サイファは王宮の廊下を、早足で歩いていた。人々が行き交う雑踏の中で、自分の靴音だけが際立って聞こえる。まるで、自分ひとりが隔離された空間にいるかのように感じていた。
彼は足を止めた。ラウルの医務室の前だった。難しい顔で扉を見つめ、きゅっと口を結んだ。
コンコン——。
軽く二度、ノックをした。返事を待たずに扉を引き開ける。素早く中に入り、扉を閉めると、背中から倒れ込むようにもたれかかった。がしゃんと派手な音が部屋に響いた。
「何だ」
机に向かっていたラウルは、顔を上げ、短く詰問した。だが、サイファの返事はなかった。うなだれたまま顔すら見せない。前髪と横髪が陰を作っている。
サイファは後ろ手で扉を探ると、がちゃりと鍵をかけた。
「どういうつもりだ」
ラウルは机に手をつき、立ち上がった。大股で彼へと足を進める。ぶつかるほど近くまで体を寄せると、背筋を伸ばして腕を組み、威圧的に睨みつけながら見下ろした。だが、うつむいている彼の表情は窺えない。
「どけ」
ラウルはサイファの肩を掴もうと手を伸ばした。だが、逆にサイファがその手を掴んで止めた。震えるほどに強く力を込める。
「これは、おまえが受けるはずだったものだ」
抑えた声でそう言うと、キッとラウルを睨み上げ、勢いよく殴りかかった。右の拳が一直線に伸びる。ラウルは避けることも防ぐこともせず、それを頬で受けた。微動だにしない。ただ、目だけをギロリとサイファに向けた。
サイファは顔をしかめながら手を引き、その手を軽く振った。
「なんて固い顔だ……」
「説明しろ」
ラウルは凄みのある低音で唸った。腕を組み、行く手を阻むように立ちはだかる。
「あとでな」
サイファは彼の脇をすり抜け、医務室の中央へ躍り出た。さらに奥へ進み、ほとんど壁と同化した目立たない扉を開けると、躊躇することなく中へ入っていった。その先はラウルの居宅だった。そのことはサイファも知っているはずである。
ラウルは彼の勝手な行動に驚き、慌てて後を追った。
サイファはリビングにいた。腰に手をあて、ぐるりと部屋を見回している。
「いい部屋じゃないか。きれいに片付いている」
「出て行け」
ラウルは上腕を掴み上げた。サイファはそれを振りほどくと、ラウルに背を向けうなだれた。
「今晩だけでいい、泊めてくれ」
弱々しく、息を吐くように言葉を落とす。肩が小さく揺れた。
「断る。帰りたくないのなら、魔導省の宿泊施設を使えばいいだろう」
ラウルは冷たく撥ねつけた。後ろからサイファの肩を掴み、乱暴に引く。彼の体がよろけた。そのまま追い出そうとする。だが、サイファはその手を払いのけると、逆に奥の部屋へと駆け込んだ。すぐに鍵をかけ、扉全体に強い結界を張る。青白い光が、鈍く浮かんで消えた。
サイファは前髪をくしゃりと掴むと、ふぅと息を吐き、暗い部屋を見渡した。
そこは寝室だった。大きなベッドの横に、小さなベビーベッドが置かれている。それは、以前、ラウルとともに組み立てたものだった。サイファの表情がわずかに緩んだ。幼子の成長は速い。ルナもそろそろベビーベッドが不要になる頃だろうか。そんなことを考えながら、壁を背に、崩れるように座り込んだ。立てた膝の上に腕をのせ、深くうなだれる。
扉には、自分の精一杯の力を込めて結界を張った。しかし、ラウルならこのくらい軽々と解除できる。鍵も外から簡単に開けられる構造のものだろう。きっとすぐに入ってくるに違いない。そう思ったし、それを少し期待もしていた。しかし、扉は沈黙を保ったままだった。
サイファはため息をついた。呆れられたか、諦められたかのどちらかだろう。いや、どちらも同じ意味だ。一抹の寂しさを感じながらも、それならここで一晩じっくりと頭を冷やすことにしようと思った。
そのとき。
激しい爆裂音とともに、扉が砕けた。大小多数の破片が勢いよく飛び散る。サイファは目を見張った。とっさに頭の前に手をかざし、身を庇う。いくつもの破片が近くを掠め、いくつかの破片は体に当たった。
パラパラと軽い音が聞こえる。小さな礫が床を打つ音だ。飛散が落ち着いたようである。サイファはゆっくりと顔を上げた。
バシャン!
