「どうせ治らないんでしょう」
ユールベルは床に視線を落とし、投げやりにそう言った。彼女はラウルに呼ばれ、医務室に来ていた。左目まわりの治療のためである。
「目は見えるようにはならないが、目のまわりの傷跡は、きちんと治療を続ければ、多少ましになるだろう」
ラウルは真新しい白い包帯を、彼女の左目から頭にぐるぐると巻きつけ、後頭部で手早く結んだ。そして、長く柔らかい金髪に、手ぐしを通して整えた。
「完全に治らないのなら、どっちでも同じことよ」
悲観的な発言をやめない彼女に、ラウルはもう何も言わなかった。椅子を回転させ、机に向かうとカルテを書き始めた。
「……あのひとたちは、どうしているの」
ユールベルは下を向き、ぽつりとつぶやいた。
「気になるのか」
ラウルは机に向かったまま、手を止めずに尋ねた。
「忘れたいから訊いているのよ。答えてくれないのなら別にいいわ」
ムッとしたように彼を睨み、それでも努めて冷静に答えた。
「ユリアたちは家に戻った」
ラウルは静かに口を開いた。ユールベルは目を伏せ、自嘲ぎみに薄笑いを浮かべた。
「仲良く三人で暮らしているってわけね。私の存在なんて、初めからなかったかのように……。想像がつくわ」
ラウルはペンを置くと、ギィと軋み音を立てて椅子を回し、再びユールベルに体を向けた。
「バルタスは、おまえには申しわけないことをしたと言っていた」
「しらじらしい言葉ね」
うつむいたまま小さくつぶやく。
「昔も今も、私ではなくユリアを選んだくせに」
顔にかかるウェーブを描いた髪、華奢な細い肩。ラウルはうなだれる彼女をじっと見下ろした。
「でも勘違いしないで」
ふいに早口でそう言うと、ユールベルは顔を上げ、ラウルと目を合わせた。
「ひとりになってほっとしているのよ。殴られることも、すべてを否定されることも、恐怖に怯えることもないもの」
無表情で淡々と言葉をつなぐ。
「でも……私がいらない人間であることに変わりはない。誰も私のことなんて選ばないのよ」
揺れる蒼い瞳、濡れた小さな唇を、まっすぐラウルに向ける。助けを求めるような、拒絶するような、矛盾した表情。彼はそれを正面から受け止めた。
「今はそうでも、今後はわからないだろう」
「下手な慰めだわ」
ユールベルはわずかに目を伏せた。
「事実を言っているだけだ」
ラウルは感情なく言った。
「あなたが私を選ばないというのも事実ね」
「そうだな」
それきり言葉が途切れ、沈黙が続いた。互いに向かい合って座っているが、顔を合わせてはいない。ユールベルはうつむき、ラウルはそれをじっと見下ろしている。ふたりはそのまま動こうとしない。長い静寂。木々のざわめきが遥か遠くに聞こえる。
ユールベルは膝の上でスカートの裾をきつく握りしめた。こぶしが小刻みに震える。
「……もっ、と……優しくしてくれてもいいじゃない!」
唐突に悲痛な叫び声をあげると、勢いよく立ち上がった。丸椅子がガシャンと大きな音を立てて倒れた。
それでもラウルは眉ひとつ動かさなかった。
「偽りの優しさに何の価値もない」
「偽りでも、何もないよりはましよ!」
ユールベルは泣きそうに眉をひそめながら、再び叫んだ。体の横でこぶしを作り震わせる。ラウルは冷たい目で彼女を見つめた。
「だったら他の奴に頼むんだな」
——パン!
