「いらっしゃいませ!」
「いつも明るくて気持ちいいね、セリカちゃんは」
「ありがとうございます」
セリカは両手いっぱいに色とりどりの花束を抱えながら、笑顔で明るく答えた。
アカデミーを退学してから数ヶ月が過ぎていた。
最初の一ヶ月ほどは、何もかもが嫌になって自宅に引きこもっていた。必要最低限のこと以外では、部屋からも出ようとしなかった。母親も心配はしていたようだが、仕方ないと思ったのか、ほとんど何も言わなかった。
だが、一ヶ月が過ぎたある日、いい加減このままではいけないと思い立った。将来のことを考えるまでには至らないが、最初の一歩として、とりあえず何かアルバイトでもしてみようと考えた。
それを母親に相談したところ、近所の花屋が人手を増やしたがっていることを教えてくれた。セリカもその店の存在だけは知っていた。これまで何度となくその前を通ってきたのだ。ただ、花を買うことなどなかったため、一度も利用したことはなかった。
セリカは、そこで形ばかりの面接を受け、週5日で働くことになった。
店舗は小さいが活気のある店だ、というのが、働き始めて最初の印象だった。客はそこそこ入り、配達の注文もけっこう多い。人手が必要なのは嘘ではなかったのだとセリカは安堵した。実は、母親が雇ってくれるようにこっそり頼んだのではないかと、少し疑っていたのだ。
慣れない仕事ということもあり、最初は硬い表情を見せていたセリカだが、仕事を覚えるにつれ、次第に自然な笑顔にを見せるようになった。最近では、常連客と軽く世間話をするまでになっていた。一時期に比べれば大変な進歩である。しかし、これが彼女の本来の姿なのだ。進歩というより、元に戻りつつあると云った方がいいのかもしれない。
「セリカ、配達をお願いできるかしら」
「はい!」
オーナーに声を掛けられたセリカは、快活に返事をして、彼女のいるレジの奥へ向かった。そこには小部屋があり、配達の準備や伝票の整理をするための作業場所になっている。
「これが注文の品で、これが配達先よ」
オーナーは大きな花束と注文書を手渡した。セリカはすでに配達にも慣れている。これ以上の説明は不要だった。
いつものように、セリカは二つ折りになっていた注文書を開き、配達先を確認した。だが、それを目にした途端、彼女はハッと息を飲み、いつもと違う反応を示した。あからさまにうろたえながら、呟くように言う。
「ここって……」
「そう、王立アカデミーよ」
オーナーは事も無げに答えた。
セリカは眉根を寄せてうつむき、苦しげに顔を歪める。
「あの、すみません、ここは……」
「事情は聞いているわ」
オーナーは真面目な顔で言った。
セリカは驚いて顔を上げた。事情というのは、アカデミーを退学したという事実だろうか。それとも、それに至る詳しいいきさつまでも知っているのだろうか。どちらにしろ自分は話していない。おそらく母親だろう。それ以外にはいない。
「でも、これは仕事なんだから、単に行きづらい、行きたくないって理由は通らないわよ。何か正当な理由があれば聞くけれど」
オーナーは少しの厳しさを含んだ声で、キビキビと言う。それは、まったくの正論だった。セリカは何も反論できなかった。
「……いえ、行きます」
力のない声でそう答えると、帽子をかぶり、花束を抱えて店を出た。足が鉛のように重かった。
アカデミーまではそう遠くはない。徒歩で30分ほどである。それは、かつて毎日のようにセリカが通った道だった。この道を歩くだけで、胸に苦いものが湧き上がる。
——仕事なんだから、仕事なのよ。
セリカは心の中で繰り返し呟き、懸命に自分に言い聞かせていた。そうでもしないと、逃げ出してしまいそうだった。
アカデミーに到着した。
セリカが最後にアカデミーに来たときから、何も変わっていなかった。校門も、校舎の佇まいも、そこに流れる空気も、すべてあのときのままだった。随分と久しぶりのような気がしたが、まだ数ヶ月である。変わっていなくても当然だろう。懐かしさからか、いたたまれなさからか、胸がギュッと締め付けられるのを感じた。
校舎はしんと静まり返っている。どうやら授業中のようだ。
セリカはほっと胸を撫で下ろした。今のうちなら誰にも会わずにすむ。急いで配達を済ませようと足を速めた。だが——。
——キーンコーン。
校舎に足を踏み入れた途端、チャイムが鳴った。すぐにガヤガヤとあたりが騒がしくなる。
——なんてついてないの?!
セリカは心の中で舌打ちし、自分の運のなさを呪った。だが、今さら引き返すわけにもいかない。誰にも見つからないことを祈りながら、顔を伏せ、帽子のつばを深く引き下ろし、配達先である学長室へ向かった。
「セリカ……だよね?」
彼女の祈りは天には届かなかった。階段を上ろうとしたところで、背後から声を掛けられてしまったのだ。走ってきたためか少し息切れしている。それでも、その声が誰のものかはすぐにわかった。心臓が破裂しそうなほどに強く打っている。息苦しくて、声も出せない。
「セリカ?」
彼はセリカの前に回り込み、顔を覗き込んだ。そして、セリカであることを確認すると、にっこりと笑顔を浮かべた。
セリカはこわばった表情のまま、おそるおそる辺りを窺う。
「ジークとアンジェリカはいないよ。ふたりとも気づいてないみたいだったから、こっそり僕だけ抜けて来たんだ」
リックは人なつこい笑顔を浮かべながら、軽く右腕を広げて見せた。何も隠し事はしていないというジェスチャなのかもしれない。左脇には教本と筆記具が抱えられていた。これから図書室かどこかへ移動するのだろうか——なぜか、そんなどうでもいいことをセリカは考えていた。
「元気?」
ぼんやりしているセリカに、リックは優しく尋ねかけた。
「え、ええ、まあそこそこ」
多少、動揺しつつも、意外と冷静にセリカは答えた。ジークとアンジェリカがいないというのが大きかったのかもしれない。このふたりがいたら、何も言えないまま逃げ出していただろう。
「どうしてここへ?」
「この花を配達しに来たの。今、花屋のアルバイトをしていて……」
セリカがそこまで言うと、再びチャイムが鳴った。始業の合図である。リックは困ったような顔で、ちらりと後ろを気にした。行こうかどうしようか迷っているようだった。
「行って。授業、始まったわよ」
セリカは淡々と促した。
リックは申しわけなさそうに、うつむいて目を細める。
「うん、ごめん……」
沈んだ声でそう言ったあと、ぱっと顔を上げ、真剣な表情で続ける。
「何かあったら、ううん、何もなくても連絡して」
「ありがとう」
セリカは笑顔を作った。軽く右手を上げ、さよならの意思表示をする。
リックも右手を上げ、踵を返した。ときどきセリカの方を気にしながらも、小走りで廊下を駆けて行く。角を曲がり、やがて姿が見えなくなった。
——連絡して、か……。
セリカは天井を見上げ、溜息をついた。ありがとう、と答えたが、そのつもりはなかった。そもそも連絡先がわからない。アカデミーの名簿はもう捨ててしまっていたのだ。それは、未練を断ち切りたいという彼女自身の意思だった。後悔などない。ただ、リックの優しさに嘘で答えてしまったことについては、胸が痛かった。
アカデミーへ配達してから数週間が過ぎた。セリカは何事もなく平穏に日常を送り、今日もアルバイトに精を出していた。
「こんにちは」
「えっ?」
にこやかな笑顔で店に入ってきたその人を目にし、セリカは短く声を発したきり固まった。息を止め、じっと彼を見つめる。別人かとも思ったが、そうではない。やはりどう見ても、それはリックだった。
——どうして、ここに?