待ち構えていたかのように水が飛んできた。避ける間もなく顔面から冷水を浴び、全身ずぶ濡れになった。サイファは水を滴らせながら、呆然として前を見た。
砕けた扉の向こうに、青いバケツを持ったラウルが立っていた。白い雑巾をサイファの顔に投げつけ、空のバケツを乱暴に転がした。
「後始末をしておけ」
ラウルは無表情でそう言い残すと、外へ出て行った。
サイファは唖然として大きく瞬きをした。遠くで戸が閉まる音を耳にすると、ふと我にかえった。なぜか不意に笑いがこみ上げてきた。手の甲で顔を拭いながら、肩を揺すって笑った。情けなくて、可笑しくて、たまらなかった。
数十分後、ラウルは戻ってきた。
サイファは膝をついて床を拭いていたが、彼を一瞥すると、雑巾をバケツに掛けて立ち上がった。
「とりあえず、破片は一箇所に集めた。床も拭いた。扉は明日、人をよこして修理させるよ」
「少しは頭が冷えたか」
ラウルは斜めに構え、愛想なく言った。
「ああ、風邪をひきそうだ」
サイファは肩をすくめた。髪も服も、まだ生乾きだった。
ラウルは脇に抱えていた紙袋をサイファに投げた。サイファは怪訝な顔で受け取ると、中を覗き込んだ。そこには着替えが入っていた。顔を上げ、ラウルを鋭く睨みつける。
「レイチェルに何を言った」
「言われて困るようなことをするな」
ラウルは冷ややかに切り返した。サイファはわずかに顔をしかめた。
「おまえがそんなにお節介だとは知らなかった」
ラウルはため息をつき、腕を組んだ。
「おまえのせいでルナを連れ帰れなくなった。レイチェルに世話を頼むしかない。それには理由が要る」
あからさまに面倒くさそうな口調で説明をする。サイファは眉をひそめ、じっと彼を見つめた。
「浴室、借りるぞ」
無反応な横顔に声を掛けると、紙袋を脇に抱え、浴室に向かった。
サイファは冷えた体を熱いシャワーであたためた。
本当に風邪をひくかと思った。いや、もしかしたら、もうひいてしまったかもしれない。そのときはラウルにうつしてやる——心の中でそう毒づいた。だが、ラウルが風邪をひくのだろうかという疑問が、ふと頭に浮かんだ。少なくともサイファはそのような姿を見たことがなかったし、話に聞いたこともなかった。
サイファは部屋着に着替えて浴室から出てきた。ラウルはダイニングでひとり紅茶を飲んでいた。
「勝手にバスタオルを使わせてもらった。あとハンガーも」
サイファはラウルの隣に座った。疲れたように、軽くため息をつきながら頬杖をつく。ラウルはちらりと彼に目を向けた。
「手を見せろ」
「ん? ああ、これか?」
サイファは右手の甲を見た。小指の付け根あたりから、斜めに赤い線が入っている。ラウルが扉を蹴り壊したとき、その破片が当たってついた傷だ。すでに血は止まっている。それほど深いものではない。だが、傷のまわりが少し赤く腫れていた。
ラウルは立ち上がり、長髪を揺らしながら、隣の部屋へ入っていった。そして、すぐに小さな救急箱を持って戻ってきた。それをテーブルの上に置き、椅子に腰を下ろすと、サイファの右手をとり、手際よく消毒を始めた。サイファは痛みに顔をしかめた。
「ここだけか」
ラウルは手を動かしながら尋ねた。サイファは不機嫌な顔で、頬杖をついた。
「全身、調べるか」
ラウルは取り合わなかった。薬を塗りながら話を変えた。
「情けないな、あれしきのことで傷を作るなど」
「まさか結界ごと扉を蹴破るなんて思わないよ、普通は」
サイファはふてくされて言った。
「おまえは昔から、予想外に攻撃を受けたときの対処がなっていない。致命的な弱点だ」
ラウルは大きめの絆創膏を貼った。サイファはひったくるように手を引き抜いた。
「もういちど、おまえに教えを請おうかな」
「見込みはない、やめておけ」
ラウルは素っ気なく言った。
「冗談だ。真に受けないでくれ」
サイファは肩をすくめ苦笑した。ラウルは無表情で、救急箱を片付けた。
「落ち着いたら腹が空いてきたな。何か作ってくれるんだろう?」
