「落ち着いてください」
何度かその言葉を繰り返し、サイファは受話器の向こうの相手を懸命になだめていた。冷静な声だが、やや疲れが滲んでいる。
レイチェルは少し離れたソファに浅く腰掛け、心配そうに彼の後ろ姿を見つめていた。
「とにかくそちらへ向かいます……はい、すぐに」
静かにそう言うと、軽くため息をつきながら受話器を戻した。仕事が長引き、ようやく帰って来られたと思ったら、息つく間もなくこの電話である。彼のため息も当然のことだった。
「何があったの?」
レイチェルは早足で彼に歩み寄った。そっと腕に手を置き、端整な横顔をまっすぐ見上げる。
サイファは難しい表情で考えを巡らせていた。わずかにうつむくと、顎に手をあてる。
「状況がつかめないんだ。アルティナさんの言うことも、興奮していて要領を得ない」
レイチェルは首を傾げ、顔を曇らせた。
そのことに気がつくと、サイファはにっこりと笑顔を向けた。彼女の細く白い手をとり、安心させるように軽く握る。
「とにかく行ってくるよ」
「私も行きましょうか?」
レイチェルは、まだ不安顔で、彼を見つめていた。
「いや、君はここにいてくれ。こんな夜中にアンジェリカをひとり家に残すわけにもいかないだろう」
サイファは彼女の頬に手を置くと、再び笑顔を見せた。それに、どれほどの効果があるかはわからなかった。
「まさか、本当だったとは……」
サイファは目の前の光景に唖然としながら、ようやくその一言をつぶやいた。
「なによ、私の言うことを信じてなかったわけ?!」
感情的な甲高い声が、彼を責める。声の主はアルティナ。彼をこの広間に呼びつけた張本人だ。
「いや、しかし……」
サイファは彼女の怒りを受け流すと、前を見つめながら言葉を詰まらせた。彼の視線の先にいたのはラウルだった。そして、その腕の中には、まだ生後まもないと思われる赤子が眠っていた。
「本当に、おまえが育てるつもりなのか」
サイファは動揺を心の中に押し隠し、静かに問いかけた。
「問題はないだろう」
ラウルは突っぱねるように短く言った。うんざりしているように見える。すでにアルティナに何度も訊かれたのだろう。
「大アリよ!」
アルティナは頭に血を上らせると、大声で怒鳴りつけた。長い銀髪を艶やかに煌かせながら、今にも掴みかからんばかりの勢いで足を踏み出す。
サイファは興奮する彼女の前に右手を広げ、無言でその動きを制した。ラウルを庇ったわけではない。彼が締め上げられようが殴られようが知ったことではないが、それより今は状況を把握するのが先だと思ったのだ。
彼女は苦々しい顔をしながらも、おとなしく従った。
「確認したいのだが、本当に捨てられていたのか?」
「こんなものとともに籠に入れられていたら、捨てられているとしか考えられないだろう」
ラウルは赤子を抱えたまま、手にしていたものをサイファに示した。
それは、二つ折にされた小さな紙切れだった。薄いクリーム色で、安っぽいメモ用紙のように見える。
サイファはラウルの手からそれを抜き取り、慎重に広げた。その中央には、短く一文だけ走り書きがしてあった。
「この子をよろしくお願いします……か。誰か特定の人物に宛てた手紙とも考えられるな」
「まさか、あなたの隠し子ってわけじゃないでしょうね」
アルティナは腕を組み、思いきり疑いのまなざしでラウルを睨み上げた。しかし、彼はまったく動じなかった。いつもどおりの冷たい瞳で睨み返す。
「この子が置かれていたのは養護施設の前だ」
「じゃあ養護施設に頼んだってことじゃない! なに勝手に連れてきてるのよ!」
アルティナは大きな声を張り上げた。
「養護施設の前であろうと公道だ。親から育てることを放棄され、公道に放置されたこの子は誰のものでもない。拾う拾わないは私の自由だ」
