サイファは呼び鈴を鳴らした。
中で濁った鐘の音が響いた。
すぐに、古めかしい重厚な扉が、ギィと音を立てて開いた。中から姿を現したのは、小柄な若い女性だった。肩よりやや長いくらいの黒髪、わずかに茶色がかった黒い瞳。そして、地味な黒いワンピースと白いエプロンを身につけている。どうやらメイドのようだ。
「サイファ様、ですね」
彼が名乗るより早く、彼女は抑揚のない声で尋ねた。
「ああ」
サイファは短く返事をした。ズボンのポケットの中に左手を入れる。
「どうぞ、こちらへ」
メイドは彼を中へ招き入れ、先導した。広い廊下から細い廊下へと進んでいき、突き当たりの扉の前で足を止めた。
コンコン。
軽く二度、扉を叩く。
「サイファ様をお連れしました」
「入れ」
中から低い声が聞こえた。重く、威圧的な響きである。
メイドは静かに扉を開けた。
その部屋は書斎だった。広くはないが、小奇麗に片付けられている。微かに、古い本の黴びたような匂いがした。奥にはがっちりとした体格の男が座っていた。アンティークな机に肘をつき、戸口のふたりにじっと視線を送っている。
「フラウ、おまえは下がれ。茶もいらん。しばらく近づくな」
「かしこまりました、ルーファス様」
メイドは一礼すると、すっと下がり、静かに扉を閉めた。軽い足音が遠ざかり、消えていく。
「すまないな、当主であるおまえを呼びつけてしまって」
ルーファスは素っ気なく言った。すまないなどと思っていないことは明白だった。
「いえ、長老の命令には逆らえませんから」
サイファはにっこりと大きく微笑んだ。
ルーファスはわずかに眉をひそめた。
「まったく、おまえという奴は……。わかっていても口には出さぬ慣わしだ」
「あなたこそ、しらを切らなくても良いのですか」
サイファは笑顔を保ったまま切り返した。
長老会はラグランジェ家の重要事項に関する決定権を有している。その存在は当主以外には隠され、個々のメンバーについては当主にさえ知らされない。そのため、メンバーの察しがついても、それについては語らないのが暗黙のルールとなっているのだ。
ルーファスは顔の前で両手を組み、ため息をついた。
「まあ、今は異常時だ。互いの立場をはっきりさせた方が、都合が良いだろう」
「今日の話のためにも、ですね」
サイファがここへやってきたのは、話があるとルーファスに呼ばれたからだった。彼の話がどのようなものかは見当がついた。おそらく、アンジェリカのことだろう。正式にラグランジェ家の後継者とするための準備を進めるつもりに違いない。だが、サイファには、彼らの思いどおりにさせるつもりはなかった。
「あなたの話の前に、私の提案を聞いていただけませんか」
険しいくらいに真面目な顔になり、丁寧な口調で頼んだ。
ルーファスは鋭い目つきで彼を見上げた。
「良かろう」
重々しい声で許可を出す。
サイファは顎をわずかに上げると、口元に微かな笑みをのせた。
「ラグランジェ家を解体しましょう」
ルーファスの眉がわずかにぴくりと動いた。
「冗談にしては面白みに欠けるな」
ほとんど表情を変えず、抑えぎみに低音を響かせる。
サイファはにっこりと微笑んだ。
「純血に拘泥することをやめ、本家筋のみを残して解体すれば、すべての問題が解決する、そう思いませんか」
そこまで言うと、脇に抱えていた青いファイルを机の上に置いた。ノート数冊分ほどの厚みがある。表紙には何も書かれていない。
ルーファスはそれを一瞥すると、ギロリとサイファを睨んだ。
「これは何だ」
「ラグランジェ継承に関する提案書です。現状の分析、新しい細則の草案、それを採用した場合の影響予測などをまとめてあります」
「細則の草案だと?」
声が大きく、きつくなった。それでも、サイファは動じることなく、凛として説明を続けた。
「かいつまんでお話ししますと、基本的には第一子が継承すること、子がなければラグランジェの血を引く近親者を養子に迎え、継承させること、継承者の配偶者はラグランジェ家の者以外でも可とする。ただし、魔導の力を相当に有する者とする——といったところですね」
