「ユールベル=アンネ」
ずっしりと体に落ち込むような重みのある低音が、アカデミーの廊下に響いた。背後から名を呼ばれた彼女は、びくりと体をこわばらせた。並んで歩いていたレオナルドも、けわしい顔で足を止めた。ふたりが振り返ると、そこには気難しい顔をした年輩の男が、後ろで手を組み立っていた。堂々たる恰幅を見せつけるように胸を張り、背筋をピンと伸ばしている。その佇まいからは強い威厳が感じられた。
「おまえに話がある。一緒に来てもらおうか」
男は有無を言わせぬ口調で、一方的に告げた。ユールベルの目に怯えの色が浮かんだ。レオナルドは一歩踏み出すと、彼女を庇うように、その前に右手を伸ばした。
「どうしてあなたが……」
「レオナルド=ロイ、おまえに用はない」
口をはさみかけたレオナルドを、男は冷徹な視線で鋭く射抜いた。レオナルドは体をすくませた。喉が乾き、張りつきそうになった。無理やり唾を飲み込もうとする。
男はユールベルに目配せをすると、後ろで手を組んだまま歩き始めた。
「レオナルド、先に帰って」
ユールベルは固い声でそう言うと、早足で男のあとを追った。
「待て!」
レオナルドは手を伸ばし、引き止めようとした。しかし、気持ちとは裏腹に、足は凍りついたように動かない。自分を圧倒する者に対する防衛本能が、足を進めることを拒絶していた。自分の情けなさが腹立たしくて仕方なかった。下唇を噛みしめ、爪が食い込むほどにこぶしを握りしめた。
ユールベルと男は、アカデミーの外れにある寂れた教会へとやってきた。こじんまりとして古びているが、手入れは行き届いているようだ。床も、長椅子も、ステンドグラスも、祭壇も、丁寧に磨き上げられていた。
カツーン、カツーン——。
男はゆったりと靴音を打ち鳴らしながら、教会へ足を踏み入れた。そして、中央まで足を進めると、踵を返し、扉付近で立ち尽くしているユールベルをまっすぐに見つめた。扉から射し込む夕陽が、彼女を後ろから照らし、金の髪を鮮やかに縁取った。床に落ちた長い影は、男の足元まで伸びている。
「おまえにやってもらいたいことがある」
「私なんかに何を頼むっていうの」
彼女はあごを引き、上目遣いでじっと男を睨んだ。
「そう構えるな。簡単なことだ」
男は幾分、柔らかに言ったが、彼女の警戒心が緩むことはなかった。彼を見据えたまま、無言で次の言葉を待った。男はそれに応じ、核心を口にした。
「アンジェリカとジークの仲を裂いてほしい」
ユールベルは目を見開いた。
「男を誘惑するのは得意だろう?」
彼はさらに畳み掛けた。表情を動かさず、しかし、意味ありげに彼女を見る。ユールベルはカッと顔を紅潮させ、その瞳に激しい怒りをたぎらせた。
「断るわ。他をあたって」
抑制されたその声は、微かに震えていた。声だけではない。肩も、腕も、背中も、小刻みに震えていた。そして、耐えかねたように背を向けると、教会から出ていこうとした。
「今夜はシチューの予定だったようだな」
男は声を張った。ユールベルは足を止め、怪訝に振り返った。話の流れが掴めない。戸惑いの表情を浮かべ、瞳で問いかける。
「アンソニーを預かっている」
男は静かに答えた。彼女ははっと息を呑んだ。みるみるうちに顔が青ざめていく。
「監禁がどんなものか、おまえには言うまでもないだろう」
「アンソニーはどこ?!」
彼女は長い髪を揺らし、切迫した声を上げた。男はふっと小さく笑った。
「役目を果たせば帰すと約束する。変な気は起こすな。おまえには常に見張りがついていると思え」
ユールベルの右目が潤んだ。今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。何か言いたそうに口を開こうとしたが、何も言えなかった。はぁっと息を吐くと、弾けるように教会から飛び出した。緩やかなウェーブを描いた金の髪を煌めかせ、夕陽の中へと消えていった。