屁理屈をこねるラウルに苛つきながら、アルティナは反論をぶつける。
「あなたの気まぐれで、その子の将来を台なしにするわけにはいかないわ! あなたにまともな子育てができるわけないじゃない!」
彼女の感情はますます昂っていった。
一方のラウルはいたって冷静だった。
「私は医者だ」
あまりに単純で素っ気ない返答に、アルティナの怒りは沸点に達した。
「そういう問題じゃない!! あんたがまともに愛情を注いであげられるとは思えないって言ってんのよ!!」
感情を爆発させたあと、顔をしかめ、深くため息をついた。疲れたように前髪を掻きあげる。長い銀髪がさらりと頬を撫でた。そして、落ち着きを取り戻すと、今度は諭すように静かに語りかけた。
「悪いことはいわない。その子のためを思うなら養護施設に預けた方がいいわ」
しかし、ラウルはそれを聞き入れようとはしなかった。
「養護施設なら幸せに育つという保証がどこにある」
「あなたが育てたら不幸せになることなら私が保証してあげる」
アルティナは間髪入れずに言い返した。腕を組み、あごを斜めに上げ、挑戦的な目で彼を睨みつける。
ラウルも一歩も引かず、鋭い視線を返した。
「ちょっと待てラウル」
激しく火花を散らすふたりの間に、サイファが割って入った。
「私との約束はどうするつもりなんだ。アンジェリカが卒業するまで担任を引き受けてくれると言っただろう」
背筋を伸ばしてラウルと向かい合い、はっきりとした口調で問いつめる。
「まさか、その子を背負って教壇に立つつもりか?」
「ぷっ……あはははは!」
アルティナは突然吹き出すと、腰に手をあて、上体を折り曲げながら豪快に笑った。
サイファはその声に驚いて振り向いた。
「アルティナさん、私は真面目に……」
「ごめんごめん。でも想像したらおかしくて」
彼女は軽い調子で謝ったが、いまだに笑ったままだった。少し息苦しそうにしながら、目尻を拭う。
しかし、彼女につられ、サイファもその様子を思い浮かべてしまった。耐えきれず、鼻先で小さく吹き出す。
そんなふたりを、ラウルはムッとしながら冷たく見下ろした。
「心配するな。昼間は人を雇うつもりだ」
「ベビーシッターをか?」
サイファは真面目な表情に戻り、ラウルと目を合わせた。
「バカね。自分ひとりで世話できないんだったらやめなさいよ」
アルティナは呆れたように、そう切り返した。そして、真剣なまなざしをラウルに向けると、さらに言葉を続ける。
「人を雇うくらいなら、養護施設の方がよっぽどましだわ」
ラウルもサイファも何も返さなかった。その場に静かな緊張が広がっていった。
「ふ……ぎゃぁあ!」
突然の、悲鳴にも似た泣き声。ラウルの腕の中からその静寂は切り裂かれた。金縛りから解き放たれたかのように、アルティナは大きく数回まばたきをした。そして、ため息まじりにふっと笑うと、表情を和らげた。
「一時休戦ね」
「ふふ、かわいー。やっぱりいいわね、女の子」
アルティナは赤子を抱きかかえ、哺乳瓶でミルクを飲ませていた。いつもの気の強そうな表情からは想像がつかないほど、緊張感なく顔を緩ませている。彼女にも母性本能は備わっているようだ。
サイファとラウルは、その隣で木製のベビーベッドを組み立てていた。以前、アルティナの息子が使っていたものである。彼女に頼まれて倉庫から引っ張り出してきたのだ。
「ねぇ、ラウル。私、いいこと思いついちゃった」
片膝を立て、木枠をはめ込む後ろ姿に向かって、アルティナは、いたずらっぽく笑いかけた。しかし、ラウルは振り返ることも手を止めることもなく作業を続けた。
アルティナは、構わず一方的に語りかける。
「あなたがアカデミーに行ってるあいだ、私がこの子を預かることにするわ」
これにはさすがのラウルも驚いた。息を呑んで彼女に振り向く。
「おまえ、何を……」
