「一人でウチに乗り込んでくるなんて、おにいさん結構いい度胸してるよね」
「度胸って何だよ」
「姉さんとのことを僕に追及されるって思わなかった?」
「…………」
初めて彼女と二人で休日を過ごしてから3週間、ジョシュは毎週ユールベルと会っていた。今までは公園など外で会っていたのだが、今日は彼女の家で会う約束をして、ここへやって来たのである。もちろん彼女の弟がいることは承知の上だ。むしろ、二人きりだったら彼女の家に上がることはなかったに違いない。彼女も警戒するだろうし、自分も遠慮しただろうと思う。
彼女の思考は相変わらずわからないままだ。
なぜ自分と会ってくれるのだろう。自分が好きだと言ったことに対してどう感じているのだろう。自分のことをどう思っているのだろう——。聞きたいことは山ほどあったが、実際に聞くことは躊躇われた。聞いた瞬間にすべてが失われてしまうような、そんな気がして怖かったのだ。
ただ、少なくとも嫌われてはいないだろうという確信はあった。今はそれで十分である。レイモンドとのことが心の傷になっているかもしれない彼女には、慎重すぎるくらいに進めるのがちょうどいいはずだ。焦らずに少しずつ彼女との距離を縮めていけたらいい。そして、いずれは——。
「姉さんと付き合ってるの? その辺、イマイチはっきりしないんだけど」
アンソニーはソファに座ったまま、膝に腕をのせて身を乗り出し、眉をひそめながらジョシュに尋ねる。
付き合うというのが恋人になると同義ならば、現時点での答えは否としかいいようがない。彼女の気持ちは聞いていないし、毎週会っているのは確かだが、ただ並んで歩くだけで手さえ繋ぐことはないのだから。
ジョシュは考え込んだまま返事をしなかったが、微妙に曇った表情を見て、アンソニーはだいたいのところを察したようだった。面倒くさそうに溜息をついて上体を起こす。
「ほんと焦れったくて仕方ないんだけど。子供の恋愛じゃあるまいし何やってんのかなぁ。おにいさんもう30近いんでしょう? いい大人っていうか、そろそろおじさんだよ?」
「おまえには関係ないだろう」
「相手が姉さんじゃなければね」
アンソニーは頭の後ろで手を組みながら言った。
「僕としてはさ、先生一押しだったんだよね。姉さんには、先生みたいな優しくて穏やかな人がいいんじゃないかなって。まあ、先生にその気がなければ仕方ないんだけどさ。どうなんだろう? 先生って姉さんのこと好きじゃないのかなぁ?」
ジョシュにとって、それはあまり考えたくないことだった。もしも、サイラスがユールベルに好意を寄せているとしたら、そして行動を起こしたとしたら、自分ではとても敵わないだろうと思う。そして、サイラスの方が彼女を幸せにできるのではないかと——。
「ねえ、先生に聞いてきてくれない?」
「自分で聞いてくればいいだろう」
不安からか、思わずそんな突き放すような言い方をしてしまう。
アンソニーは体を起こして前屈みになると、もの言いたげにじっとジョシュを見つめた。
「おにいさんは姉さんのこと好きなんだよね?」
「……ああ」
あまりにも直球な質問にいささか動揺しながらも、ジョシュは正直に答えた。そのことはユールベル本人にも言ってあるし、アンソニーもとっくにわかっているようなので、今さら隠す必要はないだろうと思う。
「それで、どうしたいわけ?」
「どう、って言われても……」
「念のため言っておくけど、たいして本気でもないのに思わせぶりな態度をとったり、ちょっかいを出したりして、姉さんを傷つけることだけはやめてよね。そんなことをしたら、僕、絶対におにいさんのこと許さないから」
「俺は、本気だ」
本気だからこそ、彼女に対してこれほど慎重になっているのだ。決して思わせぶりな態度をとっているつもりはない。しかし、アンソニーはまだ信用していないのか、険しい表情でぐいっと身を乗り出して問い詰める。
「全部まるごと受け止める覚悟はあるの?」
「……ああ」
彼の迫力に気おされながらも、ジョシュは真剣な顔で頷く。にもかかわらず、アンソニーはソファにもたれかかって深く溜息をついた。僅かに顎を上げて、疑いの眼差しをジョシュに流す。
「本当にわかってるのかな……」
「何がだ? どういうことだ?」
何か含みがありそうなアンソニーの言動に、ジョシュは眉をひそめた。
「ま、とりあえずおにいさんのこと信用しておく」
「あの、コーヒー……」
背後からのユールベルの声に、ジョシュはビクリと体を震わせた。アンソニーと話しているうちに、彼女が隣の台所にいることをすっかり忘れてしまっていた。二人とも声をひそめていなかったように思うので、もしかしたら会話を聞かれてしまったかもしれない。
ユールベルは無表情のまま、トレイにのせたコーヒーをテーブルの上に置いていく。
ジョシュは息を詰めたままその横顔を窺い、特に意識している様子はなさそうだとわかると、ほっと小さく安堵の息をついた。
「ねえ姉さん、おにいさんがね、姉さんのこと……」
「わーっ!!!」
アンソニーがニコニコしながらユールベルに話し始めると、ジョシュは血の気が引いて頭が真っ白になった。妨害するように大声を上げて、あたふたと両手を伸ばす。