セリカの怪訝な視線を気にすることなく、彼は楽しそうに店内の花を眺めている。鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気だ。
「えーと、このガーベラください」
「あ、はい」
屈託のない笑顔で言われ、セリカは反射的に店員としての返事をする。リックが示した小さなガーベラの花束を包装紙で包みながら、上目遣いにちらりと彼を窺った。小さな声で尋ねる。
「偶然?」
「家に行ったら、ここだって教えてくれたんだ」
リックは笑顔のままで明るく答えた。
教えたのは母親だろう。家には母親しかいない。わざわざここを教えることはないのに——セリカは僅かに顔をしかめる。
「どうして家に来たの?」
「連絡してって言ったけど、来なかったから」
リックは真面目な顔で言った。
セリカは困惑して、再び目を伏せた。どう反応すればいいのかわからなくなった。何ともいえない微妙な表情で、訥々と感情を押し込めたように言う。
「ごめんなさい、私、仕事中だから」
「行っておいで」
不意に、背後から声が掛けられた。オーナーだった。
「え? でも……」
セリカはますます困惑した。外に出て話をしてこいという意味だろう。オーナーが厚意でそう言ってくれているのはわかるが、自分は別にリックと話がしたいわけではない。むしろ、避けたいくらいの気持ちだった。
だが、オーナーはふっくらした顔をほころばせ、温かい笑顔で後押しをする。
「一時間早い昼休みよ」
ここまで言われてしまっては、リックの手前もあり、断ることなど出来なかった。複雑な表情のまま、オーナーにペコリと頭を下げた。
セリカとリックは、花屋から近い小さなカフェのようなところで昼食をとることになった。テーブルが3つだけで、あとはカウンターに数席あるだけのこじんまりとした店だ。昼前だったためか、客はカウンターにひとり座っていただけだった。ふたりはテーブルの方に席を取った。
「お昼はいつもここ?」
リックは店内を見まわしながら尋ねた。
「いつもってわけじゃないわ。半分はお弁当だし」
セリカは冷静に答えた。ごく自然に受け答えしている自分に少し驚く。つい先ほどまでは、どんな顔でリックと向かい合えばいいのか悩んでいたのに——。それは、彼の人なつこい雰囲気の為せる業なのだろうか。
リックは頬杖をついて質問を続ける。
「いつからアルバイトやっているの?」
「5ヶ月くらい前かな。ずっと引きこもっていたけど、ずっとそのままってわけにもいかないし、何かやらなくちゃって思ったから」
セリカは少しだけ微笑んだ。
リックも穏やかに微笑んだ。
「良かった、前向きなんだ。安心した」
その言葉を聞いて、セリカは表情を曇らせた。責めているわけではなく、心配してくれていることはわかる。だが、アンジェリカを傷つけたことは、彼女の中ではいまだ深く刻まれた負い目である。自分が何事もなかったように笑っていることを、あのふたりにを知られたら——。ゾクリとして全身がこわばった。引きつった顔を隠すように伏せる。
「あの……ジークやアンジェリカには……」
「何も言ってないよ」
言いづらそうにしていたセリカの言葉を掬い、リックは先回りして答えた。軽い調子で続ける。
「今日のことも内緒にするつもり。その方がいいよね?」
セリカはこくんと首を縦に振った。重い声を落とす。
「私のことは、何も言わないで」
「うん、わかった。約束する」
リックは笑顔で返事をした。
セリカはほっと安堵した。つられて少し笑う。
「リックは元気にしていたの?」
「うん……まあ、いろいろあるんだけど」
「え?」
驚いた様子のセリカを見ると、リックは慌てて右手を広げて見せた。
「あ、僕自身は元気なんだけどね。母親が入院してて」
「いいの? こんなところに来てて」
セリカ心配そうに眉根を寄せて言う。
「ああ、うん、危篤ってわけじゃないから。もともと身体が丈夫じゃなくて、入退院を繰り返してるんだ。このあと病院に行くつもり」
「リックも大変なのね」
「みんなそれなりに大変なことってあるよ」
リックは穏やかに微笑んで言った。
大変な状況にもかかわらず、それを感じさせないリックが、セリカには随分と大人に見えた。
注文した二人分のサンドイッチとコーヒーが来た。
セリカは無言でそれを食べ始めた。だが、リックは食事中も途切れることなく話を振ってきた。会話をしながらの食事、そして、こんなに時間を掛けての食事は、久しぶりの経験だった。家だと母親とともに食事をしているが、ふたりともほとんど無言なのだ。
お昼どきになり、こじんまりとした店内が混み始めた頃、ふたりは外に出た。そろそろセリカの昼休みは終わる。ふたりは花屋に戻るべく、少しだけ賑やかになった通りに足を進めた。
「ねぇ」
リックが不意に沈黙を破った。セリカに横目を流しつつ尋ねる。
「また来てもいい? 今度はお昼休みに来るから」
「え? ええ……」
セリカは反射的に返答をしてしまった。どういうつもりなのだろうかと思ったが、口に出せない。訝しげにちらりと彼を窺う。
「病院に行くついでだから」
リックは安心させるかのように、にっこり笑って付け加えた。
セリカには、それが本当のことなのかわからなかった。セリカの気持ちに負担をかけないようにとの配慮なのかもしれない。そう考えると、何も言えなくなった。黙ったまま、足元を見ながら歩く。白いスニーカーが、随分と薄汚れていることに気がついた。
「はい」
リックのその声に、セリカは顔を上げ振り向いた。彼は、花を一輪、セリカに差し出していた。先ほどセリカの店で買った、ガーベラの花束から抜き取ったものだ。
「プレゼント」
邪気のない笑顔を見せ、そんなことを言う。
セリカはとまどいながらも、断ることも出来ず、差し出されたガーベラを無言で受け取った。鮮やかなオレンジ色の花をじっと見つめる。
「じゃあ、またね」
リックはごく軽い別れの挨拶をすると、手を振りながら去っていった。人の波の中に、彼の姿は掻き消えた。