レオナルドは腕を組み、アカデミーの門前を落ち着きなくうろついていた。一分が一時間にも感じる。難しい顔で、何度も何度も校舎の方に目を向けた。
「ユールベル!」
レオナルドはようやく彼女の姿を捉えた。ほっとしたように呼びかけ、走り寄った。しかし、彼女はうつむいたまま、彼を無視して走り過ぎた。
「待て!」
レオナルドは焦って振り返ると、彼女の細い肩を掴んで止めた。
「何があった?」
「何も……」
ユールベルは顔を背けたまま、感情を押し殺して言った。だが、その声にはわずかに涙が混じっていた。レオナルドは彼女の正面にまわりこみ、両肩を掴んで覗き込んだ。
「何も、って顔じゃないだろう」
「ごめんなさい……。今はひとりにして。お願い」
ユールベルは涙を浮かべ懇願した。レオナルドは目を細めうつむいた。彼女の肩にのせた手に、ぐっと力を込める。
「……わかった」
自らを抑えるようにそう言うと、肩からそっと手を放した。ユールベルはすり抜けるように彼から離れ、走って校門を出ていった。
——ひとりにして良かったのだろうか。
レオナルドは自分の判断に自信が持てなかった。彼女の表情を思い返し、後悔と自己弁護の狭間で揺れた。
ユールベルは全力で走り、息をきらせて自宅へ戻った。ドアノブに手を掛けまわすと、引っかかることなく半回転した。鍵はかかっていないようだ。荒い息を整えるように大きく呼吸をし、ごくりと唾を飲み込む。そして、意を決して扉を開くと、中へ駆け込んだ。
しんと静まり返った部屋には、人の気配はない。だが、ソファの上には、アンソニーが学校へ行くときに使っている鞄が置いてあった。ユールベルの鼓動はますます早く強くなっていった。他の部屋をひとつづつまわっていく。どこにも彼の姿はない。最後に台所を覗く。そこには、シチューの材料と思われる食材が準備してあった。まな板の上には、人参が切りかけのままで放置されていた。
——今夜はシチューの予定だったようだな。
彼女の脳裏に男の低い声がよみがえった。彼はこのことを知っていた。おそらく、ここからアンソニーを連れ去ったのだろう。彼女は両手で顔を覆い、その場に泣き伏した。
ひとしきり泣いたあと、彼女は駆け足でアカデミーに戻った。まもなく日が落ちようかという頃だ。校舎内には、もうまばらにしか人はいない。その中を、彼女は靴音を響かせ走りまわった。あてはない。ここにいるとは限らない。既に帰ったかもしれない。それでも今はこれしか出来ない。
「ホント頭に来るぜ、ラウルのヤツ」
「ジーク、いつも同じこと言っているわよ」
「それで気が晴れるんならいいけどね」
「晴れるわけねーだろ」
ジーク、リック、アンジェリカの三人は、他愛もない話をしながら図書室から出てきた。
「やっと、見つけた……」
ユールベルは肩を大きく上下させ、切れ切れに言葉を落とした。思いつめた顔でジークを見つめる。ジークも彼女の存在に気がついた。様子が普通でないことは、ひと目でわかった。怪訝な視線を彼女に向ける。リックとアンジェリカも、つられて彼女に目を向けた。
ユールベルはまっすぐジークを見つめながら、距離を縮めていった。息づかいまで感じられるほどに近づく。ジークはうろたえ、後ずさろうとした。だが、彼女がそれを許さなかった。踵を上げ、彼の首に手をまわし、体を寄せて抱きついた。
「え? ちょっ……おまえっ、おいっ!」
ジークは激しく狼狽した。ふわりと舞い上がった甘い匂いが鼻をくすぐる。そして、胸元に感じる柔らかなふくらみ、首筋にかかる温かい吐息——。一瞬、頭の中がぐらりと揺れたように感じた。
しかし、彼女が次に口にした言葉が、彼の理性を呼び戻した。
「弟が人質に取られているの。私も見張られている」
ジークにだけ聞こえるように、耳元で小さく言った。彼ははっとした。それだけで、何が起きたのかおおよその見当がついた。
「詳しい話、聞かせてくれ」
彼女の頭に手を添えると、その耳に触れるくらいに口を近づけ、囁くように言った。ユールベルは浅くこくりと頷いた。
「悪い、俺、今日はユールベルと帰る」
