遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 第21話 陽の当たる場所(最終話)

「あっ……」
 ベランダに足を踏み出したユールベルは、プランターに目を落として小さく声を上げた。如雨露を持ったまま、瞬きも忘れるほどに、じっとそのプランターを見つめる。白いネグリジェが風をはらんでふわりと揺れた。
「どうした?」
 寝室から出てきたジョシュは、立ち尽くすユールベルに気付くと、半開きの窓に手を掛けて顔を覗かせた。それでもユールベルの視線はプランターから離れない。不思議そうに、ジョシュはその視線をたどる。
「あっ!」
 その声には、驚きとともに喜びの色も混じっていた。おかげで、ユールベルにもようやく実感が湧いてくる。
 プランターには、ひとつだけ赤い花が咲いていた。
 それは、ジョシュに頼んで、土作りから種蒔きまでやってもらったものである。最初はユールベルとアンソニーで、数週間前からはユールベルとジョシュで世話をしてきた。本当に花を咲かせるのだろうか、と不安に思いつつも、祈るような気持ちで水をやり続けた。そして——。
「そろそろとは思ってたけど、まさか今日だなんてな」
「ただの、偶然だわ……」
 可愛げのない言葉を返すユールベルを、ジョシュは背後からそっと腕の中に引き入れる。
「じゃあ、すごく幸せな偶然だ」
 あたたかな声が耳を掠める。
 ユールベルは少し体温が上がるのを感じた。何か言おうとするものの、上手く言葉が出てこない。代わりに、自分を閉じ込めるその腕に、おずおずと自分の手を重ね置く。彼の腕に柔らかく力がこもった。

 ベランダから見えるのは、まだ静かな早朝の街。
 昇り始めた太陽が二人を照らす。
 生まれたての赤い花は、優しくそよぐ風に小さく揺れていた。


 家具や調度品の類がほとんど置かれていない、簡素な部屋。
 さほど広くなく、古びているが、隅々まで清掃はされているようだ。
 ユールベルはその部屋の奥で、全身が映せるくらいの鏡と向かい合わせに座っていた。膝にのせた自分の手に、じっと目を落としている。鏡はいまだに苦手でまともに見られない。背後では、緩やかなウェーブを描いた金の髪を、ほっそりとした手がブラシで丁寧に梳かしていた。
「ごめんなさいね」
「えっ……」
 戸惑いの声にも手を止めることなく、レイチェルは言葉を繋ぐ。
「あちらのお母さまは、ドレスのことはわからないそうだから……」
 ユールベルがうつむいたまま少し視線を上げると、そこにはウェディングドレスを着た自身の姿が映っていた。自分にはふさわしくないと感じるほど、清楚で、繊細で、それでいて華やかさもある純白のドレス——これを着せてくれたのがレイチェルである。自分ではしたことのない化粧も施してくれた。そして、次はこの長い髪を整えようとしているようだ。彼女の手に迷いはない。ただ、鏡越しに見た表情は、気のせいかどこか寂しそうに見えた。
「別に、今はもう……」
 ユールベルはうつむき、ぽつりと言う。
 あの頃——自分の欲してやまなかったものを、すべて当たり前のように手に入れ、そして、当たり前のように享受していた彼女が許せなかった。けれど、今は、それが自己中心的な感情だったことを理解している。彼女に対する苦手意識は消えないものの、あのときのような激しい敵意や不快感はない。
「私は……」
 じっと考え込みながら、静かに切り出す。
「今まで、世界が怖くて仕方なかった。まわりのものすべてに怯えていた。だから、他人と関わりたくなかったし、攻撃的になったりもした。でも……、何があっても自分の味方でいてくれるって、そう信じられる人ができたおかげで、少しだけ世界が怖くなくなったの……こんな気持ち、あなたにはわかってもらえないでしょうけど……」
 髪を梳く手がゆっくりと止まった。
「少しは、わかるわ」
 レイチェルは控えめにそう言うと、再びブラシを持つ手を動かし始める。
「私は、一生を掛けてその恩を返していこうって決めたの」
 もしかすると、それはアンジェリカが生まれた頃のことかもしれない。漆黒の瞳を持つ「呪われた子」を生み、一族から白い目を向けられていたことを、ユールベルも何となく覚えている。そして、そんな彼女を救ったのが、サイファということなのだろう。
「私も……ジョシュに返していけたらいいんだけど……」
「その気持ちを、ずっと持ち続けていれば大丈夫よ」
 レイチェルは優しい声で言う。しかし、ユールベルは顔を曇らせた。
「自信がないの」
「えっ?」
「私には愛情を返せる自信がない」
 鏡越しに、レイチェルは蒼い瞳をぱちくりさせ、不思議そうな顔で小首を傾げた。
 ユールベルは頭の中を探りながら言葉を紡いでいく。
「いつも私のことを大切にしてくれて、とても感謝しているけれど、ジョシュを愛しているのかはわからない……愛するということ自体がよくわからないの……彼に愛されているかどうかさえ……」
 心の隅に追いやっていた漠然とした不安。しかし、それを言葉にするにつれ、とんでもなくひどいことだと気付かされる。こんな気持ちで結婚するなど彼に失礼だろう。けれど、ここまできて今さらどうすればいいのか着地点が見つからない。考えているうちに、頭がぐらぐらして少し気持ち悪くなってきた。
「難しく考えることはないんじゃないかしら」
 ユールベルの気持ちを知ってか知らずか、レイチェルはさらりと言う。僅かに眉を寄せて視線を上げると、鏡の向こうで、彼女は慈しむように微笑んでいた。
「おかえり、ただいま、ありがとう——そんなささやかな思いやりと感謝の積み重ねが、愛情になっていくんだと思うわ。これから長い時間を掛けて、あなたたちふたりが、あなたたちだけの愛情の形を作っていくの」
「そんな……こと、で……」
「そんなことだけど、とても大切なことよ」
 にわかには受け入れられなかったが、彼女の言葉を聞いていると、不思議と信じてみたい気持ちになる。実際に、ささやかな感謝と思いやりが、どれほど気持ちをあたたかくしてくれるのかは、ユールベルもすでに十分すぎるくらい実感している。それが愛情と呼べるものかはわからない。けれど、もしも本当にレイチェルとサイファがそれを積み重ねてきて、その結果として今の二人があるのだとすれば——。
 ふわり、と右目の包帯の上に何かが被せられた。
「えっ、なに……?」
「せっかくきれいなドレスを着ているのに、ただの包帯では素っ気ないでしょう?」
 そう言われて、ユールベルは鏡に目を向ける。
 包帯の上に巻かれていたのはレースだった。白い包帯の上に白いレースなので、目立ちはしないが、かえってそのことが上品さを醸し出している。ドレスのレースとも調和していた。
「言うなって口止めされたんだけど……」
 レイチェルはそう前置きをして、静かに続ける。
「実は、ラウルが用意したものなの」
「…………」
 ユールベルは目頭が熱くなるのを感じた。きのう彼に診察してもらったが、そんなことは何も言っていなかった。淡々と診察を終えただけである。結婚式の話題も出なかったし、出さなかった。まさか、気に掛けてくれていたなんて——。
「ありがとう、って伝えて」
「ええ、必ず」
 レイチェルはにこやかにそう答えると、ふんわりと軽やかなウェディングベールを手に取った。

