遠くの光に踵を上げて

第53話 辿り着く場所

「そろそろ支度しなければ遅刻だぞ」
 自室に戻ってきたレオナルドは、いまだベッドで布団をかぶるユールベルに声をかけた。丸テーブルに置かれた朝食は手つかずのままである。
「どうした。気分でも悪いのか」
 レオナルドは顔色をうかがおうと覗き込むが、彼女は顔をそむけ、より深く布団にもぐり込んだ。
「今日は休むわ」
 布団の中からくぐもった声が聞こえた。
「体調が悪いのか。だったら俺も休むよ」
 わずかにのぞいた後頭部の金髪をそっとなでる。
「いいの。あなたは行って」
「放っておけるか」
「お願い。ひとりになりたい気分なの」
 静かに懇願する。レオナルドは目を細め、じっと彼女を見つめた。
「……わかった」
 しばしの沈黙のあと、ぽつりとそのひとことを落とした。そして、布団をわずかに下げると、彼女のほほに軽く口づけた。
「何かあったら下の母親に遠慮なく言うんだ」
 返事はなかった。しかし、それを求めることはしなかった。再び彼女の頭に手を置いた。
「行ってくる」
 レオナルドは後ろ髪を引かれる思いで部屋をあとにした。

「今日はあの子どうしたの?」
 ひとり階段を降りるレオナルドに、階下を通りかかった母親が尋ねた。
「彼女、体調が悪いようなんだ。面倒を見てやってほしい」
「まったくやっかいなことばかり……」
 母親は顔をしかめてため息をついた。その態度にレオナルドはむっとしたが、彼女の機嫌を損ねないようぐっとこらえた。
「仕方ないだろう」
 リビングルームから野太い声が響いてきた。レオナルドは無意識に眉をひそめ、開いていた扉から中に目を向けた。そこにはどっしりとソファに腰を下ろし、大きく新聞を広げる父親がいた。気難しい横顔に冷徹な瞳。いつもどおりの表情である。
「サイファに頼まれたんだからな」
 レオナルドははっと目を見開き、とたんに顔を曇らせた。
「あんな若造でもラグランジェ家当主だ。命令には逆らえん。そうでなければ、とっくに放っぽり出している」
 父親は苦々しげに顔をしかめると、二つ折にした新聞をテーブルに叩きつけた。
「おまえは昔からやっかいごとばかり持ち込むな」
 ソファにもたれかかり腕を組むと、戸口に立つ息子に冷めた視線を投げつけた。
「だいたいバルタスのところの娘は死んだという噂だったろう。足はついているのか?」
 そのひとことで、レオナルドは一気に頭に血をのぼらせた。父親を激しく睨みつけ、奥歯をぎりぎりと軋ませる。しかし、彼には何の効力もなかった。むしろ怒らせただけである。
「なんだ、その態度は。文句があるなら一人前になってから言え!」
 迫力のある低音に威圧され、レオナルドは身をすくませる。くやしいが、何も言い返せなかった。