そのとき、セリカはようやく気がついた。そこはもう花屋の前だった。
一輪のガーベラを両手で持ち、ぼんやりとその場に佇む。
ガーベラの花言葉は「希望」——。
リックは知っていたのだろうか。最初から自分を励ますつもりでこれを買ったのだろうか——セリカは頭を横に振る。そんなのは都合のいい解釈だろう。ただの偶然だ、と自分に強く言い聞かせた。
「いい人そうじゃない」
花屋に戻ると、オーナーが意味ありげな笑みを浮かべて声を掛けてきた。先ほどのやりとりを見ていたのだろう。何か勘違いされていると思い、セリカは反論する。
「そういうのじゃないです。元クラスメイトってだけ」
「ただのクラスメイトがわざわざ様子を見に来るかなぁ」
オーナーは口元に人差し指を当て、上方に視線を流しながら、とぼけたように言う。
セリカは顔を曇らせ、手にしていたガーベラに目を落とした。
「いい人なんですよ、とても」
沈んだ声でぽつりと言うと、奥の部屋へ向かった。
それからリックは、セリカのアルバイト先に、毎週のように顔を見せるようになった。一緒に昼食を食べて話をする、それだけである。最初のうちはとまどっていたセリカだが、次第にこの時間を楽しみにするようになっていった。
とても穏やかで心地いい時間だった。
彼の柔らかな優しさに包まれて、彼女自身も優しい心持ちになれた。こんなことは退学以来、いや、それ以前を含めて考えても、おそらく初めてだった。
「私、今度、お休みを取ろうかと思うの」
二ヶ月ほど過ぎたある日、セリカは昼食途中にそう切り出した。もちろん花屋のアルバイトのことである。休まずに働いていたわけではない。だが、彼女の休みは平日だったため、リックと同じ日に休みをとりたいと思ったのだ。
その意図まで伝わったかわからないが、リックは笑顔で頷いた。
「うん、たまにはいいんじゃないかな」
「それでね……」
セリカは少し照れたように上目遣いで彼を窺う。
「リックのお母さんのお見舞いに行きたいな、って思っているんだけど」
「え? どうして?」
リックは目を丸くして尋ね返した。コーヒーを持つ手が宙で止まっていた。
セリカは小さく肩をすくめ、少し早口で説明をする。
「入院、長引いているみたいだし、それに話し相手がいなくて寂しがってるって、このまえリックが言っていたでしょう? もし私でよければって思って……」
そこまで言ってから、お節介が過ぎたかもしれないと急に不安になった。このお節介は母親譲りである。セリカも、母親のお節介に辟易としたことは少なくない。今、自分は、その母親と同じような行動を取ろうとしていることに気がつく。
「あ、えっと、迷惑だったらいいの」
焦りながらそう付け加えると、両手を広げて左右に振った。
リックは、最初は驚いていたが、やがてにっこりと嬉しそうに微笑んだ。
「ううん、迷惑なんかじゃないよ。きっと母さんも喜ぶよ」
セリカはほっと小さく息をついた。だが、彼の言葉が本心であるかどうかはわからない。優しいリックのことだ。迷惑に思ってもそうは言わないだろう。そう考えて、また不安になってきたが、もう今さら引っ込みはつかなかった。
「こんな大きな病院、初めて」
セリカは大きな建物を仰ぎ見て、感嘆の声を上げた。彼女が行く病院は、先生がひとりしかいないようなところばかりで、入院設備のある総合病院は初めてだったのだ。
リックはそんな彼女ににっこりと微笑みかけた。
「僕も最初はこの建物に圧倒されて驚いたよ」
「ちょっと不謹慎だけど、何かワクワクしているの」
「その気持ち、わかるよ」
ふたりは顔を見合わせ、くすりと笑いあった。
「行こうか」
リックはそう声を掛けて促すと、セリカと一緒に病院の中に足を進めた。
リックは病室の扉を軽くノックして開けた。
「母さん、どう?」
「ええ、大丈夫よ」
ベッドの上で上半身を起こしていた女性が、穏やかな微笑みをたたえて答えた。文庫本らしきものを手にしている。リックたちを待っている間に読んでいたのだろう。彼女はその本を閉じ、ベッド脇の棚に置くと、再び入口付近に佇むふたりに顔を向けた。頬はこけているようだが、顔色はそれほど悪くない。
「初めまして」
セリカは緊張しながら挨拶をした。僅かに頭を下げる。
リックの母親は優しく目を細めた。
「セリカさんね。初めまして、リックの母のユーシアです。彼女を連れて来るって聞いていたけど、こんなにきれいな人だとは思わなかったわ」
「母さん、彼女じゃなくて友達だよ」
リックは淡々と訂正した。
「わかったわ」
ユーシアはくすくす笑いながら返事をした。リックの言うことを、あまり信じていない様子だった。
セリカも弁明したかったが、あまりむきになるのもかえって変ではないかと思い、そのことについてはあえて触れないことにした。両手に持った花束と籠を差し出す。
「これ、お見舞いのお花です。それから、こちらは果物」
「まあ、こんなにたくさん。ありがとう」
ユーシアはか細い腕でそれを受け取った。花束を抱えて顔に近づけると、目を閉じて匂いをかいだ。とても穏やかな表情だった。リックと同じ明るい栗色の髪が、ふわりと頬にかかった。
「花瓶、あったよね?」
「ええ、確か足元に」
リックは母親の足元の方に回り込み、床においてあったと思われる小さな花瓶を手に取った。そして、母親から花束を受け取ると、セリカに向かってにっこりと微笑む。
「セリカ、ちょっと待っててね」
「ええ」
リックは花束と花瓶を持って、病室を出て行った。花を活けてくるのだろう。
この病室は個室だったため、セリカとユーシアはふたりきりになった。セリカは何かしゃべらなければと思ったが、彼女より先にユーシアが口を切った。
「セリカさんもアカデミーに?」
「はい、もうやめてしまいましたけど」
セリカは素直に答える。一瞬、アカデミーの名を耳にして、暗く淀んだ気持ちが湧き上がったが、表面にのぼる前に抑え込んだ。
「どうして?」
「いろいろ、あったんです」
「そう」
ユーシアはそれ以上は尋ねなかった。セリカが言いたくなさそうにしているのを察したのかもしれない。セリカは彼女の優しさに感謝した。