ラウルのほほにユールベルの平手打ちがとんだ。じわりと赤味が差していく。それでも彼の表情は動かなかった。
ユールベルは顔を歪ませ、ラウルの足元に泣き崩れた。
「追い返されると思うぜ」
ジークは顔をしかめた。
「この前から一週間たってるじゃない」
アンジェリカは反論した。
「一週間じゃ“たまに”ってことにはならないと思うけど……」
リックは遠慮がちに口を挟んだ。
三人は並んで歩きながらラウルの医務室に向かっていた。アンジェリカの希望である。またラウルの娘に会いたいと言い出したのだ。あれから一週間しか経っていない。ジークとリックは気が進まなかったが、アンジェリカは言い出したらきかない。ふたりは仕方なく付き合うことにしたのだった。
「いいわよ。私ひとりで行くから。ふたりは帰って」
明らかに乗り気でないふたりを見て、アンジェリカはふてくされた。
「そういうわけにはいかねーんだよ」
ジークはたしなめるように、アンジェリカの頭を軽く小突いた。彼女は一瞬カッとなり彼を睨んだが、同時にその言葉の重みを理解し、押し黙ってしまった。
三人は無言のまま医務室の前まで来た。ジークはためらいなくガラガラと扉を引いた。が、半分のところで手を返し、そのまま扉を閉めてしまった。
「え?! 何?!」
後ろにいたアンジェリカは、何が起こったのかわからず、とまどいの声をあげた。大きな黒い瞳を瞬かせる。そして、彼の背中に手を置き、横顔を不安そうに見上げた。
「先客がいた。帰るぞ」
ジークはぶっきらぼうに、しかし、わずかに声をひそめてそう言った。
「先客ってだれ?」
アンジェリカが尋ねても、ジークは表情を固めたまま答えようとはしない。
「……なんか変よ、ジーク。何を隠しているの?」
「別に何も隠してねぇって! いいから帰るぞ。あしたまた来ればいいだろ」
扉の前に立ちはだかり、むきになって彼女を遠ざけようとする。そしてやはり自分の声の音量を気にしながら話している様子だった。明らかに彼の行動は不自然である。
「うそ! 絶対なにか隠しているわ! どうして?! 何なの?!」
アンジェリカは手を伸ばし、強引に扉に手を掛けようとした。だが、ジークに手首を掴まれ、阻まれた。彼女はキッときつく睨みつけた。彼はうつむいて下唇を噛んだ。
「アンジェリカ、今日は帰ろうよ。何も今日じゃなきゃダメってわけじゃないんだし」
リックはなんとか彼女をなだめようと、にっこり笑顔を作って、穏やかに説得を始めた。
ガラガラガラ——。
そのとき突然、内側から扉が開いた。
「別に気を遣ってくれなくてもいいのよ」
そこから姿を現したのはユールベルだった。泣きはらした右目、涙の跡、乱れた髪。三人は言葉を発することが出来なかった。
「もっとも、どっちに気を遣ったのかわからないけど」
そう言って、ジークに手首を掴まれたままのアンジェリカに視線を送った。彼女の鼓動は大きくドクンと打った。
「出ろ」
ユールベルの後ろに大きな影が現れた。ラウルである。彼は彼女の背中を押して外に出すと、彼自身も医務室から出た。ユールベルが睨んでいたが、構うことなくポケットから鍵を取り出した。
「何をしに来た」
扉に鍵をかけながら、後ろの三人に問いかける。
「ルナちゃんに会いに来たのよ」
アンジェリカは、ジークの手を振り切り、はっきりした声で答えた。しかし、ラウルは背を向けたまま、振り返ろうとしなかった。
「これから迎えに行くところだ。今日は帰れ」
にべもなく突き放す。そして、王宮の奥へと足を踏み出した。
ユールベルは去りゆく彼の袖を、すがるようにそっと掴んだ。しかし彼は冷淡に振り払うと、大きな足どりで遠ざかっていった。ユールベルはその後ろ姿を、目を細めながら見つめていた。
「もしかして、おまえ……」
ジークは彼女の横顔を見ながら、怪訝な表情で切り出した。
「ラウルのことが好きなのか?」
「冗談じゃないわ。どうしてあんな冷たい人を」
ユールベルは即座に否定した。
「私が好きなのは……」
ゆっくりとジークに振り向き、まだ涙の乾ききっていない瞳で彼を捉える。
「あなただけよ」
彼女は静かに言葉を落とした。ジークはその瞬間、体に痺れが走り、動くことも声を出すことも出来なかった。
「まだそんなことを言っているの? いったい何を企んでいるわけ?!」
アンジェリカはいらついた様子で食ってかかった。