 ユールベルはベッドから降り、ふらふらと光の差し込む窓に歩み寄った。まぶしさに右目を細めながら、窓枠に指を掛け、外を見下ろした。レオナルドの後ろ姿が見える。彼は門の手前で振り返り、大きく右手を振った。彼女もつられて手を上げかけたが、すぐに元に戻してうつむいた。
 ギィ……。
 ユールベルは音のする方を見た。扉がゆっくりと開く。そこから姿を現したのは、レオナルドのふたりの弟だった。彼女はほとんどをレオナルドの部屋で過ごしている。そのため、同じ家に住んでいるものの、他の家族とはときどきすれ違うくらいで言葉を交わしたこともない。大きい方のロルフはユールベルと同じくらいの年頃だ。なぜか敵意をむき出しにして、彼女を睨みつけている。小さい方のマックスは、そんな兄の後ろでただおろおろしている。
 ロルフは意を決したようにごくりと喉を鳴らすと、ずかずかと部屋に入ってきた。まっすぐにユールベルへと向かう。そして勢いよく彼女の胸ぐらを掴み上げた。ブチブチッという鈍い音とともにボタンがはじけ飛び、薄地のネグリジェの襟ぐりが大きく開いた。
「おまえが来てから兄貴がおかしくなったんだよ。何を企んでいるんだ」
「別に、何も」
 冷静に答える彼女を見て、ロルフはさらにカッとなった。胸ぐらを掴んだ手を振りおろし、床に叩きつけるように倒した。そして、彼女に馬乗りになると、細い首に手を掛けた。
「返せよ、兄貴を……。昔の兄貴を!」
 歯をくいしばり、額に汗をにじませ、ギリギリと指に力をこめる。ユールベルは苦しそうに眉根にしわを寄せるが、抵抗もせず声も発しない。
「ロルフ兄さん!」
 マックスの呼びかけで我にかえり、はっとして手を緩めた。彼女の白い首には、くっきりと指の跡が残っていた。彼女はゆっくりと右目を開き、無表情でじっと彼を見つめた。
「き……気味わるいんだよ!」
 彼女の視線にうろたえながら叫ぶと、左目の包帯に手を掛け、乱暴にむしり取り始めた。
「この包帯も怪しいんだ!!」
 ユールベルは無抵抗だった。ゆるく結ばれていた包帯はすぐに頭から外れた。左目があらわになる。
「……っ!!」
 焦点の定まらない瞳、焼けただれた跡。ロルフはぎょっとして後ろに飛び退いた。マックスも息をのんで後ずさった。
「包帯の下に傷があるのは当たり前だ……。レオナルドはそう言ったわ」
 ユールベルは仰向けのまま、虚ろに天井を見つめてつぶやいた。弟たちは言葉に詰まり、口を真一文字に結んだ。
「言われなくても、もうすぐ消える」
 ユールベルは、かぼそく息をするように言葉を吐いた。ロルフは腹立たしげに顔を歪ませた。
「とっとと出ていけ!」
 精一杯、気張ってそう吠えると、走って部屋を出ていった。マックスも、おろおろしながらロルフのあとを追った。
 ドタン。
 再び扉が閉じられ、ユールベルはひとりになった。仰向けになったまま、少しあごを上げ、ガラス越しの四角い空を見上げる。
 ——すぐに、消えるわ。
 そのままの姿勢でベッドの下に手を伸ばし、そこに隠してあった茶色の小瓶を握りしめた。

