「魔導省の最上階に個室をもらうなんて、ずいぶん出世したものね」
ユリアはとげとげしくそう言うと、腕を組み、ぐるりと部屋を見渡した。広くはないが整然と片付けられ、清掃も隅まで行き届いているようだった。
「まだまだこれからですよ」
サイファは奥の机でほおづえをつき、ニッと笑った。背後の大きなガラス窓には青空が一面に広がり、そこからの陽光が彼の鮮やかな金髪を煌めかせている。
「あなたをお招きした理由はわかっていますね」
彼の問いかけに、ユリアは眉をひそめた。
「あの子が告げ口したのね」
その口調には腹立たしさがにじんでいた。
「私も暇ではありません。仕事を増やさないでもらえますか」
「私を騙しておいてよく言うわ」
ユリアは怒りをあらわにしながら、半ばあきれたように言った。サイファは目を閉じ、ふっと口元を緩めた。
「嘘は言っていません。私はユールベルのことを信用していますから。あなたよりもずっとね」
彼女は片眉をぴくりと動かした。
「いちいち頭にくるわね」
吐き捨てるようにそう言うと、笑顔をたたえたサイファをキッと睨みつけた。
「私は間違ったことはしていないわよ。自分の息子を取り戻したいと思って何が悪いの」
強い口調でそう主張するユリアに、サイファは余裕の表情を見せた。机にひじをつき、静かに口を開く。
「ユールベルにしたことは、どうなんですか」
ユリアは口を結び、深くうつむいた。
「……仕方ないじゃない。どうやっても、愛せないのよ」
左手で右腕をきつく掴み、苦しげに眉間にしわを寄せる。
「気持ち悪い……自分の嫌な部分を見せつけられているような……そう、多分、きっと私と似ているから……」
「似ていませんね」
サイファは間髪入れずに否定した。ユリアは驚いて顔を上げた。その真意がわからず、困惑した表情で見つめる。彼はにっこり微笑み、答えを口にした。
「ユールベルは優しい子です。あなたと違ってね」
ユリアは顔を上気させ、サイファを睨んだ。だが、彼は動じることなく言葉を続けた。
「愛せないものを愛せというつもりはありませんが、せめてそっとしておいてくださいませんか」
「アンソニーを返してくれれば、もうあの子に会うこともないわ」
ユリアはいらついて言った。だが、サイファは悠然と構えたまま、落ち着いた声で答える。
「それはできません」
まっすぐに彼女を見据え、さらに容赦のない言葉を吐く。
「あなたの元にいては、彼が幸せになれない」
「私は愛しているのよ! あの子を……アンソニーを!」
ユリアは逆上して、ヒステリックに声を荒げた。
「愛と自己満足を履き違えていませんか。アンソニーは自分の意思を持つひとりの人間だ。あなたの所有物ではない」
サイファは語調を強めた。ユリアは苦しげに目を細めうつむいた。
「私は……父の道具にすぎなかったわ」
低く落としたその声は、かすかに震えていた。
「あなたと結婚して本家に入る……父にとって、それだけが私の存在価値だった」
サイファは無表情で机にひじをついた。ユリアは下を向いたまま、堰を切ったように言葉を溢れさせた。
「本家に気に入られるように、あなたに気に入られるように、私は常にその行動を強いられてきた。でも、レイチェルが生まれ、あなたと婚約をすると、私は父から見向きもされなくなった。私の人生は、あなたが生まれたことで狂い、レイチェルが生まれたことで終わったのよ」
次第に感情を高ぶらせ、目に涙を浮かべて訴えかけた。
「同情はします」
サイファは感情なく言った。
「だからといって、自分の子供に手を上げていい理由にはなりませんよ」
ユリアは目尻を拭って、強気にサイファを睨みつけた。
「手の早いあなたには言われたくないわ」
「はははっ。上手いこと言いますね」
サイファは軽い調子で、ユリアの攻撃を受け流した。彼女は大きくため息をついた。そして、にこやかに微笑む彼を見つめ、固い表情のまま目を細めた。
