ユールベルはうつむいて教室を出た。放課後の雑踏の中をひとりで歩く。
行くところがあるから——そう言ってレオナルドの誘いを断った。だが、本当は行くところなどなかった。別にレオナルドのことを嫌っているわけではない。ただ、何となく今日はひとりでいたい気分だった。沈んでいるときはいつもそうだ。レオナルドもそんなユールベルの気持ちを察してくれているようで、こういうときはしつこくは誘わずそっとしておいてくれるのだ。
当てもなくぼんやりと王宮の方に向かう。
心地よさそうな緑に惹かれ、中庭に足を踏み入れた。
顔を大きく上に向ける。
空は目にしみるほど青かった。
空気がとても新鮮に感じた。
重い雲がのしかかった自分の心とは、見事なくらいに対照的だった。
「ラウル、みてっ!」
幼いその声に、ユールベルはびくりと体を竦ませた。反射的に大きな木に身を隠し、声の方をそっと窺う。
そこには、木陰に座って本を広げるラウルと、その養女のルナがいた。まだ小さな彼女は、小さな花を手に、トコトコとラウルに走り寄っている。
「きれいな花」
「ああ……だが、あまりむやみに取るな」
「どうして?」
「自分で考えてみろ」
「んー……じゃあ、だいじなときだけにする」
ルナはそう答えて、屈託のない笑顔を見せた。ラウルより少し明るい茶色の髪が、太陽の光を反射して眩しいくらいに光を放っている。手にした花をラウルの本の上に置くと、にこっと笑い、再びトコトコと庭の中央に走っていった。
ユールベルは背後からそっとラウルに近づいた。
「仕事を休んでいいの?」
ラウルは目線だけをユールベルに向け、すぐに前に戻した。
「たまにはいいだろう。どうせ患者は来ない」
「そんなに不真面目な人だとは思わなかった」
ユールベルは大きな木の幹に寄りかかった。風が吹き、薄地の白いワンピースがひらひらと揺れる。上方では木の葉がざわざわと音を立てていた。
「立ってないで座れ」
ラウルは顔も向けずに言った。
ユールベルは目を細めてラウルを見た。しばらく迷っていたが、言われるまま隣に腰を下ろした。膝を抱えてうつむく。緑の芝生が少しチクチクとした。
「父親……なのね」
「そうだ」
ラウルは短く答えた。
「私もあの子みたいに捨てられれば良かった」
ユールベルは膝を引き寄せ、その上に額をのせた。
「そうすればラウルに拾ってもらって、もっと幸せに生きてこられたのに」
「可能性は低いな。捨てられているところに出会う確率は低い。出会ったとしても連れて帰るかはわからん」
ラウルは淡々と言う。
ユールベルは少し顔を上げて、横目で睨んだ。
「真面目に答えないで。少し夢を見たかっただけ」
ラウルは少しもユールベルの方を見ていなかった。脚の上に置いた本に目を落としている。長い焦茶色の髪が、緩やかな風に吹かれてさらりと揺れた。
「目を診せに来いと言ったはずだが、忘れているのか」
「じゃあ、今すぐここで診て」
ユールベルは体を起こしてラウルに向き直った。右の瞳をまっすぐ彼に向ける。
だが、ラウルは振り向きもせずに冷たく言う。
「薬も包帯もない」
「薬なんてただの気休めじゃない」
「素人が勝手に判断を下すな」
「嘘つき」
ユールベルは芝生を掴んでうなだれた。薬を塗ったところで少しも良くはならない。何も変わらない。一生このままだ。本当は診てもらう必要などないということは、自分でよくわかっている。それでもラウルが診せに来いと言うのは、おそらく責任感からだろう。一ヶ月、自分の面倒を見てくれたときと同じ——。
「近いうちに医務室に来い」
ラウルは本に目を落としたまま言う。
ユールベルは再び膝を引き寄せた。そこに顎をのせ、揃えた足先をじっと見つめる。
「あの医務室に行くのは怖いの。つらい思い出がありすぎるから」
「それでも来い」
ラウルは冷たいくらいにきっぱりと言った。
「ひどい人……」
ユールベルは呟いた。本気でそう思っているわけではないが、せめてそう口にせずにはいられなかった。ラウルならそれをわかって受け止めてくれる、という甘えであることは自覚していた。