 アンジェリカはひとりでアカデミーに来ていた。長期休暇中だが、図書室で自主学習をするためである。
「あ、アンジェリカ!」
 玄関を抜けるとすぐに、後ろから呼び止められた。怪訝な顔で振り返る。
「えーっと……ターニャ、だったかしら」
「覚えていてくれてありがとう」
 彼女は人なつこくにっこりと笑いかけてきた。
「二年生は長期休暇中じゃなかったの? あ、そっか。あなたもユールベルの様子を見に来たのね」
 返事を待たずに勝手に決めつける彼女に、アンジェリカはあきれ顔を向けた。
「私は図書室に用があって……」
「あ、レオナルド!!」
 アンジェリカの話をさえぎり、ターニャは大きな声をあげた。彼女の視線は、アンジェリカを通り越した向こう側に向けられていた。アンジェリカも彼女の視線をたどり、振り返った。
「またおまえか……」
 レオナルドはあからさまにうんざりした様子で、沈んだ声を発した。しかし、ターニャはそんなことは一向におかまいなしだ。にこにこと笑顔で彼に近づいた。
「あら、ユールベルは?」
 あたりを見回しながら尋ねる。
「今日は休みだ」
「どうして?」
「おまえに会いたくなかったのかもな」
 ターニャはむくれて唇をとがらせた。
「それで、放ってきちゃったわけ?」
「仕方ないだろう。ひとりになりたいと言っているんだ。母親に面倒を見てくれるよう頼んである」
 そこまで言うと、深くため息をついた。
「いいかげん俺たちのことは放っておいてくれないか」
 しかしターニャは引き下がらなかった。
「私はユールベルが心配なの! キミと傷をなめあうような関係を続けても彼女のためにならない。もっと明るい場所に出て、生きてると楽しいことがいっぱいあるんだってこと、教えてあげるべきよ」
 オーバーに両手を広げて力説した。そんな彼女に、レオナルドは嫌悪感をあらわにした。片眉をひそめ睨みつける。
「おまえに何がわかる。勝手な思い込みで毎日つきまとうのはやめてくれ」
「少し、同情するわね」
 アンジェリカはぽつりと言った。
「ちょっとアンジェリカ! あなたどっちの味方なのよ!」
 ターニャは驚いた声をあげ振り返った。まるで裏切られたといわんばかりの勢いだ。
 しかしアンジェリカは冷静を保ったままだった。
「どっちでもないわ。それじゃ、私は図書室に行くから」
 そっけなく返事をして背中を向けようとすると、レオナルドが腕を掴んで止めた。
「……なによ」
 むっとして見上げると、彼は困ったような、とまどったような、複雑な表情を見せた。
「一緒に来てくれ……ラウルのところへ」
「ひとりで行けばいいじゃない」
「ユールベルの薬をもらいに行くんだ」
「だから、ひとりで行きなさいよ」
 アンジェリカがレオナルドの瞳を探ろうとすると、彼は視線をそらせ、ばつが悪そうにうつむいた。
「もしかして、怖いの?」
「ばっ……バカを言うな! 怖いんじゃない。苦手なだけだ!」
 必死の彼を、アンジェリカは冷ややかに見つめた。
「ふーん、まあいいけど」
 勝手なレオナルドの頼みなど断ってもよかったが、彼女自身、久しぶりにラウルの顔が見たい気持ちになっていた。
「私もついていっちゃおっと」
 ターニャは目一杯かわいらしく言ってみたが、レオナルドは冷ややかだった。
「おまえは来るな」
 それでも彼女はめげなかった。いたずらっぽくにっと笑う。
「ついて行くんじゃなくて、私も先生に用があるって言ったら?」
 レオナルドはチッと舌打ちした。何を言っても無駄だと思った。逃れるように背を向け歩き出す。
「痛っ! 手を放してよ。逃げやしないわ」
 アンジェリカはレオナルドの手を振りほどいた。彼は一瞬、寂しげな表情を浮かべた。

「鍵がかかっているわね」
 ラウルの医務室の前まで来たが、通常の鍵に加え、外からも南京錠が掛けられている。中にいないことは明らかだ。レオナルドは軽く舌打ちした。
「どこへ行ってるんだ」
「仕方ないじゃない。ラウルだって暇じゃないんだから。出直すしかないわね」
 淡々とそう言って振り返ると、何かを見つけ、驚いたように前方を指さした。
「レオナルドのお母さんよね?」
 彼は白く細い指を目でたどった。その先にいたのは確かに彼の母親だった。階段から降りてきたところのようだ。
「なんでこんなところに……」
 彼女が王宮に来ることなどめったにない。よりによって、ユールベルの面倒を見るように頼んだ日になぜ……。そんな疑問が頭をもたげた。そして、それは次第に怒りへと変わっていった。
 母親はレオナルドに気がつくと、無言で近づいてきた。少し離れたところで足を止め、疲れきった表情で目を伏せた。
「ユールベルを放っておいて、こんなところで何をしてるんだ」
 レオナルドは責めるように語気を強くした。
「違うのよ……ユールベルが……」
 三人は怪訝な顔を彼女に向けた。

「くっ……! いつまで待てばいいんだ!!」
 レオナルドは苛立ち叫びながら、白く大きな扉にこぶしを叩き込んだ。
「状況だけでも教えてくれ!!」
 再びドンドンと扉を叩く。
「待つしかないわ」
 アンジェリカは小さくつぶやいた。彼女の顔は暗い。隣では、壁にもたれて座り込んだターニャが、浅くしゃくり上げている。
「あなたはもう行っていいわよ。授業が始まっているし」
 アンジェリカは横目で彼女を見下ろした。
「放って行けるわけないじゃない!」
 ターニャは感情的に声をあげると、激しく嗚咽を始めた。