「もし、レイチェルが生まれていなかったら、そして、父の望みどおり、私とあなたが結婚していたら……私は幸せになれたのかもしれない」
「それはありえません」
ユリアの表情が曇った。
「どういう意味?」
「私があなたを愛せたとは思えないからです」
サイファはにっこりと笑った。
「言ってくれるわね」
ユリアは顔を赤らめ、キッと彼を睨んだ。
「私は何が何でもアンソニーを連れ帰る。親は私よ。裁判を起こしてあなたの不当を証明してもいい」
「やめた方がいいですよ」
サイファは片ひじをつきながら、手持ち無沙汰に書類をぱらぱらとめくり始めた。
「ラグランジェ家の人間が騒ぎを起こすことを、極端に嫌う連中がいてね」
ユリアは怪訝に眉をひそめた。サイファは書類に目を落としたまま、無表情で話を続けた。
「あなたも知っているでしょう。ラグランジェ家では、不可解な事故や行方不明事件が何件も起こっている。いずれも、実に都合のいいタイミングでね」
ユリアは額に汗をにじませた。ごくりと唾を飲み込む。目には怯えの色が見えた。震えながら口を開く。
「……それは、脅し?」
「忠告ですよ。もっとも、あなたにとってはどちらでも大差はないでしょうが」
サイファはさらりとそう言うと、顔を上げてにっこりと笑いかけた。
「ユールベルたちの家には、もう二度と行かないでくださいね」
ユリアは両手で顔を覆い、その場に泣き崩れた。
「アンソニーが会いたいと言えば会わせます。そのときが来るのを待っていてください」
サイファは淡々と言った。
「そんなこと……言うわけないじゃない……」
ユリアは肩を震わせすすり泣いた。
「悪いな、急に」
ラウルは、屈み込むレイチェルの背中に声を掛けた。彼女はルナを抱き上げると、にこやかに微笑みながら振り返った。
「気にしないで。サイファに呼び出されたのでしょう?」
「ルナを預けてこいと言われた。長くなるのかもしれない」
ルナは嬉しそうにキャッキャと笑い声を上げながら、レイチェルの顔に小さな手を伸ばした。レイチェルは、ルナに顔を近づけ、優しく微笑みかけた。薄地のカーテン越しに広がる柔らかい光が、ふたりをあたたかに包み込んでいる。細く開いた窓から緩やかな風が流れ込み、カーテンをふわりと舞い上げた。同時に、レイチェルの長い金髪をさらさらと揺らした。
ラウルはその光景を無言で見つめていた。レイチェルがふいに顔を上げると、彼はとっさにどうでもいいことを口走った。
「アルティナはどうした」
「今は会議中」
そう答えると、彼女は大きな青い瞳を彼に向け、ちょこんと首をかしげた。
「少し、散歩しない?」
「サイファに呼び出されていると言っただろう」
ラウルはつれない返事をした。しかし、レイチェルは引かなかった。
「私に付き合わされたと言えばいいわ」
そう言って、にっこりと笑いかけた。
ラウルは目を閉じ、大きくため息をついた。
人影もなく、静まり返った校舎内。ジークは大きなあくびをしながら、図書室へと続く廊下を歩いていた。中庭の木々は、太陽の光を浴び、きらきらと照り返している。ふいに足を止めると、窓から青空を見上げた。そのまぶしさに目を細め、ため息をつく。肩に掛けた鞄がずっしりと重い。
こんな天気のいい休日に、なんで——。
その元凶である憎らしい担任の顔が頭をよぎり、思わず眉間にしわを寄せた。
ジークは再びため息をつき、前に向き直ろうとした。そのとき、視界のすみにある人物が映った。はっとして目を向ける。見間違いではない。中庭に立っているのは、まぎれもなくラウルだった。焦茶色の長い髪を風になびかせながら、腕組みをして空を見上げている。そして、その隣にはレイチェルが座っていた。ルナを膝にのせ、柔らかな表情を見せている。
生徒には鬼のようにレポートを出しておきながら、自分は呑気にひなたぼっこか?