ルーファスは身じろぎもせず聞いていた。青い瞳で、睨むようにサイファを見つめる。
「ラグランジェとランカスターの最大の違いは何だ」
「魔導力の有無ですか」
サイファは面倒くさそうに答えた。ルーファスは自分たちのラグランジェ家と王家であるランカスター家を、何かにつけ比較していた。そして、結論はいつも自分たちの優秀性を示すものだった。サイファにはそれが有意義なこととは思えなかったし、聞き飽きてうんざりもしていた。
「そうだ」
ルーファスは低く声を落とした。
「ランカスターはその名を守れば良い。ランカスターの名こそが王家の証だからだ。だが、ラグランジェは魔導の力を守らねばならん。ラグランジェの名に力を与えているのは、我々の魔導力だからだ。そして、ラグランジェが二千年もの間、魔導力を失わなかったのは、純血を守ってきたからだ」
その声は次第に力を帯び、演説めいた口調になっていった。
サイファは腕を組んで横を向き、ため息まじりに言った。
「だが、それが過ちの始まりでしょう」
「過ちなど何ひとつない」
ルーファスは間髪を入れずに抗弁した。高圧的に声を張り、サイファを睨み上げる。
「強がりにしか聞こえませんね」
サイファは肩をすくめた。
「アンジェリカを利用しても、一時凌ぎにしかならない。数世代後には、また同様の問題が起こるはずです」
「その頃には医学が発達しているだろう」
ルーファスは事も無げに言った。
サイファは薄笑いを浮かべた。
「遺伝子に手を入れるつもりですか。実に、あなたらしい考えだ」
横髪を振り乱し、勢いよくルーファスに向き直る。
「だったら、アンジェリカを利用しなくても、それまで待てばいいでしょう」
「それでは間に合わん可能性もある」
ルーファスはおもむろに立ち上がると、サイファに背を向けた。レースのカーテンを半分ほど開き、ガラス越しに空を見上げる。もう随分と陽が落ち、光は急速に力を失いかけていた。
「アンジェリカ、か……上手い名をつけたものだな」
空を見上げたまま、独り言のようにつぶやいた。
「我々を破滅から救い、さらなる飛躍をもたらす新たなる血——まさに天からの使いだ」
後ろで手を組み、ゆっくりと振り返ると、ニッと片側の口端を吊り上げた。
サイファはにっこりと微笑んで応酬した。
「ラグランジェにとってではなく、私にとっての天使ですよ」
「ある日、不意に舞い降りた、というわけか」
ルーファスは含み笑いを見せる。
サイファはうつむいて下唇を噛んだ。ルーファスの云わんとしていることはわかっていた。
「参考までにお聞かせください。いつ、気づかれたのですか」
「あの子が生まれたときだ。証拠はなかったが、最も有りうる推測から導いた結論だ」
サイファはふっと息を漏らした。
「私の父も、レイチェルの父も、長老会のメンバーですからね。推測に必要な情報を集めるのはわけもなかった、というわけだ」
ルーファスはカーテンを引き、サイファに向き直った。
「アルフォンスはおまえを殴ってしまったことを、随分と気に病んでいた」
サイファはにっこりと笑顔を作った。
「あの状況では手を上げるのも無理からぬことです」
「そうだ、嘘をついたおまえが悪い」
ルーファスは強い語調で責めた。
「しかし、嘘をつかなければ、アンジェリカは生まれていなかったかもしれない」
サイファは冷静に切り返した。
ルーファスは冷たく凍りつくような青の瞳で、刺すように彼を睨みつけた。
「……結果的に、おまえには感謝しなければならないようだ」
抑えた声でそう言うと、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。目を閉じ、背もたれに身を沈める。革がギュッと音を立てた。
「生まれたばかりのアンジェリカを手に掛けようとしたのは、あなた方、長老会ですね」
サイファは静かに尋ねかけた。