ジークは、呆然としているリックに振り返り、さらりと言った。なるべく何でもないふうを装った。だが、アンジェリカには何も言えなかった。目を向けることすらできなかった。
「……何か、あったの?」
アンジェリカが後ろからぽつりと問いかけた。
「別に」
ジークは背を向けたまま、素っ気なく答えた。そして、ユールベルの手を引き、足早に去っていった。
アンジェリカは無言でふたりの後ろ姿を見送った。リックは心配そうに彼女の横顔を窺った。
あたりは紺色に包まれていた。頬にあたる風も、ずいぶんひんやりとしてきた。ジークとユールベルは、急ぎ足で校庭を横切り、教会へとやってきた。扉は閉まっていた。だが、ジークは躊躇することなく両開きの扉を引いた。
ギィ——。
軋み音が静寂を裂いた。扉がゆっくりと開かれていく。
中はだいぶ薄暗かった。暖色の明かりがほのかに祭壇を浮かび上がらせている程度である。しかし、そのことが、昼間よりも教会らしい雰囲気を醸し出していた。
ジークは無遠慮にドタドタと音を立てながら踏み入った。ユールベルの手を引き、祭壇に向かって進んでいく。そして、いちばん前の長椅子に彼女を座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「少し前に、ルーファス=ライアンに連れられてここに来たの」
ユールベルは声をひそめて言った。
「それ、アンジェリカのひいじいさんか?」
ジークも小声で尋ねた。直感的にそう思った。それ以外に思い当たる人物はいなかった。
ユールベルは小さく頷いた。
「ラグランジェ家の先々代当主よ。知っているの?」
「ああ、一度、話をしたことがある」
「そう」
彼女の胸に漠然とした不安が広がった。ジークがここまでラグランジェ家に関わっていたとは思わなかった。
「それで?」
ジークは続きを催促した。ユールベルは頷いて本筋に戻った。
「彼は、弟を預かっていると言ったの。家に帰って確かめたけど、実際に夕食を作りかけでいなくなっていたわ」
そこまで言うと、目を細めうつむき、右手で額を押さえた。
「帰してほしければ、あなたとアンジェリカの仲を裂けって。私を常に見張っているとも……」
ジークはあたりを見渡した。姿は見えないが、確かに人の気配のようなものは感じる。見張られているのは事実かもしれないと思った。
「仲を裂くって、どうすればその役目を果たしたことになるんだ?」
ユールベルは首を横に振った。
「わからないわ。見張りがいるとすれば、その見張りが判断するのかもしれない」
ジークは背もたれに両腕を掛け、天井を仰いだ。
「ヤツらにそう思わせて返してもらうか、それとも乗り込んでいって奪い返すか……」
「乗り込むってどこへ?」
「監禁場所に心当たりはねぇのか?」
ユールベルは固い顔でうつむき、首を横に振った。ジークはため息をつきながら、再び天井を仰いだ。
「弟も魔導は使えるんだろ? 逃げ出して来ないってことは、多分、結界を張られてるんだろうな」
ユールベルの顔からさっと血の気が引いた。膝の上にのせた小さなこぶしをきつく握りしめると、うつむいたまま顔をこわばらせた。細い肩は、何かに耐えるようにわなないている。
ジークはそれを目にして気がついた。彼女は自分の過去を思い出しているのだと。
「悪りィ。嫌なことを思い出させちまったな」
彼は申しわけなさそうに顔を曇らせた。ユールベルは顔を上げ、すがりつくように彼の袖を掴んだ。
「アンソニーをあんな目に遭わせたくない! はや……」
ジークはあたふたとして彼女の口を手でふさいだ。
「声がでかいっ」
ユールベルはしゅんとして黙り込んだ。ジークは安心させるように、今度は落ち着いた口調で言った。
「大丈夫だろ。あいつを傷つけるのが目的じゃねぇんだ。ひどい扱いはされてねぇよ」
「自宅……かもしれない」
「え?」
ジークはぽかんとした。ユールベルは彼を見上げた。
