ピンクローズ - Pink Rose -

第23話 残された時間

「三ヶ月……」
 医務室の自席に座るラウルは、向かいのアルフォンスが口にした言葉を、呆然としながら確認するように繰り返した。

 レイチェルの誕生日から二ヶ月が過ぎた。
 プレゼント騒動以降は特に何事もなく、レイチェルの家庭教師を淡々とこなし、そのあと一緒にお茶を飲むという、極めて平穏な日々を送っていた。いつか来るであろう終わりの日については、レイチェルは少しも触れることはなく、また、ラウルの方もできるだけ意識しないようにしていた。
 しかし、今、アルフォンスが唐突にラウルの医務室を訪れて告げたのだ。
 あと三ヶ月だと——。

「ああ、アリスと相談して決めたのだ。結婚の準備や諸々のことを考えると、そのくらいが妥当だろうと。何か問題でもあるのか?」
「いや、授業をどこまで進めるか考えていた」
 ラウルは冷静な口調で先ほどの動揺を取り繕った。あまり上手い嘘とはいえなかったが、生真面目なアルフォンスは疑うことなく言葉どおりに受け取ってくれた。
「そのことならば気を揉む必要はない。これまでどおり授業を行い、進められるところまで進めてくれればいい。中途半端に終わっても構わないと思っている」
「わかった」
 ラウルは低い声で静かに返事をした。自分はただ雇われているだけの家庭教師である。雇い主の決定が間違ったものでなければ、それに従う他はない。
「君には心から感謝している。レイチェルが真面目に勉学に取り組むようになったのも君のおかげだ。レイチェルを研究所の実験から守ってくれたこともあったな。君がいなければどうなっていたかわからん」
 アルフォンスはもうすべてが終わったかのように、思い出話を交えながら感慨深げに礼を述べた。しかし、ラウルの方はそれを素直に受ける気持ちにはなれなかった。
「まだ三ヶ月残っている」
「そうだな、少し気が早かった。終了後にあらためて礼に来るとしよう」
 アルフォンスは律儀に答える。
「その必要はない。今ので十分だ」
 ラウルは感情を押し隠し、無愛想にそう言うと、椅子をくるりと回して背を向けた。机に肘をつきながら読みかけの本を開く。
 その後ろで、パイプ椅子の軋む耳障りな音が重々しく響いた。

 アルフォンスの靴音が遠ざかり、医務室は時が止まったかのような静寂に包まれた。早朝のため、外からの雑音もほとんど聞こえてこない。細く空いた窓からは新鮮な空気がするりと滑り込み、薄いクリーム色のカーテンを緩やかに波打たせた。

 あと三ヶ月——。
 近いうちに終わりの日が来るということは、言われるまでもなくわかっていたことである。覚悟もしていたつもりだった。しかし、現実として突きつけられると、そんな覚悟などどこかに吹き飛んでしまったかのように胸がざわついた。
 どうしようもないことだ。
 わかっているのにわかりたくない自分がいる。心がバラバラになりそうだった。机に肘をついたまま、大きな手で額を掴むように押さえる。長い焦茶色の髪がさらりと肩から滑り落ち、暗幕のようにラウルの視界から光を遮断した。

 その日の午後、ラウルはいつも通りレイチェルの家に行き、家庭教師の授業を行った。いまだに動揺を引きずってはいたが、彼女に悟られるわけにはいかない。冷静な態度を装いながら粛々と進めていく。
 授業中、特に変わったことはなかった。
 レイチェルも普段とまったく同じように見えた。あと三ヶ月ということを知っているのかいないのか、その様子からは窺い知ることが出来ない。気にはなった。それでも今は授業に集中すべきだと、彼女に尋ねることは思いとどまった。