ルーファスは目蓋を上げた。天井を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「あれは私の独断だ。合意を取りつけていては手遅れになると思ったのだ。そのことは、他のメンバーに相当、非難されたよ」
「なるほど、だからそれ以降、動きがなかったわけですか」
サイファは得心した。腕を組み、軽く息をつく。
ルーファスは顔を上げたまま、目を細めた。
「我々の間でも意見が割れていてな。膠着状態が続いていた」
「そこへ、例の論文が出てきた」
サイファがあとを続けた。
「そうだ、あれで我々の採るべき道は決まった。アンジェリカを後継者にすると」
ルーファスの声に力がこもった。
サイファは冷淡にルーファスを見下ろした。
「少々、勝手すぎやしませんか。殺そうとしたり、蔑んだり、散々なことをしておきながら、必要となれば強引に後継者に据えるなど」
「勝手なのはおまえの方だ」
ルーファスは低く唸り、ギロリと睨めつける。
「子供が家を継ぐのは至極当然のことだ。おまえも、おまえの父も、そして私も、皆、そうやってきた。アンジェリカだけが好き勝手していい道理などない。ましてやラグランジェを解体するなど、愚劣極まる行為だ」
サイファはふっと笑い、肩をすくめた。
「良い案だと思いますけどね。次第に出生数が減ってきていますし、その面においても無理が生じてきています。このままではいずれ血筋は途絶えますよ。その提案書に詳しくまとめてありますので、あとでゆっくりとご覧ください」
にっこりとして、机の上の青いファイルを示した。
ルーファスはフンと鼻を鳴らした。
「期待はせぬことだ。我々はラグランジェの名を形骸化させるつもりはない。このままでは途絶えるというのなら、新たな方策を探すまでだ。純血を保ったままでのな」
「言っていることが矛盾しています」
「アンジェリカのことは薬だと割り切る。我々よりも強い魔導力を持つ、優秀な血だからな」
「自分勝手で都合のいい解釈ですね」
サイファは冷めた視線を送った。
「互いにな」
ルーファスは気難しい顔で立ち上がった。戸口の方へ歩いていき、扉の横のスイッチを押す。パチンという音とともに、薄暗くなった部屋に、人工的な白い明かりが満ちた。
「私は、何もおまえたちを苦しめたいわけではない。できれば、幸せになってほしいと思っている」
「それは、ありがたいですね」
サイファは笑顔で応じた。本心を隠すために表情を操作することには馴れているし、それが得意だという自負もあった。だが、乾いた口から発せられたその声は、少し掠れていた。
ルーファスはゆっくりと戻り、再び席についた。そして、机の上で両手を組むと、ふっと意味ありげな笑みを浮かべた。
「私の提案は、おまえにとっても悪い話ではないはずだ」
「まずは、聞きましょうか」
サイファは悠然とした口調で、余裕の態度を装った。
ルーファスは真剣な面持ちで、まっすぐサイファを見据えた。
「アンジェリカの配偶者については、おまえに決定権を与える。ラグランジェの男子なら誰でも良い。自由に選べ」
「それで譲歩したつもりですか」
サイファは鼻先で笑った。
しかし、ルーファスは無視して話を続けた。
「ただし、その配偶者は表向きのものだ。別にもうひとり、事実上の夫を据える。こちらは既に決定していてな」
サイファは怪訝に表情を曇らせた。話がきな臭くなってきたと思った。そもそも、なぜこのような繁雑なことをする必要があるのかが見えなかった。
ルーファスは険しい目つきで彼を捉えた。
「おまえだ、サイファ」
低い声が静かに響いた。
サイファは目を見開いた。その言葉がずっしりと腹の底に落ち込む。頭の中がぐらりと揺れた。額に汗が滲んだ。
「……な……にを……」
やっとのことで、それだけの言葉を絞り出す。鼓動が次第に激しくなっていく。全身が脈打っているのがわかる。暴れる心臓が痛く、苦しい。
ルーファスは淡々と説明を始めた。