「部屋がひとつあればいいもの。結界を張ってあるとはいえ、誰が近づくかわからない外より、自分の家の方がよほど安全だわ」
「確かにな」
ジークは腕を組み、考え込んだ。
「あいつの家はどこかわかるか?」
「いいえ、アンジェリカやおじさまなら知っていると思うけど……」
ユールベルはうつむき、言葉を詰まらせた。
「訊くわけにはいかねぇよなぁ」
ジークがそのあとを引き取って続けた。ため息をつき、腕を組んだまま視線を上げた。口をきゅっと結び、目を細める。
「ラウル……」
ユールベルはぽつりと言った。そして、驚くジークに振り向き、彼と視線を合わせた。
「ラウルも知っているかもしれないわ」
「ラウルか……」
ジークはあからさまに嫌そうに言った。顔をしかめ、頭を掻く。ユールベルは意気消沈してうなだれた。
「心配すんな。訊きに行くって」
ジークは彼女の肩をぽんと叩くと、立ち上がってジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「行くぞ」
ユールベルは立ち上がり、彼のあとについて行った。
「おまえら……!」
ジークは目を見開いた。そこにいたのはリックとアンジェリカだった。教会の外で待ち構えていたのだ。リックは心配そうに顔を曇らせた。アンジェリカは、後ろで手を組みうつむいた。
「帰れよ」
ジークは視線を落とし、感情のない声で告げた。リックは彼の正面にまわりこんだ。
「何か事情があるんだったら、僕らにも話してよ、ね?」
優しく笑顔を作り、訴えかける。しかし、ジークは苛ついたように舌打ちして、顔をそむけた。
「なんもねぇよ。俺が誰とどう過ごそうと関係ねぇだろ」
突き放すように答えると、ユールベルの手首を掴み、足早に校舎へと向かった。
「ジーク!」
リックは彼を引き止めようとした。だが、アンジェリカはそれを静かに制止した。
「リック、帰りましょう」
そう言って、まっすぐ門へと歩き出した。
リックは、別々に去り行くふたりの背中を、交互に目で追った。そして、悩みながらも、アンジェリカの方に足を向けた。
「ごめんなさい」
ユールベルは消え入りそうな声でそう言うと、申しわけなさそうに目を伏せた。
「いや、俺のせいでおまえを巻き込んじまったんだからな」
ジークは彼女に背を向けたまま、その言葉を噛みしめた。それは、まるで自らに言い聞かせるかのようだった。
ユールベルは沈痛な面持ちで首を横に振った。
「元はといえば、ラグランジェ家の問題なの。巻き込まれたのはあなたの方だわ」
「どっちのせいかなんて議論は意味ねぇよ。解決することだけを考えようぜ」
ジークは淡々と言った。しかし、その言葉が彼女の胸を熱くした。あふれそうになる涙を必死にこらえた。
「弟を取り戻したら、私からアンジェリカにきちんと説明するわ」
それは、彼女なりの精一杯の誠意だった。
「そうしてもらえると、ありがたいな」
ジークは少し疲れたようにため息をつきながら笑ってみせた。
「くそっ、留守かよ!」
ジークは明かりの消えた医務室を睨み、鍵のかかった扉を蹴りつけた。ガシャンと派手な音が虚しく響く。
「待つしかねぇか」
ため息まじりにそう言うと、扉を背に座り込んだ。ユールベルは立ったまま壁にもたれかかった。薄明かりの蛍光灯の下、ふたりは無言でラウルを待った。あたりに人影は見えない。気まずい沈黙だけが、静かに流れていく。
——カッ、カッ。
うとうとしていたジークは、その靴音に反応し、勢いよく顔を上げた。しかし、それはラウルではなく、パンプスを履いた女性だった。彼女は怪訝な顔を見せたが、そのまま何も言わず通り過ぎていった。
ジークは深く息を吐いた。ここで待ち始めてからどのくらい経つだろうか。二時間、いや三時間くらい経っている。その間、ユールベルはずっと立ったままだった。表情に見える疲労の色は、だいぶ濃くなっていた。
ジークは立ち上がった。
「今日はもう帰ろう。あした出直そうぜ」
ユールベルは不安そうに顔を上げた。捨てられた子猫のような目で、彼を見つめる。