「アルティナさん、何を言ってるんですか」
ラウルの言葉を遮ったのはサイファだった。
「クレフザードに無断で、またそんな勝手なことを……」
「平気、平気。何も養子にしようってんじゃないのよ」
彼女はあっけらかんと笑うと、軽く受け流した。腕に抱いた赤ん坊の顔を覗き込み、小さな指を優しく包み込む。
「アルスにも友達が欲しいと思っていたところだし、ちょうどいいわ」
赤ん坊に向かって同意を求めるように「ねっ」と言うと、小さく首を傾けた。その表情は、優しい母親のそれだった。
ラウルは腕を組んで眉をひそめると、冷たく彼女を見下ろした。
「断る。願い下げだ。生意気なおまえの息子のおもちゃにされるのはごめんだ」
アルティナは顔を上げ、ニヤリと口の端を上げた。
「さっそく過保護な親を気取ってるってわけ?」
ラウルは何も言い返さず、じっと睨みつけた。
しかし、アルティナは急に真剣な顔になると、まっすぐ彼の瞳を見返した。
「冷静に考えてみて。悪い話じゃないと思うけど? ここなら何ひとつ不自由させない」
自信を持ってキッパリと言い切る。
ラウルはそれでも微動だにせず、ただじっと彼女を見つめるだけだった。
「私が気に入らないのなら、レイチェルに預けると思えばいいわ。実際はふたりで面倒を見るようなものだし」
アルティナは挑発的な口調で、さらに畳み掛ける。
「雇われベビーシッターより、私たちの方が愛情をもって育てられる。自信はあるわよ」
ラウルは腕を組んだまま考え込んでいた。いちど目蓋を閉じ、再びゆっくりと開く。そして、静かに口を開いた。
「……わかった」
「決まりね!」
アルティナはぱっと顔を輝かせた。しかし、すぐに申しわけなさそうにはにかむと、サイファに振り向いた。
「サイファ、レイチェルに事情を話しておいて。それと、勝手に決めてごめんねって」
そう言うと、小さく肩をすくめて見せた。
サイファは大きくため息をついた。
「レイチェルはともかく、クレフザードはどうするんですか」
「あっちは大丈夫。拗ねたらテキトーになだめておくから」
アルティナは余裕たっぷりの笑顔で、右手をひらひら上下にはためかせた。
「もう少し大切にしてくださいよ。あなたの夫でしょう」
サイファは半ば呆れたように、再びため息をついた。
アルティナは聞こえなかったのか聞こえないふりなのか、返事をすることなく歩き出した。そして、ラウルに赤ん坊をそっと手渡すと、さらにその先へ向かって足を進めた。
「ベッドは出来たわね」
組み立てられたベビーベッドを覗き込み、強度を確かめるように力を込めて揺らした。
「うん、まだ十分使えるわね」
そうつぶやくと、にっこり笑ってラウルに振り向いた。
「ラウル、これあげるわ。あとで届けるから」
静まり返った薄暗い廊下に、ふたつの足音が大きく響く。並んで歩くふたりと、腕の中の小さなひとり。白い月の光が、無彩色にその姿を照らし、ぼんやり浮かび上がらせる。
「アルティナが何を考えているのか、まるでわからない」
ラウルは淡々とつぶやいた。
サイファはラウルの腕の中の赤ん坊に目を向けた。表情を緩めながら、同時に疲れたように小さく息を吐いた。
「私はおまえの方がわからないよ。何をそんなに執着してるんだ」
ラウルはそれに対し何も答えなかった。前を向いたまま、無表情で歩き続ける。
サイファはうつむき、考え込んだ様子で黙り込んだ。やがて、再び顔を上げると、まっすぐ遠くを見つめた。
「あのときユールベルを救えなかったことに対する贖罪か? それとも今さら寂しくなって家族がほしくなったとでも?」
「理由などない」
はっきりそう言い切る彼の横顔を、サイファはちらりと盗み見た。
「深く追及はしない。だが、一時の気まぐれだった、で済むことではないんだ。もう一度、慎重に考えてみろ」