 ガチャン。
 金属音があたりに響いた。ターニャははっとして立ち上がった。レオナルドは睨むように扉を凝視した。
「静にしろ。ここをどこだと思っている」
 ゆっくりと開いた扉から姿を現したラウルは、開口一番そう言った。レオナルドは返事をすることなく、ラウルの脇をすり抜けて中に駆け込んでいった。ターニャもすぐあとに続いた。アンジェリカも少し遅れ、歩いて中に入っていった。
「ユールベル! 大丈夫か?! ユールベル!」
「ユールベル!」
 レオナルドとターニャは何度も呼びかけた。アンジェリカは少し離れたところから、その様子を黙って見ていた。彼女は今朝のネグリジェのままで、白いパイプベッドに横たわっていた。胸元のボタンがいくつかなくなっていたが、今のレオナルドにはそれに気づく余裕はなかった。顔の左側には白いタオルが無造作にかぶせられていた。左目の傷を隠すための配慮だろう。顔色はまるで血が通っていないかのように白い。それがふたりの不安を煽る。
「ユールベル!」
 何度目かの呼びかけで、彼女はうっすら右目を開いた。数度まばたきをする。そして、必死のふたりを瞳に映すと、そこから視線をそらせた。
「睡眠薬20錠や30錠では死ねない」
 ラウルは腕を組み、淡々と言った。レオナルドとターニャは驚いて振り返る。ラウルはさらに言葉を続けた。
「死にたいのならもっと確実な方法を選ぶんだな」
「おまえ! それが医者のいうことか!!」
 レオナルドはラウルに向き直り、激しく非難した。両こぶしを強く握りしめ震わせながら、掴みかかりたい衝動をぎりぎりで抑え込んだ。しかし、ラウルは眉ひとつ動かさなかった。
「生きることが幸せとは限らない。本人が死にたいと言うなら、勝手にすればいい」
 平然とそんなことを言ってのける。レオナルドは歯ぎしりをしながら睨みつけた。
「……だったら……どうして、私を助けたの……」
 ようやく聞き取れるほどの小さなかすれた声。ターニャははっとして、ユールベルに視線を戻した。彼女は薄暗がりの白い天井を、無表情で見つめていた。
「本気かどうかは本人にしかわからないからだ。だから確実な方法を選べると言っている」
 ラウルは腕を組んだまま、横たわる彼女を見下ろした。
「私は医者だ。目の前に患者がいれば治療をする。それだけだ」
 レオナルドはずっとラウルを睨み上げていた。しかし、言葉は出てこなかった。
 ターニャは黒く濡れた瞳で、ユールベルを覗き込んだ。
「ねぇ、ユールベル。あなた……本当に、死のうとしたの?」
 まばたきをするだけでこぼれ落ちそうなほどの涙をたたえ、震える声で問いかける。ユールベルは目をそらせたまま、小さな口を開いた。
「そうしなければ、いけなかったから」
「……バカ!!」
 ターニャは大きな声で叫ぶと同時に、彼女の頬をパシンと思いきりはたいた。左目にかぶせられていたタオルが床に落ちる。レオナルドとアンジェリカは目を見開いて息を止めた。
「わけわかんないこと言わないでよ!!」
 涙をあふれさせながら、目一杯の声で叫び、再び手を上げる。レオナルドは我にかえり、慌てて彼女を後ろから羽交い締めにした。
「おまえ! 何をするんだ!!」
「自分から死を選ぶなんて、絶対に許せないんだから!!」
 おかっぱの黒髪を振り乱し、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、狂ったように泣き叫ぶ。レオナルドは暴れる彼女を押さえつけたまま、外に連れ出した。
 ラウルはユールベルの左目に新しいタオルを掛けた。

