「きのうはごめんね」
昼どきの喧騒の中、明らかに自分に向けられた声。ジークはサンドイッチを持つ手を止め、顔を上げた。そこにはトレイを持ったターニャが立っていた。ぎこちない笑顔を浮かべている。
「ああ」
ジークは固い声で返事をした。それから、サンドイッチをひとくちかじると、ぼそりと小さな声で言った。
「座れよ」
「うん」
ターニャは彼の向かいにトレイを置き、音を立てないよう静かに座った。黙々と食べ続ける彼を見ながら、言いにくそうに口を開いた。
「あのね、きのう言ったこと……」
「もういいぜ。あのことは忘れる」
ターニャは首を横に振った。
「きちんと話すわ。聞いてくれる?」
ジークの手が止まった。
「無理すんなよ」
「決めたから」
ターニャは緊張した面持ちできっぱりと言った。そして、かすかに笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「あんまりごはんどきに話すような内容じゃないんだけど」
「気にしねぇよ」
——あの人に殺されかけた。ターニャはきのう、そう言って泣いた。どう転んでも楽しい話であるはずがない。言われるまでもなくわかっている。
ターニャは温かいスープをひとくち流し込み、小さく息をついた。
「私の父はね、私が三歳のときに自殺したの。首をくくってね」
ジークは繕った無表情で、サラダにフォークを突き刺した。ターニャはうつむき、声のトーンを落とした。
「それを最初に見つけたのが私だった」
覚悟はしていたものの、思った以上の重さだった。ジークは口を開くことができなかった。
「でね」
ターニャは気を取り直すように明るい声を作り、ぱっと顔を上げた。
「あの人は……母は、ショックで精神を病んじゃったらしいのよ。それで私は何の世話もしてもらえないまま放置されていたのね。衰弱して死にかけていたところを近所の人が見つけてくれて。そのあと施設……孤児院ね、に預けられたわけ」
その内容とは不釣り合いなくらいに軽くテンポよく一気に言い切ると、大きく口を開けてサンドイッチにかぶりついた。
「ああ、それで殺されかけたって……」
ジークは納得したように言った。ターニャはばつが悪そうに笑ってみせた。
「それから三年くらいは口がきけなくなっていたらしいわ。この頃の記憶もあんまりないのよね」
ジークは掛ける言葉を思いつかなかった。しかし、押し黙っている彼を見て、ターニャは口をとがらせた。
「今はこんなによくしゃべるのに信じられないとか思ってるんでしょ?」
「言ってねぇよ!」
ジークが怒ったように否定すると、彼女はくすりと笑った。
「本題はここから」
「本題?」
ジークは怪訝に眉をひそめた。ターニャは真剣な顔で、身を乗り出した。
「母には私の居場所を一切教えないことになっているのよ。だから三歳のとき以来、一度も会ってないし、私がここで働いていることだって知るはずない」
「でも聞いたって言ってたぜ」
「でしょ?」
彼女は不機嫌に口をとがらせ、ほおづえをついた。空いた方の手でフォークをとり、サラダをつつく。
「どうもおかしいのよ。誰が知らせたのかしら」
「心当たりはねぇのか?」
ジークはサンドイッチをほおばりながら尋ねた。
「母のことを知ってるのはごく少数よ。施設の先生とユールベルとキミの担任くらいかなぁ」
「ラウルが?」
ジークは顔をしかめた。ターニャはこくりと頷いた。
「しゃべれなくなってたときに、診てもらったことがあるらしいの」
彼女はさらりと言ったが、ジークは難しい顔で眉間にしわを寄せた。
「あやしいぜ。あいつが犯人だろ」
ターニャは首をかしげた。
「どうして? 動機なんてないじゃない。あの先生がそんなにおせっかいとも思えないし」
「そうだな……」
ジークはどことなく残念そうだった。
「ユールベルは母の居場所なんて知るわけない。とすると、施設の先生じゃないかなって」
「動機はなんだよ」
「うーん……私と母を仲直りさせよう、とか?」
ターニャは自信なさげに言った。ジークもいまいち納得のいかない表情で首をひねった。
「でね」