「慎重に考えての結論だ」
ラウルは感情なく言い放った。
そこで、ちょうど彼の医務室に着いた。ふたりは足を止めた。
「またな」
サイファはラウルと目を合わせ、それから赤ん坊に視線を移し、柔らかく笑いかけた。
「レイチェルにまで迷惑をかけることになった。すまない」
ラウルはサイファを見つめ、わずかに目を細めると、静かに詫びの言葉を口にした。ラウルにしてはめずらしいことだった。
サイファは小さく笑ってうつむいた。
「本当にな」
そう言うと、彼から顔をそむけ、窓の外を見上げた。ほのかに青く光る月が浮かんでいた。それほどの光量があるわけでもないが、なぜか眩しく感じられた。思わず目を細める。
「レイチェルは、迷惑とは思わないだろうけどね」
ふいに言い足された言葉。
ラウルはわずかに目を伏せた。何かを言おうと口を開きかける。
だが、その瞬間、サイファがにっこり微笑みかけて尋ねた。
「その子の名前は考えたのか?」
ラウルは少し間を置いて「ああ」と言うと、赤ん坊の寝顔を見つめ、それから窓の外を見上げた。
「ルナ、にしようと思っている。月の女神の名だ」
「ルナか。いい名だ」
サイファは再びにっこりと笑って見せた。
「なんだって?!!」
ジークは廊下の真ん中で目を大きく見開き、顎が外れんばかりの勢いで叫んだ。近くを通りかかった数人が、彼の声に驚いて振り向いた。
ジークと同様に、隣のリックも目を見開いていた。彼は何も言葉を発せず、ただぽかんとしていた。
「やっぱりびっくりするわよね。私もいまだに信じられないもの」
アンジェリカは、ふたりの反応を冷静に受け止めた。
「ど……どういうこと、だ?」
ジークは混乱と焦りで、言葉を詰まらせながら聞き返した。
「だから、ラウルに娘ができたって。捨てられてた子らしいんだけど」
「あ……養子ってこと?」
リックが拍子抜けしたように尋ねた。
「そうよ。えっ……どうしたの?」
アンジェリカは不思議そうにきょとんとしてジークを見た。彼は壁に手をつき、崩れそうな体をなんとか支えていた。
「まぎらわしい言い方すんなよな!」
顔を少し赤らめ、八つ当たりぎみにそう言うと、体勢を立て直して壁にもたれかかった。うつむきながら腕を組み、眉間にしわを寄せる。
「いや、でも、それにしても、信じられねぇな。あいつが子育てしてるところなんて、想像もつかねぇ……」
彼は難しい顔で考え込んだ。次第に上体を折り曲げ、小刻みに体を震わせ始める。そして、一気に体を起こして天井を仰ぐと、額を手のひらで押さえた。笑いながら苦い顔をしている。
「なにやってるの、ジーク」
アンジェリカは怪訝な顔で、その百面相の様子を眺めていた。
「想像しちまった」
彼はそのままの姿勢で、噛みしめるようにつぶやいた。
「なんとなく、わからなくもないよ」
リックも同調して苦笑いした。
「ラウルってまったく生活感がないもんね。ごはんなんて絶対に作ってなさそうだし」
「そんなことないみたいよ」
アンジェリカはリックに振り向いた。
「すごく上手だってお母さんが言ってたわ」
「本当に?」
「嘘だろ?」
ふたりは逆の言葉で同時に聞き返した。
「うん、私は知らないんだけどね」
彼女もあまり実感はないという口ぶりだったが、疑っているわけではなさそうだった。
ジークは苦々しげに奥歯を軋ませた。
「あのやろう、料理まで出来るのか。あったま来るな。とことん嫌味なやつだぜ」
それから急に顔を上げ、ぱっと表情を明るくすると、弾んだ声をあげた。
「よし! 医務室までからかいに行くか!」
「え?」
アンジェリカの口からついて出た小さな声に、とまどいの色が滲んでいたことを、リックは聞き逃さなかった。
「どうしたの?」
「うん……なんかちょっと複雑っていうか、心の準備が出来てないっていうか……」