ジークは舌打ちをした。肩を上げ鞄を担ぎ直すと、腹立たしげに大股で歩き始めた。しかし、彼の足はすぐに止まった。そして、もう一度、中庭に目を向けた。
「休日はアカデミーの方が静かでいいわね」
芝生の上をトコトコと歩きまわるルナを見て、レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「私もアカデミーに通ってみたいと思ったことがあったのよ」
ラウルは少し驚いたように瞬きをすると、隣で座る彼女に目を向けた。
「サイファが許さなかっただろう」
「その前に両親に止められたわ」
レイチェルは肩をすくめてみせた。
ラウルは再び空を望んだ。風が木々の緑を奏で、それに呼応するかのように小鳥のさえずりが重なる。
「何か、話があるのだろう」
「お見通しなのね」
レイチェルは笑いながら言った。
「何だ?」
ラウルが急かすように尋ねると、彼女は小さなルナに目を向けた。そして、少し遠慮がちに口を開いた。
「ルナは、あなたの本当の……血のつながった子供、だったりしない?」
ゆっくりと尋ねかけると、顔を上げ、ラウルの様子をうかがった。彼は大きな手で額を掴むと、次第に深くうつむいていった。まぶたを閉じ、なんともいえない表情を浮かべている。
「ずっと、疑っていたのか」
「疑うだなんて。そうだったらいいなって思ったのよ」
レイチェルは無邪気に声を弾ませた。
「ラウルがこの子を引き取ると言ったとき、様子が普通じゃなかったってサイファが言っていたし、アルティナさんが隠し子じゃないかと尋ねたときも、明確に否定しなかったって」
ラウルは疲れたように息を吐き、その場に腰を下ろした。長い脚を折り曲げ、その膝の上に腕を投げ出しうなだれた。
「ラウル?」
レイチェルは首をかしげ、彼を覗き込んだ。
「それはない」
ラウルは彼女の澄んだ瞳をまっすぐ見つめた。
「誓って言う。断じて隠し子などではない」
レイチェルはくすりと笑った。
「信じるわ」
ラウルは安堵の息をつき、後ろの木にもたれかかった。頭上でかすかに若葉がざわめく。
「でも、何か理由があったの?」
レイチェルは再び彼を覗き込んだ。ラウルは目を細め、遠い空を仰いだ。
「……似ていたのだ。見つけたときの状況が」
空の彼方に視線を送る彼を見て、レイチェルは確信した。
「例の、忘れられないひと、ね」
ラウルは固い表情でうつむき、左手で額を押さえた。
「名前も……」
「え? もしかして、ルナってその人の名前?」
レイチェルは大きな目をぱちくりさせた。
「いや、名前ではない……が、一部でそう呼ばれていた……」
ラウルは背中を丸め、大きくうなだれた。
「私は愚かだ……そうだ、最初から何もかもおまえに相談するべきだった。おまえなら私を止めてくれただろう」
「そうね。名前は、止めたわね」
レイチェルは肩をすくめ、少し苦笑いした。
「でも……」
小さくそう言うと、前に向き直り、陽の当たる芝生に座っている小さな女の子の名前を呼んだ。
「ルナ!」
小さな彼女は嬉しそうに笑顔で振り返ると、立ち上がってトコトコと走り寄ってきた。レイチェルは彼女を膝に抱き上げた。
「ルナは、もうこの子の名前になってしまったのよ」
ラウルは無言で背中を丸めたままだった。
「これからできることは、その人を重ねるのではなく、この子はこの子として愛していくこと」
レイチェルは彼を覗き込み、にっこりと笑いかけた。
「できるのでしょう?」
ラウルはまいったと言わんばかりに、目を閉じ大きくため息をついた。
レイチェルは目を細め、日なたの匂いのするルナの頭を優しく撫でた。
「後悔をしては、この子がかわいそう」
彼女の瞳に強い光が宿った。
「だから、私は後悔をしない。愚かだったけれど、申しわけなかったけれど、それでも嘘はなかったもの」
ラウルは彼女の横顔を見つめた。光を受けて輝く金の髪が、少し眩しく感じた。彼女はラウルの視線に気づき、瞬きをしながら振り向いた。
「もしかして、少しは後悔しろって思ってる?」
「いや。だが、サイファは……」
レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「生まれたときから今まで、ずっと変わらず大切にしてくれている。決して私を責めたりしないわ」
ラウルは後ろの木に身を預けると、腕を組み青空を見上げた。
「おまえにとっては良い夫というわけか」
「あなたにとっては良い教え子だった?」
レイチェルは茶化して尋ねた。ラウルは空を見たまま、眉をひそめた。
「憎らしい奴だ。だが、今までに会った誰よりも頭がいい」
端的にそう答えたあと、一拍の間をおいて付け加えた。
「ただ、魔導の潜在的な能力は、おまえの方が上だ」
「そうなの? 嬉しい」
レイチェルは軽く無邪気に喜んだ。
「もう少し時間があれば、おまえの力を引き出せてやれた。そうすれば……」
「今さら言っても仕方のないことよ」
「……強いな」
ラウルはぽつりと言った。レイチェルはルナを抱きしめ、空を見上げた。
「守ってくれる人がいるから、かもしれないわね。ラウルもそのひとりよ」
そう言って、にっこりと笑いかけた。だが、ラウルは素っ気なく否定した。
「私は何もしていない」
「見守ってくれていたでしょう?」
レイチェルは大きな瞳で彼を覗き込んだ。
ラウルはうつむきながら頭を押さえると、ため息をついた。
「どうしておまえはそういうことを……」
——ガサッ。
はっとして音のした方に振り返る。一瞬だが、黒っぽい何かが茂みの中に隠れるのが見えた。
「誰だ!」
迫力のある声で叫びながら、その方に突進する。そして、あわてて逃げようとしていた人物を見つけると、首根っこを掴んで引きずり出した。それは、ジークだった。
「何をしている」
ラウルは低く唸るように問いつめた。その目は激しい怒りで熱く煮えたぎっている。ジークは芝生に手をついたまま、じりじりと身を引いた。
「レポートを片づけに来ただけだ。おまえが山のように出すからな!」
彼の額から汗が流れ落ちた。ラウルはギリッと奥歯を噛みしめた。そして、腹の底から声を絞り出す。
「なぜ盗み聞きをしていたのか、と訊いている」
「盗み聞きなんてしてねぇ! 姿が見えたから来てみただけで……いま来たところなんだよ!」
ラウルはジークの喉をわしづかみにし、体ごと木の幹に叩きつけた。ジークは後頭部を激しく打ちつけ、思いきり顔をしかめた。喉を押さえつけられているため声は出ない。それどころか息さえできない。今にも喉がつぶれそうだ。
「おまえの記憶を封じてやる。成人に施すのは危険だが仕方ない。失敗すれば数年単位で記憶が飛ぶ。最悪は廃人だ」
ジークは体をよじり逃れようとしたが、びくともしない。首を絞めつける大きな手に爪を立ててみても、その力が緩むことはなかった。
「下世話な好奇心を持った自分を恨め」
ラウルは冷酷に言い捨てると、開いた右手をジークの額にかざそうとした。
「待って」
レイチェルはその右手に自分の左手を重ねた。そして、大きな青い瞳をまっすぐ彼に向け、じっと訴えかけた。
ラウルの手から力が抜けた。ジークは飛び出すようにそこから逃れると、喉を押さえ激しくむせ込んだ。
「ジークさん」
レイチェルは膝をつき、体を屈めている涙目のジークを覗き込んだ。
「何も、聞いていないのね?」
真剣な表情で、静かに念押しするように尋ねかける。ジークはごくりと喉を鳴らした。
「……はい」
「わかったわ。行って」
レイチェルは凛とした声で、突き放すように短く言った。ジークはとまどいがちに何度か振り返りつつ鞄を拾うと、図書室へ向かって足早に歩き出した。
「甘いな」
ラウルは低い声で言った。
「たいしたことは言っていないでしょう」
「あいつはバカじゃないぞ」
「だったら安心ね」
レイチェルは後ろで手を組み、にっこり笑って振り向いた。
「彼は私たちの味方だもの」
「だといいがな」
ラウルはため息をついた。
「使って」
レイチェルは白いハンカチを差し出した。彼の手の甲からは血が滲んでいた。ジークに爪を立てられたときについた傷だ。それほど深くはないが、長く引っかかれている。
「こんなもの、放っておいても問題はない」
「あら、医者のセリフとは思えないわね」
レイチェルはからかうように言った。そして、彼の大きな手をとると、ハンカチで傷口をそっと押さえた。赤い血がハンカチに染みていく。
