「馬……だと?」
「そう、乗れるか?」
夕陽の射し込む医務室で、サイファは机に片手をついて身を屈めると、眉をひそめるラウルを覗き込んで質問を繰り返した。斜めにした顔に、金色の髪がさらりと掛かる。気のせいかもしれないが、その薄い唇には、何か意味ありげな笑みが浮かんでいるように見えた。ラウルは訝しげな視線を送ると、椅子に座ったまま手元のカルテ整理を再開した。
「この国に来てから一度も乗っていない」
「乗れるってことだな」
サイファは間髪入れずに切り返した。
ラウルはカルテを持ったまま手を止め、横目で鋭く睨みつける。
「何を企んでいる」
「あしたレイチェルと遠乗りに行く予定なんだ。だから、ラウルも一緒にどうかなと思って」
サイファは人なつこく声を弾ませると、顔の横で右手を開いて見せた。
「断る」
ラウルは何の躊躇もなく拒否した。遠乗りなど楽しくもなんともない。ただ疲れに行くようなものだ。サイファと一緒となると尚更である。たとえレイチェルが一緒だとしても、いや、むしろレイチェルが一緒だからこそ、余計に行きたくないのかもしれない。ふたりの仲睦まじいところを見せつけらるなど冗談ではないと思う。
「そう言うなよ。レイチェルも喜ぶと思うし、来てくれよ」
「……あいつがそう言ったのか?」
「いや、でもラウルに懐いているみたいだからさ」
サイファは軽い口調で答えた。しかし、黙ってうつむいたラウルを目にすると、少し真面目な表情になった。何か普通ではないことを感じ取ったのだろう。それでも、ラウルには取り繕う方法など思い浮かばない。
「実を言うとさ」
サイファはラウルの肩に腕を置き、軽く体重を掛けて寄りかかった。
「アルフォンスに頼まれたんだよね。レイチェルを気晴らしに連れて行ってほしいって。アルフォンスは何も言わなかったけれど、何かあったんじゃないのかな」
斜め上に視線を流しながら淡々と言うと、不意にラウルに振り向いて至近距離で覗き込んだ。鮮やかな青い瞳が宝石のように透き通って見える。
「ラウルは何か知っているか?」
「いや……」
知っているも何も、ラウルがその当事者なのだ。しかし、どれほど厳しく追及されようとも教えるわけにはいかない。サイファには内緒にすることをレイチェルと約束したのである。
「そうか……気にならないのか?」
「おまえの勘違いかもしれん」
サイファはその言葉を聞くと、ラウルの肩口で小さく溜息をついた。
「アルフォンスは嘘が下手なんだよ。ラウルと同じくらいにね」
ラウルは思わず視線を逸らせた。その耳元に、サイファは確信を持った声を送る。
「レイチェルと喧嘩でもしたんだろう?」
「喧嘩などしていない」
「レイチェルが我が侭を言って怒らせたのか?」
「そんなことはない」
「それともラウルの方がひどいことを言ったのか?」
「……言っていない」
「ちゃんと謝って許してもらったんだろうな?」
「………………」
彼が推測しているだろうことは、全くの間違いとはいえないが、根本的な部分で的を外していた。だが、事実を知られるよりは、このまま勘違いさせておいた方がいいのかもしれない。問題は彼が納得するかである。なんとか核心に触れることなく言い逃れられないものかと思案する。だが——。
「まあいいよ」
サイファは拍子抜けするくらいにあっさりと引き下がった。体を起こして両手を腰に当てる。
「レイチェルかアルフォンスに口止めされているとしたら、いくら尋ねても口を割ることはないからな。それに、すでに問題は解決しているみたいだしね。もう仲直りはしたんだろう?」
自分の推測が的外れであるなどとは考えてもいないようだ。完全にそれが事実だと思い込んでいる。以前にも似たようなことがあったせいかもしれない。
「あしたの遠乗りは来てくれるよな?」
「……ああ」