 優しい色の空には薄い雲がかかり、微かに風が吹いていた。
 授業が終わった二人は、連れ立ってラウルの医務室へと向かう。互いに確認するまでもないくらいに、それは二人にとって日常の行動になっていた。ときどきレイチェルが話しかけ、ラウルが無表情のまま答え、人通りの少ない道を一緒に歩いていく。
 その途中、レイチェルは不意にラウルの手を取った。
「寄りたいところがあるの」
 顔を上げてニコッと愛らしく微笑むと、その手を引き、医務室とは違う方向に延びる小径へと足を踊らせた。ドレスがふわりと風をはらみ、後頭部の大きなリボンが軽く弾む。
 彼女がこんな行動を起こすのはめずらしい。
 ラウルは少し怪訝に思いながらも、彼女の小さな手をそっと握り返し、素直にその導きに従って歩き出す。その先に何があるのかは尋ねるまでもなくわかっていた。
 人気のない静かな小径が続く。耳に届くのは、木々の葉が触れ合う音、自分たちが草を踏みしめる音、頬を掠める風の音くらいである。息を止めれば、陽光の降りそそぐ音さえ聞こえてきそうだった。そんな静寂に圧倒されたのか、二人とも口を開こうとはせず、ただ無言のまま歩き続けた。
 しばらく道なりに進むと、予想通り、蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチが現れた。少し足を速めてそれをくぐる。すると一気に視界が開け、一面に広がる色鮮やかなバラ園が目に飛び込んできた。
「ここは久しぶり?」
「あのとき以来だ」
 小首を傾げて覗き込むレイチェルに、ラウルは前を向いたまま答えた。
 あのとき——それは家庭教師を引き受けて間もない頃のことである。今日と同じように、彼女に連れられてここに来たことがあったのだ。当時はまだ彼女と距離を取ろうと突き放した態度で接していた。しかし彼女はそれをものともせず懐に飛び込んでくる。おかげで随分と扱いに手こずった。そんなことが少し懐かしく思い出される。
「深呼吸して」
「なぜだ」
 唐突な彼女の要求にラウルは戸惑った。
「してくれないの?」
 レイチェルはラウルの疑問に答えることなく、無垢な瞳でじっと見つめながら小首を傾げた。断られるとは少しも思っていないようだ。催促するかのように瞬きをする。
 ラウルは溜息をついた。
 半ば投げやりに大きく息を吸って吐くと、レイチェルに視線を落として仏頂面で言う。
「したぞ」
 それでも彼女はただ無言で微笑むだけだった。
 ラウルは怪訝に眉をひそめた。彼女の目的がさっぱりわからない。深呼吸にどういう意味があるのだろうか。それをさせるためにここへ連れてきたのだろうか。なぜ質問に答えないのだろうか。言えないわけでもあるのだろうか。
 考えを巡らせるうちに、ある推論に行き当たった。
 もしかしたら、彼女もあと三ヶ月ということを聞いたのかもしれない。それでなぜ深呼吸なのかはまだわからないが、自分と同じように感じているのだとすれば、いつもと違う行動をとる理由にはなりえるだろう。
 バラ園の細道を軽やかに進む彼女に、ラウルは三歩ほど後ろから見守るようについていく。両脇にはピンクローズが咲いていた。むせかえるような緑の中に、ほのかな甘さが漂っている。
「おまえもアルフォンスに聞いたのか?」
「えっ? 何を?」
 レイチェルはきょとんとして振り返り、大きく瞬きをした。不思議そうな顔でじっとラウルを見つめる。とぼけているようには見えない。
「……なぜ、ここへ来た」
「それは……」
「言えないのか?」
 思わずラウルはきつい口調で問いただす。
 レイチェルは当惑したように目を伏せた。しばらくそのまま考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げ、まっすぐにラウルを見据えて答える。
「ラウルが落ち込んでいるみたいだったから、元気になってほしかったの」
 濃色の瞳が大きく揺らいだ。
 確かに彼女の言うように落ち込んでいた。しかし、彼女にはそのことは何も言っていないし、むしろ悟られないように気をつけていたつもりだ。態度に出ていたとは思わない。それなのに、どうして気づかれてしまうのだろうか。
 今回だけではない。似たようなことはこれまでに何度もあった。
 ときどき、そんな彼女のことを怖いと思う。
 それは自分の中にどうしても知られたくない気持ちがあるからだろう。知られれば確実に軽蔑され、拒絶されてしまう。そうならないように、是が非でも最後まで隠し通さなければならない。
「元気になるおまじない、欲しい?」
 ふとレイチェルがそんなことを尋ねてきた。後ろで手を組んでにっこりと微笑んでいる。そのおまじないが何であるか、ラウルにはすぐにわかった。
「……ああ」
「じゃあ、しゃがんで」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませ、せがむように右手を上に伸ばす。
 しかし、ラウルは彼女の要望とは違う行動をとった。彼女の体を片腕ですくい上げるようにして肩に座らせる。安定感のないそこで、レイチェルはバランスを崩して上体をふらつかせた。慌ててラウルの頭に両手を掛けて自身を支え、小さく息を呑み、高い位置から辺りを見まわす。
 ラウルが顔を上げると、彼女と視線が合った。
 彼女はきょとんとしていたが、すぐにニコッと笑い、体を屈めてラウルの額にそっと唇を寄せた。軽く触れるだけの口づけ。それが彼女の言う“元気になるおまじない”である。
「少しは元気になった?」
「少しはな」
 ラウルの答えは素っ気ないものだったが、それでもレイチェルは屈託のない幸せそうな笑顔を見せた。肩に座ったまま、目を閉じて少しだけ体を寄せる。願うことは同じ。言葉はなくても通じ合っている。それが二人の間に心地よいあたたかな空気を作り出していた。
 ふいに背後から突風が吹いた。
 瞬間的に二人の長髪を舞い上がらせ、服をバサバサとはためかせると、すぐに上空へと抜けていった。巻き込まれた木の葉が高く吹き上げられる。二人はそれにつられるように顔を上げた。その先には、穏やかな澄んだ青色が、どこまでも続くかのように広がっていた。