「あの……」
 すっかり支度を終えたジョシュは、パイプ椅子に座るサイファに目を向け、遠慮がちに切り出した。
「すみませんでした。何から何までお世話になって……」
「君に任せていたら二年くらいかかりそうだからな」
「そこまではかかりませんよ」
 少しムッとして言い返すと、サイファはあははと軽く笑う。
 当初、ジョシュたちは結婚式を挙げないつもりだった。しかし、サイファは、式を挙げないのなら結婚を許可しないと言い出し、あっというまに教会から衣装まで手配してしまったのだ。勝手なことを、とジョシュは腹立たしく思ったが、ユールベルの花嫁姿を見たい気持ちもあり、あまり文句も言えないまま流されてしまった。ユールベルも、サイファの言うことでは逆らえず、渋々ではあるが受け入れざるを得なかったようだ。
「ユールベルの保護者として、してやれる最後のことなんだよ」
 サイファは優しく微笑んで言い添える。
 ユールベルは結婚と同時にラグランジェ家を出ることになる。これからはラグランジェとは無関係の人間となり、サイファも表立って彼女を守ることはできなくなるのだ。そして、一度ラグランジェ家を出た人間が、再び戻ることは決してできない。その責任の重さに、ジョシュはあらためて身の引き締まる思いだった。
「小さいけれど、いい教会だろう?」
「はい」
 確かに、普通に結婚式を挙げるには小さすぎるが、伝統のある教会だと聞いている。そう聞いたせいかもしれないが、他の教会よりも厳粛な雰囲気があるように感じられた。建物も長椅子も古びてはいるものの、上質のものを丁寧に使っているためか、かえって風格と格式が増しているようだ。
「私とレイチェルも、ここで結婚式を挙げたんだよ」
「えっ?」
 聞き返した声に、怪訝な色が滲んだ。ラグランジェ本家の人間といえば、お披露目も兼ねて大々的にやるものだと思っていた。なのに、こんなに小さな教会で挙式なんて、いったいどうして——。
「ちょっと、事情があってね」
 サイファはごまかすように言葉を濁したが、微妙な面持ちをしているジョシュを見て付言する。
「いつか、気が向いたら教えてあげるよ」
 別に、何がなんでも聞き出したいわけではなかった。誰にだって、言えないことや言いたくないことくらいあるだろう。ただ、すべてが順風満帆だと思っていたサイファにも、何らかの問題があったらしいことに、少なからぬ驚きを感じただけである。
「ジョシュ」
 サイファは真面目な顔になり、少しあらたまって語りかける。
 ジョシュは緊張してごくりと唾を呑んだ。
「わかっているとは思うが、これはゴールではなく通過点に過ぎないからな。昨日があって今日がある。今日があって明日がある——過去を作るのも、未来を導くのも、現在の自分ということだ」
 その言葉をしっかりと噛みしめ、真剣に頷く。
 これから長く続いていくであろうこの道を、自分自身のためにも、ユールベルのためにも、幸せなものにしなければならない。そのためには、現在という一瞬一瞬を、大切に積み重ねていくことが必要なのだ。
「おにーさんっ」
 弾んだ声とともに扉が開き、スーツ姿のアンソニーがにこやかに顔を覗かせた。
「姉さんの支度が終わったって」
 待ちかねたその言葉に、ジョシュはパッと顔を輝かせる。サイズ調整のために、ユールベルは一度試着したことがあるのだが、ジョシュはそれを見ていなかった。新郎は結婚式の日まで新婦の花嫁姿を見てはならない、というしきたりがあるからだ。ようやく見られると思うと、自然と顔の筋肉が緩んでくる。
「式の最中はあまり締まりのない顔をするなよ」
「わ、わかってますよっ!」
 サイファにからかい半分で忠告され、ジョシュはあたふたと言い返す。しかし、確かに気をつけていなければ緩みっぱなしになりそうで、自分自身でも冗談抜きで少し心配になってきた。