そんな彼を覗き込むように、ターニャは机にひじをついて身を乗り出した。
「帰りに施設に寄ってみようと思うの。確かめるだけ確かめたいし。一緒に行ってくれない?」
「なんでだよ。俺には関係ねぇだろ」
ジークは無関心にそう言って水を飲んだ。ターニャはにこにこしながら両手でほおづえをついた。
「私の話を聞いたんだから関係なくはないでしょ」
「……」
ジークは弱ったように頭をかいた。
「じゃあ帰りにね!」
ターニャはジークの背中をポンと叩くと、軽やかに自席へ戻っていった。
「もう仲直りしたのか、色男。どんな手を使ったんだ?」
腰を下ろしたジークに、隣のジョシュがとげとげしく毒づいた。モニタを見つめ、無表情でキーボードを叩いている。
ジークは横目で睨んだ。
「なんの話だ」
むすっとしてそう言うと、モニタの電源を入れた。ブォンという鈍い音とともに、次第に画面に光が宿っていく。隣ではずっとカタカタと乾いた音が続いていた。
「きのう泣かしただろう、あいつを」
「俺じゃない」
ジークは小さく舌打ちをした。見られていたのか、よりによってコイツに——。彼は自分の運の悪さを呪った。
「おまえでなければ誰だというんだ」
「それは……」
本当のことはとても言えない。言ってはならない。言う必要もない。ジークはだんまりを決め込んだ。だが、ジョシュはいいわけを思いつかなかったのだと解釈したようだった。手を止め、冷ややかな視線を流した。
「俺はごまをすってお偉方に取り入る奴や、女を泣かすような奴は信用しない」
「俺がそうだと言いたいのか」
ジークは眉をひそめ睨み返した。ジョシュは答えなかった。前に向き直り、再び手を動かし始めた。
「ジーク、調子はどうだね」
ジークは声のする方に振り返った。
「所長!」
ジークが返事をするより早く、ジョシュが机にバンと手をつき、勢いよく立ち上がった。
「どうして私がこんな使えないアルバイトのお守りをしなければならないんですか!」
その直訴はフロア中に響きわたった。まわりのスタッフはみな振り返った。遠くでかすかにざわめきが起こった。
だが、所長は動じることなく平然として言った。
「彼はきちんとこなしているだろう」
「あんなもの、言われたとおりやるだけのサルでもできる仕事です」
「君も最初はそこから入ったはずだが?」
「……」
ジョシュは言い返すすべを失くした。机に手をつき、苦々しい顔でうつむく。
所長は悠然と微笑んだ。
「これは君のためでもある。後輩の指導、よろしく頼むぞ」
「……はい」
ジョシュはうなだれたまま、苦渋に満ちた声で返事をした。
「ジーク、君も先輩と仲良くやってくれたまえ」
「あ、はい」
ジークは慌てて立ち上がった。所長は後ろで手を組み、満足げにうなずいた。そして、もう一度ふたりに念を押すように視線を送ると、奥へ消えていった。
ジョシュは机についた手を握りこぶしに変えた。そして、ぽつりと言葉を落とした。
「ひとつ言っておく」
ジークはその声に振り向いた。
「俺はいい仕事がしたいだけだ。出世欲なんてものはない。だから、いくらおまえが所長やラグランジェ家と懇意にしているといっても、俺には関係ない」
ジョシュは頭を垂れたまま、淡々と言った。
「そりゃ願ったり叶ったりだぜ」
ジークは無愛想に答えると、腰を下ろしモニタに向かった。
「お先に失礼しまーす」
ターニャは定時になるとすぐに仕事を切り上げ、ジークの腕を引っ張りながら研究所をあとにした。
「わかった、逃げねぇから、腕、放せよ」
「ちょっと待っててね」
あたふたする彼に、ターニャはにこにこしてそう言い残し、どこかへ走っていった。そして、しばらくすると、自転車を引きながら戻ってきた。
「施設までは遠いからこれで行こ!」
「俺はねぇぞ」
ジークは面倒くさそうに言った。しかし、ターニャはあっけらかんと切り返した。
「ふたり乗りでいいでしょ?」
「大丈夫か? けっこう重いぞ」
ターニャは目をぱちくりさせた。
「なに言ってんのよ。キミがこぐのよ」
「は? なんでだよ! これおまえのだろ?」
ジークは面くらって赤い自転車を指さした。