「あと三ヶ月?」
 部屋に着いてからそのことを尋ねてみると、レイチェルは目を丸くして聞き返した。いつもの指定席に行儀良く座ったまま、ダイニングテーブルの上で両手を重ねる。
「やはり聞いていなかったのか」
「ええ、今夜お父さまが帰ってきてから話すつもりだったのかしら」
 彼女は首を傾げて独り言のように呟いた。そこには悲嘆や落胆のようなものは微塵も感じられなかった。表情も普段とまったく変わらないように見える。
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら眉根を寄せた。
「わかっているのか」
「うん……もう少し一緒にいられると思ったんだけど、予想よりも早かったわ。でも、これからだって会えないわけじゃないもの」
 レイチェルは小さく微笑んで言った。
 やはりわかっていない——。
 確かに会えないわけではない。だが、会うことはなくなるだろう。
 ラウルは王宮医師として医務室に籠もり、ほとんど王宮の外に出なくなる。レイチェルはラグランジェ本家に嫁ぎ、今ほど自由に行動できなくなる。用がなければ外出することもないだろう。
 ふたりに接点はない。
 どちらかが行動を起こさない限り、会うことは出来ないのだ。そして、それは許される行為ではない。彼女は名門ラグランジェ本家当主の妻になる。たとえ、ただ顔を会わせるだけだとしても、誤解を招くような行動は慎まなければならないのである。
 ラウルはうつむいたまま紅茶をティーカップに注いだ。そのひとつをレイチェルに差し出す。そのとき、彼女を目にして妙なことに気がついた。
「おまえ、後ろを向いてみろ」
「後ろ?」
 レイチェルは椅子に座ったまま、椅子の背もたれを掴み、言われるまま素直に後ろを向いた。何かを探すようにきょろきょろと上下左右に目を走らせたあと、不思議そうにラウルに視線を戻し、尋ねかけるように小さく首を傾げた。
 ラウルは腕を組み、軽く溜息をついた。
「リボンが縦になっているぞ」
「えっ?」
 レイチェルは慌てて頭の後ろに手を伸ばし、手探りでリボンの状態を確認した。実際に縦になっていることがわかると、髪から外して手元に持ってくる。それを表にしたり裏にしたりするうちに、彼女の表情はみるみる曇っていった。
「破れているわ……」
「新しいのを買ってやる」
 ラウルはほとんど反射的にそう答えていた。誕生日プレゼントに何も贈れなかったことを後悔していたので、むしろちょうどいい機会だと思った。こういう状況ならば、自分で何を買うか悩まなくても、彼女に気に入ったものを選んでもらえばいい。
 しかし、その目論見はあっさりと根本から崩れ去った。
「いいわ、もったいないから」
「遠慮はするな」
「そうじゃなくて、せっかく買ってもらっても、すぐに使わなくなってしまうから……。いま新しいドレスを作っているの。結婚したらこんな子供みたいな格好はいけないって。だから、このリボンも今日で終わりにするわ」
 レイチェルは微笑みながら淡々と述べていく。
 ドレスのことは母親のアリスに聞いていた。わかっていたことだったが、あらためて彼女の口から聞かされると、その日が迫っているのだと否が応でも実感させられる。
「……貸してみろ」
 ラウルはそう言って手を差し出すと、彼女からリボンを受け取って観察した。それは髪留めにリボンを括り付けてあるものだった。その括り付けてある部分が半分ほど破れて、リボンが縦になっていたらしい。これならば、破れた部分を縫いつければ何とかなりそうだと思う。
「おまえはここで待っていろ」
 ラウルはそう言い残すと、リボンを持って隣の寝室に向かった。