 重厚な両開きの扉が大きく開け放たれていた。
 そこから射し込む白い陽光は、中央の赤い絨毯を鮮やかに照らしている。
 ジョシュとユールベルは、その突き当たりにある祭壇の前に並んで立っていた。二人とも神聖な雰囲気に呑まれ、やや緊張ぎみの表情を見せている。足下にはステンドグラスの光が落ち、純白のドレスの裾を、幻想的な彩りで染め上げていた。
 赤絨毯の両側に並んだ木製の長椅子には、ジョシュの関係者である彼の両親と、ユールベルの関係者であるサイファ、レイチェル、アンソニーが、それぞれ左右に分かれて座っていた。サイファたちはにこやかに見守っているが、ジョシュの両親はどちらも緊張しているようで、必要以上に姿勢を正し、ガチガチにこわばった表情で正面を見つめている。
 神父は誓いの言葉を読み上げ始めた。
「ジョシュ=パーカー、あなたはいまこの女性と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかなときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、この女性を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちの限りともに生きることを誓いますか」
「……誓います」
 ジョシュは少し掠れた声で答えた。
 神父はユールベルに視線を移し、読み上げる。
「ユールベル=アンネ=ラグランジェ、あなたはいま——」
 その言葉を聞きながら、ユールベルは、これまでのことを走馬燈のように脳裏によみがえらせていた。自暴自棄になっていた自分が、ここまで辿り着くことができたのは、ジョシュはもちろんのこと、サイファやラウル、ターニャ、レオナルド、ジーク、アンジェリカ、サイラス、アンソニー、その他たくさんの人たちが見捨てずにいてくれたからだろう。思い返すのも怖いくらい迷惑も掛けた。だからといって、ここで身を引いたところで何にもならない。感謝と謝罪の気持ちを胸に、怖がらず……いや、怖がりつつも、前を向いて進んでいこうと決めたのだから。
「——ことを誓いますか?」
「誓います」
 神父の言葉が終わると、ユールベルは凜とした声で答えた。
「結婚の誓約の印に、指輪の交換をいたします」
 神父が二人の結婚指輪を取り出した。シンプルなプラチナ製の指輪である。教会も衣装もサイファに決められてしまったが、これだけはジョシュとユールベルの二人で選んだものだ。指輪のことなどよくわからなかったが、飽きのこないものにしたいという思いは一致していたので、それほど迷うことなく選ぶことができた。
 神父の導きに従い、指輪の交換を始める。
 だが、二人とも指輪など初めてで、手つきはぎこちなく、なかなか上手くいかなかった。サイファとレイチェルは顔を見合わせてくすっと笑い合い、アンソニーはからかうようにニヤニヤとしているが、ジョシュの両親は心配のためか顔から血の気が引いている。ようやく嵌め終わると、彼らは本人たち以上に大きく安堵の息をついた。
 神父も少しほっとした様子で、次の段取りに移る。
「それでは、誓いの口づけを——」
 ユールベルは少し顔を上げ、ジョシュを見つめてから目を閉じた。
 身を屈めた彼から、触れるだけの優しい口づけが落とされる。
 唇に残る、あたたかい感触——。
 ユールベルは、ゆっくりと睫毛を震わせながら目を開く。
 そして、再び視線を合わせると、互いに幸せそうに微笑み合った。