ラウルは顔をそむけたまま小さな声で返事をした。カルテを持つ指先に力が入る。深く追求しない代わりに、遠乗りを了承しろということなのだろう。サイファが得意な駆け引きである。ここで断ればどうなるかは想像がつく。おそらく容赦のない追及が再開されるはずだ。そうなれば隠し通すことなど不可能に近い。ラウルには大人しく了承する以外に道はなかった。
サイファは、硬直したラウルをほぐすかのように肩をポンと叩くと、曇りのない笑顔で手を振りながら医務室をあとにした。規則正しく廊下を打ちつける靴音が次第に遠ざかり、やがてラウルの耳に届かなくなった。
翌朝、ラウルは約束通りサイファの家に向かった。
青い空にかかる白い雲が、緩やかに流れていく。遠乗りには絶好といってもいい穏やかな日和だった。
集合場所であるサイファの家の前には、レイチェルがひとりで門を背にして立っていた。両手で籐のバスケットを持っている。近くにサイファはいないようだ。彼女はラウルに気がつくと、明るい笑顔で挨拶をする。
「おはよう、ラウル」
「ああ……サイファはどうした?」
「馬を取りに行っているわ」
レイチェルの暴発事故から一週間が過ぎていた。
家庭教師は彼女の希望により続行することになっていた。もちろんアルフォンスも了承済みである。魔導の訓練については厳しく止められているが、それ以外については今まで通りということになったのだ。アリスの説得が功を奏した形である。
再開は明日からの予定だ。
だが、これまでも毎日欠かすことなく彼女の家には行っていた。彼女の手前、医者として体調を経過観察するという名目になっていたが、実際は彼女の魔導に何らかの変化がないかを探ることが目的だった。
ラウルが見た限りでは、この一週間、その兆候は少しも現れなかった。今もひっそりと奥深くで息を潜めるようにして眠っている。無理な魔導の使い方さえしなければ、ずっとこのままでいられるのかもしれない。そうであってほしいと切実に思う。
「どうしたの?」
「何でもない」
不思議そうに小首を傾げるレイチェルから目を逸らすと、腕を組んで塀にもたれかかった。そして、目を細めて澄み渡った空を見上げた。
「お待たせ」
サイファが門の内側から姿を現した。馬を二頭、引き連れている。一頭は白色、もう一頭は茶色である。共通しているのは、どちらも頑丈そうな立派な体躯をしていることだ。毛並みのつややかさからも、手入れの行き届いた上等な馬であることが窺える。
「おまえの家は馬まで飼っているのか」
「これは王宮から借りてきたんだよ。まあ、昔はウチでも飼っていたらしいけどね」
サイファはにっこりと笑って答えると、レイチェルに振り向いて尋ねる。
「レイチェル、どっちがいい?」
「んー……白い方」
レイチェルは少し考えてから答える。
「じゃあ、ラウルはこっちね。鞍はそこに置いてあるから自分でつけて」
門柱のそばに準備してあった鞍を示しながら、サイファは茶色の馬の手綱をラウル手渡した。
「おまえの馬はどこだ」
「僕はレイチェルと一緒に乗るんだよ。レイチェルはひとりでは乗れないからね」
サイファは手際よく鞍を取り付けながら答えた。よく見てみれば、確かにその鞍は二人乗り用のようだ。しかし、今までそんなものは見たことがなく、存在すら知らなかった。あまり一般的なものではないだろう。
ラウルは二人に背を向けると、地面に置いてあった一人用の鞍を取り付け始めた。
「じゃあ、行こうか」
準備を終えたサイファは、大きな馬に軽々と跨ると、レイチェルの手を引き、彼女が鞍の後部に乗るのを手伝った。彼女はどうやら横乗りで行くようだ。普通に跨った方が安定感があるはずだが、脚がほとんど隠れるくらいのドレスを着ているため、横乗り以外は難しいのかもしれない。
「しっかり掴まっててね」
サイファが後ろに振り返ってそう言うと、レイチェルは微笑みながら頷いた。細い腕をサイファの腰にまわし、背中に頬をつけて寄りかかる。その表情はとても穏やかで幸せそうだった。