「弟なら大丈夫だろ。あいつらだって悪党ってわけじゃねぇんだし」
ジークは彼女を納得させるためにそう言った。彼自身もそう思おうとしていた。だが、心の片隅には、拭い去れない不安がわだかまっていた。そして、それはユールベルも同じだった。
「だと、いいんだけど……」
「大丈夫だ」
ジークはもう一度、今度は力強く言った。彼女は固い表情で、ぎこちなく頷いた。
ふたりは並んで歩き、アカデミーの門を出た。空はもう完全に闇に覆われている。街灯の小さな明かりだけが、歩き進める頼りだった。
「じゃあな」
ふたりの帰路の分かれ道で、ジークは右手を上げた。そして、自分の帰路へと足を進めようとした。
「待って!」
ユールベルは思いつめた声を上げ、後ろからジークに抱きついた。細い腕にぐっと力を込め、彼の背中に顔をうずめる。そして、桜色の小さな口を開いた。
「ひとりになりたくない……怖いの」
かぼそい声が背中から伝わってきた。ジークは困惑して顔を歪ませた。
「そう言われてもな……」
「いてくれるだけでいいの」
ユールベルは哀願を続けた。森の湖を思わせる蒼い瞳は、緩やかに揺らめいていた。
結局、ジークはユールベルに押し切られた。自分の家に帰ることをやめ、彼女と食事をとり、それから彼女の家へと向かった。ふたりとも口には出さなかったが、もしかしたらアンソニーは戻っているかもしれない——そんな淡い期待が胸をよぎった。
しかし、それは単なる期待で終わった。部屋は真っ暗で、人の気配などまるでない。ソファに投げ置かれた鞄に、作りかけのシチュー。それらは、ユールベルが出ていったときと何ら変わらない状態でそこにあった。
彼女は落胆した表情で、台所を見つめた。
ジークはソファにごろんと横になった。
「あしたは決戦になるかもしれねぇ。しっかり寝とけよ」
「アンソニーのベッドがあるから使って」
ユールベルは奥を指さした。ジークは起き上がり、彼女の指先を目で追った。そこには寝室があった。扉は大きく開け放たれている。そのため、明かりは消えていたが、容易に中を窺うことが出来た。寝室としては十分すぎるほどの広さがあるが、飾り気はまるでない。目につくのは両脇にあるベッドくらいだ。彼女は右側を指し示しているので、そちらがアンソニーのものなのだろう。サイズは大人のものと変わらないようだった。
ジークは遠慮することなく、その上に体を投げ出した。仰向けに寝転がり、両手を上げ大きく伸びをする。ユールベルはうっすらと穏やかな笑顔を見せた。
「俺はもう寝るぜ。おまえも早く寝ろよ」
ジークはぶっきらぼうにそう言うと、布団にもぐり込んだ。彼女に背を向け、目を閉じる。
「おやすみなさい」
ユールベルは白いシーツを見下ろしながら、ぽつりと言葉を落とした。
——眠れない。
あれから何時間が過ぎただろうか。ユールベルも自分のベッドに入っていたが、一向に寝つけなかった。何度も無意味に寝返りを打つだけだった。
眠れない理由のひとつは、左目を覆っている包帯だった。いつもは、就寝時には外しているのだが、今日はジークがいるために外せないでいた。醜い傷跡を見られたくなかったのだ。
そして、もうひとつの理由は、ジークそのものだった。彼はアンソニーのベッドでぐっすり眠っているようだった。静かに寝息を立てている。
ユールベルはベッドから下りた。何とかあたりが見渡せるくらいの薄明かりの中、彼女は足音を立てないようジークに近づいていった。ベッド脇で立ち止まり、無防備な寝顔を見下ろす。じっと見つめているうちに、ふいに右目から涙がこぼれ落ちた。あわてて両手で口を押さえ嗚咽を飲み込むと、素早くそっと寝室を出ていった。リビングルームのソファに座り、膝を抱え顔をうずめた。そして、音を立てないよう静かに忍び泣いた。
「そろそろ起きろよ」