 しばらくしてレオナルドはひとりで戻ってきた。疲れたように小さくため息をつく。壁に立て掛けてあったパイプ椅子をユールベルの隣で広げ、ゆっくりと腰を下ろした。
「大丈夫か?」
 彼女の少し赤くなったほほに、そっと手をあてる。わずかに熱を帯びている。
「ユールベル、どうしてだ」
 無反応のままの彼女の細い手をとり、そっと問いかける。感情をおさえた静かな声。刺激をしないように細心の注意をはらう。
「何か、あったのか? ……それとも……俺、か?」
 わずかに顔を曇らせると、ぎゅっと彼女の手を握り、じっと顔色をうかがった。
「あなたには感謝している」
 細くかすれた声が、血の気をなくした唇からこぼれた。
「でもやっぱり、私は生きていてはいけない人間……。いつか、消えようと思っていた」
「なんでそうなるんだよ……。昔のことなんてもう忘れろよ。間違っていたのはあいつらなんだ!」
 つぶやきから次第に感情的になっていき、ついには涙声まじりで訴えた。潤んだ瞳を隠すように、慌ててうつむく。
「やっぱり、俺じゃ、駄目なのか……」
 引き寄せた彼女の手に、祈るように自らの額をつけた。冷たさがしみた。シーツの上にひとつぶがこぼれ落ちた。
「あきらめるの?」
 アンジェリカが後ろから声を掛けた。何も答えないレオナルドの背中を見つめ、さらに静かに言葉をつなげる。
「ターニャはあきらめないわよ、きっと」
 彼の背中はみっともないくらい小さく丸められ、いつもの偉そうな態度は影をひそめている。
 アンジェリカは気配を感じ、何気なくユールベルに目を移した。ふたりの視線がぶつかる。ユールベルはふいに目をそらせた。アンジェリカの顔がわずかに曇る。しかし、すぐに元の表情に戻った。
「ごめんなさい。私の顔なんて見たくないわね。出ていくわ」
 平静にそう言うと、踵をひるがえし、まっすぐ出口へ向かった。

 アンジェリカは内側の鍵を開け、大きな扉を引き廊下に出た。ターニャは扉を背に膝をかかえ、ときどき大きく肩を震わせしゃくり上げている。
「笑ったり怒ったり泣いたり、忙しいわね」
 アンジェリカは扉を閉めながら、彼女を見下ろした。
「と……とんでもないことしちゃった……私、わたし……」
 ターニャは言葉を詰まらせ、より強くしゃくり上げた。
「悪くないかもしれない。あなたの気持ちが伝われば……」
「違う……違うのよ!」
 泣きながら声を震わせ、必死に訴える。
「何が?」
 アンジェリカは壁にもたれかかり、再び彼女を見下ろした。
「彼女のためじゃない……我を失っただけ……」
 ようやく聞き取れるくらいのはっきりしない声でぼそりと言うと、それきり口をつぐんでしまった。ただ肩を揺らし、すすり上げるだけだった。

 ガラガラガラ——。
 処置室からラウルを出てきた。アンジェリカは顔を上げ、彼を見つめた。ラウルもまっすぐ視線を返す。
「アンジェリカ、おまえは帰れ」
「……そうね」
 彼女はひとことそう言うと、ためらいなく背を向け歩き去った。
 彼女の姿が見えなくなると、ラウルは隣で膝を抱えるターニャに視線を移した。
「ターニャ=レンブラント。思い出した」
 彼女は口を半開きにして顔を上げた。泣きはらした目で彼を見上げる。何かを聞きたそうな表情。ラウルは淡々と答えた。
「十数年前に会っている」
 彼女ははっとして、さらに大きく目を見開いた。それから苦しげに顔をしかめると、ゆっくりとうつむいた。
「……あの頃のことは、あまり覚えていません」
 ラウルは前を向き、腕を組んだ。
「ユールベルにおまえのことを話そうと思う」
 彼女は膝に顔をうずめた。
「同情を引くようなまねは、嫌……です……」
 ぽつりぽつりと言葉を落とす。そして小さく鼻をすする。ラウルは前を向いたまま、わずかに目を伏せた。
「おまえのためではない。ユールベルのためだ」
 ターニャは膝を抱えたまま動かなかった。ラウルも返事を求めなかった。静寂が広がる。まるで時間が止まったかのような光景。窓の外を流れる雲だけが、現実であることを示している。かすかに遠くの笑い声が届いては消えた。