ユーシアはふいに寂しげな笑みを浮かべた。
「あの子も魔導なんて似合わないことはやめればいいのに」
「え?」
セリカはぱちくりと瞬きをした。
「優しいあの子には、魔導なんて野蛮なことは向いていないのよ。そう思わない?」
「え、ええ……」
セリカはとまどいながら曖昧に返事をした。リックが優しいということについては全面的に同意するが、魔導が野蛮などという価値観は持ち合わせていなかった。また、自分のまわりには魔導に理解のある者が多かったせいか、否定的な意見を聞いたこともなかった。そういう人たちが存在するということは、知識としては持っていたが、これまで実際に出会ったことはなかった。
「魔導が使えれば尊敬はされるかもしれないけれど、私は尊敬される人より、感謝される人になってほしいと思っているのよ」
ユーシアは窓の外に目を向けながら静かに言った。どこかずっと遠くを見ているような、過去に思いを馳せているような、そんな目をしていた。
「母さん、またいつもの愚痴? セリカが困ってるよ」
軽い調子でそう言いながら、リックが戻ってきた。きれいに花を活けた花瓶を両手で抱えている。彼はその花瓶をそっと窓際に置いた。
「ごめんなさいね、セリカさん」
ユーシアはセリカに振り向いて、寂しげな笑顔で詫びた。
「いえ……」
セリカは小さく頭を横に振った。
それから、しばらく三人で話をした。ユーシアは楽しそうに次々と話題を提供した。リックの子供の頃の話など、初めて聞く話ばかりで、セリカにとっても楽しい時間となった。
「ごめんね、母さんおしゃべりで」
病院からの帰り道、リックは苦笑しながら言った。
「ううん。私も楽しかったから」
セリカは晴れやかな笑顔を見せた。それは心からの言葉であり、心からの笑顔だった。そのことがリックに伝わってくれることを願う。
「僕が友達を連れて行くことなんてなかったから、ちょっと浮かれてたみたい」
リックは肩をすくめた。
「ジークは行かないの?」
セリカは不思議そうに尋ねた。ジークとリックは家もわりと近く、アカデミー以前からの親友だと聞いていた。そのため、リックの母親の見舞いくらい、当然、行っているものだと思っていた。
リックは少し困ったように眉尻を下げた。僅かに目を伏せ、何か言いにくそうにしている。
「うーん、母さんはね、ジークのことを良く思ってないから……」
「どうして?」
セリカは横から覗き込むようにして尋ねた。
リックは小さく笑って言う。
「息子を悪の道に引きずり込んだ不良だって」
「あ、悪の道?」
セリカはあまりに突飛な言葉に面食らった。日常ではまず聞くことのない言葉だ。まして、温厚なリックの口から出てくることなど思いもつかない。
「魔導だよ。別にジークに引きずり込まれたわけじゃないんだけどね。アカデミーはジークに誘われたからだけど」
リックは淡々と言った。
「そっか、そういえば、魔導のこと嫌いそうだったわよね」
セリカは唇に人差し指をあて、斜め上に視線を向けながら、病院での会話を思い出した。
「心配性なんだよ。魔導は危険だって思っているみたい。まあ、使い方によっては危険なのは確かだけど」
「それだけかしら。もしかして、魔導そのものを憎んでいるんじゃない?」
「うん……昔、何かあったのかもって思うけれど……」
リックは歯切れ悪く答えて目を伏せた。そう感じても訊けずにいたのだろう。それは、もしかしたら、触れてほしくない古傷かもしれないからだ。セリカももちろん、本人に尋ねるような図々しさは持ち合わせていない。表情を曇らせて目を伏せる。
「尊敬される人じゃなくて、感謝される人になってほしい、って言っていたわね」
「その話は、耳にタコができるくらい聞かされてる。だから、医師か教師になってほしいんだって」
リックは空を見上げた。後ろで手を組み、背筋を伸ばす。
セリカは彼の横顔を見つめ、微かな笑みを浮かべた。
「親の思うようになれないこともあるわよね」
「あ、でも僕、教師になろうとは思ってるんだ」
「え? 普通の学校の?」
「そうだよ。おかしいかな」
リックはセリカに振り向き、僅かに首を傾げた。
「おかしくはないけど……ちょっともったいないかなって思っちゃった」
セリカは肩をすくめた。アカデミーを卒業すれば、いくらでも人の羨むような職業につける。その気になれば、役人にもなれるだろうし、高度な研究所にも入れるだろう。教師というなら、魔導を専門に教える学校もあるのだ。それを、あえて普通の学校の教師になろうなど、正気でないと思われても不思議ではない。セリカは、そこまでは思わなかったが、驚いたのは事実だった。
「それが普通の反応だよね」
リックはそう言って笑った。
「でも、教師ってリックに合っていると思うわ。子供たちに慕われそう」
「そうだといいんだけど」
「合っているわよ、絶対!」
セリカはこぶしを握りしめて力説した。単純にリックの人柄を考えれば、これほど彼に似合う職業はないと思う。それは、自分のひいき目や偏見ではない。彼を知っている人ならば誰もが同意するだろうと自信を持っていた。
「セリカは医師なんか合ってそうだね」
リックはセリカの顔を見つめながら言った。
「えっ?」
セリカは目を大きくして瞬きをする。
「どうして?」
「そうだなぁ、優しいけどきっぱりしているところもあるし、使命感や責任感も強そうだから」
リックは微笑みを浮かべながら、真面目に理由を述べた。
だが、それを聞いたセリカの顔は、急激に曇っていった。笑顔を作ろうとして失敗したような、微妙な表情でうつむく。
「それ、褒めすぎよ。私はそんなに立派な人間じゃないわ」
「自分でそう思い込んでいるだけかもしれないよ」
リックは優しく言った。
それでもセリカは黙って首を横に振るだけだった。
それ以来、セリカは何となく医師という職業が気になるようになった。
合っていると言われていい気になっているわけではない、と自分に言い訳をしつつ、病院での医師の仕事ぶりを観察したり、簡単な医学書を読んでみたりした。