微妙に顔を曇らせながら言葉を詰まらせていたが、やがてそれを笑顔で掻き消した。
「でも行くわ。赤ちゃん、見てみたいし」
ジークとリックは、お互い疑問を含んだ顔で、視線を送りあった。ふたりとも、彼女のとまどいが何なのか気になっているようだ。
それに気づいたアンジェリカは、うろたえてほんのり顔を上気させた。
「行きましょう!」
彼女は早口でそう言うと、ふたりの腕を軽く引っ張って急かした。
ガラガラガラ——。
「おい、ラウル。娘を見に来たぜ!」
扉を開けると同時に、ジークは楽しげに元気よく呼びかけた。からかってやろうという意気込みがありありとわかる。その後ろから、リックとアンジェリカも中を覗き込む。
だが、医務室にいたのはラウルではなかった。
「あら? ジーク君じゃない」
「あ、どうも、こんにちは」
「赤ちゃんを見にいらしたのね」
白いパイプベッドの上に、アルティナとレイチェルが並んで座っていた。アルティナはスタンドカラーで膝下まである細身の青い上衣に幅広の白いパンツ、レイチェルはいつもと同じでスカート部分がふっくらと広がったドレスを身につけていた。レイチェルの腕には小さな赤ん坊が抱かれている。ふたりは笑顔でジークたちを迎え入れた。
まわりの騒がしさに、赤ん坊が目を覚ましたようだった。小さな口を大きく開けて、あくびをしているような仕種が見てとれた。
ジークはめずらしいものを見るかのように、目を大きく見開き、口を半開きにし、呆けた状態で眺めている。アンジェリカはその隣で、顔をほころばせていた。
しかし、リックだけは、いまだに扉付近で棒立ちになり、顔をこわばらせていた。
「どうしたの? リック」
彼の異変に気づいたアンジェリカが声を掛けた。ジークもつられて振り返った。
「そうか、おまえは初めてだったな。アルティナさんだ」
リックに彼女を示し紹介する。紹介されたアルティナは、にこにこしながら、顔の横で小さく手をひらひらさせた。
「レイチェルさんと一緒に王宮で働いてるんでしたよね?」
「ええ、そうよ」
ジークが確認すると、彼女は笑いながら返事をした。レイチェルも隣でくすくす笑っていた。
「王妃様……ですよね」
リックはごくりと息を呑んで、ようやく口を開いた。
「はぁ? なに言ってんだ、おまえ」
「ジークこそ何を言っているの? 王妃アルティナ=ランカスターよ。知らなかったの?」
アンジェリカは訝しげにそう言った。
今度はジークが固まった。
「う……うそ……だ、って、こないだは……」
ぎこちなく、アルティナへと振り向く。鳩が豆鉄砲を食ったような顔。彼女はおなかを抱えて笑い出した。
「ごめんね、隠してて。王妃様扱いされるのがあんまり好きじゃないから、ついね。でもレイチェルと一緒に働いてるっていうのは嘘じゃないのよ」
そういえば、レイチェルは王妃の付き人をやっていると聞いたことがある。ジークは今になってようやく思い出した。
アルティナはひとしきり笑ったあと、背筋を伸ばして立ち上がり、右手を差し出した。
「あらためてよろしくね。アルティナ=ランカスターよ」
彼女はジーク、リックと力強く握手を交わした。
「全然、気がつかなかった……」
ぼそりとつぶやいたジークに、リックは呆れ顔で冷たい視線を送った。
「自分の国の王妃様だよ? 顔も知らないなんて信じられないよ」
「うるせぇ! 俺はラジオ派なんだ!」
ジークは顔を赤らめながら、必死のいいわけをした。
「でも王妃様ともあろう方が、どうしてこんなところへ?」
リックは、再び腰を下ろしたアルティナに視線を向けた。
「こんなところで悪かったな。一応ここも王宮の敷地内だ」
馴染みのある冷たい声が、背後から降りかかる。
リックはどきりとして振り返った。いつのまにか奥からラウルが出てきていた。まっすぐ自分の机に向かい、書類を投げ置くと、椅子にどっかりと座った。