「……先……生」
 長い沈黙を破ったのは、かすれたターニャの声だった。ラウルは視線だけを彼女に落とした。黒髪のつやが形を変え流れる。
「先生に、おまかせします……」
 彼女は思いつめたようにそう言うと、さらに深く顔を沈めた。

 パイプベッドに横たわったままのユールベルと、その隣で椅子に座りうつむくレオナルド。ふたりは無言でラウルの話を聞いていた。彼は淡々と事実のみを話した。
「——そういうことだ」
 長くはない話をそう結ぶと、再び処置室から出ていった。
 残されたふたりは、無言のまま口を開こうとはしなかった。ユールベルは無表情で天井を見つめ、レオナルドは暗い顔でうつむく。背中に感じる冷たい空気、無機質なただっ広さ、薄暗い明かり。それらが彼の不安を呼び起こす。無造作に放り出された彼女の手に、温もりを求めるように自らの手を重ねた。彼女は無反応だった。

 長い長い沈黙のあと、ユールベルはぽつりとつぶやくように言った。
「寮に戻るわ」
「!!」
 レオナルドはものすごい形相で、椅子から立ち上がった。大きく口を開けるものの、とっさに声が出なかった。口をパクパクさせる。
「なっ……なんでだ!!」
 乾いた喉から絞り出すように叫ぶと、片膝をつき、彼女を覗き込んだ。不安に押しつぶされそうな、今にも泣きそうな顔を隠しもしない。
「もっと、彼女のことが知りたくなったのよ」
 ユールベルの声はしっかりとしていた。
「俺はどうなるんだ! ひとりにしないでくれ!」
 彼女の手にすがりつき、必死に訴えた。しかし、彼女は表情を変えることはなかった。ゆっくり目を閉じる。
「あなたはひとりじゃない……」
 レオナルドは顔をしかめ、首を横に振り、ベッドに突っ伏した。

 翌日——。
 ユールベルは小さな鞄を持って、寮へと向かった。隣にはレオナルドが付き添っている。門の前で、ふたり並んで古びた建物を見上げた。
「ユールベル!!」
 寮から出てきたターニャが大きく手を振りながら走り寄ってきた。そして、ユールベルにとびつくと、泣きながら抱きしめた。
「きのうはごめんね……! 痛かったよね」
「あなたのこと、聞いたわ」
 ユールベルはまっすぐ前を見つめながら言った。ターニャは彼女の肩の上でこくりとうなずいた。わずかに顔がこわばった。ユールベルの背中にまわした手に力をこめる。
「楽しそうに笑っている人はみんな、幸せに生きてきた人だと思っていた」
 ユールベルは落ち着いた声でそう言うと、ひと息ついてさらに続けた。
「私も、あなたみたいに笑えるようになるかしら」
 ターニャは彼女から体を離すと、涙を残したままでにっこり笑った。
「うん、大丈夫。焦らずゆっくりとね。みんなでいっぱい楽しいことしよう!」
 ユールベルはとまどいながらも、かすかに目でうなずいた。そして、彼女の顔をじっと見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「……それと……嬉しいときに、泣いてみたいわ」
 ターニャはきょとんとしたあと、恥ずかしそうに笑いながら涙をぬぐった。