二人とも見せつけようとしているわけではない。そのことはわかっている。だが——。
その光景を眺めながら立ち尽くしていたラウルは、手綱が引かれるのを感じて我に返った。急かすように首を動かしている馬を、軽く撫でて宥めると、素早く鐙に足を掛けて騎乗する。
「どこへ行く」
「来ればわかるよ」
サイファは視線を流して挑発的な笑みを浮かべると、ゆっくりと馬を走らせた。
冷涼な空気が頬を撫でる。
サイファたちの白い馬は、静かな森の小径をのんびりと進んでいった。
木々の隙間から射し込む光は、二人と馬を断片的に照らして斑模様を作る。光を受けた部分は目映く、その中でも金の髪はひときわ強く煌めいていた。白馬の艶やかな毛並みでさえ霞んでしまうほどである。
ラウルの乗った茶色の馬も、そのすぐあとをついて歩いた。
前の馬に乗るレイチェルがときどき手を振ってきたが、ラウルは無表情でそれを一瞥するだけだった。怒っているわけではなく、それがいつもの態度である。そのことを理解しているレイチェルは、気にする様子もなく、終始にこやかに笑顔を浮かべていた。
しばらく進むと、少し開けた場所に出た。
ラウルはぐるりと辺りを見まわす。正面には小さな湖、そして上方には青い空が見えた。湖のまわりはすべて森に囲まれている。とても静かだった。聞こえるのは木々の微かなざわめきくらいである。
サイファは湖岸で馬をまわしてラウルに向かい合った。
「静かでいいところだろう? ラグランジェ家が所有している森なんだ」
そんなことが書いてある古めかしい看板を、ラウルは森の入口付近で一瞬だったが目にしていた。森をまるごと所有しているなど、にわかには信じがたい話である。看板を見ていなければ、冗談だと思ったかもしれない。しかし、考えてみれば、王宮の近くにこのような手つかずの森が存在できているのは、ラグランジェ家が所有しているからこそだろう。
サイファは後ろのレイチェルを馬から降ろすと、続いて自分もそこから降りた。馬の脇に固定してあったバスケットを取り外して彼女に手渡す。レイチェルはにっこりと微笑み、両手でそれを受け取った。そのまま、二人は和やかに会話を続ける。
ラウルは馬をまわして、静かにその場から離れようとした。そのとき——。
「ラウル、競争しないか?」
背後からサイファが声を掛けてきた。ラウルは怪訝に眉をひそめて振り返る。
「何のだ」
「馬だよ。どちらが先に湖を一周して戻ってこられるか、やってみないか?」
人なつこい笑顔を見せるサイファを、ラウルは馬上から冷たく睨みつける。
「ずいぶん自信がありそうだな」
「ラウルの力を知らないから、勝てるかどうかはわからないけどね」
「……いいだろう」
ラウルはまっすぐサイファを見て言った。普段であれば、こんな無意味な勝負は断っていただろう。だが、今日はどんな些細なことであれ負けたくないと思ったのだ。いや、今日だけではない。このところ、次第にサイファへの対抗心が大きくなってきている。その理由ははっきりと自覚していた。
そんなラウルの心情に、サイファが気づくことはなかった。素直に嬉しそうな笑顔を見せている。彼の方もラウルに対抗心を持っていたが、それは純粋に挑戦したいという思いからだ。ラウルとはまるで違うのである。
サイファはふと何か思いついたように地面に視線を落とすと、少し太めの木の枝を拾い、草の生えた地面に線を引いた。判然としないその線を指し示しながら言う。
「ここがスタートライン、そしてゴールラインだ……わかりにくいかな?」
「遠くからはわからないだろうが、特に問題はないだろう」
ラウルは馬に乗ったまま、その線を見下ろして淡々と答えた。
「ふたりとも頑張って」