「私のじゃなくて友達のよ。何のためにキミを呼んだと思ってんの。いいからこいで。男でしょ」
ターニャはにっこり笑って、自転車を強引に押しつけた。
「信じられねぇ」
ジークはため息まじりにつぶやいた。
「かよわい女のコにこがせようとするキミの方が信じられないわよ」
かよわいって誰が——そう思ったが、反論する気にもなれなかった。しぶしぶ自転車にまたがる。ターニャは横向きに荷台に乗り、彼の腰に手をまわした。
「ここからだと一時間半くらいかなぁ」
「そんなにか?!」
「だからほら、急がないと帰りが遅くなっちゃう」
ターニャはジークの背中をポンと叩いた。
「本っ当に信じられねぇ!」
ジークは歯をくいしばり、やけくそでこぎ始めた。
もう日は沈み、あたりは薄暗くなっている。汗だくのジークは小さな門の前で足をついた。ぜいぜいと荒い息で、中に目を向ける。細長い平家とこじんまりとしたグラウンドが見えた。家には暖かそうな光が灯っている。
「ここか」
「うん、久しぶりだなぁ」
ターニャは荷台から降りると、両手を空に向け、大きく伸びをした。
「疲れたぁ。おしりも痛いし」
「人にこがせて吐くセリフかよ」
ジークは呆れ顔でつぶやいた。聞こえていたのかいないのか、ターニャはそれには反応しなかった。勝手に門を開け、敷地内へと足を進める。ジークもそのあとについていった。
ターニャは玄関ではなく、どこかの部屋のガラス戸を開けて、中を覗き込んだ。雑然とした部屋の奥に、年輩の女性が座っているのが見えた。
「こんにちは、園長先生」
「……ターニャ?」
園長と呼ばれた白髪の女性は、目を凝らして立ち上がった。そして、戸口の彼女を確信すると、とたんに顔を輝かせた。
「まあ! ずいぶん久しぶりじゃないの! 三年ぶりくらいかしら」
「えへへっ」
ターニャは少し照れくさそうに笑った。
「元気そうで良かったわ。今日は彼氏を紹介しに来たの?」
ターニャの後ろに立っている、落ち着かない様子のジークを見て、園長はにっこり微笑んだ。
「あ、いや、俺は……」
「彼はそういうのじゃないわ」
しどろもどろのジークをさえぎり、ターニャは冷静に否定した。
「ただの友達。連れてきてもらっただけよ。園長先生、私が面食いだって知ってるでしょ?」
「あら、そうだったわねぇ」
ふたりは愉快に笑いあった。ジークもつられて引きつりながら笑った。
「今日は母のことを聞きにきたんです」
ターニャは急に真面目な顔になり尋ねた。園長は心配そうに彼女を覗き込んだ。
「何かあったの?」
「研究所で待ち伏せされてて……。園長先生、誰か私のことを母に伝えましたか?」
そのしっかりした口調とは裏腹に、彼女の目はどこか怯えているようだった。
園長は優しく穏やかに答えた。
「いいえ、以前も今も一度もないわ。よほど特別なことでもない限り連絡はしない、それがあなたを預かるときの約束だったから」
「そう……」
ターニャは落胆したように、しかしどこかほっとしたように声を漏らした。
「でも研究所って? まだアカデミーは卒業していないんでしょう?」
「あ、いま実習期間なんです」
園長は眼鏡の奥で瞳を輝かせた。
「まあ、就職が決まったのね! でもそれならそうと連絡くらい頂戴よ」
「ごめんなさい」
ターニャは申しわけなさそうに肩をすくめた。
「研究所のことさえ知らなかったんなら、この人は確実に違うな」
ジークは後ろから口を挟んだ。
「うん……」
ターニャはうつむき、軽く握った手を口元に添えた。
「誰か他に、私のこと、母のことを知っている人に心当たりありませんか?」
「そうねぇ」
園長は首をかしげ遠くを見つめた。
「あなたをここに連れてきたお役人さん、あなたのご近所だった方たち、あとは王宮医師のラウルさんくらいかしら」
「やっぱラウルがあやしいんじゃねぇのか?」
ジークは何がなんでもラウルを犯人にしたいようだった。ターニャは難しい顔で考え込んだ。
「あ、ちょっと待って。もうひとりいるわ」
園長は両手を合わせて、うなずきながら言った。
「あなたの親戚よ」
ターニャは怪訝に眉をひそめた。
「親戚? 誰もいないって聞いたわよ」