「なに……?」
「い、いや……」
ビクリとしたユールベルを見て、ジョシュは我に返った。不安の拭えないまま再びアンソニーに目を向けると、彼は白い歯を見せて悪戯っぽく笑っていた。またからかわれたのだと脱力する。
それでも、本当にユールベルに言われてしまうよりはいいだろう。
後ろめたいことは何もないが、それはいつかあらためて自分から彼女に伝えるべきことであり、こんな軽い調子で暴露されるのだけは勘弁してほしいと思った。
ユールベルが淹れてくれたコーヒーを飲んで一息ついたあと、ジョシュは大きなガラス窓を開けて、コンクリートのベランダに出た。雲ひとつない鮮やかな青空から燦々と陽光が降り注ぎ、そのまぶしさに思わず目を細める。そして、あまり広くはないそこにしゃがみ、持ってきたビニール袋から中身をひとつずつ出して広げた。白いプランター、袋に入った土、肥料、スコップ、そして花の種である。
「何かと思ったら花壇だったんだ」
窓際にしゃがんで覗き込みながら、アンソニーが呆れたように言う。
「女の子と会うのに花束を持ってくる人はいても、花壇を持ってくるのはおにいさんくらいじゃない?」
「そうかもな。どっちも花なんだし悪くはないだろう」
正確には花壇でなく鉢植えであるが、些細なことであり、ジョシュはあえて訂正しなかった。両方の袖をまくり上げると、プランターに土と肥料を流し込み、黙々とスコップで整えていく。
「でも、もっと他にいいものがあると思うんだけど。初めてのプレゼントだよね?」
「私がお願いしたの」
ジョシュの代わりに、アンソニーの隣に立つユールベルが答えた。
そう、これは彼女が望んだことなのだ。別にジョシュの独断でプランターを抱えてきたわけではない。いくらなんでも、頼まれもしないのにこんなものを持ってきて押しつけるほどの図々しさは持ち合わせていなかった。
一通りプランターの土をならして準備を整え、種をまき始めると、アンソニーも面白がって手伝い始めた。
「おにいさんって何となく無趣味な人かと思ってたなぁ」
「別にこれは趣味ってほどでもないけど……」
一人暮らしの部屋はあまりに味気なく、また人恋しさも手伝ってか、何とはなしにプランターで花を育てるようになっただけである。特に詳しいわけではない。ただ適当に種をまいて水をやって草をむしると、それなりに花は咲いてくれた。花の種類にこだわりがないので、育てやすいものばかりを選んでいるからだろう。
先週、そういう話をユールベルにしたら、意外なことに、彼女は自分も育ててみたいと言った。これまで彼女が自分から何かをしたいということはほとんどなく、何に関心があるのかもわからなかったので、少しでも彼女を知る手がかりを得られたことが言いようのないくらいに嬉しかった。
「適当に水をやってれば育つと思うけど、うまくいかなくても気にするなよ」
念のため、窓際に立っているユールベルにそう釘を刺す。ジョシュも仕事が忙しかったときに少し枯らしたことがあったが、それだけでけっこう落ち込んでしまった記憶がある。できればそんな思いを彼女にはさせたくはないが、生物である以上、絶対に駄目にしない方法などないこともわかっていた。
「適当って……?」
「俺もあんまりよくわかってないけど、土が乾いてきたらやればいいんじゃないかと……あ、やりすぎもよくないからな。様子を見て調整していけばいいと思う」
ユールベルは不安そうな面持ちながらもこくりと頷いた。
「おにいさん、どうせたびたび見に来るつもりなんだよね?」
アンソニーは「どうせ」に力を込めて皮肉っぽく言う。確かに、彼女に任せきりにするのではなく、ときどきは成長具合を確かめに来た方がいいかもしれない。しかし——ジョシュは彼の眼差しから逃れるように、プランターを見つめたまま目を細めた。
「それは……ユールベルが望むのなら……」
「私は、ジョシュさえ迷惑でなければ……」
呼応するように頭上から降ってきた彼女の声。
ジョシュはドキリとしてそこに立つ彼女を見上げた。いつものように感情の窺えない表情をしていたが、少し視線を外して目を泳がせたり、心持ち肩をすくめて後ろで手を組んだりして、どこか落ち着きなく感じられた。まるで、恥じらっているかのように——。
それは勝手な解釈かもしれない。
しかし、来ることを許されたのは事実である。
ジョシュは柔らかくふっと表情を緩めると、行くよ、と小さいながらもはっきりとした声で言った。
ベランダに座るジョシュ、窓際にしゃがむアンソニー、その隣に立つユールベル——3人は、あたたかい日差しと緩やかなそよ風を感じながら、それぞれ無言でたたずんでいた。心地いい昼下がりが、眠気を運んでくる。ジョシュはあくびを噛み殺しながら、雲ひとつない穏やかな青空を見上げた。
「花が咲く頃にはどうなってるかなぁ」
アンソニーはプランターを見つめながら、からかうような口調でなく、ぼんやりと独り言のようにそう言った。
ジョシュも、ユールベルも、何も答えなかった。
けれど、そこには気まずい空気はなく、ジョシュはうつむいたまま目を細めて、その近くて遠い未来のことをおぼろげに遠慮がちに思い描いた。