レイチェルは屈託のない笑顔を二人に向けた。サイファは軽く右手を上げて満面の笑みを返す。だが、ラウルは無表情のまま、何の反応も示さなかった。そんな態度しかとれない自分が腹立たしく、そして少しだけ胸が疼いた。
馬に乗った二人はスタートラインに並んだ。ここに乗って来たときと同じく、サイファが白い馬で、ラウルが茶色の馬である。サイファには好きな方を選んでいいと言われたが、一度も走らせたことのない馬を選ぶことなどできない。
「用意はいいか?」
「ああ」
ラウルは正面を向いたまま答えた。
「じゃあ、いくよ……3秒前、2、1、スタート!」
サイファの掛け声と同時に、二人は風を切って飛び出した。ラウルの長髪が大きくなびく。サイファの方が若干速いが、頭一つくらいでほとんど差はない。どちらの馬もよく走っている。ラウルがこの馬に乗るのは今日が初めてだが、癖も少なく、思ったように走ってくれている。さすがに王宮所有だけのことはある、と走りながらも冷静に評価した。
湖の奥に差し掛かると、その先の道が急に狭くなっているのがわかった。片側が土壁で、反対側には木々が立ち並んでいる。二頭の馬が並んで走ることは不可能だ。ここで前を取っておかなければ勝つことは難しいだろう。ラウルはさらに前傾姿勢をとり、速度を上げようとした。
だが、それより先にサイファが行動を起こした。
細道の入口を目指して強引に馬体を寄せてきた。ラウルはやや速度を落とし斜め後方に避ける。そうしなければ確実にぶつかっていた。だが、サイファがそのことを考慮していなかったわけではないだろう。おそらくラウルが避けることを計算しての行動だ。
結果、サイファが前、ラウルが後ろという状態で、細道に突入することになった。
彼の自信に満ちた計算高さに、ラウルは無性に腹が立った。いつも、何においても、翻弄されてばかりである。
だが、今日はこのまま負けるわけにはいかない。周囲に目を走らせながら機を窺う。
——行ける。
やや傾斜が緩やかな土壁を視界に捉えると、瞬間的にそう判断を下した。迷うことなく飛び出し、そこを勢いよく駆けていく。倒れないことが不思議なくらいに馬体は斜めになっていた。かなり無理が掛かっていることは間違いない。
同じ速度で下方を走っていたサイファは、はっとして顔を上げた。ありえないところから聞こえる蹄音と大きな影に驚いたのだろう。そして、その正体を目の当たりにして、ますます驚愕したようだ。彼にしては珍しいくらいの、ぎょっとした表情を見せている。
その影響なのか、僅かにサイファの速度が落ちた。
土壁を疾走するラウルはさらに勢いをつけ、サイファの前に駆け下りる。ほとんど飛んでいるかのようだった。それでもぶれることなく着地し、何事もなかったかのようにサイファの前を走り続ける。
やがて、再び開けた湖岸に出たが、ラウルは一度も抜かせることなくゴールラインを越えた。
「負けたよ」
一馬身差でゴールしたサイファは、溜息まじりにそう言った。素直に負けを認めるというよりも、どこか疲れたような、そして半ば呆れたような声音だった。
「まさかあんな斜面を走ってくるなんてな……。本当に無茶苦茶としか言いようがないよ。倒れたり滑ったりしたら、どうするつもりだったんだ? 下手をしたら僕まで巻き添えだぞ」
「そのときはそのときだ」
ラウルは馬から降りながら素っ気なく答えた。
サイファは大きく溜息をついて、じとりとした視線をラウルに向けた。
「それ、借り物の馬なんだから丁寧に扱ってくれよな」
「ならば競争など持ちかけてくるな」
「はいはい、僕が悪かったよ」
そう小さく肩をすくめて受け流すと、手綱を握り直して言う。
「僕はもう一周、走ってくるよ。ラウルはどうする? 今度はのんびりまわるつもりだけど」
「一人で行ってこい」
ラウルは目を向けることもせず、ぶっきらぼうに突き放した。馬を連れながら、背を向けて歩き出す。
「もしかして疲れたのか?」
「おまえと一緒に走りたくないだけだ」