「こんにちは、おねえさん」
いつのまにかルナがユールベルの隣に来ていた。無防備な笑顔を見せて立っている。自分に向けられたその笑顔に、ユールベルはとまどった。目を伏せて、逃げるように視線をさまよわせる。
「挨拶を返せ」
ラウルは素っ気なく指示をする。
「こんにちは……」
ユールベルは目を合わさないまま、消え入りそうな震えた声で挨拶をした。なぜだかわからないが、彼女と向き合うことがとても怖かった。
ルナは人懐こくニコッと笑った。
「おねえさんはラウルのおともだち?」
「いえ……」
ユールベルは困惑して言い淀んだ。
「そうだ」
不意にラウルが隣から口を挟んだ。ユールベルは驚いて振り返る。ラウルは無表情のまま本を読んでいた。そうだ、というのは友達という意味なのだろうか。そうとしか取れない。
「わたしはルナっていうの。おねえさんは?」
「……ユールベル」
ルナは笑顔で小さな手を差し出した。
ユールベルはとまどいながらもそれに応えて、そっと握手をする。そうしなければならないような無言の圧力を、隣からひしひしと感じたからだ。
「これでルナともおともだちだね!」
ルナは笑顔でそう言うと、また庭の中央へ走っていった。
「私、ラウルの友達だったの?」
ルナの走っていった方に目を向けたまま、ユールベルは少し非難するように尋ねかけた。
「ルナに難しいことを言っても混乱するだけだ」
ラウルは悪びれもせずに答える。
「嘘つき。子供に嘘をつくなんて最低だわ」
「たいして違わないだろう」
ユールベルは怪訝に眉根を寄せた。たいして違わない、などと本気で言っているのだろうか。それともただの言い逃れなのだろうか。
あらためて考えてみると、ラウルと自分の関係は、実際よくわからない。敢えていうなら医師と患者——それがいちばん近い気がする。だが、それだけで片付けたくはなかった。そう思うこと自体、まだラウルに依存していることの証明かもしれない。触れそうで触れないふたりの間の距離を見ながら、眉を寄せて目を細める。
「私、もう帰るわ」
ユールベルはそう言って立ち上がった。背を向けようとしたそのとき、ルナが一生懸命に自分の方へ走ってきていることに気がついた。
「ユールベルおねえさん、プレゼント」
少し息切れした彼女は、それでも人懐こく笑って、小さな赤い花を差し出した。中庭のどこかで摘んできたものだろう。
ユールベルは困惑した。どうしていいかわからずに立ち尽くす。
「もらっておけ」
ラウルがぶっきらぼうに言う。
ユールベルは身をかがめ、ゆっくりと手を伸ばして受け取った。
「私、もう帰るから」
声が少し震えていた。ルナに言ったのか、ラウルに言ったのか、自分でもよくわからない。だが、ルナは無垢な笑顔で答える。
「ユールベルおねえさん、またね!」
「……さようなら」
ユールベルは背を向けようとした。だが、その手をラウルは掴んで止めた。
「近いうちに医務室に来い。忘れるな」
真剣な顔を上げ、まっすぐにユールベルを見て言う。
ユールベルは何も答えず、ラウルの手を振りほどき、逃げるようにその場を離れた。
誰もいない裏道で立ち止まる。
空を見上げた。
緩やかな風が金色の髪をふわりと揺らす。
小さな花を両手で持ち、目を細めてじっと見つめた。
ラウルの娘になれた幸運な子——。
見ていてわかった。あの子は愛されている。
そんな彼女が妬ましくて怖かった。
そう思う自分が惨めで嫌だった。
変わりたい、そう思っているのに、変わることは簡単ではなくて——。
もう一度、空を見上げる。
青い空気を思いきり吸い込んだ。
胸が苦しくて、少し、涙が出た。
それでも、いつか、彼女を優しい目で見られる自分になりたい。
ユールベルは小さな赤い花を持つ手に力を込めた。
【まえがき】2008年キャラクター人気投票記念(2位 ユールベル)で書きました。最終話の少しあとの話です。