 ラウルが戸棚から裁縫道具を取り出そうとすると、レイチェルがそっと扉を開けて顔を覗かせた。興味深そうにあちこち眺めながら、勝手に中に足を踏み入れる。
「待っていろと言ったはずだ」
「ひとりでいるのは寂しいの」
 彼女はニコッと笑って言う。
 ラウルはもう戻れとは言えなくなってしまった。結局、彼女には甘いのだ。部屋を見てまわる彼女を放置したまま、ベッドに腰掛け、リボンの修復を開始すべく針に糸を通す。
「これ、私があげたの……じゃないわよね?」
 レイチェルは窓際に置いてある一輪挿しのピンクローズを覗き込みながら首を傾げた。
「おまえにもらったものだ」
「でも、あれから二ヶ月も経っているのに……」
 彼女の疑問はもっともだった。そのピンクローズはレイチェルの誕生日パーティでもらったものである。あれから二ヶ月が過ぎており、通常であればとうに枯れているはずだが、それは当時と変わらない可憐な姿を留めていた。
「長期間保存が利くように加工してある」
「そんなことが出来るの?」
 レイチェルは目を大きくして驚いた。
「大切にすると約束したからな」
「花は枯れるものよ。気にしなくても良かったのに」
 指先で花弁をなぞりながらそう言うと、そっと視線を流して微笑む。
「優しいのね、ラウルは」
 ラウルは無言のまま、針を持つ手を動かした。
 彼女の認識は間違っている。自分の行動は優しさからのものではない。ただの身勝手である。レイチェルからのプレゼントを失いたくなかっただけなのだ。たとえ自然の摂理を曲げてでも——。だが、それを彼女に告げる勇気はなかった。
「一輪挿しはわざわざ買ったの?」
「いや……それはサイファからもらったものだ」
 ラウルは少し躊躇いつつも事実をありのままに答える。
「お誕生日プレゼント?」
「そうではない。もっとずっと昔のことだ。あいつの家庭教師を終えたときに、礼だと言って持ってきたのだ」
 ずっと昔、と言ってしまったが、よく考えてみれば、まだほんの三年ほど前のことである。端整な中にあどけなさの残る彼の笑顔、柔らかなピンクローズ、箱から取り出した一輪挿し——きのうのことのように鮮明に思い出せるが、ひどく昔のことのようにも感じる。それほどこの三年の間に様々な出来事があった、ということだろうか。
「じゃあ、私も何かお礼を考えておくわね。三ヶ月後までに」
 無邪気なレイチェルの言葉が、ラウルの心を深くえぐった。うつむいたまま返事もせず、ひたすらその手を動かし続ける。
「すごい、お店の人みたい」
 レイチェルは小走りで近づいてくると、ラウルの手元を興味深げに覗き込んだ。
 感心されて悪い気はしないが、ただ縫いつけているだけで難しいことは何もしていない。彼女にその知識がないので難しく見えているだけだろう。
「ラウルって何でも出来るのね」
「おまえが出来なさすぎるだけだ」
「そうかしら?」
「おまえはそれで構わないがな」
 ラウルの場合は生きていくために必要だったので自然と身についただけである。彼女は家事などする必要はないはずだ。結婚して妻となっても、それは彼女の役割ではない。
「できたぞ」
 糸をハサミで切って言う。水色の糸がなかったので、白い糸を使ったが、目立つ部分ではないので構わないだろう。これで三ヶ月くらいなら余裕でもつと思う。
「つけて」
 レイチェルはすぐ隣に腰掛けると、ラウルを見上げてニコッと笑った。
 ラウルは彼女の横髪をすくい、後ろでまとめて、リボンのついた髪留めをつけようとする。しかし、向かい合ったままで後ろが見えないせいか、髪がきれいにまとめられず、なかなか上手くいかない。
「あ、私、後ろを向くわ」
 ラウルが苦戦しているのに気がつくと、レイチェルはそう言って体を離し、ベッドに座ったまま向きを変えようとした。
 しかし、ラウルは咄嗟にそれを阻んだ。
 逃れられないように彼女の細い両肩をきつく掴む。その行動に明確な理由があったわけではない。ただ、彼女に背を向けられることに耐えがたいものを感じたのだ。自分の傍から去っていかれるような、そんな幻想さえ重なって見えた。
「ラウル……?」
 レイチェルはきょとんとしてラウルを見つめた。
「行くな……」
 ラウルは溢れるように小さな声を落とした。肩を掴む手に力が入る。大きく瞬きをする彼女をじっと見つめながら、ゆっくりと顔を近づけていき、小さな薄紅色の唇に自分のそれを重ねた。柔らかな感触が理性を融かしていく。思考が真っ白になった。何も考えられない。ほとんど無意識のまま、その口づけを深いものへと進めていった。
 レイチェルの体がビクリと震えた。