「そうか」
いつもと変わらないラウルの憎まれ口に、サイファはくすりと笑って相槌を打った。
「おめでとう」
茶色の馬を大きな木に繋ぎ、そのままぼんやりしていたラウルは、背後から声を掛けられて我に返った。振り返ると、少し離れた木陰に座ったレイチェルが、甘い微笑みをラウルに向けていた。小さな手で自分の隣を示して言う。
「ラウルも座ったら?」
ラウルは無言でその言葉に従った。彼女から少し距離をとってビニルシートの端に座る。そこから地面のひんやりした感触が伝わってきた。
「ラウル、今日は来てくれてありがとう」
「……ああ」
それだけで今日のすべてが報われたように感じた。同時に、そんな自分をどうかしているとも思う。
「あしたから家庭教師、またよろしくね」
レイチェルは愛らしく小首を傾げてラウルを見つめた。金色の細い髪がさらりと流れて揺れる。
ラウルは細めた横目で彼女を窺った。
「本当にもう大丈夫なのか?」
「その質問、いったい何度目?」
レイチェルは肩をすくめて微笑むと、しっかりとした口調で続ける。
「私は大丈夫よ」
「無理をしているのではないだろうな」
「そんなことないわ」
「ならいいが……」
何度、彼女の「大丈夫」を聞いても、ラウルの不安は拭いきれなかった。その言葉すらもラウルを安心させるための嘘なのではないか、という考えが頭にこびりついて離れない。
それを見透かしたかのように、レイチェルは膝を抱えて前を向くと、落ち着いた声で付け加える。
「私、たいていのときは心から笑っているのよ。お父さまやお母さま、それにサイファが守ってくれているから、いつも幸せな気持ちでいられるの。無理をしているのは、ほんの少しのことだけだから……」
「しているんだな」
溜息まじりのラウルの言葉を耳にすると、レイチェルは視線を落として小さく笑った。
「誰だって多少は無理をしているでしょう? 言ってもどうにもならないのなら、言っても困らせるだけなら、黙っていた方がいいって思うの」
「そうやって内に溜め込んでいては、おまえの心が持たないだろう」
「でも……うん……そう、ね…………」
レイチェルはしばらく逡巡すると、ゆっくりと顔を上げ、大きな瞳でじっとラウル見つめた。小さな薄紅色の唇がそっと開く。
「じゃあ、本当につらいときは、ラウルに甘えさせてくれる?」
ラウルは身じろぎもせず、まっすぐに彼女を見つめ返した。
「それは、この前のように泣きたいということか?」
「泣くかどうかはわからないけれど、寄りかからせてくれるといいなって」
「……わかった」
そう答えたものの、具体的にどういうことなのかは理解していなかった。弱音を吐露したいということだろうか。言葉どおり寄りかかりたいということだろうか。それとも、もっと他のことなのだろうか——。どんなことであろうとも、彼女の救いになるのであれば受け止めるつもりである。
レイチェルはほっとしたように息をついて微笑んだ。
「こんなことを頼めるのはラウルだけだわ」
「……サイファには、頼めないのか?」
それは率直な疑問だった。あれほど信頼しているサイファになら頼めても良さそうなものだ。自分がサイファより信頼されているというわけでもないだろう。そこまで自惚れてはいない。
レイチェルはラウルの言わんとすることを汲み取ったようだ。視線を落としてしばらく考え込むと、真面目な表情でゆっくりと口を開く。
「きっと、ラウルとはお互いさまだから」
「どういうことだ?」
「ラウルが先に自分の弱さを見せてくれたから、私もラウルになら見せられるって思ったのかも」
彼女が言っているのは、おそらく二年前のことだろう。あのとき彼女に別の少女の面影を重ねていた。そして、彼女にそれを知られて逃げ出した。それはすべて自分の弱さが起こした行動である。自分でも認めてはいるが、今さらあまり触れてほしくないことだ。しかし、それが今に繋がっているのであれば、無駄ではなかったと思う。だが——。