サイファは台所を眺めながら言った。使い込まれているが、きれいに片付いている。乳児用と思われる食器もいくつか目についた。
「外で食ってこい」
ラウルは冷たく一蹴した。サイファには目もくれず、紅茶を口に運ぶ。
「そんな気分じゃないんだ」
「だったら、何か出前をとれ」
サイファは微かに笑って頬杖をついた。
「おまえの手料理を食べてみたいんだよ。ずっと、そう思っていた。作ってくれるんだろう? 私にも」
私にも、のところに力を込めて言うと、まっすぐに視線を送り、ニヤリと意味ありげに笑った。
ラウルは刺すような鋭い目をサイファに向けた。
「贅沢は言わない。簡単なものでいいよ」
サイファは一転して軽い調子になった。明るく笑いながら言う。
ラウルはじっと睨みつけていたが、やがて立ち上がり、流し台へ向かった。観念して何かを作り始めたようだ。サイファはにこにこして、その後ろ姿を眺めた。
ラウルは皿をふたつ手にして戻ってきた。ふたつとも同じスパゲティだった。細やかな霧のような湯気が立ち上っている。それを机の上に置くと、力任せに椅子を引き、どかりと座った。サイファに振り向くこともなく、無言のまま食べ始めた。
サイファは皿を引き寄せた。スパゲティをフォークに巻きつけ、口に運ぶ。ゆっくりと噛みしめ、じっくりと味わう。
「……美味いよ」
微かに笑ってうつむくと、ぽつりとつぶやいた。
サイファが食べ終わると、ラウルは待ち構えていたかのように立ち上がり、後片付けを始めた。湯を沸かしながら、手慣れた様子で皿や鍋を洗う。
「ルーファスに呼ばれたんだ」
サイファは静かに口を切った。机の上に、組んだ手をのせる。ラウルは動きを止めることなく皿を洗っていた。水の流れる音が続く。聞いているのかいないのかわからなかったが、サイファは話を続けた。
「アンジェリカについての通告だったよ」
ラウルは皿洗いを終え、水を止めた。そして、沸騰したやかんの火を止めると、紅茶を淹れ始めた。相変わらず、聞いているのかどうか判別できない態度である。だが、聞こえていないということはないだろう。
「長老会は、私を彼女の事実上の夫にすると決定したそうだ」
サイファはさらりと言った。まるで他人事のようだった。
ラウルの手が一瞬、止まった。
「どういうことだ」
背を向けたまま静かに尋ねた。サイファは表情を変えず、落ち着いた声で答える。
「私に、彼女と子をなせと……」
ラウルはティーカップをふたつ持って戻ってきた。サイファの隣に腰を下ろすと、ティーカップのひとつを彼の前に差し出した。
「了承したのか」
「逃げてきた」
サイファはうつむいて答えた。ティーカップを手にとり、紅茶を口に運ぶ。そして、小さく息をついた。
「怖かったんだ。馬鹿なと思いつつ、気持ちが傾いていた」
サイファは再び机の上で手を組んだ。
「彼女を意に添わない男にやるくらいなら、と考えてしまったよ。それだけじゃない。それ以上に、積極的に惹かれたことがあった。抗いがたいほどの魅力のあるもの……」
その手が微かに震えた。
「子供だ」
ぽつりと言葉を落とす。ラウルは無表情で、彼に視線を流した。
「だって、奇跡だろう?」
サイファは声を張り、勢いよく振り向いた。横髪が揺れ、ぱさりと頬を打つ。
「成し得ないはずのことが実現するんだ。私たち三人の絆の完成形だよ。ラグランジェ家にとっても、私個人にとっても、最高の存在となるはずだ」
右手を広げながら、そう力説した。だが、すぐに強気な表情は崩れた。自嘲ぎみに笑うと、額を掴むように押さえた。
「私は狂っている。自分でも呆れるよ。ルーファスがここまで知っていたのかは不明だが、まったく、上手い策を考えたものだ」
「わからないな」
ラウルがようやく口を開いた。
「おまえは私を憎んでいるのではないのか」
「ラウル、おまえ……何もわかっていなかったのか」