遠くに聞こえたその声に、ユールベルは目を覚ました。あたりはさわやかな明るさに包まれている。ぼんやりとした頭で起き上がり、自分のまわりを見まわした。そこはリビングルームのソファの上だった。泣きながらそのまま眠ってしまったらしい。体の上には毛布が掛けられていた。
「おまえ何でこんなとこで寝てんだ? もしかして俺、いびきとか寝言とかうるさかったか?」
ジークは、トーストとコーヒーを手に台所から戻ってくると、ソファに座りながら尋ねかけた。不安げに彼女を覗き込む。彼女は目を伏せ、無言で首を横に振った。
「あ、勝手に風呂とかタオルとか借りたぞ」
その言葉どおり、彼の髪は濡れていたし、首からはタオルが掛かっていた。それだけではなく、彼が手にしていたトーストもコーヒーも、勝手に台所から調達したものだった。
ユールベルは両手で顔を覆い、すすり泣き始めた。肩を大きく揺らしている。
「え? あ、まずかったか? 悪かった。えっと、どうすればいいんだ?」
ジークはトーストを片手におろおろした。ソファから腰を浮かせ、困り顔で彼女を覗き込む。彼女は小刻みに首を左右に振った。
「そうじゃない。私、自分のことがとことん嫌になったの!」
ジークは真面目な表情になった。ゆっくりとソファに腰を下ろす。彼女は小さくしゃくり上げながら話を続けた。
「あなたの良心や優しさにつけ込んで、引き止めてしまった。あなたと一緒にいたかったから……。アンソニーがさらわれたのに、私はこんなことばかり考えて……」
そこまで言うと、うっと言葉を詰まらせた。大粒の涙が、右目から手の甲にこぼれ落ちた。膝の上の毛布をぎゅっと掴み、こぶしを小さく震わせる。
「私、自分がどれほどひどい人間か思い知ったわ」
きつく目を閉じ、涙声で吐き捨てるように言った。そして、背中を丸め、さらに深く顔をうつむけた。こんなひどい表情を見られたくなかった。何より彼の反応が怖かった。
「……そんなもんじゃねぇのか」
ジークはソファの背もたれに深く身を沈め、大きく息を吐いた。
「そんなこと、思ったとしても、普通わざわざ言わねぇよ」
ユールベルはうつむいたまま、眉根を寄せた。
「俺は気にしてねぇから、おまえも気にするな。それより早く準備しろよ。授業が始まる前にラウルのところに行くからな」
ジークは淡々とそう言うと、手にしていたトーストにかじりつき、口いっぱいに頬張った。ユールベルは小さくすすり泣きながら、こくりと頷いた。
「おい、ラウル!」
ジークは医務室の扉を乱暴に叩いた。鍵は締まっている。また留守なのだろうか、それともまだ帰っていないのだろうか。そう思ったが、しつこく叩き続けた。
——ガチャ。
鍵を開く音がした。間髪入れず、引き戸が開かれた。
戸口にはラウルが立っていた。左手にはまだ包帯が巻かれている。彼は思いきり不機嫌な顔で、上からジークを睨み下ろした。ジークはぎょっとして後ずさった。
「朝早くから何の用だ」
ラウルはいつもと変わらない冷淡さで尋ねた。ジークは突っかかるように答えた。
「あのジジイの住所を教えろ」
「誰のことだ」
「あいつだ、えーと……」
「ルーファス=ライアン=ラグランジェ」
後ろに立っていたユールベルが助け舟を出した。ラウルはその名を聞いて、わずかに眉をひそめた。
「聞いてどうする」
「おまえには関係ねぇ」
ジークは苛立たしげに声を荒げた。
「なら、関係あるやつに訊け」
ラウルはすげなく言うと、扉を引いた。ジークはあわてて体を挟み込んだ。扉が彼の腕に直撃し、ガシャンと音を立てて止まった。
「どうしても聞かなきゃなんねぇんだ!」
扉に打ちつけられた痛みに顔をしかめながら、必死に訴えかけた。
「お願い、ラウル」
ユールベルも後ろからすがるように懇願した。ラウルはじっと彼女を見つめた。
「そこで待っていろ」
静かにそう言うと、ジークを押し出して扉を閉めた。彼は、今度はおとなしく従った。扉の前で立ち尽くして待った。
一分ほどすると、再び扉が開いた。戸口に現れたラウルは、二つ折りにされた小さな紙切れを手にしていた。
「それが住所か?!」
「よく考えてから行動しろ」