「サイファだっておまえの弱さを受け止めてくれるはずだ」
別にサイファを援護するつもりはない。あえてそれを言ったはレイチェルのためである。婚約者に本心を見せられないとしたら、今後の彼女の人生はつらいものになるかもしれないからだ。
「そうね、私もそう思うわ」
レイチェルは意外にもあっさりと認めた。
「でも、サイファの負担になるようなことはしたくない。これ以上お荷物にはなりたくないの」
「どういう意味だ」
ラウルは訝しげに眉をひそめて視線を流す。だが、レイチェルはその視線に振り向くことなく空を見上げた。大きな瞳に澄んだ青を映し、何かを諦めたような寂しげな微笑を浮かべて言う。
「私、ラグランジェ本家に嫁ぐでしょう? なのに、何の取り柄もなくて……魔導だって上手く扱えないし……だから、せめて笑顔でいなければって……」
「そんなふうに思うならやめればいい」
口調は淡々としたものだったが、それはラウルの感情のままの言葉だった。
レイチェルは少し驚いたように目を見開いてラウルに振り向く。
「結婚のこと?」
「……ああ」
ラウルは低い声で答えた。
「私の意思で変えられることじゃないわ」
レイチェルは苦笑しながら肩をすくめた。しかし、すぐにハッとすると慌てて弁明する。
「誤解しないでね。サイファとの結婚をやめたいってわけじゃないの。ただ少し不安なだけ。私でいいのかしらって」
サイファはもちろんのこと、ラグランジェ家としても不満などないだろう。むしろ、レイチェルの潜在的な力を欲しているはずだ。彼女の魔導力と、サイファの才能・頭脳を受け継ぐ子供が本家に生まれれば、ラグランジェ家はさらに大きく飛躍できるかもしれないのである。
「でも、心配してくれてありがとう」
レイチェルの穏やかな微笑みに、ラウルは何も言葉を返せなかった。礼を言われるようなことはしていない。彼女に対する心配というより、ただの身勝手な感情だったことは自覚している。
レイチェルは唐突にビニルシートに手をついて立ち上がった。湖の方へ小走りで駆けていく。湖岸のギリギリのところで足を止めると、後ろで手を組んで湖を覗き込み、それから縁に沿ってゆっくりと歩き出した。ドレスの裾の半分は湖上でひらめいている。
「そんなところを歩くと落ちるぞ」
「落ちても助けてくれるでしょう?」
レイチェルは振り向いて笑った。背後で湖面がきらきらと光を反射して眩しい。だが、それ以上に彼女の笑顔が眩しいと思った。今、彼女は心から笑えているのだろうか。そうであってほしいと願わずにはいられなかった。
軽快な蹄の音が、次第に大きくなって止まった。
サイファは白い馬を降りて近くの木に繋ぐと、ラウルたちの方へ歩いてきた。
「レイチェル、そんなに端を歩いたら危ないよ」
「ごめんなさい」
レイチェルは可憐な笑顔でそう言うと、金髪をさらりとなびかせながら、サイファのもとへ駆けていった。まるでずっと待ちかねていたかのようだ。やはりラウルよりもサイファといる方が楽しいのかもしれない。ラウルは無表情のまま小さく溜息をついた。
サイファはにっこりと笑って、彼女の頭に手をのせる。
「お昼にしよう」
「ええ」
二人は目を見合わせると、手を繋いでラウルの座っている方へ歩き出した。
三人は並んでビニルシートに座った。ラウルが中央で、その両隣がサイファとレイチェルという配置だ。なぜだかわからないが、サイファが勝手に決めてそうなったのである。ラウルとしては、この二人に挟まれていることに、何となく落ち着かないものを感じていた。
昼食はサンドイッチだった。レイチェルがバスケットに入れて持参してきたものである。手作りのようだが、彼女が作ったわけではないだろう。お茶すら淹れたことのない彼女に、サンドイッチなど作れるとは思えない。