「本家筋を途絶えさせるわけにはいかんのでな。それに、今、ラグランジェで最も優秀なのはおまえだ。優れた血統を残すという意味でも、おまえ以外の選択は有り得ない」
「馬鹿な、娘だぞ!」
サイファは身を乗り出し、両手でバンと机を叩きつけた。ギリ、と奥歯を食いしばり、ルーファスを激しく睨みつける。額から頬に、汗が伝った。
「何の問題もないと思うが」
「問題だらけだ!」
反射的に噛みつく。
ルーファスはゆったりとした動作で、机に肘を立てた。
「もちろん、生まれた子は、表向きの配偶者の子ということにしておく。世間的に非難されることもない」
「そういうことを言っているのではない」
怒りを押し込めた低い声は、微かに震えていた。
そんなサイファを見て、ルーファスはふっと笑みを漏らした。
「おまえの愛する娘を、誰の手にも渡さずに済むのだぞ?」
語尾を上げ、挑発するように問いかける。
「私はあの子の父親だ!」
サイファはカッと頭に血がのぼり、大きな声を張り上げた。机についた手はわななき、その指先は白くなっていた。
ルーファスは追い打ちを掛ける。
「苦しい強がりだな。素直になれ」
「話にならない」
サイファは舌打ちをした。くるりと背を向け、大股で歩き出す。そして、乱暴に扉を開けると、そのまま部屋を出ていった。
ルーファスは何も声を掛けなかった。
外は薄暗くなっていた。太陽の姿はもう見えない。すでに、空の大半を濃紺が支配している。
振り切るように屋敷を飛び出したサイファは、冷たい空気を吸い込み、少し落ち着きを取り戻した。それでも、今はただ、この場を離れたいという思いでいっぱいだった。うつむき加減で足早に歩く。金色の髪が、緩やかな風になびき、さらりと揺れた。
「サイファ」
前方から太い声がした。
サイファははっとして顔を上げた。そこにいたのはアルフォンスだった。レイチェルの父親である。大きなごつい体に似合わない、上品で可愛らしいクリーム色の紙袋を携えている。
「もう帰るのか。一緒に食べようと思ったんだが」
そう言って、その紙袋を掲げた。前面に有名なケーキ店のロゴマークが入っていた。
サイファは何ともいえない複雑な表情を浮かべた。表情を上手く操作することができなかった。そもそも、どういう表情を作ればいいのかさえわからなくなっていた。
「話は、聞いたんだな」
アルフォンスは真剣な顔になり、重い声を落とした。
「レイチェルに話しづらいのなら、私の方から……」
「お気遣いは無用です」
サイファはアルフォンスを遮り、突き放すように冷たく言った。
アルフォンスの顔に陰が落ちた。
「すまない。ずっと君に謝りたい、謝らねばならないと思っていた。それに、言葉では言い尽くせないほど感謝している。君が……」
「そんな必要はありません」
サイファは毅然としてアルフォンスを見据えた。
「ですが、私たちのことを少しでも思ってくれているのなら、祖父を……ルーファスを説得してください」
静かにそう言うと、返事を待たず足を進めた。アルフォンスのすぐ横をすれ違う。後ろから呼び止める声が聞こえたが、振り返らなかった。逃げるように、いっそう足を速めた。
ルーファスの屋敷が見えなくなった頃、サイファはカチャリという小さな音を聞いた。ズボンのポケットの中からだった。はっとして足を止めた。左手をそっとポケットに忍ばせると、奥歯を噛みしめ、深くうなだれた。
「遅かったな。サイファはもう帰ったぞ」
書斎に入ってきたアルフォンスを一瞥すると、ルーファスは無愛想に言った。
「家の前で会いました」
アルフォンスは隅に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、どかりと腰を下ろした。ミシミシと嫌な音が部屋に響く。
「随分と怒っていたようです。彼が受け入れる望みは薄いのではないですか」
ルーファスの表情を横目で窺う。彼は、微かに笑みを浮かべていた。