「ユールベル!」
 今度は寮母が大きな体を揺らして走ってきた。
「心配させるんじゃないよ! この不良娘が!!」
 腰に手をあて、口をふくらませ、怒り顔を作る。だが、すぐに表情をやわらげ、優しくにっこり笑った。
「おかえり」
 あたたかい声でそう言うと、ぎゅっと抱きしめた。彼女のふくよかな体に、細身のユールベルはうずもれた。
「おい、おばさん。ユールベルが苦しがっている」
 寮母はユールベルを放すと、いぶかしげにレオナルドを見た。
「あんたかい、ユールベルをたぶらかした男は」
「人聞きの悪いことを言うな」
 レオナルドはむっとして睨みつけた。
「言っておくが、俺はあきらめないからな」
「言っておくけど、寮内は男子禁制だからね」
 ターニャはいたずらっぽく白い歯を見せて、にっと笑った。レオナルドは彼女に振り向き、うざったそうに顔をしかめた。
「そのくらいわかっている」
 あからさまに不機嫌でぶっきらぼうな言葉。それでもターニャと寮母は、なぜかにこにこしていた。
「レオナルド」
 ユールベルは一歩前に出た。レオナルドの鼓動はドクンと強く打った。彼女に振り返り、じっと見つめる。白いワンピースが風を受けふわりと舞い、金髪の緩やかなウェーブが波を打つ。
「ありがとう。それと、ごめんなさい」
 彼女はまっすぐに彼を見据えた。左目は包帯に覆われているが、右の瞳は強い光を宿している。ゆっくりまばたきをすると、再び彼と目を合わせ、レオナルドに向かって足を進めた。そして、彼の肩に手を掛け、踵を上げると、軽く口づけた。
「ありがとう」
 彼女は感謝の言葉を繰り返した。
 レオナルドは彼女の背中に手をまわし、そっと抱きしめた。
「アカデミーには来いよ」
 柔らかい日ざしがふたりを包む。ターニャは目を細めてその光景を眺めていた。

「そうか、寮に戻ったのか」
 サイファは椅子の背もたれに身を沈め、目を閉じた。
「私はレオナルドが救ってくれることを期待していたんだがな」
 肘掛けにひじをつき、手にあごをのせる。その後ろで、ラウルは窓枠に手をつき、大きなガラス越しに外を見下ろしていた。
「そうすれば、あいつのレイチェルへの想いも完全に消滅するだろう、ということか」
「あいかわらず鋭いな」
 サイファは前を向いたまま、悪びれずにはははと笑った。ラウルは彼に向き直ると、窓に寄りかかった。背もたれからのぞく金色の髪を見つめる。そして、腕を組むと、小さくため息をついた。
「レイチェルのこととなると、おまえはいつも身勝手になる」
「……いつも、でもないだろう?」
 顔半分だけ振り返り、冷たい視線を流す。ラウルはそれを無表情で受け止めた。だが、答えは返さなかった。
 サイファは急ににっこり笑顔を作ると、話題を変えた。
「で、おまえはどんな手を使ったんだ」
 ラウルは顔をそむけ、窓の外に目を逃した。
「昔の患者を利用した。卑怯な方法だ」
「昔の患者?」
 サイファは椅子を回し、ラウルに向き直った。しかし、彼はガラスの向こう側をじっと見つめたままだった。
「守秘義務がある」
 サイファはそれ以上の追求はしなかった。椅子から立ち上がり、ラウルの隣に足を進め、窓から外を眺めた。ラウルは窓を背にしたまま、腕を組んでいる。
「何にせよ、これでひと安心だな」
 サイファはラウルににっこりと笑いかけた。しかし、ラウルは厳しい表情を崩さない。
「まだ立ち上がっただけにすぎない。歩き出すのはこれからだ」
「確かに、立ち止まったり、つまずいたり、転んだりすることもあるだろう」
 真剣な顔でそう言ったあと、ふっと表情を和らげた。
「だが、人の優しさを素直に受け入れられるようになったのなら心配はない。彼女には支えてくれる人もいるだろう」
「おまえがそんな青臭いことを言うとはな」
 ラウルがサイファを流し見ると、彼は再びにっこりと笑った。
「たまにはいいだろう。希望を持つのも悪くないよ」
 開けた視界に広がる青い空。そこに流れる白い雲。サイファは、幾度となく見ているはずのその光景を、まぶしそうに眺めていた。そして、ラウルの肩に手をのせると、ぐっと力をこめた。