「ねえ、私、プリンを作ってきたんだけど、食べてくれる?」
用意されたサンドイッチがすべて無くなると、レイチェルは少し浮かれた声でそう切り出した。
「え? 作ったって、レイチェルが?」
サイファはラウルを押しのけんばかりに身を乗り出し、目をぱちくりさせて聞き返す。そんな彼の反応を見て、レイチェルはくすりと笑った。
「味見はしたから安心して」
「うわぁ、本当に? もちろん食べるよ」
サイファはレイチェルがプリン作りに挑戦していることは知らなかったらしい。彼にしては珍しく興奮を露わにしていた。まるで子供のようにはしゃいだ声を上げている。それほど意外で、それほど嬉しかったのだろう。
レイチェルはいそいそとバスケットを引き寄せ、そこからプリンのカップを取り出す。
「……えっ?」
その途端、彼女の動きは止まった。大きく目を見開いて驚いている。とまどい、そして落胆へと表情が変わっていく。
「どうしたの?」
「崩れて混ざっているの……」
半透明のカップの中は、ラウルのところから見ても、プリンとカラメルが混じり合っているのがわかった。ぐちゃぐちゃといっても差し支えないほどである。
「馬はけっこう揺れるからね」
サイファもその状態を確認すると、立てたラウルの膝にもたれかかりながら、苦笑して言った。
ラウルは無言でレイチェルに手を伸ばすと、手のひらを上に向けて催促した。何を催促しているか、彼女はもちろん理解しただろう。だが、プリンを握りしめたまま、困惑の表情を浮かべていた。大きな手とプリンを交互に見て悩んでいるようだ。
「それでも十分に食べられる」
「僕も食べるよ」
二人にそう言われて観念したのか、彼女はそのカップとスプーンをそれぞれに渡した。
サイファはさっそくスプーンですくって食べ始める。少し驚いたように目を大きくすると、顔を綻ばせてレイチェルに振り向く。
「本当においしいよ。驚いたなぁ。ひとりで作ったの?」
「ええ……今度また作るから食べてね。ちゃんとしたものを」
「もちろん」
落ち込んでいたレイチェルも、心から嬉しそうなサイファを見て、少し笑顔を取り戻した。今度はラウルを上目遣いで窺うと、遠慮がちに尋ねる。
「ラウルもまた食べてくれる?」
「ああ」
最初からそういう約束になっていたはずだ——ラウルは続けようとしたその言葉を飲み込んだ。誰がプリンの作り方を教えたのか、どうして彼女がプリンを作るようになったのか、サイファは何も知らないのだ。下手なことは言えない。思えば、サイファに秘密にしていることは他にもいろいろとある。しかも、次第に増えてきているような気がする。
そんなことを考えながら、ラウルは黙々とプリンを口に運んだ。サイファが言っていたように、確かにそのプリンは美味しかった。出来れば作られたときの状態で食べてやりたかったと思う。
「しばらく休憩したら帰ろう」
サイファはそう言ってごろりと寝転がった。両手を上げて伸びをする。反対側のレイチェルも同じように仰向けに寝転がった。二人はラウルの背後で顔を見合わせてくすりと笑う。
ラウルは空を見上げて溜息をついた。
長い鳴き声を響かせながら、二羽の鳥が澄んだ青を横切っていった。
「さ、準備はいい?」
離れたところに繋いでいた馬を連れて戻ったサイファは、バスケットを持って立っているレイチェルに声を掛けた。レイチェルはにっこりと微笑んで言う。
「サイファ、私、帰りはラウルの方に乗るわ」
ラウルは驚いて彼女に振り向いた。長い髪が大きく揺れる。
「どうして?」
サイファは僅かに身を屈めて尋ねた。幼い子供に対するような優しい口調である。
レイチェルも幼い子供のようなあどけない笑みを浮かべて答える。
「競争でラウルが勝ったでしょう?」
「うわぁ、そうなの? 死ぬ気で頑張れば良かったよ」