「わかってる」
ラウルが差し出したその紙切れを、ジークは引ったくるように受け取った。
「今日は遅刻するからな」
仏頂面でそう言うと、踵を返し、早足で歩き始めた。
ユールベルは何か言いたげに、じっとラウルを見つめた。しかし、結局は何も言わず、小走りでジークのあとを追いかけた。
アカデミーの門を出たところで、ふたりはアンジェリカとばったり出くわした。彼女はこれからアカデミーへ行くところだった。ふたりを見て、一瞬、目を丸くしたが、すぐに無表情に戻り、無言ですれ違った。
ジークは唇を噛みしめた。そして、彼女の遠ざかる足音を振り切るかのように走った。
ふたりは住所をたどり、ルーファスの家の前へとやってきた。それなりに立派な家ではあるが、ラグランジェ本家よりはだいぶ小さい。もっとも、非常識に大きい本家と比べること自体が間違っているともいえる。
ジークはユールベルの様子がおかしいことに気がついた。うろたえながらあたりを見まわしている。
「どうした?」
「あれ、私の住んでいたところ……」
彼女は斜め裏の家を指さした。ジークは驚いて目を見張った。
「すぐ近所じゃねぇか」
「……ええ」
彼女はそれだけ答えるのが精一杯だった。ジークと同様に、いや、それ以上に驚いていた。彼女はアカデミー入学前、何年もの間、自宅の二階に幽閉されていた。知らなくても、もしくは忘れていても無理はない。
彼女は自分が住んでいた家の二階を、目を細めて見つめた。改築のため、窓の形が変わっている。厚い遮光カーテンも引いていない。もうあの頃の面影はなかった。しかし、それでも忘れられるものではない。ふいに過去の出来事が鮮明に蘇ってきた。光のあたらない部屋、湿った不快な匂い、結界の外から冷めた目を向ける父親——。思わず吐き気をもよおし、下を向いて両手で口を押さえた。
「大丈夫か? しばらく休むか?」
ジークは心配そうに顔を曇らせた。ユールベルは眉を寄せた。冷や汗が、ひたいから頬に伝い、床に落ちた。
「……いいえ、平気よ」
アンソニーを早く助けなければ。あの子にこんな思いはさせたくない。だから、姉である自分がしっかりしないと——。彼女は胸を押さえ、大きく息を吸い、顔を上げた。気持ちを立て直し、表情を引き締めた。
ジークも表情を引き締め頷いた。そして、ルーファスの家を見渡した。
「でも、ホントにここにいるのかわかんねぇな。あやしい結界が張られてるようには感じねぇし……」
「いくらでも偽装はできるわ。優秀な魔導士や結界師なら」
ユールベルは自分の父親のことを思い浮かべていた。彼女の父親も、監禁していた結界を偽装して、外部からわからないようにしていた。
「行ってみるしかねぇか」
ジークは緊張しながら呼び鈴を鳴らした。すぐに扉が開いた。彼はさっと身構えた。だが、扉を開けたのはルーファスではなく、メイドらしき女性だった。ジークよりやや年上くらいだろうか。地味な黒いドレスに、白のエプロンをつけている。彼女は、ふたりを値踏みするような目でじろりと見た。
「えーと、ルーファス=ライアン=ラグランジェに用があって来た」
ジークは彼女の視線にたじろぎながら、とりあえず用件を伝えた。
「お約束でしょうか」
メイドは感情なく尋ねた。
「約束は、ねぇけど……」
「では、お引き取りを」
彼女は扉を閉めようとした。
「ちょっと待て!」
ジークは閉まりかけた扉を力づくでこじ開け、中に押し入った。
「な……何を?!」
弾き飛ばされたメイドは、よろけながら甲高い声を上げた。しかし、素早く体勢を立て直すと、小さな声で呪文を唱え始めた。
「マジかよ!」
ジークはユールベルの手を引き、後ろにかくまうと、前面に結界を張った。ユールベルも、後ろからふたりの周囲に結界を張った。
メイドは胸の前で両手を向かい合わせた。その間に強い光が生まれ、あたりを青白く照らした。黒髪がさらさらと波打ち舞い上がる。呪文の詠唱が止まると同時に、彼女はその光をジークたちに放った。
——ドン!!