「あぁ……ごめんなさいね。そういうことにしてあったの。あなたの引き取りを拒否したものだから」
園長はそこまで言うと、心配そうに彼女の顔色を窺った。
「誰なんですか? その親戚って」
声も表情も動揺しているふうでなく、沈んでいるふうでもなく、落ち着いているように見えた。園長は安堵した。
「あなたの父の兄、つまり伯父さんにあたる方ね。名前まではわからないんだけど……。私たちも面識があるわけじゃないから」
園長は丁寧に答えたあと、思いついたように付け加えた。
「そう、その方の紹介でラウルさんがいらしたのよ」
「えっ?」
「やっぱりラウルがあやしいぜ」
ジークはそれ見ろと言わんばかりの口調だった。ターニャの表情が曇った。
「あしたにでもラウルのところに行ってみるか?」
「うん……」
ターニャは重い声でうなずいた。
「ターニャ!」
廊下からドタドタと子供たちが駆け込んできた。小さな子から 14、5歳の少年少女まで、10人くらいが彼女を取り囲んだ。
「みんな! 久しぶりっ!!」
ターニャは心から嬉しそうに、子供たちの頭を順番に撫でた。
「大きくなったなぁ」
「それだけ来てなかったんだろ、バカ」
10歳くらいの少年が腕を組みながら、不機嫌に突っかかってきた。
「お、反抗期? ナマイキになっちゃって」
ターニャは嫌がる少年の頭を楽しそうに撫でまわした。
「あ、ミナ先生もこんにちは!」
後方で控えめに立っていたエプロン姿の女性に気づくと、元気よく挨拶をした。
「本当に良かったわ。元気そうで」
ミナはにこにこと穏やかな笑顔をたたえていた。
「あなたは子供たちの希望なのよ。たまには顔を見せに来て」
「なんか照れちゃうな」
ターニャは笑いながら肩をすくめた。
「就職も決まったそうよ」
園長が後ろから声を掛けた。ミナは両手を組んで顔を輝かせた。
「まあ、おめでとう! どこなの?」
「知ってるかな? 王立魔導科学技術研究所ってところ」
「ええっ?! 本当に?!」
彼女は大きく目を見開き、声を裏返させて驚いた。
「そんなにすごいところなの?」
いつも冷静なミナの興奮ぶりに、園長は驚いた。
「それはもう! エリート中のエリートが集まってるって話よ」
「まあ!」
「私は運が良かっただけよ」
あまりの持ち上げられように、ターニャは多少の居心地の悪さを感じた。複雑な笑みを浮かべる。
「運も実力のうちよ。もっと胸を張りなさい」
園長は骨ばった手で、彼女の背中を優しく押した。
離れてその様子を眺めていたジークのところに、子供たちがわらわらと集まってきた。ジークは視線を上に逃がし、こわばった表情で腕を組んだ。困惑したように眉をひそめる。
「だれだよ、このにーちゃん」
男の子はジークを見上げた。髪の長い女の子が首をかしげた。
「ターニャの恋人さん?」
「ちがうよ。ターニャは金髪のかっこいい人にしかきょーみないもん」
ジークが答えるより早く、男の子が反論した。
「わたしは悪くないと思うけど」
女の子は背伸びをして人さし指を口にあて、じっとジークを見つめた。ジークはよりいっそう顔を上に向けた。
「微妙ね」
おかっぱの女の子は、腕組みをしてピシャリと言った。
ジークは上を向いたまま苦笑した。どうにもこうにも居たたまれない。早くここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「私、そろそろ帰るわ」
ターニャのその言葉が、ジークには天からの助けに思えた。
「せわしないわね。もう少しゆっくりしていきなさいよ」
園長はにっこり微笑んでターニャの肩に手をおいた。
——まずい! ジークは群がる子供たちをかき分け、大慌てで飛び出した。
「ここから家まですごく遠いんですっ!! だからもう帰らないと!!」
こぶしを握りしめ、引き留める園長に思いきり力説した。必死の形相で迫る。
「え、ええ」
園長は彼の迫力に圧倒され、目を点にしてうなずいた。
「それじゃ、また近いうちにいらっしゃい。用がなくてもね」
彼女は再びターニャに向き直り、優しく微笑みかけた。ターニャも顔いっぱいの笑顔を返した。
「来たばっかじゃん。もう帰んのかよ」