「別にあなたに信じてもらえなくても構わないわ」
ユールベルは目を閉じ軽く受け流した。そして再びジークに目を向ける。
「ジーク、あなたにだけ信じてもらえれば」
まっすぐに向けられた、強くはかなげなまなざし。ジークには、何かを企んでいるようにはとても思えなかった。
「でも……」
ユールベルはうつむき、かぼそい声で続けた。
「あなたが私を選ばないことはわかっているわ」
「なに勝手に決めてんだよ」
ジークはとっさに言い返した。ユールベルはかすかに寂しげに笑ってみせた。
「少しは希望を持っていいってこと?」
そう言うと顔を上げ、再び彼を見つめた。しかし、彼は答えることが出来なかった。とまどい、逃げるように、視線をそらせる。
ユールベルは目を伏せると、無表情で足を踏み出した。ジークと腕が触れ合わんばかりの距離ですれ違う。彼女の髪がふわりと揺れ、甘い匂いが彼の鼻をくすぐった。
ジークははっとして振り返り、小さくなる彼女の後ろ姿を目で追った。
「ジーク、まさか本気にしているんじゃないでしょうね」
アンジェリカは眉をひそめてジークを覗き込んだ。しかし、彼は困惑したように目をそらせた。
「俺にはわからねぇよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、目を閉じ深くうつむいた。それからゆっくりと顔を上げると、じっとアンジェリカを見つめた。真剣な、不安そうな、思いつめたような、何か言いたげな表情。
「なに?」
アンジェリカは少し驚いたように、きょとんとして尋ねた。
「いや、何でもねぇ」
ジークはぼそりとつぶやくように言うと、ポケットに手を突っ込み歩き始めた。
ラウルは預けたルナを迎えに、アルティナの部屋に来ていた。王妃の部屋だけあって、落ち着きがあり格調高い内装だ。床には繊細な模様が織り込まれた厚みのある絨毯が全面にひかれ、壁や家具には細やかな装飾が施されている。中央には白い丸テーブルが置かれ、そのまわりには三脚の椅子が囲んでいた。どれもかなりの年代物ではあるが、しっかりと手入れは行き届いている。
「待ってて。いまお茶を入れるわ」
レイチェルはにっこり微笑んで、奥へ引っ込んだ。
ラウルはルナを抱きかかえ、白い椅子に座った。ルナはすやすやと無垢な顔で眠っている。彼はその表情をじっと見つめた。
レイチェルがトレイを持って戻ってきた。トレイの上にはティーポットとティーカップ三つが載せられていた。テーブルの中央にそれを置くと、ラウルの隣に腰を下ろした。
「偽りの優しさは必要だと思うか」
ラウルの突然の問いかけに、レイチェルは驚いて目をぱちくりさせた。しかし、すぐに元の穏やかで優しい表情に戻った。
「私は必要ないと思っているわ。そんなの悲しいだけだもの。でも、それでも必要としている人もいるのかもしれないわね」
ラウルの瞳を正面から見据えて答える。そして、さらに見透かすように、濃色の瞳の奥深くを探った。
「……ユールベル?」
その短い問いに、ラウルは何も答えなかった。しかし、それが答えに他ならない。
「あなたは医者としての役目は果たしているわ。じゅうぶんすぎるほどよ」
レイチェルはティーポットを手に取り、カップに注ぎ始めた。
「彼女のことを特別に想っていないのなら、これ以上深入りすべきではないんじゃないかしら。人の心はそう簡単に救えるものではない……あなたがいちばんよく知っているでしょう?」
そう言った彼女の顔に、ふいに影がさした。しかし、すぐにそれを掻き消すように笑顔を作ると、ティーカップのひとつをラウルに差し出した。彼は無言で受け取ると、その中の透きとおる紅い水に目を落とした。水面に映った自分の姿が細かに波打った。
「……私は感謝している」
静かだが、はっきりした声。レイチェルは目を大きく見開いて彼を見た。
「本当……? 信じていいの?」
ラウルは言葉の代わりに、まっすぐなまなざしを送った。レイチェルは胸に手を当て、ほっとしたように、にっこりと微笑んだ。
「お待たせー!」
明るい声を張り上げて、アルティナが入ってきた。
「楽しそうね。何の話?」
彼女は空いている椅子に腰かけて脚を組んだ。
「昔話よ」
レイチェルはにっこり笑うと、紅茶の入ったティーカップを差し出した。
「そっか。ラウルってレイチェルの家庭教師だったんだっけ」
