「王宮ってやたら広いのね」
「ええ、すべてきちんと見てまわろうと思ったら、一日ではとても足りないわ」
感嘆の声を上げるアルティナに、隣のレイチェルはにっこりと微笑みかけた。
先日、アルティナは王子との婚姻を承諾した。今は王宮に入ってその準備をしているところだ。レイチェルは王宮付きの魔導師で、実質的にはアルティナの付き人、護衛、そして教育係である。
今日はレイチェルが王宮内を案内してまわっていた。今後、アルティナは王宮内で暮らし、また必要とあらば仕切っていかねばならない。王宮のことを知らなくては話にならないのだ。
「でも、良かったのかしら。アンジェリカを連れて来ちゃって」
レイチェルは肩にかかった金髪を払い上げながら、少し心配そうに言った。彼女の隣には、黒髪の小さな女の子がトコトコとついて歩いていた。娘のアンジェリカだ。レイチェルに娘がいることを知ったアルティナが、連れて来るようにと強く言ったのだ。
「いいって、いいって。これからもじゃんじゃん連れて来てよ。アンジェリカみたいな可愛い子なら大歓迎よ。もし、仕事上で都合が悪くなったときは、こっちで面倒を見てくれる人を調達すればいいんだし。そのくらいはしてもらえるでしょ?」
アルティナはいたずらっぽく笑った。
突然、レイチェルははっとして足を止めた。その視線の先には、背の高い男性が立っていた。彼女はまっすぐ彼を見据えたまま、とまどいがちに微笑んだ。
「久しぶりね、ラウル」
「ああ」
彼のほうも一瞬だけ驚いた表情を見せた。だが、すぐに元の無表情に戻った。そっけなく返事をすると、じっと彼女を見つめた。
「何? 知り合い? 紹介してよ」
アルティナは声を弾ませた。レイチェルはにっこりとして頷いた。
「こちらはラウル。王宮付きのお医者さんよ。そして、こちらはアルティナさん。今度、王子様と結婚することになっているの」
「どうも、よろしく!」
アルティナはさっと右手を差し出した。ラウルも右手を出し、無表情で握手に応じた。
「おまえか。サイファに騙されて来た女というのは」
「失礼ね、騙されてなんかないわよ!」
レイチェルはふたりのやりとりを聞いて、くすくすと笑った。
ラウルは笑い声につられ、何気なく彼女を見た。そのとき、視界の端に小さな女の子が映った。レイチェルのドレスに隠れるようにしてこちらを見ている。彼が目を向けると、ビクッとしてぎゅっとドレスをつかんだ。
レイチェルはしゃがんでアンジェリカを後ろから抱きしめた。
「この子は娘のアンジェリカよ」
ラウルは目を見開いた。その小さな女の子を凝視する。
黒い髪、黒い瞳——?
レイチェルの夫のサイファから、アンジェリカの話は何度か聞いたことがあった。娘が歩くようになったとか、しゃべるようになったとか、そんな他愛もない話だ。だが、こんなことは聞いていなかった。黒い髪に黒い瞳。代々みな金髪碧眼のラグランジェ家としてはありえない色だ。なぜだ? まさか——。
「抱いてみる?」
「いや……」
ラウルは考えをめぐらせながら重い声で答え、足早にその場を去った。焦茶色の長い髪が、歩調に合わせ大きく波打った。
「どうかしたの? 彼、なんか様子が変だったけど」
歩き去るラウルの後ろ姿を見ながら、アルティナが怪訝に尋ねた。レイチェルはすっと立ち上がると、アンジェリカの頭に優しく手を置いた。そして、寂しげにふっと笑った。
「私と会いたくなかったんだと思うわ」
「どうして?」
アルティナは不思議そうに尋ねた。レイチェルは目を伏せたまま、ぽつりと答えた。
「約束を破ったから」
「えっ?」
アルティナは驚いて尋ね返した。レイチェルは淡々と答えた。
「約束をしたのに何の連絡もせず反故にして、四年間それきりだったの」
「何か、事情があったんでしょ?」
「私が悪いの」
レイチェルは顔を上げてにっこり笑った。笑ってはいたが、その瞳にはかすかな憂いが含まれていた。アルティナは表情を緩め、レイチェルの頬を右手でそっと包み込んだ。事情がありそうだが、彼女に話す意思がない以上、詮索はしないでおこうと思った。
「でも、あの男もアレよね。四年も前のことをいつまで引きずってんのかしら」
「引きずっているかどうかはわからないけれど……」
レイチェルは庇うように言った。だが、アルティナはほとんど聞いていなかった。
「なんか、考えれば考えるほど腹が立ってきたわ」
眉根を寄せながら、独り言のようにぼそりとつぶやいた。レイチェルはひとり煮詰まる彼女に不安を感じた。
「アルティナさん?」
「レイチェル、ラウルのところへ案内して!」
アルティナは腰に手をあて振り返ると、力強く命令口調で言った。こうなったらもう止められない。レイチェルは肩をすくめ、困ったように苦笑した。
