま微笑んだ。
「なるほど、そういうことだったのね」
アンジェリカは精一杯、強気に答えた。
「さあ、ここよ」
そこには、二階建ての屋敷があった。アンジェリカの家と比べると、はるかに小さいが、それでも世間一般からすれば大きい方である。
ユールベルは門を開き、中へと進んでいった。アンジェリカもあとに続く。小鳥のさえずり、草の匂い、風の音、ふたりの足音。外界とは切り離された場所に来てしまったようで、彼女は落ち着かない気持ちになった。
石畳を歩き、玄関まで来ると、ユールベルは鍵を取り出した。鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。ガチャリという音を確認すると、扉を引き開けた。重量感のある扉が、ギィと音を立てる。
「どうぞ」
ユールベルは右手を家の中に向け、アンジェリカを促した。アンジェリカは緊張しながら、足を踏み入れた。
「お茶でも飲む?」
ユールベルは扉を閉めながら尋ねた。しかし、アンジェリカにそんな余裕はなかった。
「私に見せたいものって何?」
顎を引き、上目づかいで睨みながら、抑えた声で尋ね返した。
「急かすわね。まあいいわ」
無表情でそう言うと、家の中へと進んでいく。そして、脇の階段を数段上がると、顔だけ振り向いた。
「こっちよ」
アンジェリカは喉が渇いていくのを感じながら、ユールベルに続き、階段をのぼっていった。薄暗く、空気は湿っている。おまけに妙な匂いもする。息がつまりそうだ。嫌な予感が胸をよぎった。
階段を上がりきり、そのまままっすぐ歩いて、突き当たりの部屋の前までやってきた。部屋といっても扉はない。元々はあったと思われるが、その付近がまわりの壁もろとも崩れ、あたり一面に瓦礫が散乱している。中は暗くてよく見えない。
「入って」
ユールベルの声に押され、アンジェリカは足元を見ながら、おそるおそる歩み入った。
「……っ」
つんと鼻をつく匂い。思わず鼻と口を手でふさいだ。窓はすべて厚手の遮光カーテンで覆われ、さらにその内側には、鉄格子がはめられている。床には、本や服らしきものが一面に散乱していた。他には小さなテレビと本棚、ボロボロに破れた布団くらいだ。
アンジェリカは絶句した。
「ようこそ私の部屋へ」
ユールベルの冷たい声が、後ろから突き刺さる。
「私は7年間、ずっとここにいた。閉じ込められていたのよ」
瓦礫を踏みしめ、部屋の中へ歩み入ると、隅にひっそりと置かれていたぬいぐるみを手にとった。
アンジェリカははっとした。薄茶色の柔らかな毛並み、愛らしい表情、足裏の刺繍。薄汚れてはいるが、自分が持っているものと同じテディベアに間違いない。
「おじさまにもらったものよ。これだけが私の心の支えだった」
ユールベルは愛おしげに抱きしめた。
「閉じ込められていたって、どうして……」
アンジェリカは混乱する頭から言葉を探る。
ユールベルはテディベアのほこりを軽くはらうと、壁を背にして座らせた。
「きっかけは7年前。私とあなたの間に起きたこと」
屈めた上体をゆっくり起こし、アンジェリカに顔を向ける。そして一歩、二歩、静かに近づいていった。
アンジェリカは息をひそめた。額に汗がにじむ。
ユールベルは頭の後ろに手を回し、包帯をほどき始めた。頭のまわりでくるくると手をまわす。やがて、はらりと白い布が床に落ち、左目があらわになった。
アンジェリカは息をのみ、引きつった顔であとずさった。
「こわい? あなたがやったのよ」
焦点の合わない蒼い瞳、まぶたから目尻にかけての焼けただれたような痕。ユールベルは見せつけるように、さらに間をつめた。
「わ、たし……が? うそ、そんな、こと……」
アンジェリカはとぎれとぎれに言葉を絞り出した。渇いた喉に、声がつっかえる。
「事実よ」
ユールベルは感情のない声で言った。
「そんな……私が……どう、して……」
アンジェリカは瓦礫に蹴つまずきながら後ずさり、部屋から出ていった。しかし、ユールベルは手を後ろで組み、軽いステップで瓦礫を踏み越え、あっというまに距離を縮めた。
「あなた馬鹿? 考えてもみなさいよ。どうしておじさまがそんなに隠したがっていたのか」
彼女はさらににじり寄った。
「おじさまは、毎月、律儀に謝りに来ていたわよ」
アンジェリカは目を見開いた。
「……うそ」
額からにじんだ汗が、頬を伝い流れ落ちる。
「嘘だと思うなら、おじさまにきいてみれば」
ユールベルは足を踏み出した。アンジェリカはさらに後ずさる。その足は、ガクガクと震えていた。
「私もおじさまも苦しんできたのに、当のあなただけ、全部忘れて楽しく生きている。いい気なものね」
淡々とした口調だが、右の瞳は鋭く光り、アンジェリカをとらえていた。
「ラグランジェ本家の娘が、他人に一生消えない傷を負わせた。そんな醜聞、公にすることなんて出来ない。私はその証拠となるもの。だから、隠された」
ユールベルは顔を突き出し、アンジェリカを覗き込んだ。
「わかる? 私はあなたの犠牲になったのよ」
アンジェリカの体は小刻みに震えていた。うっすらと開かれた口からは、何の言葉も出てこない。浅く息をするのが精一杯だった。
「返して、私の7年、私の目、私の顔……」
ユールベルは両手を伸ばし、アンジェリカの首に指を這わせた。細く冷たい感触。背筋に痺れが走る。もう何も考えられない。アンジェリカは本能だけで、ほとんど無意識に、足を後ろに引いた。
しかし、そこには床は続いていなかった。
足を踏み外し、後ろに倒れていく。ユールベルはとっさに手を伸ばした。しかし、それも間に合わず、アンジェリカの体は、頭や体を打ちつけながら、階下へと落ちていった。彼女はピクリとも動かない。
ユールベルは呆然として、その場にへたりこんだ。焦点の合わない虚ろな瞳が、空をさまよう。
「あなたが、悪いのよ……」
彼女はうわごとのようにつぶやいた。