わかったことは、医師という職業は感謝されるばかりではないということ、かなり厳しい仕事であるということだ。精神的にも肉体的にもタフでなければやっていけないだろう。自分にはやはり務まりそうもない。
だが、医学という学問には興味が湧いた。不謹慎かもしれないが、面白いと思った。魔導と同様、まだ解明されていない部分が多く、やりがいもありそうだった。魔導においても、彼女は実技よりも研究の方が好きだったのだ。四大結界師という壮大な夢があったが、それが無理ならば研究職も良いかもしれないと思っていた。
ふと、アカデミーに医学科があったことを思い出す。思い出してから、自分の思考に苦笑いする。あんな形で退学した人間が、再び入学なんてありえない——彼女は溜息をついた。
胸の奥でくすぶる思いを隠したまま、セリカは花屋でアルバイトを続けた。
週末にはリックと一緒に昼食をとり、休日にはリックの母親の見舞いに行った。ふたりの休日は基本的には重なっていなかったので、見舞いには彼女ひとりだけ行くことが多かった。リックに頼まれたわけではない。セリカ自身の意思だった。セリカが行くと、ユーシアは本当に嬉しそうにしてくれるので、セリカも嬉しかったのだ。
たいていはたわいもない話をして過ごしたが、そういう時間こそ必要なのだろうと思った。自分がリックからもらったものを、少しでもリックの母親に返すことができれば、という思いも少なからずあった。
「セリカさん、最近、何か悩みごとでもあるの?」
「え? どうして?」
セリカはどきりとして顔を上げた。ユーシアはベッドで上半身を起こして座り、優しく包み込むように彼女を見ていた。
「ときどき憂鬱そうに考え込んでいるから、気になっていたのよ」
「ダメですね、隠せないなんて」
セリカは気恥ずかしげに、肩をすくめて舌を出した。努めて明るく振舞ってはいたが、会話が途切れたふとした瞬間などに、つい意識が思考の海に沈んでしまうのだ。
「そんなことないわ。私が鋭いだけだから」
ユーシアは悪戯っぽくそう言うと、目を細めて微笑んだ。
「良かったら相談に乗るわよ」
セリカはうつむき、眉根を寄せた。しばらくそうしていたが、やがて自嘲ぎみにふっと笑みを漏らして言う。
「……私、ダメなんです」
「どうして?」
「悩んでばかりで、叶うはずないのに、諦めばかり悪くて、いつも、いつだって……」
アカデミーのことも、魔導のことも、ジークのことも、医学のことも——。何もかも、心に棘のように刺さったまま、いつまでも消えてはくれない。抜こうとしても痛くて抜けなくて、もういい加減、膿んでいるのではないかと思う。
ユーシアは真面目な顔で考え込んだ。セリカの言ったことが抽象的すぎて理解できなかったのだろう。それでも彼女は理解しようとしてくれている。今のセリカにはそれだけで十分だった。彼女の優しさが嬉しかった。
「思い込んでいるだけ、ってことはないかしら」
ユーシアはゆっくりとした口調で切り出し、小首を傾げて見せた。
「え? 何を……ですか?」
「いろんなことよ。自分に対してもね」
「よく、わかりません……」
セリカは眉根を寄せた。そういえば、リックにも似たようなことを言われた記憶があった。良く評価してくれるのはありがたいが、自分はリックやユーシアに思われているほど素晴らしい人間ではない。自分の不甲斐なさは自分がいちばんよく知っている。
ユーシアはまるでセリカの心を読んだかのように言う。
「自分の可能性を否定しないでね。視野を広げて行動してみると、何か見えてくるかもしれないわ」
「そう出来ればいいんですけど」
それが、ユーシアの優しさに報いるための、セリカの精一杯の返答だった。ぎこちなく笑顔を作ってみせる。
「あなたなら、出来るわ」
ユーシアは、柔らかく力強い言葉で、背中を押した。
「もっと自分を信じてあげて。あなたは優しくて素晴らしい人よ。私、人を見る目はあるの」
「そんな、私……そんなこと……」
セリカは急に胸が苦しくなった。
「わた……し、そんなんじゃ……」
目の奥が熱くなった。
鼻の奥がつんとした。
それでも、唇を噛みしめ、懸命に耐えた。
だが、瞬きをした拍子に、ひとしずくが零れ落ちた。
堰を切ったように涙が溢れた。
もう止められなかった。
両手で顔を覆った。
そのまま声を出さず、肩を震わせて泣いた。
なぜ泣いているのか、セリカは自分でよくわからなかった。
様々な感情が綯い交ぜになっていた。
そんなセリカを、ユーシアはただ優しく微笑んで見ていた。
「リック、今日はとても大事な話があるの」
いつものカフェでの昼食の時間、セリカは弾んだ声で切り出した。彼女としては抑えたつもりだったが、つい声に感情がのってしまった。とはいえ、隠す必要があるわけではない。
「本当? 実は僕も大事な話をしようと思ってたんだ」
リックも明るい声でそう言った。
セリカは大きく瞬きをし、机に肘をのせて身を乗り出した。
「リックも? 何の話?」
「セリカの話を先にして。セリカが先に言ったんだから」
「うん……」
セリカは僅かに頬を染め、机の下で両手を組み合わせた。そして、小さく呼吸をして、ゆっくりとした口調で言う。
「私ね、もういちどアカデミーを受験しようと思うの」
「えっ?」
「魔導全科じゃなくて医学科の方。アカデミーに問い合わせてみたら、退学後の再入学は問題ないって」
「本当? すごいよ! 医師になるんだ!!」
リックは興奮して大きな声を上げた。カウンターの中にいた店員が、驚いて振り向いたくらいである。
セリカは慌てて付け加える。
「医師になるかどうかはわからない……研究の方が自分には向いているかもって思うから」
「どちらにしても人を救う仕事には違いないよ」
リックはまだ興奮を持続していた。
セリカは何かくすぐったいものを感じた。とまどったようにはにかむ。
「次の入学試験まではあと半年しかないけれど、頑張ってみるつもり。それでダメだったらもう一年やってみる」