少年はむくれて頬をふくらませた。ターニャはいたずらっぽく白い歯を見せながら、少年の頭をぐりぐりと撫でまわした。
「また今度ね。反抗期もほどほどにするんだぞ!」
少年は頬を赤らめながら、去りゆくターニャの後ろ姿を睨んで口をとがらせた。
外はすっかり闇に覆われていた。街灯もない暗い道を、自転車の小さな灯りだけで進んでいく。
「今日はありがとね」
荷台に横座りしているターニャは、前で自転車をこぐジークの背中に話しかけた。
「本当は私、自転車に乗れないの。だから……」
「え? なんだ?」
ジークは顔半分だけ振り返って尋ね返した。風をきる音に邪魔されたせいか、彼にその言葉は届いていないようだった。
ターニャは表情を緩めると、左手を口元に添えて声を張り上げた。
「あしたもよろしく! って言ったの!」
「仕方ねぇなっ!」
ジークも声を張り上げて返事をした。それきりふたりの会話は途切れ、再び静寂が訪れた。誰も通らない田舎道に、発電機の低い唸り音だけが響いていた。
翌日、ふたりは仕事帰りにラウルのもとへ向かった。ジークは医務室の扉をノックして開けた。
「何の用だ」
ラウルはふたりの姿を見るなり、つっけんどんに尋ねた。
「わーっ! かわいーっ!!」
ターニャは、ラウルの質問そっちのけで、彼が膝の上で抱いていた赤ん坊に目を奪われた。小走りで駆け寄ると、にっこり笑って小さな手をとった。
「患者さんですか?」
ラウルは無表情でぶっきらぼうに答えた。
「娘だ」
「ムスメ……娘っ?!」
「血はつながってないけどな」
ジークは仏頂面で腕を組みながら補足した。
「あ、そうなんだ。ビックリした……」
ターニャは落ち着きを取り戻した。
「じゃあこの子の本当の両親は?」
ふいに浮かんだ疑問がそのまま口をついて出た。
「さあな」
ラウルは冷たく突き放すように言った。だが、ターニャにはそれが答えなのだとわかった。ふいに寂しげに表情を緩めた。
「お名前は?」
「ルナだ」
本人の代わりに、ラウルが答えた。
「ルナちゃん、こんにちは。ターニャよ、ターニャ」
ターニャは赤ん坊の頬を軽くつつきながら優しく笑いかけた。ルナはきょとんとして大きな瞳を向けると、小さな口を開いた。
「……アー……ニャ」
「あはっ! かーわいーっ!」
「だから何の用だ」
ラウルは苛ついた声を上げた。
「あ、そうだった」
ターニャは現実に引き戻された。
「おまえに聞きたいことがあって来たんだ。正直に答えろよ」
ジークはラウルを睨みつけて、命令口調で言った。しかし、ターニャは左手で彼を制した。
「先生は最近、私の母と連絡をとりましたか?」
「お前の母とは面識もないし、連絡先も知らんな」
ルナを抱え直しながら、淀みなく即答した。
「では、私の父の兄をご存知ですか? 昔、先生に私の診察を頼んだ人らしいんですけど」
ラウルは顔を上げ、じっと彼女を見た。
「知らないのか」
「え?」
「おまえが働いている研究所の所長だ」
ターニャは唖然とした。
「……うそ、だって名前が……レンブラントじゃないし……」
「自分で確かめろ」
ラウルは激しく狼狽する彼女にすげなくそう言うと、くるりと椅子をまわし背を向けた。
「テメー、何かもっと知ってることあるんじゃねぇのか?!」
ジークはラウルの胸ぐらに掴みかかった。ラウルは凍りつくような冷たい瞳で睨みつけた。ジークも負けじと熱く睨み返した。
「……っ」
鋭く視線をぶつけあうふたりの下から、小さくしゃくりあげる声が聞こえた。ルナが今にも泣き出しそうに目に涙をため、ジークを見つめていた。
「……行くぞ」
ジークはくやしそうに顔をしかめながら、踵を返した。呆然とラウルの横顔を見つめていたターニャも、後ろ髪を引かれながら医務室を出た。
「こうなったら所長のところへ行くしかねぇな」
ジークは左手に右のこぶしを叩きつけた。力づくでも聞き出さんばかりの勢いだ。だが、ターニャは違った。足がすくんでいた。不安におびえた瞳をジークに向けた。
「ジーク、私、こわい……。先生の言うことが事実だったら、もしかして、私……」
「やめるか?」