「ラウル、赤ちゃん、触ってもいい?」
「ああ」
アンジェリカは体を屈め、胸を高鳴らせながら覗き込んだ。赤ん坊はぱっちりと目を開き、レイチェルの腕の中で軽く握った手をパタパタ動かした。
「わぁ……」
感嘆の声をあげながら、アンジェリカはそっと手を近づける。
「すごーい! 柔らかい! この手ちっちゃい……あ、ほら、私の指を握ってるわ!」
彼女はいつになく興奮ぎみに実況をした。
レイチェルはそんな娘を愛おしげに目を細めて見つめていた。
「ルナっていうのよ」
「かわいい名前ね」
アンジェリカは屈託のない笑顔を見せた。隣のリックも、赤ん坊の頬をつつきながら、和やかに笑った。
「うん、ホントかわいいね。ジークもおいでよ」
数歩下がって眺めている彼を、手招きで呼んだ。しかし、彼は困ったような顔で立ち尽くしたままだった。
「いや、俺はいい……」
消え入りそうな弱々しい声。リックはきょとんとして見上げた。
「どうして?」
ジークはリックの視線から逃れるように、顔をそむけた。
「……怖ぇんだよ」
「はぁ??」
思いもしなかったジークの返答に、リックは思いきり素頓狂な声をあげた。
ジークは耳を真っ赤にしてうつむき、口をとがらせた。
「どう扱ったらいいか、わかんねぇんだよ。なんか、触ったら壊れそうじゃねぇか」
ぼそぼそとはっきりしない声で言う。
リックは深くため息をつくと、背中を丸め、肩を大きく落としてみせた。
「なんか、僕、情けなくて涙が出そうだよ」
「撫でるくらいじゃ、壊れたりしないわよ」
ふたりのやりとりを聞いていたアルティナが、笑いながら口を挟んできた。
「いらっしゃい。これは命令よ」
いたずらっぽくウインクをしてニッと笑うと、人さし指でくいっとジークを呼びつけた。
王妃に命令と言われては、拒絶するわけにもいかない。ジークはしぶしぶ近づき、おそるおそる手を伸ばした。まわりの興味津々な視線を受け、よけいに緊張が高まってきた。ごくりとのどを鳴らす。そして、赤ん坊のほほにそっと触れた。
その瞬間、ジークははっとして目を見開いた。口をすぼめ、細く息をもらす。
「どう? 抱っこしてみる?」
「やめろ。そんなへっぴり腰で出来るわけないだろう。落とされでもしたら取り返しがつかない」
アルティナの提案を、ラウルは間髪入れずに却下した。
ジークはさすがに何も言い返せなかった。ラウルの言うとおりだ。言い返す余地もない。それに、そんな恐ろしいことをせずに済んで、ほっとしている部分も大きかった。
ガラガラガラ——。
再び医務室の扉が勢いよく開いた。その場にいた全員が、いっせいに振り向いた。
「本当だったのね……」
ユールベルは赤ん坊に目を向けると、落胆したようにつぶやいた。息をきらせながら、思いつめた表情で、まっすぐラウルへと足を進める。他の人の存在は、目にも入っていないらしい。
「ひどいわ! 私のことは追い出したのに、どうして?!」
緩やかにウェーブを描いた長い金髪を揺らし、激しく詰め寄る。しかし、ラウルは椅子の背もたれに身を預けたまま、少しも動かなかった。ただ、彼女を冷たく見つめるだけである。
「おまえにとやかく言われる筋合いはない」
まったく感情を感じさせない口調で、そう言い捨てた。
ユールベルの、包帯で覆われていない方の瞳が、大きく光を反射する。
「……私より、その子を選んだってこと?」
ラウルは何も答えなかった。
ユールベルは、肩を、腕を、唇を、瞳を震わせた。そして、細い腕を大きく振りかぶると、力いっぱい平手打ちを喰らわせた。ラウルの顔が横向きになり、赤味を帯びたほほに、焦茶の髪がさらさらと掛かった。
ユールベルは急に怯えたように顔を歪ませると、二、三歩、じりじりと後ずさった。そして、潤んだ目でキッとひと睨みし、背を向け一気に走り去っていった。