「おめでとう、ユールベルっ!」
「どうして……?」
 ユールベルたちが教会の外に出ると、ターニャとレオナルドがひょっこり姿を現した。ターニャに結婚するという報告はしたが、家族のみの式だからと、場所や時間までは教えなかったはずだ。もしかして、と背後のアンソニーを振り返ると、彼は悪戯っぽくニッと白い歯を見せた。ユールベルは呆れたように溜息をつく。
「来ないでって言ったのに……」
「あら、たまたま通りがかっただけよ、ね?」
「ま、そんなところだ」
 ターニャとレオナルドは、ニコニコしながら、示し合わせたようにとぼけた言い訳をする。その悪びれない態度と、どこか幸せそうな雰囲気に、ユールベルはすっかり毒気を抜かれた。
「式も見てたの?」
「ええ、こっそりと」
 ターニャはそう言うと、夢見がちに目を輝かせて両手を組み合わせる。
「ユールベルすっごくきれいだし、雰囲気も神聖で厳粛で、それでいてあたたかくて……ひいき目なしに素敵な式だったわ! こういう小さな教会での結婚式って憧れちゃうっ」
「残念だが、そうはいかないぜ」
 レオナルドはニヤリと口の端を上げた。
「ラグランジェ家がこんな貧相な結婚式なんて挙げられるか。思いっきり威厳を見せつけるために、これでもかってくらい豪華で盛大な式にするんだからな」
 言いたい放題な彼に、ターニャはじとりと冷ややかな視線を流す。
「私、あなたと結婚するとは言ってないわよ」
「え? ちょっ、誰だ? 他に誰かいるのかっ?!」
 わたわたするレオナルドに、彼女はツンと背を向ける。しかし、ユールベルには密かにペロッと舌を出して見せた。この二人が付き合うようになってから、一緒にいるところを見たのは初めてだが、思いのほか波長が合うように感じられた。それは、二人をよく知るユールベルにとっても嬉しいことだ。少し考えた後、持っていたブーケをそっとターニャに差し出す。
「えっ?」
「もらって」
 それでもターニャは戸惑っていた。口元に僅かな喜びを覗かせつつ、瞳は困惑したように揺らいでいる。
「……いいの?」
「もらってほしいの、あなたに」
 ユールベルは少しも目をそらすことなく言う。ターニャは恥ずかしそうにはにかんで頷くと、差し出されたブーケをそろりと受け取った。ありがとう、と小さな声で感謝を述べながら、無垢な白い花に目を落とし、頬をほんのりと赤く染める。
「よし! さっそく結婚式場を決めに行くぜ!」
「ちょっ、なにバカなこと言って……きゃっ!!」
 余韻に浸る間もなく、ターニャはレオナルドに無理やり手を引かれ、よろけてこけそうになりながら走り出す。それでもブーケはしっかりと手に持ったまま、それを高々と掲げ、満面の笑みを浮かべて「じゃあ、またね!!」と声を張り上げた。
 その様子を、ジョシュはポカンと眺めていた。
「慌ただしい奴らだな」
「ええ」
 ユールベルは、ターニャたちの消えていった方を見つめながら目を細める。
「二人には幸せになってほしい」
「二人にも、だろ?」
 ジョシュはユールベルの肩にポンと手を置いて言う。
 一瞬、ユールベルはその意味がわからず、きょとんとしてジョシュに振り向いたが、彼の表情を見て言いたいことを理解した。胸にあたたかいものを感じながら、こくりと頷いてみせる。

 やにわに、少し強めの風が吹いた。
 長い髪とウェディングベールが軽やかに舞い上げられる。
 ユールベルは、その風の行き先を追って顔を上げた。
 優しい陽だまりの上には、優しい空色が広がっていた。

 今日まで私を生かしてくれてありがとう。
 これからは、私自身の意志で生きていく——。

 ユールベルは空を仰ぎ見たまま、隣のジョシュの手を握った。
 彼は少しばかり驚いていたが、すぐに優しく握り返した。
 そして、ゆっくりと顔を見合わせ、柔らかく穏やかに微笑み合った。
 まるで、二人を包み込むこの陽だまりのように。