正面から結界にぶつかり、光は消滅した。その下の大理石の床は、白く凍りついていた。
彼女は大きく肩で息をしながら、再び呪文を唱えようとした。
「下がっていろ、フラウ」
低い威厳のある声が、玄関ホールに響いた。その声の主が、カツン、カツンと靴音を響かせながら、ゆったりと歩いてくる。それは、アンジェリカの曾祖父・ルーファスだった。
「はい」
メイドは一礼すると、すっと奥へ消えていった。
ルーファスは後ろで手を組み、鋭い目でふたりを見た。ユールベルはびくりと体をこわばらせ、ジークの袖をぎゅっと掴んだ。
「何をしに来たのだ、ユールベル。まさか、もう役目を果たしたなどと言うつもりではないだろうな」
「ああそうだ。だから早く返せよ、弟」
ユールベルが答える前に、ジークが勝手に答えた。彼女はとまどいがちに彼を見た。彼は刺すような視線をルーファスに向けている。今にも飛びかからんばかりだ。
だが、ルーファスはまるで動じなかった。
「ならば、証しを立ててもらおうか」
「証し?」
ジークは怪訝に眉をひそめた。ルーファスは真顔で答えた。
「そうだな、アンジェリカを呼び、あの子の目の前で、おまえたちが口づけをするというのはどうだ」
「てめぇ、バカか! ふざけてんじゃねぇぞ!!」
ジークは顔を真っ赤にして、彼の胸ぐらを掴んだ。
「愚かだな」
ルーファスはそれでも余裕綽々だった。
「アンソニーは私の手中にあるのだ。合図を送るだけで、私の思うように出来るのだぞ」
ジークは歯噛みした。彼の胸ぐらを掴んだまま、その手を震わせる。
「聞こえた……!」
ユールベルは、突然はっとして右目を開いた。ジークは驚いて振り返った。
「どうした?」
「アンソニーの声が聞こえたの!」
そう答えたときには、彼女はすでに走り出していた。屋敷内へと駆け込んでいく。ジークも急いで彼女のあとを追った。
——バン!
彼女は勢いよく扉を開けた。
「アンソニー!」
彼はいた。そこは台所だった。年輩の女性と向かい合って座り、ボールの中の卵を、泡立て器で撹拌していた。
「ねえさん、どうしたの? そんなに息をきらせて」
アンソニーは目をぱちくりさせて、戸口の姉を見た。彼女は呆然と彼を見た。
「あなた、ここで何を……」
「ケーキを作ってるんだよ。出来たらねえさんも食べて!」
アンソニーは無邪気に笑った。
「そうじゃなくて、どうしてここにいるの?!」
ユールベルは強い口調で問いつめた。アンソニーは、不思議そうな目を彼女に向けながら説明をした。
「ねえさんがまた帰って来られなくなったって、ルーファスさんが僕を迎えに来たんだ」
ユールベルははっとした。つい先日、ラウルのところに泊まったとき、サイファが彼を迎えに行き、一晩、預かってくれた。それと同じパターンだ。おそらくルーファスは知っていて利用したのだろう。もし、先日のことがなければ、そう簡単についていかなかったのではないか。自分がもっと彼のことを考えていれば……。ユールベルは泣き崩れた。膝をつき、両手で顔を覆って嗚咽する。
「ねえさん、どうしたの?」
アンソニーは彼女のもとに行き、心配そうに覗き込んだ。
「てめぇ、嘘ついてコイツを連れてきたってわけか」
ジークは、あとから入ってきたルーファスを睨みつけた。
「私は平和主義者なんでね」
彼はしれっと言った。
「どこまでふざけた野郎なんだ!」
「今回はほんの挨拶代わりだ。君が折れない限り、今後はこんな生易しいことではすまんぞ。手駒はどこからでも調達できるからな」
「手駒だと?」
ジークは眉をひそめた。
「人の弱みにつけ込んで脅すなんて、やること汚ねぇんだよ! いいかげんにしやがれ!」
再びルーファスの胸ぐらを掴み、締め上げる。
「きれいごとだけで守れるものなら、喜んでそうするがな。恨むなら、ラグランジェに関わった自分自身を恨め」
そう言うと、ルーファスは意味ありげな笑みを浮かべた。
「次は君の親友のリックか、それとも母親のレイラか……」
ジークはカッとなった。凄まじい形相で、我を忘れて殴りかかる。
「ジーク、駄目っ!!」
ユールベルは声の限りに叫んだ。ジークはルーファスの顔を外し、後ろの壁にこぶしを打ち込んだ。壁に大きく穴があき、破片がばらばらと落ちていく。それにより舞い上がる粉塵で、足元は何も見えないほどに白く煙っていた。
「フラウ、保安に通報しろ」
「はい、かしこまりました」
後ろに控えていたメイドは、ルーファスに一礼すると、部屋から出ていった。
ジークの顔から血の気が失せた。ユールベルは息を呑んで、彼を見上げた。