サイファはおどけたように言う。訝しんでいる様子は微塵もない。単なる無邪気な思いつきと考えているのだろう。だが、ラウルとしては、やはり素直に受けるわけにはいかない。
「勝手に決めるな。そんな約束をした覚えはない」
「でも、勝負に勝ったらご褒美は必要だわ」
「ご褒美だと? 自分がそれだというのか」
「ええ」
「……馬鹿かおまえは」
ラウルは腕を組みながら、ニコニコしているレイチェルを睨み下ろした。自分がご褒美などと、とんでもないことをさらりと言っている。ラウルの心中を察してのことかもしれないが、少なくともサイファの前では自重すべきなのだ。何を考えているのかと思うが、きっと何も考えていないのだろう。
「馬鹿はちょっとひどいんじゃないか? 相手が女の子でも容赦ないよなぁ」
サイファは腰に両手を当てて、呆れたように溜息をついた。
「せっかくレイチェルがそう言ってるんだし、もらってあげてよ、ご褒美」
ラウルの気も知らないで、能天気にそんなことを言う。
レイチェルを過保護なくらいに溺愛しており、他の男には触れさせたくないはずだが、ラウルだけはなぜか昔から例外だった。それほど信頼しているのだろうか。それとも、男だという認識がないのだろうか。
サイファは何も知らない。二人の間に起きたことも、彼女に対するラウルの想いも——。
「二人乗りは出来るか?」
「さあな。やって出来ないことではないだろう」
ラウルは無愛想な口調で他人事のように答えた。
「そうだな」
サイファは口もとを緩め、小さくふっと笑った。
ラウルとサイファは馬を交換した。ラウルが二人乗りの鞍をつけた白い馬、サイファが茶色の馬である。二人とも馬に対するこだわりはなかったため、鞍を交換するより手っ取り早いという判断だった。
「くれぐれも大切に扱ってくれよ」
ラウルの後ろにレイチェルが乗ったのを確認すると、サイファも茶色の馬に乗った。それでもまだ心配そうに様子を窺っている。他のことはそうでもないが、レイチェルのこととなると途端に神経質になるのだ。それだけ大切にしていることの証左だろう。
しかし、レイチェルは、彼の心配をあまり気に留めていないようだった。いつものことだからかもしれない。安心させるようにサイファに軽く笑顔を送ると、ラウルに向き直り、その腰に細い腕をまわした。
「よろしくね、ラウル」
背中に柔らかい温もりを感じる。
「本当におまえは馬鹿だ」
「嬉しいでしょう?」
体を通して伝わってくる彼女の声。顔が見えないこともあり、真面目に言っているのか、からかっているのかわからない。どちらにしても自信はあるようだった。そして、それは間違ってはいない。だが——。
「それとこれとは話が別だ」
ラウルは前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
昼下がりの強い陽射しが、鬱蒼とした緑の隙間から射し込み、森の小径に光の雨を降らせている。朝よりもほのかに空気が暖かい。
意識してのことではないが、ラウルは行きよりもやや遅い速度で馬を走らせていた。
茶色の馬に乗ったサイファは、ラウルたちの後ろについている。レイチェルが気になるからということらしい。目の届かないところにいるのは不安なのだろう。
レイチェルは後ろを振り返ってサイファに手を振った。
「危ないぞ、手を放すな」
ラウルは思わずそんなことを口にする。危ないと思ったのは事実だが、それ以外の感情がなかったとはいえない。むしろ、そちらの方が大きかったかもしれない。
「ごめんなさい」
背後から小さな声が聞こえた。背中にあたたかい吐息がかかり、腰にまわされた腕に力が込められる。より緊密になった柔らかな温もりから、寄りかかった彼女の姿がはっきりと伝わってきた。実際に目にしているとき以上に、その存在を強く感じる。
こんなことは、もう二度とないかもしれない——。
ラウルはまっすぐ前を見据えたまま、僅かに眉根を寄せて目を細めた。