「汚してほしくなかったのよ」
ぽつりと落とされた彼女の言葉に、ラウルはぴくりと眉を動かした。
「この手は、ルナを抱き上げる手だもの」
レイチェルは顔を上げ、優しく微笑んだ。彼女の足元に座っていたルナも、無垢な笑顔で見上げていた。
「ジーク! どこ行ってたの! 心配したよ!」
図書室に入って来た彼を見るなり、リックは大きな声を上げた。隣のアンジェリカは、眉をひそめてリックに振り向き、口の前に人さし指を立てて見せた。図書室には、彼らの他にもレポートをまとめている生徒たちがちらほらいる。
リックは「あ……」と小さく声をもらして口を押さえると、今度は声をひそめて言った。
「先に行ったはずなのに来てないから、事故にでも遭ったんじゃないかって思ったよ」
ふたりは一緒にアカデミーに向かっていたが、リックは途中でセリカの家に寄るからと、ジークには先に行ってもらっていたのだった。
「悪りィな」
ジークはまるで気のない返事をしながら、アンジェリカの隣に座った。リックはこれ以上の追求はしなかった。答える気がなさそうに見えたからだ。無事であればそれでいい。そう思いながら、本に目を落とした。
「何か、ついてるわよ」
アンジェリカはジークの頭に手を伸ばし、髪に絡まっていた深緑色の欠片を取った。
「葉っぱ? 何をやってたの? こんなものつけて」
首をかしげ、いぶかしげに尋ねる。ジークは困ったように目を泳がせた。
「天気が良かったから、つい中庭で昼寝……」
「え、昼寝?」
「もう、そんな悠長なことやってる場合?」
リックとアンジェリカはあきれ顔で口々に言った。しかし、ジークは言い返すこともせず、覇気なくぼうっとしている。考えごとをしているようにも見えるが、どちらにしろ彼の心はここになかった。
「ねぇ、本当にどうしたの?」
アンジェリカは次第に不安になってきた。どう見てもいつもの彼ではない。何かがあったとしか思えない。しかし、ジークはそれを認めなかった。
「なんでもねぇよ」
どこか上の空で答える。
「なら、いいけど……」
引っかかるものを感じてはいたが、彼女もそれ以上は尋ねなかった。
ジークは鞄からノートと筆記具を取り出すと、席を立ち、奥の書棚へと向かった。
ラウルは魔導省最上階にあるサイファの個室へやってきた。軽くノックし、返事を待たずに扉を開ける。
サイファは大きなガラス窓の前に立ち、そこから広がる景色を眺めていた。
「遅かったな。待ちくたびれたよ」
背を向けたまま、静かに言う。ラウルはぶっきらぼうに言い返した。
「おまえの都合にばかり合わせてはいられない」
サイファは椅子に腰を下ろし、机に向き直った。
「猫とでもやり合ったのか」
目ざとくラウルの手の傷を見つけると、引き出しを開けながらさらりと尋ねた。ラウルはわずかに眉をひそめ、一言だけ返した。
「猿だ」
サイファは小さくふっと笑った。そして、唐突に、小さな何かを投げてよこした。それは弧を描き、ラウルの手の中におさまった。
「あのロッカーの鍵だ」
サイファは部屋の隅を指さした。ラウルは彼を軽く睨むと、そのロッカーへと足を進めた。スチール製のそれは、表面がでこぼこしており、見るからに古そうだった。ところどころ錆まできている。ラウルは渡された鍵で扉を開けた。中には小さめの段ボール箱がひとつ入っていた。蓋は閉じられていない。多くの紙の束やファイルが無造作に突っ込まれ、あふれ返っている。
「片付けろとでも言うのか」
「ある研究者が発表しようとしていた論文と、その裏付けとなる実験データだ」
サイファははっきりとよく通る声で言った。ラウルは彼を流し見た。
「揉み消したのか」
「表に出ては都合が悪いのでね」
サイファはひじをつき、軽く握った手をあごに添えると、不敵な笑みを浮かべた。
「利口なやり方とは思えないな」
「私が関わったことはわからないよう工作はしてある。ラグランジェ家の誰かの仕業だという察しはついているだろうが」
ラウルはじっとサイファを見つめた。サイファは軽く息をつきながら、肘掛けに手をのせ、背もたれに身を預けた。そして、まっすぐにラウルを見つめ返すと話を続けた。