ジークたちは、突然巻き起こった嵐を、ただ呆然と見ていた。
「あーあ、泣かしちゃった。追いかけなくていいの? 可愛らしいコイビト」
アルティナは含み笑いをした。
「からかうな」
ラウルは椅子を回し、机に向かうと、書類整理を始めた。
「あ、まずい!」
腕時計を見たとたん、アルティナが大声をあげた。
「もう会議が始まっちゃってる!」
パイプベッドから跳び降り、銀の髪を振り乱しながら扉へと駆け出す。
「じゃ、私は行くから。あとはよろしく!」
戸口で振り返り、早口でまくし立てながら敬礼のポーズをとると、返事も待たず慌ただしく走って出ていった。
「王妃様が会議……ですか?」
リックは軽く驚きながら、レイチェルに尋ねた。
「自主的に行っているのよ。煙たがられているみたいだけど」
彼女は寂しげに笑い、肩をすくめる代わりに首を傾けてみせた。
「それでもアルティナさんはあきらめないの。腐った王宮を叩き直すんだって息巻いてるわ。とってもまっすぐで素敵な人よ」
「王宮、腐ってるんですか?」
ジークの率直な疑問に、レイチェルは何も答えず、ただ笑顔を返すだけだった。その笑顔に物憂げなものを感じ、それ以上、追求することは出来なかった。
「おまえたちももう帰れ。そんなに暇なら課題を追加するぞ」
ラウルは椅子から立ち上がり、腕を組むと、威嚇するように三人を見下ろした。
「言われなくても帰るぜ!」
ジークは反発心をあらわにすると、踵を返し、扉に向かっていった。肩をいからせ、わざとドタドタと足音をさせる。リックとアンジェリカも苦笑いしながらそれに続いた。アンジェリカは後ろ手で扉を閉めかけて、ちらりと顔半分振り返った。
「また見に来てもいい?」
「たまにならな」
ラウルはぶっきらぼうに答えた。
彼女はほっとしたように、にっこりとした。
「私もそろそろ帰るわ」
レイチェルはパイプベッドから立ち上がると、ラウルに赤ん坊を手渡した。
「月の女神の名前なのね」
その小さな女神ににっこり笑いかけると、柔らかいほっぺを指でつついた。小さな手が空を舞う。喜んでいるのかどうかはわからないが、反応があったことが嬉しかった。
彼女はふいに少し真面目な顔になった。じっとラウルを見上げて尋ねる。
「ふるさとが恋しくなったの?」
透きとおった蒼い大きな瞳で、彼の濃色の瞳をつかまえる。
「いや……」
ラウルは彼女を見つめたまま、うわごとのようにつぶやいた。体を動かすことも、視線をそらすこともできない。息が止まる。意識のすべてが蒼の瞳に捕えられていた。それは、あのときと同じ感覚——。
レイチェルはやわらかく微笑んだ。
そのことで、彼の見えない拘束は解けた。気づかれないように小さく息をつく。
「お茶でも飲んでいかないか」
ふと、そんな言葉が自然と口をついて出た。昔のように——と続けようとしたが、それは声にせず呑み込んだ。理性は消えていなかった。
「ラウルが誘ってくれるなんてめずらしい」
彼女は嬉しそうに無邪気な笑顔を見せる。こういう表情は、子供のときとほとんど変わっていない。
「……でも、やっぱり帰るわ。ありがとう」
そう言って、もう一度、穏やかににっこり笑うと、背を向けて歩き出した。
「レイチェル」
ラウルは彼女の小さな背中に呼びかけた。
「おまえにまで迷惑をかけることになってしまって、すまない」
レイチェルは扉に手を掛け、静かに振り返る。
「もし、ほんの少しでもあなたを救う手助けになるのなら、私は嬉しいわ」
そして、包み込むように、優しく微笑んだ。
「その子がラウルの女神になってくれるといいわね」
その言葉を残し、レイチェルはそっと扉を閉めた。すりガラスの向こうの影が、揺れて流れた。
ラウルの瞳には、まだ彼女の残像が焼きついていた。