アルティナは横目でラウルを見ながら、ティーカップを手にとり口をつけた。ラウルはアルティナを無視し、腕の中のルナに目を向けた。
「サイファの家庭教師をやっていたこともあるのよ、ね」
レイチェルはちょこんと首を傾けて、ラウルに笑いかけた。
「ああ」
ラウルは顔を上げると、無表情のままで返事をした。アルティナは興味津々で身を乗り出した。
「へぇー。それは初耳だわ。いったい何人の教え子がいるわけ?」
「ふたりだけだ」
「あとアカデミーの子たちね」
レイチェルはにっこり笑って付け加えた。
「いっそ本格的に転職しちゃえば?」
アルティナは机にひじをついて、いたずらっぽく白い歯を見せた。ラウルは少しムッとしたように、彼女を見下ろした。
「好きで教師をやっているわけではない」
「医者は好きでやっているの?」
「ああ。ここに来てからずっとだ」
ラウルがこんなふうに自分のことを語るのはめずらしい。どこか遠くを見やり、昔を思い返しているようにも見える。アルティナはほおづえをついたまま、ぐいと顔を突き出し、上目遣いでじとっと見つめた。
「噂じゃ、300年くらい前からここに居座ってるって聞いたけど?」
「だいたいそんなものだ」
ラウルにためらいはなかった。前を向いたまま、たいしたことではないかのようにさらりと答える。
アルティナはふいに真顔になった。
「……あなたは、どこから来たの?」
身を起こし、静かに言葉を落とす。しかし、今度は何も答えてはくれなかった。
「つらくはないの?」
彼女は質問を変えた。ラウルはわずかに視線を向けた。
「だって教え子や子供が自分より先に老けていって死んじゃうわけでしょ?」
彼の視線を捉えると、アルティナは急に勢いづいて語りかけた。
「仕方のないことだ」
ラウルはただ感情なくそう言った。レイチェルは寂しそうに微笑んだ。
「あなたより……その子の方がつらいのかもしれないわね」
彼女はラウルの腕の中で眠る赤ん坊に視線を落とした。そして、小さな彼女の小さな手をとり、そっと握手を交わした。
「それ以前に問題はいろいろあるわよ」
アルティナはあごに手をあて、難しい顔をした。そして、下からラウルを覗き込み、人さし指を突きつけた。
「親のことを訊かれたらどうするつもり?」
声を低めて問いかける。しかし、彼はまったく動じることはなかった。
「正直に答えるだけだ」
「おまえは捨てられていたんだ……って?」
「下手に隠しだてするよりはいいだろう」
ラウルは、もぞもぞと動き出したルナを抱え直し、額をなでた。
「まあ、そうだけど……」
アルティナは不安を顔いっぱいに広げると、ほおづえをつき口をとがらせた。
「あなた子供相手でも容赦なさそうだから心配なのよね」
「きっと大丈夫よ」
レイチェルはにっこり大きく微笑んだ。
「それでも今は愛されているんだって実感できるくらい、たくさん愛情を注いであげればね」
ガラス窓から差し込んだ斜陽が、人通りの少なくなった廊下を紅く染める。ユールベルはうつむいて、逃げるように早足で歩いていた。金の髪が紅の光に照らされ、歩調に合わせてきらきら煌めく。
カツーン、カツーン——。
正面から響く靴音。ユールベルはその音につられて顔を上げた。廊下の先には、小脇に本を抱えたレオナルドがいた。図書館帰りのようだ。彼の方も彼女の存在に気づいたが、ちらりと目をあわせただけで、特に気を留めるわけでもなく足を進めた。
しかし、ユールベルは彼に向かって一直線に駆けていくと、両手を伸ばして飛びついた。彼の首に腕をまわし、しがみつくように顔をうずめる。
レオナルドは突然の出来事に対処できず、棒立ちになったままだった。彼女の甘い匂いが嗅覚を刺激する。彼女のあたたかい吐息が首筋にかかる。そして、彼女の胸の柔らかさが、数枚の服を通して感じられる……。頭のてっぺんから背中にかけて、痺れが駆け抜けていった。
「私のことを、好きになって」
体を通して、彼女の震える声が伝わってきた。
「おまえのことは、よく知らない」
レオナルドは精一杯の理性を総動員し、冷静を装った。しかし、ユールベルはさらに腕に力を込めた。
「私もあなたのことはよく知らないわ」
静かに、無感情に、虚ろに、かぼそい声でつぶやく。レオナルドは、彼女の中に、限りなく深い闇を見たような気がした。