サイファは額に手を置いたまま、背中を丸めて笑った。ラウルは眉をひそめ、彼を睨んだ。サイファは笑うのをやめ、背もたれに寄りかかり、目を細めて天井を見つめた。
「ときどき腹立たしく憎らしく思うことはあっても、結局はおまえのことが好きなんだ。子供の頃、そう言ったことがあっただろう? その気持ちは、今もずっと変わらない」
柔らかい声でそう言うと、ふっと笑って目を閉じた。
「家庭教師としておまえに来てもらって、いろいろな話を聞いたな。新しい魔導も教えてもらった。毎日、世界が広がっていくように感じたよ。あの頃はただ無邪気に楽しかった」
「家庭教師としての役割を果たしただけだ」
ラウルはつれなかった。無愛想にそう言うと、ティーカップに手を伸ばした。
「そう言うだろうと思った」
サイファはにっこりと笑った。
「私にとって、おまえは最高の師であり、兄のような父のような存在、そして、かけがえのない友だ。もっとも、すべて私の一方的な思いにすぎないが」
「話が脱線している」
ラウルは腕を組んだ。
「そうだな」
サイファは頬杖をつき、顔を斜めにしてラウルを見つめると、口元を緩めた。
「では、おまえの意見を聞かせてくれ」
「私には関わりのないことだ」
ラウルは腕を組んだまま、サイファには目も向けずに答える。
「よく平然とそんなことが言えるな」
サイファは呆れたように言った。
「元はと言えば、おまえの行動が招いた結果だろう。助言のひとつくらい、くれてもいいと思うがな」
「……レイチェルはどうするつもりだ」
ラウルは前を向いたまま、口だけを動かして尋ねた。サイファは彼の横顔をじっと見つめ、真剣な面持ちで答える。
「彼女は私の決定に従うさ。たとえそれがどんなものだとしても」
ラウルはわずかに振り向き、横目で睨みつけた。組んだ腕の中で、こぶしを握りしめる。
サイファは顎を引き、負けじと強い視線を返した。
「言いたいことがあるなら、口に出して言ったらどうだ」
しかし、ラウルは口を開かなかった。サイファはさらに挑発を続ける。
「私は利用できるものは何でも利用する。必要とあれば、負い目を盾に優位に立つことも辞さない。相手が誰であろうとな。そのことは、おまえがいちばん知っているはずだ」
「おまえがそういう人間だということは知っている。だが……」
ラウルはいったん言葉を切った。奥歯を噛みしめ、わずかに眉をしかめる。
「レイチェルだけは大切にすると思っていた」
低く抑えた声で言った。
サイファは微かに笑みを漏らした。
「ああ、とても大切だよ」
涼しい声で答える。
「彼女がこの世に生を受けたときからずっと、変わらずに愛情を注いできた。私なりに全力で守ってきた。そして、これからも……」
ゆっくりと目を伏せていく。そして、祈るように両手を組むと、その上に額をのせた。
「だが、今、気持ちが揺らいでいるんだ。彼女を悲しませる奴は許さないと思いつつ、私自身がそういう決定をしてしまうかもしれない。いや、今回だけじゃない。あのときだってそうだった。彼女の気持ちも聞かず、私の一方的な決断を押しつけたんだ。もしかしたら、彼女は……」
そこで言葉を切った。おもむろに顔を上げ、ラウルに振り向く。
「最低だろう?」
憂いを含んだ瞳で問いかける。ラウルは険しい表情で、激しく睨めつけた。
「私に何を言わせたい」
「無関心でいてほしくないだけさ。どんな非難の言葉でも、何もないよりはずっといい」
「甘えるな」
ラウルは冷たく突き放した。
「おまえにしか甘えられない」
サイファは真顔で言った。
ラウルは大きくため息をついた。
「まだ、頭が冷えていないようだな」
「水責めだけは勘弁してくれ」
サイファは苦笑した。
「もう寝ろ」
ラウルは面倒くさそうに言った。
「ああ、その方が良さそうだ」
サイファは残りの紅茶を一気に流し込んだ。もうすっかり生ぬるくなっていた。カップを机に戻して立ち上がると、扉が壊れたままの寝室へ向かった。
「おまえにとって家族とは何だ」