「大丈夫じゃないかな。入学試験では医学的な知識を問われるわけじゃないんだよね? だったら、魔導全科とも共通する部分は多いはずだし」
それはリックの言うとおりだった。医学科は、入試で専門知識が問われるわけではない。実技と適性まで評価される魔導全科に比べれば、敷居は低いといえる。だが、だからこそ競争率は高いのではないかとセリカは思う。
「ちょっと頭が錆びついているから不安だけど、頑張れるだけ頑張ってみるわ」
「セリカならきっと出来るよ」
リックは明るく元気づけた。それは、リックの母親からもらった言葉と同じだった。やはり親子なのだと、セリカはなぜだか嬉しくなった。
「ありがとう」
明るく晴れやかに声を弾ませた。そういう励ましを素直に受け入れられるようになったのも、間違いなくユーシアのおかげだろう。セリカは心の中で彼女に感謝した。
「それで、リックの話は?」
セリカは机に両腕をのせると、リックを見つめながら身を乗り出した。目を輝かせながら、興味津々で彼の話を待つ。
「うーん、この話のあとだと言いにくいなぁ」
リックは急に歯切れが悪くなった。苦笑しつつ、頭に手をやる。
「大事な話なんでしょう?」
「うん……」
「教えてくれないと、気になって勉強が手につかないわ」
セリカは頬杖をつき、冗談めかして言った。冗談めかしていたが、このまま聞かなければ実際にそうなってしまうだろう。自分から大事な話があると切り出しておきながら、言い渋っているのが妙だと感じたのだ。
店員が、注文したサンドイッチとコーヒーを運んできた。ふたりの前にそれぞれ置く。
リックは無言でコーヒーを口に運んだ。そして、一息ついて言う。
「僕、セリカのことが好きなんだ」
「え? あ、うん……?」
セリカは反射的に曖昧な返事をした。その表情は、何ともいえない微妙なものだった。彼がどういう意味で言ったのかを量りかねていた。
リックはまっすぐにセリカを見据え、言葉を繋ぐ。
「だから、ちゃんと付き合ってくれないかな、って思って」
「…………」
セリカは呆然とリックを見つめ返した。頭の中は真っ白になっていた。
リックは慌てた様子で言い添える。
「あ、もちろん、セリカの受験を最優先にするし、勉強するからしばらく会わないっていうんだったらそれでもいいんだ」
「あの、えっと……そんなふうに考えたことなくて……」
セリカは混乱していた。それでも懸命に言葉を紡ぐ。
「リックのことは好きだし、一緒にいて楽しいけど、でも……私は……」
「まだジークのことが好き?」
リックがぽつりと尋ねた。
セリカは目を見開いた。そして、顔を曇らせながら視線を落とすと、か細い声で答える。
「多分……」
「ジークはアンジェリカのことしか見てないよ」
リックは淡々と言った。
「わかっているわ、そんなこと」
その声があからさまに不機嫌だったことを、セリカは自覚した。みっともないと思う。自制しなければ——口をきゅっと結び、握った手を胸もとに押しあてた。
リックはテーブルの上で両手を組み合わせた。
「僕は、それでもいいんだけど」
「……何が?」
セリカは上目遣いに彼を窺い、怪訝に尋ねかけた。
リックは真面目な顔で答える。
「ジークのことを好きなままでも。僕のことが嫌いじゃないのなら」
「なっ……」
セリカは目を大きく見開いた。
「何よそれ! そんなの、私が良くないわ! むちゃくちゃよ!!」
カッと頭に血がのぼり、感情のまま捲し立てる。
リックの思考が理解できなかった。何か根本から間違っているような気がした。
「ごめん……、でもさ……」
リックは控えめな声で切り出す。
「セリカだって、本当は諦めたいんじゃないの?」
その言葉は、セリカの心を大きく波立たせた。眉根を寄せ、苦しげに目を細める。目蓋が小刻みに震えた。
「……そんな……の、そんなこと……だって……」
何も考えられなかった。頭の中が混沌としていた。息が苦しくなった。ぎゅっと目を瞑り、何かを払うように左右に頭を振る。
リックは、彼女の様子が普通でないことに気がついた。
「ごめん! 変なこと言って! 苦しめるつもりはなかったんだ」
ハッとして焦ったように早口で謝る。そして、こわばったセリカの肩に手をのせ、心配そうに下から覗き込んで言う。
「セリカがこのままがいいっていうなら、このままにするよ。さっきの話はなかったことにしてもいいから、ね? これからも一緒にお昼は食べよう?」
「私、アルバイトはやめようと思っているの。受験に専念するから……」
セリカは下を向いたまま、小さな声で答えた。
「そっか、そうだよね」
リックはそう言って軽く笑ってみせた。その笑いには、自嘲と後悔の色が滲んでいた。
それからまもなく、セリカは花屋のアルバイトを辞めた。
それに伴い、毎週末のリックとの昼食はなくなった。代わりに、昼過ぎに待ち合わせをし、ユーシアの見舞いに一緒に行くようになった。それはリックの提案だったが、彼女は素直に受けた。今までは平日にひとりで行っていたが、それはアルバイトの都合によるものだった。あえてひとりで行く必然性はない。一緒に行けるのならその方がいいだろうという判断だった。
だが、ほどなくユーシアの退院が決まった。
おめでたいことのはずなのに、セリカは一抹の寂しさを感じていた。これが、自分とリックを繋ぐ最後の糸だったからだ。
「セリカさん、今度ぜひ家に遊びに来てね。たいしたおもてなしはできないと思うけど」
「はい、いつか」
退院時、別れ際にそんな会話を交わした。だが、それが実現されることはないのではないか——セリカはなぜかそんなふうに感じていた。
それから、セリカはリックと会うことはなくなった。別に会わないと決めたわけではない。会う理由がなくなったからだ。
リックから会いに来ることは、少なくともセリカの受験が終わるまではないだろう。妨げになってはいけないと、気を遣っているに違いない。いや、受験が終われば会えるという保証も約束も何もない。既に見限られている可能性もある。