レイチェルとアンジェリカ、そしてアルティナは、ラウルの医務室にやってきた。アルティナはノックをして扉を開けた。
「さっきはどうも」
挑発的な口調でそう言うと、机に向かうラウルを見つめ、口角を吊り上げた。ラウルはムッとして彼女を睨んだ。
「何の用だ」
「何よその言いぐさ。お客なんだから、お茶くらい出してよ」
アルティナは腕を組み、怯むことなく言った。
「お茶を出す医務室などどこにある」
「いいじゃない。今は患者さんいないんだし」
「出て行け」
ラウルは冷淡に突き放すと、再び机に視線を落とした。
「逃げるつもり?」
アルティナは鋭く尋ねた。
「なに?」
ラウルはギロリと凍りつくような視線を向けた。しかし、アルティナはまるで動じなかった。それどころか、大仰に肩をすくめ、呆れたと言わんばかりに説教を始めた。
「四年も前のことをいつまで根に持ってんのよ。いい大人がウジウジみっともない」
ラウルはバンと机を叩きつけ、立ち上がった。そして、アルティナの後ろにいるレイチェルに向かって口を切った。
「レイチェル、おまえっ……何を話した?!」
「私が約束を破ったってことだけ」
レイチェルは小さく肩をすくめ、乾いた笑いを浮かべた。ラウルはうつむき額を押さえると、大きくため息をついた。焦茶色の長い髪が、肩からはらりと落ちた。
「……根に持ってなどいない。そもそも初めから怒っても恨んでもいない」
彼は疲れた声で、静かに言った。
「じゃ、お茶くらい出してくれてもいいじゃない」
「…………」
アルティナの論理は理解不能だった。ラウルは言い返すのをあきらめた。下手に議論をするより、素直にお茶を持ってきたほうが早いと思った。
「アンジェリカはミルクかジュースにしてね」
奥へ向かうラウルの背中に、アルティナは軽快に声を掛けた。
しばらくして、ラウルはトレイにティーカップを載せて戻ってきた。
アルティナとレイチェルは、勝手にパイプ椅子を引っ張り出して座り、朗らかに談笑していた。アンジェリカはレイチェルに膝の上で抱きかかえられていた。
「飲んだら出て行け」
「ええ、私も暇じゃないしね」
不機嫌にティーカップを手渡すラウルに、アルティナは明るくカラリと答えた。ラウルは眉をひそめ、彼女を睨みつけた。
続いて、彼はレイチェルに手渡した。レイチェルはにっこり笑って受け取った。最後にアンジェリカにミルクの入ったコップを渡そうとした。だが、アンジェリカは怯えてレイチェルにしがみついた。
「アンタねぇ。ただでさえデカくて怖いのに、そんな気難しい顔で見下ろされたら、そりゃ小さい子はビビっちゃうわよ」
アルティナはラウルの顔を指差しながら言った。そして、ふと何かを思いつくと、顔を輝かせて言葉を繋げた。
「そうだ、アンタ、アンジェリカを肩に乗せてあげなさいよ。子供って高いところ喜ぶんじゃない? そうやってスキンシップを図れば、アンタに対する恐怖心だってなくなるかもしれないし」
「断る」
ラウルは即座にきっぱりと拒否した。
「無駄に高い身長を役立てられる数少ない機会じゃない」
アルティナは真顔で説得を試みた。意識的なのかそうでないのか、微妙に失礼な言いまわしだった。「ねぇ」とレイチェルにも同意を求める。レイチェルはこくんと頷き、満面の笑顔をラウルに向けた。訴えかけるように首をちょこんと傾げる。
ラウルは頭を押さえ、ため息をついた。彼女はいつもこうやって思いどおりに事を進めるのだ。そのことはよくわかっていた。わかっていても、その無言のお願いからは逃れることは難しい。どういうわけか、たいていの人は自ら折れてしまう。彼も例外ではなかった。しぶしぶながら観念した。怖がるアンジェリカをひょいと抱え上げると、自分の肩に座らせた。
アルティナはティーカップ片手に立ち上がり、にっこりとアンジェリカを見上げた。
「どう? アンジェリカ?」
アンジェリカは突然のことにびっくりして目を丸くし、ラウルの髪を無造作に引っつかんでいた。ごくんと息を呑むと、おそるおそるまわりを見渡した。すると、次第にその表情は輝いていった。
「ちがう世界みたい……」
ぽつりと落とされた澄んだ小さな声。ラウルはちらりとアンジェリカに目を向けた。アンジェリカはラウルと目が合うと、無邪気ににっこりと笑った。
同じだ——。
ラウルは初めてレイチェルを見かけたときのことを思い出した。今のアンジェリカくらいの年齢だった。そして、同じように無邪気な笑顔を見せていた。だが、そこから受ける感情は、あのときとはまったく違うものだった。
レイチェルはほっと息をつき、柔らかく微笑みながら、ふたりを眺めていた。
【まえがき】2006年キャラクター人気投票記念で書きました。1位 ラウル、2位 アンジェリカ、3位 レイチェルってことで、全部まとめて登場させました。番外編「教育係」のちょっとあとの話です。