「いや、良い反応だ。サイファがこれほどまでに狼狽した姿を見せたのは初めてだろう。それだけ揺さぶられたということだ」
アルフォンスはため息をついた。
「私は複雑な気持ちです。これではレイチェルが……」
「あの女に拒否する権利はない。当然の報いだ」
ルーファスは冷然と言い放った。
アルフォンスは押し黙ってうつむいた。何も言い返すことができなかった。
コンコン。
扉が軽くノックされた。
「入れ」
ルーファスは顔を上げて言った。
ガチャリと扉が開き、メイドが姿を現した。彼女が手にしている銀製のトレイには、二人分のケーキと紅茶が載せられている。ケーキはアルフォンスが持参したものだ。
彼女は一礼して書斎に入ると、それをルーファスの机の上に置いた。芳醇な甘い匂いがほのかに漂う。彼女は再び一礼すると、すっと下がって部屋を出た。
アルフォンスはフォークを手に取り、さっそくケーキを食べ始めた。ルーファスはそんな彼に、呆れたような冷めた目を向けた。
「いい年をしてケーキなど、情けない」
「ここのチーズケーキは絶品ですよ」
アルフォンスは真顔で言った。
ルーファスはケーキには手をつけずに、紅茶だけを口に運んだ。
「それは?」
アルフォンスはフォークを持っていない方の手で、机の上の青いファイルを指さした。
「サイファが置いていったものだ。提案書とか言っていたな。下らん。私が受け入れるとでも思ったか」
ルーファスはティーカップを置き、吐き捨てるように言った。
アルフォンスはフォークを置き、そのファイルを手に取った。パラパラめくり、ざっと目を走らせながら、要所要所で手を止めじっくりと読む。
「数値については、多少、誇張された感はあるが、良く出来ている」
最後まで目を通すと、ファイルを閉じ、そっと机の上に置いた。
「ラグランジェ解体か……思い切ったことを考えたものだ。いや、彼は昔から家や血筋に対するこだわりはなかったな」
「愚かな男だ」
ルーファスは鼻を鳴らした。
アルフォンスは目を伏せ、難しい顔をした。
「私は……これでも良いのではないかと思う。少なくとも血筋は途絶えない。これ以上、無理を重ねても、我々に未来があるとは思えない。過去の過ちを素直に認め、変わらねばならないのかもしれません」
「馬鹿を言うな」
ルーファスは迫力ある低音で叱りつけた。
「ラグランジェは最善の方法で優秀な血を守ってきた。その証が我々の存在だ」
「サイファによれば、魔導力は減少するが 70パーセント程度で収束するという予測だ。悪くないと思うが」
アルフォンスは遠慮がちに意見した。
ルーファスは鋭くギロリと睨みつけた。
「机上の空論だ。人選に誤りがなかった場合の話だろう。不確定要素も多すぎる。どちらにしろ、ラグランジェの血が薄くなるのは止められまい。すべて外部の者と婚姻した場合、七代後にはラグランジェの血は 1%以下になる。それをラグランジェと言えるのか」
「魔導力を保つことと、純血を守ること、どちらが重要ですか」
「どちらも譲れん」
アルフォンスはふうと息をついた。
「やはり、あなたを説得するのは無理のようだ」
「愚か者、今ごろわかったのか。何十年の付き合いだ」
ルーファスは無表情で紅茶を口に運んだ。
「そろそろあなたの切れ味も鈍くなっている頃ではないかと思ったんですよ」
アルフォンスはしれっとそう言うと、ルーファスの前に置かれたもうひとつのケーキに手を伸ばした。
ルーファスは片肘を立て、手の甲に顎を載せた。
「この問題が片づくまでは、老け込むわけにはいかん」
「楽しそうですね」
アルフォンスは口をもぐもぐさせながら、上目遣いでルーファスの表情を窺った。彼は嬉しそうに目を細めていた。
「ああ、サイファがどう出るか、実に楽しみだ」
その言葉は本心なのだろうと、アルフォンスは直感した。ラグランジェ家の一大事だというのに、それを楽しむなど不謹慎だと思ったが、口には出さなかった。彼はルーファスとは違い、ただ平和的に解決することを願っていた。