ジークは両手を下ろし、静かに尋ねかけた。ターニャは目を閉じ、首を横に振った。
「逃げるわけにはいかない。はっきりさせなきゃ」
顔にかかる横髪をかき上げ、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
ふたりは研究所に戻り、所長室を訪ねた。開け放たれた扉の奥に視線を送る。書籍と書類の山の谷間に、彼の姿を見つけた。
「所長」
戸口から、ジークは遠慮がちに呼びかけた。
「ジークにターニャも。帰ったのではなかったのか」
所長は書類をめくる手を止め、顔を上げた。
「どこか、誰にも聞かれないところで話できませんか」
ジークはけわしい表情で尋ねた。ターニャは彼の背中に隠れ、不安そうに所長を窺っていた。
「構わないが……」
所長は怪訝な視線を投げかけながら立ち上がった。
三人はいちばん奥の小さな会議室で話をすることになった。機密事項に言及するような会議に使う部屋で、しっかりと防音されており、会話が外に洩れることはない。ジークもターニャも入るのは初めてだった。
所長は内側から鍵を締めた。そして、並んで座っているふたりの向かいに腰を下ろした。
「話とは何だね」
机の上で手を組み、ふたりを穏やかに見つめる。ジークはターニャをちらりと流し見た。彼女はうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「単刀直入にうかがいます」
緊張で顔も体もこわばっている。固い声で言葉を続けた。
「所長は、私の父の兄ですか」
彼の顔から微笑みが消えた。
「誰からそれを聞いた」
「ラウル先生です」
「そうか……」
所長はふうと息をついた。
「どうなんですか?」
ジークは問いつめるように答えを急かした。曖昧な態度に少し苛ついていた。所長はゆっくりと目を閉じ、口を開いた。
「そのとおりだ」
ターニャは膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。予想していたことよ——自分に言い聞かせ、早まる鼓動を懸命に鎮めようとした。
所長はさらに話を続けた。
「私の昔の名はフランシス=レンブラント。今は妻の姓を名乗っている」
「母に私のことを話したのも所長ですか」
ターニャの口調は無意識にきついものになっていた。所長はうつむき、表情を曇らせた。
「すまない。あまりに嬉しくて、うっかり口がすべってしまった。彼女、来たのか」
「はい……」
ターニャの顔が大きく翳った。
「まだ、許す気はないのか」
「許す?!」
彼女は感情に流され声を荒げた。だが、すぐに我にかえった。意気消沈した様子で、ぽつりぽつりと話し始めた。
「許すも何も、恨んでなんかいません。ただ、思い出したくないだけです」
所長はつらそうに目を細めた。
「私は君を引き取りたかった。だが、妻の方の家族が反対をしてね。……いいわけだな。本当にすまなかった」
「施設にはいい先生がいて、いい仲間がいて、本当に楽しかった。そのことについては、所長を責めるつもりはありません。むしろ感謝したいくらい。でも……」
ターニャは目を閉じ、深く息を吸った。
「こういう罪滅ぼしの仕方は許せません」
バン! 彼女は職員証を机に叩き置いた。所長は目を見開いた。
「私がここに採用されたこと、奇跡だと思いました。でも違った。あなたが私のことを知って、それで……」
「それは違う!」
ターニャの言葉をさえぎり、血相を変えて否定する。しかし、彼女は止まらなかった。
「何も知らずに浮かれていた自分が恥ずかしい。馬鹿みたい。さぞ滑稽だったでしょう」
涙声で自嘲した。次第に目が潤んでいく。しかし、泣き出しそうになるのを振り切り、強い視線をまっすぐ彼に向けた。
「今日限りで辞めさせていただきます。私はあなたに情けをかけてもらわなくても生きていけるわ」
そう言い終えると同時に立ち上がり、職員証を残して戸口に向かった。ジークと所長は同時に立ち上がった。
「待ってくれ!」
「おい!」
どちらの呼び止めにも彼女は反応しなかった。立ち止まることも振り返ることもなく、無言で会議室を出ていった。