背後からラウルの声が聞こえた。サイファは目を大きくして足を止めた。ゆっくりと振り返る。
「今まで何のために守ってきた」
ラウルは背を向けたまま、再び問いかけた。
サイファは目を閉じ、ふっと息を漏らすと、再び寝室へと足を進めた。
あたたかい——。
サイファはぼんやりと目を覚ました。カーテンの隙間から射し込む光が、顔に当たっていた。眩しさに思わず目を細める。
ここは——。
手をかざして光を遮りながら、あたりを見回した。見知らぬ天井、見知らぬカーテン、懐かしい匂い、ベビーベッド、壊れた扉の破片、手の甲の絆創膏……。
そうだ、ここはラウルの寝室——。
きのうの出来事が、一気に頭に蘇った。
サイファは体を起こした。顔を上げ、時計を探す。掛時計の針は、いつも起きる時間よりも前を指していた。寝過ごしたわけではない。安堵してほっと息をついた。
扉のない入口からは、人工的な光が微かに漏れ入っていた。ダイニングからのようだ。サイファはベッドを降り、引き寄せられるように歩いていった。
そこは蛍光灯の明かりで満ちていた。その下で、ラウルは紙の束に囲まれていた。生徒たちのレポートらしい。ペンを片手に読み進めている。
「おはよう」
サイファは微笑んで挨拶をした。
「ああ」
ラウルはレポートに目を落としたまま、気のない返事をした。
「もしかして、一晩中、起きていたのか」
サイファはラウルの向かいに座った。目の前のレポートを手にとり、頬杖をつきながらパラパラとめくる。ラウルはサイファの手からレポートを奪い返した。
「寝る場所がない」
「ソファがあるだろう」
サイファは平然と言った。ラウルは眉をひそめて睨みつけた。しかし、サイファはまるで意に介していないようだった。
「おまえのベッド、寝心地が良くないな。マットレスが古いんじゃないのか」
「人のベッドを占領しておいて言うセリフか」
ラウルはため息まじりに言った。そんな彼を見て、サイファはニコニコとしていた。
「少しは落ち着いたか」
ラウルは再びレポートに目を落として言った。サイファは肩をすくめた。
「きのうのことを思い返すと恥ずかしいな」
「まるで子供だ」
「大目に見てくれ。まだ三十数年しか生きていないヒヨッコだからな」
上目遣いにラウルを見て、ニッと笑う。ラウルは下を向いたまま、わずかに顔をしかめた。
「どうするか、決めたのか」
「ジークに頑張ってもらうことにしたよ」
サイファはさらりと答えた。ラウルは顔を上げた。険しい表情だった。
「何をさせるつもりだ」
「それは彼自身に考えてもらう。彼が無茶をしても、アンジェリカには危害は及ばないだろうからね。思う存分、暴れてもらうさ」
サイファの口調は、どこか楽しそうだった。
「あいつには無理だ」
ラウルはペラリとレポートをめくった。
「気楽に見守るよ。どちらに転んでも、私には悪い話ではないからね。ジークの力が及ばなかったときのことを考えると、私は表立って動かない方がいいだろうな」
ラウルはひと睨みしただけで、何も言わなかった。
「最低だと思っているか」
「ああ」
「それはどうも」
サイファはにっこりと微笑んだ。そして、机の上に置いてあったペンを手にとると、指でくるりと回した。
「私のやり方が気に入らないのなら、自分で行動を起こせばいい。最低なのは、傍観者を決め込んでいるおまえも同じさ」
そう言うと、ニッと挑むように笑い、ペンをラウルの額に突きつけた。彼は無表情のままだった。
「さ、朝食の時間だ」
サイファは軽い調子で言うと、机の上で腕を組んだ。
「もう帰れ」
ラウルは苛ついた様子で命令した。しかし、サイファはそれに従うつもりなど微塵もなさそうだった。ニコニコしながらラウルを見ている。
「今朝はコーヒーが飲みたい気分だな。ブラックで頼むよ。インスタントは駄目だからな」
ラウルは呆れ果てて、何も言い返す気になれなかった。下手に言い返しても、よけいに疲れるだけだと悟ったのだ。黙って立ち上がると、レポートを脇に置き、台所へと向かった。