遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 第14話 寂寥

「ユールベル! こっち!!」
 奥の席に座っていたターニャは、喫茶店に入ったユールベルを見つけると、少し腰を浮かして大きく手を振った。今まではあちこち撥ねた癖毛だったが、どういうわけかストレートヘアになっていたので、一瞬ユールベルは面食らったが、それを表情に出すことなく、呼ばれるまま彼女の前に腰を下ろす。
「ごめんね、休日に呼び出したりして」
「ううん……」
 不安げにそう答えたところで、ウエイトレスが注文をとりにきたので、少し考えてレモンティを頼む。そして、運ばれてきた水に少し口をつけて、小さく息をついた。
「久しぶりね。元気だった?」
 目の前のターニャは明るい笑顔を見せている。が、どことなくぎこちなく、落ち着きもなく、緊張しているように感じられた。
「何か話があるんじゃないの?」
「えっ、ああ、まあ……」
 ユールベルが水を向けると、彼女は困惑して目を泳がせた。しばらく眉根を寄せて考え込んでいたが、やがて振り切るようにパッと笑顔を作った。
「ユールベルがどうしてるか気になったのも本当だから。しばらく会ってなくて、就職してからの話もほとんど聞いてなかったし、お仕事がんばってるかなーって」
「……ええ、それなりに」
 彼女の不自然な明るさを疑問に思いながら、ユールベルはぽつりと答えた。
「まわりの人とか大丈夫? 変な人いない?」
「みんないい人ばかりよ」
 今は——と心の中で付け加える。レイモンドのことは彼女に言ってなかったが、もう終わったことであり、あえて言う必要もないし言いたくもない。このことを言うべき相手がいるとすれば、レイモンドが次に狙いを定めているアンジェリカくらいである。
「あの先生とは仲良くしてる? ほら、えーと……」
 名前を忘れてしまったようで、ターニャは斜め上に視線を向けて記憶を辿る。しかし、それがサイラスのことだというのは、ユールベルにはすぐにわかった。
「先生とはときどきは会っているけど」
「そう、良かった」
 ターニャは安堵したように息をついた。彼女はなぜほとんど面識のないサイラスのことをそれほど気にするのだろうか。もやもやした気持ちになりながらも、あえて聞こうとはせず、何となくテーブルの上のグラスに視線を落とした。
 沈黙が重くなってきたところで、ユールベルの頼んだレモンティが運ばれてきた。スライスされたレモンを紅茶に沈めてそっと口をつける。その温かさにほっとして、少しだけ気持ちが軽くなった。
「ね、ケーキも頼まない? 遠慮しなくていいのよ?」
 ターニャは思いついたように勧めてくる。今日は彼女の奢りということなので、気を利かせてくれたのだろうが、どちらにしてもケーキまで頼むつもりはなかった。
「私、このあと用があるから」
「え? そうなの??」
「まだ一時間くらいは大丈夫だけど」
「そっか……」
 ターニャは少し考えたあと、残っていたミルクティを飲み干した。ティーカップをソーサに置くと、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐにユールベルを見つめる。
「私、ユールベルのこと、とても大切な友達だと思ってる」
 一言、一言、噛みしめるように繋いでいくと、大きく息を吸い、思い詰めたように表情を険しくして続ける。
「だから、私から、言っておかなくちゃって……」
 ただごとでなく緊張している彼女を見て、ユールベルは不安になってきた。あまりいい話でないことは容易に想像がつく。しかし、話の内容についてはまったく心当たりがなかった。僅かに眉を寄せながら、口を開こうとしている彼女の次の言葉を待つ。
「わ、私ね……今、レオナルドと付き合ってるの」
 ガタン——!
 ユールベルはテーブルに手をついて反射的に立ち上がった。顔をこわばらせて硬直する。思いもしないことに驚いたというのもあるが、それだけでないことは自分自身でよくわかっていた。
「ごめんなさい、あの……」
 ターニャは怯えたように身をすくめて目に涙を溜めていた。そんな彼女を見ていられなくて、ユールベルは下を向く。肩から髪がはらりと落ちて揺れた。
「どうして謝るの? あなたは何も悪くない」
 そう、ターニャは何も悪くない。レオナルドも悪くない。悪いのは他の誰でもなく、勝手に動揺している自分自身。今の私にはそんな資格もないのに——。
「だけど……」
「もう行くわ」
「待って!」
 ターニャの必死な声に追い縋られ、ユールベルは背を向けたまま足を止めた。緩いウェーブを描いた金色の髪がふわりと揺れ、後頭部の白い包帯がひらりと舞う。
「私たち、これからも友達よね?」
 ターニャがおずおずと問いかけると、ユールベルはぎこちなく小さな口を開く。
「ええ、何も変わらないわ……」
「だったらお願い、行かないで!」
「……今は、一人になりたいの」
 両手を顔で覆って静かに泣き崩れるターニャと、まだほのかに湯気の立ち上るレモンティを残し、ユールベルは足早に喫茶店を後にした。