 しかし、今のラウルにはそれに気づく余裕などなかった。手にしていたリボンを床に落とし、求めるままさらに深く口づけていく。
 レイチェルは押し倒されるように、仰向けにベッドに倒れ込んだ。
 ラウルは覆い被さるように彼女の両側に腕をつき、目を細めて彼女に顔を近づけていく。
 ベッドのスプリングがギシリと音を立てて軋んだ。
 その音でラウルは我にかえる。
 自分の下にある彼女の顔には恐怖の色が浮かんでいた。表情は引きつったままこわばり、蒼の瞳は怯えるように小さく揺れている。それを見た瞬間、頭から氷水をぶちまけられたかのように感じた。全身から血の気が引いていく。
 自分はとんでもないことをしようとしていた——。
 体を起こすと、深くうつむいて掴むように額を押さえる。力を込めた指先が震える。彼女に目を向けることは出来なかった。
「すまない」
 彼女に嫌われることよりも、怯えられることの方が怖かった。自分のとった行動を振り返ると、体の芯から凍りつきそうになる。いくら後悔してもしきれない。今はとりあえず彼女から離れるべきだと思い、ベッドに手をついて腰を上げようとした。
 しかし、そのとき——。
 小さな手でしっかりと手首を掴まれた。力自体はたいしたことはないが、そこからは明確な意志が感じられる。ラウルはおそるおそる彼女に振り向いた。
「やめないで」
 レイチェルは強い引力を秘めた瞳を向けて言った。小さな声だったが、凛としており、そこに迷いや怯えは微塵もなかった。
 ラウルは息を呑んだ。
「……馬鹿を言うな」
 声が掠れた。視線を逸らし、唾を飲み込んでから続ける。
「そもそもおまえはわかっていないだろう、私が何をしようとしていたのかなど」
「わかっているわ、多分……何となく……」
 手首を掴む彼女の指先に少し力が入った。
 ラウルはシーツを掴みながらこぶしを握りしめる。布が擦れる小さな音がして、そこから放射状にいくつもの皺が走った。
「わかっていない」
「わかっているわ」
 もしかしたら他の家庭教師からそういう教育を受けたのかもしれない。しかし彼女の言動からすると、あまりわかっていない可能性も高い。いや、わかっているかどうかなど今は関係のない話である。どちらにしても自分の取るべき行動はひとつだ。
「忘れてほしい、本当に悪かった……」
「いやっ!」
 これまで聞いたこともないくらいに強い、彼女の声。
 ラウルは目を見開いた。
「あと三ヶ月でしょう? 私たちの時間」
「会えなくなるわけではない」
 彼女を説得するために咄嗟に嘘をついた。先ほどまではわかってほしいと願っていたのに、今はそれを否定する言葉を口にしている。本意ではないが、この状況を切り抜けるにはそうする以外になかった。
 しかし、彼女は僅かに声を震わせて言う。
「会えなくなるも同然だわ。ラウルだってわかっているはず……」
 そのときの何もかも諦めたような寂しげな表情は、二ヶ月前の誕生日プレゼントのあと、去り際にちらりと見せたものと同じだった。
 そうか、おまえは——。
 おそらく、あのときにはすでにわかっていたのだろう。家庭教師が終わってしまえば、もう会うこともなくなるということを。
「だから、やめないで。ラウルに後悔してほしくない」
「怖がっていたくせに何を言う」
 ラウルの鼓動は痛いくらいに強く打っていた。喉もカラカラに渇いている。それを悟られないように顔をそむけ、突き放した態度で諦めさせようとする。
「少し驚いただけ。怖くなんかない。ラウルと一緒なら何も怖くないから」
 彼女は自分に言い聞かせるように繰り返す。ラウルを掴む小さな手は、緊張からか、僅かに湿り気を帯びていた。
「おまえ……は……」
 サイファの婚約者なのだ——。
 彼女はわかっているのだろうか。その行為はサイファに対する裏切りになるということを。そこまで考えが及んでいないのかもしれない。許されないことだという認識がないのかもしれない。だとすれば、自分がそのことを諭してやめさせなければならない。そう思うものの、どうしても口が動かない。
「私はラウルが好きだから」
 レイチェルは澄んだ大きな瞳でラウルを見つめた。そして、ラウルの手を自分の胸元にゆっくりと導く。柔らかく温かいそこから、微かに鼓動が伝わってきた。少し速いその鼓動に、ラウルの鼓動も同調していく。
「レイチェル……」
 その声には自分でも驚くほど熱がこもっていた。声だけでない。体も熱くなっていた。彼女の存在を確かめるように、その頬に手を置くと、ゆっくりと輪郭をなぞり、白い首筋へと滑らせていく。
 レイチェルは小さく吐息を漏らし、首筋を伸ばすように顔を上に向けると、微かに震える瞼をそっと閉じた。