ジークはすぐに彼女を追って外に出た。しかし、所長は力が抜けたように椅子に崩れ落ちた。そして、机にひじをつき、頭を抱え込んだ。
研究所を出たところで、ジークは彼女に追いついた。
「待てよ」
後ろから細い腕をつかみ引き留める。
「所長は違うって言ってるぞ」
「違わないわよ。わかるわ、そのくらい」
ターニャは顔をそむけたまま冷たく答えた。腕をつかむ手を振り切ろうとしたが、ジークは放さなかった。
「だとしても、このままやめていいのか?」
「そうするしかない」
彼女はきっぱりと言った。それでもジークはあきらめなかった。
「今は実力が足りないとしても、頑張って力をつけて見返してやればいいじゃねぇか。サイファさんの受け売りだけどよ……」
彼なりの懸命の説得だったが、ターニャは唐突に肩を震わせ笑い始めた。ジークは唖然とした。だが、次第にその笑いはすすり泣きへと変わっていった。何度も大きくしゃくり上げ、拭いきれない涙が頬から流れ落ちた。
「無理よ、私には」
彼女は消え入りそうに言葉を落とした。ジークは掴んでいた彼女の腕を放した。
「さよなら。いろいろありがとう」
ターニャは背中を向けたままそう言うと、振り返ることなく走り去っていった。
ジークは声を掛けられなかった。彼女の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
その後、ターニャが研究所に来ることはなかった。フロアスタッフには、彼女は都合により内定を辞退したとだけ伝えられ、その理由についての説明はなかった。ジョシュはジークのせいではないかと勘ぐってきたが、ジークは何も答えなかった。
そして、一週間がすぎた。もう研究所にターニャのいた痕跡は見つけられない。元々いなかったようにさえ感じられる。しかし、ジークの頭には、あの三日間の出来事がこびりついて離れなかった。
「久しぶり、かな?」
仕事を終え外に出ると、門の脇からターニャが声を掛けてきた。少し気まずそうに笑顔を浮かべている。
「ああ……」
ジークもぎこちなく返事をした。突然のことで面くらったというのもあるが、あんな別れ方をした彼女にどう接すればいいのかわからなかった。
「新しい就職先が決まったから、一応キミには報告しとこうと思って」
「早いな」
ジークが本気で驚いているのを見ると、ターニャはにっこり笑ってVサインを見せた。
「これでもアカデミー生だもん。民間の小さな研究所だけどね。私の力を必要だって言ってくれたわ」
「そうか」
ジークは安堵の息をついた。ようやく心のつっかえが取れた。
「あと、所長とも仲直りしたから」
ターニャは腰に手をあて、軽く口をとがらせた。
「問いつめたら白状したわよ。本当はひとり採用の予定だったけど、ふたりに増やして私を採ったんだって」
そう言って、肩をすくめて見せた。ジークは何とも言えない表情で彼女を見つめた。どう反応すればよいのかわからなかった。
だが、ターニャは笑いながらおどけて言った。
「公私混同するなって、お説教しておいた」
ジークは彼女の明るさに救われた思いだった。つられて笑顔になった。
「母親とは?」
「さあ」
調子にのって尋ねた彼の質問を、ターニャはまるで興味がないかのように素っ気なく流した。
ジークははっとした。まずいことを訊いてしまったと思った。
「悪りぃ」
申しわけなさそうにひとこと謝ると、目を伏せた。
「別に……母親とも思ってないし、思い出したくないだけ」
ターニャは無表情で無感情に言った。ジークは彼女の横顔を目を細めて見つめた。
「それって、寂しくねぇか」
「……そう思える日がきたら、会いに行くわ」
静かにそう言うと、ジークに向き直りにっこりと笑ってみせた。
「それじゃ、ね」
「ん、ああ……」
ターニャが手を振ると、ジークも軽く手を上げた。そして、彼女は少し歩くと、振り返って声を張り上げた。
「たまにはユールベルに顔を見せに行ってあげてよ!」
「行かねぇって言ってんだろ!!」
ジークも大きな声で返事をした。ターニャは無言で大きく手を振ると、今度は振り返ることなく走り去っていった。