とうとう、このときが来たか——。
千尋はだんだんと鼓動が速くなっていくのを自覚しつつ、口を引きむすぶ。
昼休み、職場の自席で冷たいコンビニおにぎりにかぶりつきながら、いつものようにニュースサイトをチェックしていたら、女子中学生が行方不明になっているという記事を見つけたのだ。
榛名 希(はるな・のぞみ) 中学二年生 十三歳。
掲載されている顔写真はうつりが悪くてよくわからないが、年齢や状況からいってハルナのことで間違いないだろう。ハルナというのが偽名かもしれないとは思っていたが、まさか名字のほうだとは思わなかった。
記事には、終業式のあと学校を出てからの足取りが掴めていないとある。それが本当なら事件性はないと判断されていたのかもしれない。自発的な家出と見なされると積極的な捜索はしないのだ。
ただ、携帯電話どころか現金さえ持っていない十三歳の子供が、一週間も行方不明になっていれば、誘拐などの犯罪に巻き込まれた可能性を認めるしかない。それで公開捜査に踏み切ったのだろう。
こうなるかもしれないと最初から考えていたので、覚悟はしていたつもりだが、実際に現実になると心中穏やかではいられなかった。それでも、疑念を持たれないよう普段どおりに過ごさなければ——。
「あれ、今日はのんびり食ってるんすね」
「ん、ああ……メールに気を取られてた」
「カノジョっすか?」
昼食から戻った後輩が、人懐こく笑いながら隣に座った。
千尋は曖昧にごまかしつつスマートフォンを机に伏せる。会社に不自然なログが残ってしまうことを警戒して、私物のスマートフォンで他の記事を探していたのだが、熱中して食べるのを忘れていた。
時計を見ると、昼休みが終わるまであと十分ほどしかなかった。かじりかけのコンビニおにぎりを急いで口に放り込むと、サラダのふたを開け、すっかり冷めているであろう唐揚げに手を伸ばした。
ハルナを誘拐してから一週間。
彼女は掃除をして、洗濯をして、勉強をして、漫画を読んで日々を過ごしている。
すべて彼女自身の意思だ。掃除洗濯も彼女のほうからさせてほしいと頼んできた。家に置いてもらうことに引け目を感じたくないらしい。それで気がすむのならと任せることにしたのである。
勉強も真面目に取り組んでいる。まずは学生鞄に入っていた夏休みの宿題を終わらせるつもりだという。そのあとは参考書や問題集を使って勉強したいとのことで、何を買おうか彼女と考えていた。
漫画はほとんど読んだことがなかったらしい。とりあえずいくつか適当に見繕って読ませてみたところ、ダークファンタジーの少年漫画が気に入ったようで、毎日すこしずつ読み進めている。
料理は苦手らしく、朝食も夕食も千尋が作ることにしている。正直、たいしたものは作っていない。おかずが一品だけということもある。それでも彼女はいつも満足そうにしていた。
もともとあまりしゃべるほうではないのだろう。けれど話しかければきちんと丁寧に答えてくれるし、感情が表に出ることも多い。控えめながら笑顔を見せてくれるようにもなった。
思いのほか悪くない日々だった。気ままな一人暮らしを望んでいたはずなのに、この二人暮らしを心地よく感じている。漠然とだが、ずっと続けばいいとさえ思い始めていた。けれど——。
仕事を定時で終え、自宅マンションの前まで何事もなく帰ってきた。
そうすぐには突き止められないはずだと思いながらも、公開捜査が始まったことへの不安は少なくない。自宅にいても、会社にいても、これからはずっとそれを抱えつづけていくのだろう。
人気のないひっそりとしたエントランスに入り、オートロックのガラス扉を鍵で開けて中に進むと、郵便受けのダイヤル錠を暗証番号で開く。そしていつものように新聞と郵便物を取ろうとした、そのとき——。
ガチャン。
何か固いものが落ちたような音が響いた。
この郵便受けの中から聞こえた気がして、手前のものを取り出して覗いてみると、確かに何かがあった。奥のほうまで手を伸ばして掴みとる。それは、念のためにとハルナに渡した自宅の鍵だった。
今、たったいまだ!