ふたりの関係は、非常に曖昧で不安定な状態だった。だが、それを望んだのは自分であることを、セリカは自覚している。
——私、バカみたい。
ノートの上に頭を投げ出し、心の中で溜息まじりに呟く。
受験勉強に集中しなければならないのに、集中できる環境であるはずなのに、心に穴が開いたような喪失感にとらわれ、物思いに耽ることが多くなった。
一ヶ月ほど、そんな状態が続いた。
セリカの表情は日に日に曇っていった。もちろん、それでも受験勉強は続けている。だが、集中できないことが多く、効率が悪いのは確かだった。
部屋の窓から、柔らかい薄青色の空を見上げる。
——このまま切れてしまうのは嫌……会いたい……。
それが彼女の率直な気持ちだった。最近、それをようやく素直に認めることが出来るようになった。だからといって、行動を起こす勇気まではなかなか持てなかった。しかし、このままでは何も、何ひとつ解決しないことはわかっている。
セリカは心を決め、腹をくくった。
翌日、セリカはリックの家までやってきた。ここへ来たのは初めてだった。この近くのジークの家になら行ったことがあるが、出来るなら忘れてしまいたい苦い思い出だ。そんな苦い思い出ばかりが積み重なっていくような気がする。
あまり大きくはない一軒家を見上げ、ごくりと唾を飲み込み、震える指先でチャイムを鳴らす。
「はい」
家の奥から返事が聞こえた。馴染みのある声だった。パタパタとスリッパで駆ける音が次第に大きくなり、扉が開く。
「まあ、セリカさん」
ユーシアは目を大きく見開いた。体調のせいか、化粧のせいか、衣服のせいか、場所のせいか、入院中よりだいぶ顔色が良く見えた。
セリカは緊張した面持ちで、わずかに頭を下げる。
「こんにちは。お久しぶりです」
「来てくれて嬉しいわ。どうしているのかと気にしていたのよ。さあ、上がって」
ユーシアはパッと笑顔になると、弾んだ声でセリカを促した。
セリカは硬い表情のまま、両手を胸の前で広げた。
「いえ、今日はリックと話がしたくて……できれば、外で……」
次第に声が重くなった。ユーシアに変に思われたかもしれないと心配になった。
だが、彼女はそれについては何も触れなかった。
「わかったわ。呼んでくるから少し待っていてね」
「ありがとうございます」
セリカはペコリとお辞儀をした。
ユーシアはにっこりと微笑むと、玄関脇の階段を上がっていった。
しばらくして、リックが駆け降りてきた。転げ落ちんばかりの勢いだった。
「セリカ?!」
大きく目を見開き、語尾を上げて名前を呼ぶ。自分の目で見るまで、いや、目で見ても、信じられない気持ちだったのだろう。
セリカは肩をすくめて微笑んだ。
「久しぶりね」
「うん……」
リックは曖昧に笑みを浮かべていた。とまどっているのだろう。セリカの意図が見えないので、どう反応すればいいのかわからないといった感じだ。
「外がいいの?」
「ええ」
セリカは頷きながら答えた。
リックは戸口まで行くと振り返り、ゆっくりと階段を降りてきた母親に目を向ける。
「じゃあ母さん、ちょっと行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
ユーシアは階段に立ったまま、優しい笑顔で見送った。
ふたりは当てもなく並んで歩いた。ゆっくりとした歩調だった。
「ごめんね、急に来ちゃって」
セリカは明るい口調を作って言った。
リックはそれにつられるように、いつもの人なつこい笑顔を見せた。
「ううん、嬉しかった。会いたかったけど、会いに行っていいものかどうかわからなかったし」
セリカはその言葉にほっとした。少なくとも見限られてはいなかったようだ。もちろん、彼の言葉が本心だという前提での話だが、それは信じていいような気がした。リックは嘘をつくのがそれほど上手くはないと思う。
「話……あるんだよね?」
リックは遠慮がちに尋ねた。
その様子から、彼には何の話かの見当がついているのだろうとセリカは思った。神妙な顔でこくりと頷く。
「なんだかずっと中途半端だったでしょう? 気になっちゃって、勉強が手につかなくて」
「本当にごめん……」
リックは足を止め、しゅんとうなだれた。
セリカは慌てて胸もとで右手を振る。
「リックのせいじゃない、私がいけないの」
「そもそも僕が言わなければ良かったんだよね」
「そんなことない。リックは何も悪くないわ!」
語気を強め、懸命に主張した。そして、ふっと小さく笑みを浮かべて言う。
「悪いのは私の方。リックがまっすぐ気持ちをぶつけてくれたのに、私は逃げてばかりで……本当にずるかったと思っているわ。ごめんなさい」
「そんな……」
リックはとまどいがちに声を漏らした。
「ずるいだなんて、僕、思ってないよ」
「ううん、私、本当に逃げていたから」
セリカは一呼吸おいて視線を上げると、リックを正面から見据えた。
「逃げてばかりじゃ、お互いのためにならないのよね」
ゆっくり、しっかりとした口調で続ける。
「だから、今さらだけど、聞いてほしいの」
「うん」
リックの声は硬かった。緊張した面持ちで、セリカを見つめ返している。
セリカも目をそらさなかった。
小さく息を吸う。
少し息を止める。
ゆっくりと唇が動く——。
「リック、私と付き合ってくれる?」
「……えっ?」
リックはきょとんとして聞き返した。聞こえていなかったわけではないだろう。おそらくセリカの言ったことが、彼にとっては信じがたい内容だったからに違いない。
セリカはやや顔を伏せ、不安に揺れる瞳で、上目遣いに彼を窺った。
「今さら、ダメ……かしら」
「ダメじゃない、ダメなわけないよ!」
リックはセリカの両肩を掴み、勢いよく言った。しかし、次の瞬間には、どこか怪訝そうな、どこか不安そうな表情が浮かんだ。
「ジークのことは、もういいの……?」
「正直いって、自分でもよくわからないの」
セリカは目を伏せた。
「でも、離れてみて会いたいと思ったのは、リックだったから……。それが、答えなんじゃないかって思ったの」