 約束の時間よりだいぶ早く、次の待ち合わせ場所に着いた。近くの植え込みの煉瓦に座り、膝を抱えてそこに顔を埋める。前を通る人たちがちらちらと不思議そうに視線をよこすが、ユールベルにはそれを気にする余裕などなかった。通り過ぎる人たちの足音を聞きながら、膝を抱える手にぎゅっと力を込める。
 どれくらいの時間が過ぎたのかもわからず、時が止まったように感じていた、そのとき。
「ユールベル?」
 少し離れたところからジョシュの声が聞こえた。彼は急いで駆けつけてくると、隣にひざまずき、ユールベルの背中に手を置いて覗き込む。
「どうしたんだ? 気分が悪いのか?」
 優しくあたたかな声、あたたかな手。そのせいで、必死に凍らせようとしていた自分の気持ちが一気に氷解した。バッと勢いよく彼の首に腕を絡めて抱きつく。ジョシュはバランスを崩して尻もちをつきながらも、ユールベルの体をなんとか受け止めた。
「ど、どうしたんだよ……」
 ジョシュの声はうわずっていた。しかし、構うことなく、細い腕にぎゅっと力を込めて縋りつく。ピタリと寄せた体から体温と鼓動が伝わる。少し乱れた長い髪が、彼の背中側に落ちて揺れた。
「抱いて」
「……え?」

 チチチチチチ……。
 遠くに小鳥のさえずりが聞こえる。
 ユールベルは少し背中を丸め、膝を抱えるように体を横たえていた。強い日差しに照りつけられた足もとがジリジリと熱い。
「少しは落ち着いたか?」
 いつもと変わらないジョシュの口調。けれど、ユールベルは背を向けたまま何も答えなかった。頭上の木々がさわさわと擦れる音と、優しい草の匂いに包まれながら、小さな口をきゅっと結んで身を固くする。
「無理しなくてもいいわ」
「無理なんてしてない……まあ、かなり驚いたけど……」
 抱いて、少しでも私のことを想ってくれるなら——我を忘れてそんなことを求めてしまったユールベルを、ジョシュは理由も聞かずにこの公園へ連れてきてくれた。彼は大きな木陰に腰を下ろして空を見上げたが、ユールベルはとても彼の顔を見られず、その隣に寝転がりずっと背を向けていた。
「気持ちが沈んだときやつらいときは、外に出て青空を見上げるのが一番いい」
「……雨が降ってたら?」
「いつかは晴れるだろ」
 ジョシュは苦笑しながら答えた。その答えを、ユールベルはうらやましく思い、同時に彼との距離を大きく感じた。
「もうわかってると思うけれど、私、あなたが考えていたような無垢な女の子じゃない」
「別に、俺は……」
 ジョシュはそう反論しかけて口ごもった。ユールベルは淡々と続ける。
「あなたがそう誤解しているのはわかっていた。わかっていたけど否定しなかった。あなたの優しさを利用していたの。寂しかったから、一緒にいたかったから……だからごめんなさい。もうこれで終わりにするわ」
「ちょっと待てよ! なに言ってんだよ、勝手に終わらせるなよ!」
 ジョシュは焦ったように振り向いて言った。それでもユールベルは背を向けたまま動かない。少し呼吸をしてから、静かに話し始める。
「私、今朝、友達に会ってきたの。話があるって言われて」
 ジョシュは相槌も打たず黙りこくっていた。ユールベルから彼の姿は見えないが、いきなり話が変わって困惑しているだろうことは、何となく空気で伝わってくる。少し緊張して手元の芝を握りしめた。
「その友達、付き合ってるって……私が以前一緒に住んでいた人と」
「す……?!」
 ジョシュは素っ頓狂な声を上げかけて、それを呑み込んだ。
「……今でも、そいつのことが好きなのか?」
「優しくしてくれるから、寂しさを埋めるために利用していたのよ。きっと、最初からずっと……。好きな人は他にいたけれど、相手にしてもらえなかったから。でも、そういうのは良くないと思って自立しようとした。けれど無理だった。さっきみたいに友達に嫉妬したり、あなたを利用したり、弟にまで縋ったり……」
 ユールベルの声は次第に小さくなっていく。芝を握る手に力がこもり、ブチブチとちぎれる音がした。
「利用とか言うなよ。だいたい弟は家族なんだから遠慮することないだろう」
「そう、家族なの。家族だから許されない……あんなこと……」
「…………」
 張りつめた空気。ジョシュが背後で小さく息を呑んだ。ユールベルの発言は曖昧だったが、その言い方から何があったか察したのだろう。それでも構わないと思って口にしたのだから、覚悟はできている。ユールベルは芝を握る手を緩めた。
「ここまで聞いたら軽蔑する以外にないでしょう? もういいの」
「放っておけるかよ!」
 ジョシュは横たわるユールベルの両側に手をつき、真上から覗き込んで強く訴える。そろりと視線を上に向けたユールベルに、彼の真剣な眼差しが突き刺さった。
「俺と一緒にいたいって思ってくれたんだろう? それって俺のことを好きってことじゃないのか? それともまだ相手にしてくれなかったヤツに未練があるのか?」
「わからない……本当にわからないの……」
 必死に追及されて混乱する。言い逃れではなく、本当に自分の気持ちがわからなかった。ユールベルが潤んだ目を細めると、ジョシュは奥歯を噛みしめて苦しげに顔をしかめた。
「俺は、利用されたなんて思っていない。お互いに会いたいから会ってただけだろ? 嘘をついて騙してたわけでもないのにそんな言い方するなよ。俺のことを嫌ってるわけじゃないなら、これからも……」
「同情ならやめて。私もあなたも傷つくだけだから」
「同情じゃない。俺が終わりにしたくないだけだ!」
 今の彼がそう思っていることは間違いないだろうが、それはおそらく一時の感情に流されてのこと。だから、それに縋ってはいけないし、自分からきっぱりと終わらせなければならない。これ以上、彼に後悔させないように、自分が後悔しないように——。
「……来週、また会ってくれるか?」
 ジョシュが緊張した面持ちで問いかけてくる。
 ユールベルは彼から目を逸らすと、少し考え、やがてぎこちなくこくりと頷いた。