ハッとしてガラス扉のほうに振り向くと、あたりを気にしながら外に出ていく少女の後ろ姿が見えた。顔はよく見えなかったが、髪型からも背格好からも服装からもハルナで間違いない。
全力で追いかけ、いまだ気付かない彼女の後ろから手首を掴んだ。彼女はギョッとして振り向き、それが千尋だとわかるとみるみるうちに青ざめる。凍りついて声も出ないようだ。
「ハルナ」
そう呼びかけ、千尋はゆっくりと呼吸をしてから言葉を継ぐ。
「どこかへ行くなら車で送っていく」
「…………」
ハルナは気まずげな顔になり目をそらした。
言いたくないというより行くあてがないのだろう。頼る相手も、荷物も、お金もないくせに、いったいどこでどう過ごすつもりだったのか。何も考えないまま飛び出してきたのか、あるいは——。
「死ぬ気だったのか?」
その問いに、ビクリと彼女の体が震えた。
さらに問い詰めようとした瞬間、わあっと小学生の男の子たちが隣を駆け抜けてマンションに入っていく。そのうちの一人が好奇心を隠そうともせず無邪気にこちらを見ていた。
「とりあえず部屋に戻ってくれないか。ここだと人目につく」
彼女としてもそれは本意でなかったのだろう。返事はなかったが、手を引くと素直にマンションの部屋までついてきてくれた。
「メシを食ってから話そう」
そう告げると、千尋は着替えて夕食の準備を始めた。
もうハルナに逃げる気はないようだ。いまだに思いつめた顔をして黙りこくっているものの、おとなしくダイニングテーブルについて、千尋が用意したグラスの麦茶をちびちびと飲んでいる。
そのあいだに手早くレトルトのスパゲティとポタージュを作り、テーブルに並べた。すぐにできるものを選んだだけで意図したわけではないが、初めてのときと同じメニューである。
いただきます、と機械的に口にしてから千尋は黙々と食べ始める。彼女も硬い表情のまま従う。食事中にあまり話をしないのはいつものことなのに、今日はとても重苦しく感じた。
「ニュース、見たんだな?」
ハルナが食べ終えるとすぐに後片付けをして、あらためてダイニングテーブルで向かい合い、そう切り出した。
ハルナはうつむき加減でこくりと頷く。
「私がここにいたらおにいさんが誘拐犯として捕まってしまう。だから……おにいさんも出て行っていいって言ってましたし、ちゃんと鍵をかけて郵便受けにも入れました。なのに……」
言葉を詰まらせると、眉根を寄せてさらに深くうつむいた。
テーブルに阻まれて見えないが、膝の上でこぶしを強く握りしめているのだろう。力のこもった腕がわずかに震えているのがわかる。だからといって引き下がるわけにはいかない。
「どこへ行くつもりだったんだ?」
「……まだ、考えてませんでした」
「やっぱり死ぬ気だったんだろう」
「…………」
答えないことが答えだ。
帰るタイミングがもうあとすこしでも遅かったら、郵便受けで見つけた鍵の意味をすぐに悟れなかったら、会うことすらできずに死なせていたかもしれない。そう思うと背筋が寒くなった。
「ハルナ」
落ち着いた声音を意識して呼びかける。
「もしおまえが死んだら、それまでの足取りを警察に捜査されるだろう。本気でな。そうしたらここにいたことは確実にバレる。オレは未成年者誘拐だけじゃなく、下手したら殺人や自殺幇助の容疑までかけられかねない」
「そん、な……」
彼女は凍りついたようにぎこちなく言いながら、おずおずと顔を上げた。その双眸はひどく揺れている。いまとなってはもうすべてが手遅れなのだと、ようやく気付いたのかもしれない。それでも——。
「オレのことを思うなら死ぬな。ここにいろ」
千尋はまっすぐ意志の強いまなざしで見据えて、静かに告げる。
その気持ちを尊重してくれたのか、他にどうしようもなかっただけなのか。ハルナはすべてを飲み込んでこらえるような顔になりつつも、潤んだ目をそらすことなく真摯に頷いた。