「おまえに聞きたいのは、その論文の信頼性だ。私が読んだ限りでは、かなり高いとみている」
ラウルは段ボール箱の中から、論文と思しきファイルを取り出した。パラパラとめくり、ざっと目を通す。
「大筋、間違ってはいないようだ」
そう言うと、ファイルを閉じた。
「少し見ただけで何故そう言える。根拠は何だ」
サイファは鋭い視線をラウルに向け、畳み掛けるように問いかけた。
「私のいた世界では、とうに証明されていることだ」
ラウルは無表情で答えた。サイファは厳しい表情で目を細めた。
「何故、教えなかった」
「一度、言ったことがある」
「私は聞いていない!」
身を乗り出し語気を強めるサイファに、ラウルは淡々と返した。
「おまえの祖父にだ。おまえが生まれるずっと前にな」
「……聞く耳を持たなかったのだな」
「ああ、一笑に付された」
サイファは再び背もたれに身を沈めた。椅子が軽い軋み音をたてる。
「私なら、信じたよ」
ぽつりと言うと、くるりと椅子をまわし、ラウルに背を向けた。ガラス窓の向こうに広がる青い空を、深い蒼の瞳に映す。そして、静かに口を開いた。
「一族の中で婚姻が繰り返されることに、不自然なものは感じていた。血を濃くすることの弊害もあるのではないか、そんな懸念が頭をよぎったこともある。分家がいくつもできた今でこそなくなったが、昔はきょうだい間での婚姻も、当然のように行われてきた」
サイファは大きく息をついた。
「すでに私たちの遺伝子はかなり損傷している、と考えるべきだろうな。つまり、爆弾を抱えているようなものだ。このままではいつか……」
「どうするつもりだ」
ラウルが低い声で尋ねると、サイファは椅子をまわし、再び彼に向き直った。
「さて、どうするかな」
含みを持った言い方をすると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その瞬間、嫌な考えがラウルの頭をかすめた。
「まさか、アンジェリカを……」
「アンジェリカを、何だって?」
サイファはほおづえをつき、ゆっくりと尋ねかけた。ラウルははっとしてけわしい表情でうつむき、口元を手で覆った。
「いいかげん気づいていないふりをするのはやめてもらえないか」
サイファは立ち上がり、腕を組むと、ガラス窓にもたれかかった。
「一瞬、アンジェリカが頭に浮かんだのは事実だ。だが、あの子をラグランジェ家に縛りつけるつもりはない。その考えは今でも変わらないよ」
腕を組んだまま、顔を横に向け、窓の外に視線を流す。
「それに、ラグランジェ家が変わらなければ、外部の者を受け入れることができなければ、結局は同じことさ。ただの延命措置にすぎない」
光に縁どられた彼の端整な横顔は、寂しげな翳りを落としていた。
「おまえが変えるつもりか」
ラウルが尋ねると、サイファはわずかに目を伏せた。
「いや、何もしない。滅びればいいさ。閉鎖的に自分たちの優位性を護ってきた、驕慢な一族の末路にはふさわしい最期だ」
静かにそう言ったあと、少しおどけて付け足した。
「ま、滅びるのは私の子孫ではないしね」
ラウルはため息をついた。
「あの連中がおとなしくそれを待つとは思えないが」
サイファは表情を引き締めた。
「おそらく彼らもこの情報を掴んでいる。そうであれば、当然、何らかの対策をとるだろうな。それが正当なものであれば、私も尽力するつもりだ。ただ……」
彼の目つきが急に鋭くなった。あごを引き、まっすぐ前を見据える。
「アンジェリカに手出しはさせない」
低く重いその声は、決意に満ちていた。
ラウルはロッカーの鍵を締め、それをサイファに投げ返した。
「無茶はするな」
無愛想にそう言うと、背中を向け足早に歩き出した。
「ラウル」
サイファはその後ろ姿に声を掛けた。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、動きを止めた。
「おまえがいてくれて良かった」
「からかっているのか、それとも嫌みか」
ラウルは振り返ることなく尋ねた。
「本心だよ」
サイファはにっこり笑って答えた。
ラウルは乱暴に扉を開け、勢いよく出て行った。