おそるおそるリックを窺う。彼はセリカを見つめたまま呆然としていた。あきれているのだろうか、それとも怒っているのだろうか——セリカには判別がつかなかった。だが、どう思われたとしても自業自得である。自嘲の笑みを浮かべる。
「やっぱり、こんないい加減なのじゃダメよね」
セリカの肩を掴むリックの手に、ぐっと力が入った。
「全然ダメじゃないって! 嬉しいよ!!」
怖いくらい真面目な顔でそう言うと、急にほっとしたように表情を緩めた。
「良かった……てっきり、キッパリ振られるものと思ってたから」
「私の方こそ、もう愛想つかされてるかと思ってた」
「え、ウソ?」
「本当よ」
ふたりは顔を見合わせた。そして、同時にくすっと吹き出す。
「ね、ウチに戻ろう? お茶くらい出すから」
リックはそう言って、セリカの手をとった。
セリカはドキリとした。初めて触れた彼の手は、意外と大きかった。優しい顔立ちをしているが、やはり彼は男性なのだ、とそんな当たり前のことを実感する。
「母さんにも改めて紹介しなくちゃ。僕の彼女です、って」
リックはにっこりと微笑んで言った。
「なんだか恥ずかしい」
セリカは頬を赤らめてはにかんだ。ユーシアとは面識があるだけに、今さら急に“彼女”などと紹介されるのは気恥ずかしく思った。だが、もちろん嫌なわけではない。ユーシアなら歓迎してくれるのではないか——そんな確信に近い思いがあった。
それから、セリカは受験勉強に打ち込んだ。
リックとは、週に一回ほど、息抜き程度に会っていた。彼の家にも何度か行った。ユーシアはいつも気持ちよく迎えてくれた。まるで実の娘のように、いや、それ以上に可愛がってくれた。一緒に夕食を作って、一緒に食べたりもした。
今年不合格でも、来年また受ければいい——最初はそんな気持ちもあったが、やはり何がなんでも今年合格したいと思うようになった。合格しなければ、遠慮なくリックと会うことも出来ないのだ。それでは自分も寂しいし、リックに対しても申し訳なく思う。
入学試験は、雲ひとつなく晴れた日に行われた。
セリカは、少し年下の子たちに混じって受験した。一日かけての筆記試験である。一応、すべて埋めた。悪くない出来だと思った。だが、魔導全科のときのような自信はなかった。受かるかどうかは、まるきり予測がつかなかった。
それから数週間が過ぎ、合格発表の日がやってきた。
セリカが到着したときには、アカデミーの前は既に多くの人で溢れていた。そこに合格者が張り出されているのだ。やはり、昔と変わらず、魔導全科の周辺が最も人が多い。それは受験した人数というより、野次馬の数の違いである。魔導全科が最も世間の関心が高いのだ。
それを横目に見ながら、セリカは医学科の方へ足を向けた。魔導全科に比べれば少ないが、そこもやはり人だかりは出来ている。隙間をくぐりながら、壁に張り出された合格発表の紙が見えるところまで進んだ。
まるでレポート用紙のような素っ気ない紙に、小さな文字で素っ気なく合格者の名前が書かれていた。名前は成績順に並んでいる。数年前、魔導全科を受験したときと同じだった。
セリカは、胸もとで祈るように手を組み合わせながら、上から順に名前を追った。一番上は別の名前だ。二番目も、三番目も、四番目も違う。目線を下げるにしたがって、不安は増大していった。心臓の鼓動が強くなっていく。嫌な汗が滲む。
「……あったっ!」
真ん中あたりで自分の名前を見つけると、思わず高い声を上げた。鼓動がひときわ強く打った。
「セリカっ!!」
人だかりの山を掻き分けるようにして、少し息の切れたリックが飛び込んできた。
「あったの!!」
セリカは彼の姿を目にするなり、興奮したように合格発表の紙を指差し叫んだ。目が潤み、視界がぼやける。彼の顔がぐにゃりと歪んで見えた。
「よかったね、おめでとう!」
「ありがとう!」
リックはセリカの手をとり、満面の笑みで喜んでくれた。セリカもそれに笑顔で応えた。ふたりは手を取り合い、見つめ合っている。まわりに大勢の人がいることなど、すっかり忘れていた。
「セリカ?!」
少し遅れてやってきたジークとアンジェリカが同時に声を発した。ふたりとも驚いて目を見開き、呆然としていた。セリカのことについて何も聞いていなかったのだから、当然の反応だ。おそらく、何がなんだかわからずにいることだろう。
セリカはふたりに目を向けた。
一瞬だけ、少しだけ、ズキリとした。
だが、大丈夫だった。平気だった。
自然な笑顔を保ったままでいられた。
そんな自分に安堵する。
「あら、久しぶりっ」
少しおどけたように言う。
ジークは思いきり顔をしかめながら腕を組んだ。セリカの隣で笑っていたリックの背中に蹴りを入れる。
「どういうこった」
「説明すると長くなるんだけど……」
リックはごまかし笑いを浮かべながら逃げようとしたが、ジークは容赦しなかった。青筋を立て、引きつった顔でニヤリと笑い、逃げ腰の彼にぐいと迫った。
「幸い時間はたっぷりあるぜ」
「あはは……」
リックは困ったように、だが、どこか照れくさそうに笑った。きっと、どう説明しようか、何と言い訳しようか、あれこれ思案しているのだろう。彼に口止めしたのはセリカだった。少し申し訳なく思ったが、ふたりのやりとりがどことなくコミカルに感じられて、くすくすと笑い出してしまった。
「セリカ、笑ってないで助けて」
「ええ、ちゃんと説明するわ」
セリカは顔を上げ、にっこりとして言った。
アカデミーの門の脇には、ガーベラがひっそりと揺れていた。
セリカはふっと表情を緩め、目を細めた。初めてリックが花屋に来た日のことを思い出す。それほど昔のことでもないのに、何か無性に懐かしく感じた。リックにもらった一輪の希望——あのときは素直に受け止められなかったけれど、それでも、たぶん嬉しかったのだろうと思う。
ほんのりとあたたかな風が、頬を撫でるように掠めた。
セリカは後ろで手を組み、背筋を伸ばして顔を上に向ける。広い空には雲ひとつなく、遠くまで青く青く澄み渡っていた。
【まえがき】セリカがアカデミーを退学したあとの話です。