ピンクローズ - Pink Rose -

第26話 覚悟

「レイチェル、ミルクティが入ったよ」
「ありがとう」
 サイファが白いテーブルにティーポットを戻しながら声を掛けると、窓越しの空をぼんやりと眺めていたレイチェルは、我にかえったようにニコッと微笑んで振り向いた。ティーカップを手に取り、少しだけ口をつけ、丁寧な所作で音を立てないようソーサに戻す。

 サイファはここ二ヶ月ほど仕事が忙しく、休日出勤続きで、レイチェルとはほとんど会うことが出来ずにいた。会えたとしても文字通り顔を会わす程度で、のんびりとお茶を飲むような余裕はなかったのである。
 その仕事もつい先日ようやく一段落した。
 そのため、今日は上からの命令で代休ということになり、サイファは久々に自宅で一日を過ごすことになった。一人でのんびりと疲れた体を癒すのも悪くはないが、それより何より、まずレイチェルにゆっくり会いたいという願いを叶えるのが先だと思った。ずっと楽しみにしていたことである。浮き足立つ気持ちのまま、今朝の早い時間に連絡を取り、家庭教師の授業が終わったら一緒にティータイムを過ごそうと誘ったのだった。
 レイチェルも喜んでその誘いを受けてくれた。だから、今、こうやってサイファの部屋でミルクティーを飲み、サイファの話を聞き、甘く愛らしい微笑みを見せているのである。
 しかし、彼女の様子には少し気がかりなこともあった。
 サイファと会話をしているときは普段どおりなのだが、それ以外のときになるとぼんやりしていることが多く、虚ろに空を眺めていたり、遠くを見つめていたり、心ここにあらずといった感じなのだ。
 もしかすると、会えなかった二ヶ月の間に、何かがあったのかもしれない。
 サイファは僅かに眉根を寄せる。しかしすぐに表情を取り繕って頬杖をつくと、もう一方の手を伸ばし、慈しむように彼女の柔らかい頬を包み込んだ。そのまま、小さな子供を安心させるような優しい声音で言う。
「レイチェル、僕で良ければ、遠慮しないで何でも話してね。話したくないことは無理には聞かないけれど、話して解決することもあるかもしれないし、そうでなくても心の負担は軽くすることが出来ると思うから」
 レイチェルは目をぱちくりさせてきょとんとしていた。前置きもなく唐突にこんな話を切り出されれば、面食らうのも無理からぬことだ。だが、彼女はすぐにニコッと小さな笑みを浮かべて言う。
「ありがとう」
 紡がれた言葉はそれだけだった。
 何もないのならはっきりとそう言うだろう。おそらく彼女は話さないということを選択したのだ。つまり、話せないほど深刻な悩みを抱えているということになる。聞き出したい気持ちはあるが、そんなことをすれば、口は開いても心は閉ざしてしまう。それでは本末転倒なのだ。
 一緒に暮らしていれば、いくら忙しくとも顔を合わせる機会はあるわけで、少なくとももう少し早く異変に気づくことは出来ただろう。深刻な悩みになる前に手が打てたかもしれない。
 あと8ヶ月か——。
 それは二人がともに暮らせるようになるまでの時間である。
 レイチェルが16歳になったらすぐに結婚できるよう、サイファは水面下で少しずつ準備を進めていた。まだ早いという反対意見もあったが、一番の問題だったアルフォンスはどうにか説得し、ラグランジェ家で最も大きな力を持つ前当主のルーファスにも承諾を受けた。これで障壁となるものは何もない。あとは双方の両親を巻き込んで本格的に行動を起こすだけである。
 幼い頃から待ち望んでいたその日は、足音が聞こえるほどすぐそこまで来ていた。
「サイファ、どうしたの? 大丈夫?」
 サイファが考えを巡らせていると、レイチェルが不安そうに覗き込みながら尋ねてきた。これでは立場が逆である。心配している相手に心配されてしまっては世話がない。自分の不注意に思わず苦笑を漏らして答える。
「僕は大丈夫だよ。少し考え事をしていただけだから」
「ずっとお仕事が忙しかったんでしょう? 疲れているんじゃない?」
「まあね、でも、だからこそレイチェルに会いたかったんだよ」
 それは、彼女を気遣っての言葉ではなく、サイファの偽りない本心だった。彼女の愛くるしい笑顔を見ると元気になれる。この笑顔を見るために、そして守っていくために、つらくとも頑張ろうと思えるのだ。
「これからも僕と一緒にティータイムを過ごしてくれる?」
「ええ、私も楽しみにしているもの」
 レイチェルはティーカップに両手を添えて、ふわりと花が咲いたように、可憐に愛らしく微笑んだ。それは、まさにサイファが切望していたものだった。

 二人の間に穏やかな時間が流れる。
 向かい合ってミルクティーを飲んで、温かいスコーンを口に運んで、取り留めのない会話をして、二人で笑い合って、ときどき見つめ合って——。
 たったそれだけのことで、サイファは心から満たされていくのを感じた。
 しかし、レイチェルが同じ気持ちでいるかはわからなかった。彼女の笑顔は幸せそうに見えた。だが、会話が途切れて静寂が訪れると、また目を細めてふっと遠くを見つめるのだ。
 やはり悩みがあるのだろう。
 もどかしく思いはするものの、それでも無理に聞き出すようなことはしないと決めていた。彼女が相談しやすい雰囲気を作り、ときおり優しく促しながら、彼女自身の決断で口を開くのを待つしかない。それが最善であると判断してのことである。焦ってはいけないと思った、そのとき——。
「サイファ、あのね……」
 レイチェルはぼんやりと遠くを見たまま、淡い声で切り出した。
「ん、何かな?」
 サイファは彼女を怯えさせないよう、しかしこの機会を逃がさないよう、柔らかいながらもしっかりとした口調で聞き返した。そして、ティーカップを口に運びながら、にこやかな笑みを浮かべて次の言葉を待つ。
「私、子供ができたの」
「!!」
 サイファは口に含んだ紅茶を吹きそうになった。それをこらえて飲み込むと、今度は気管に入ってしまい、ゲホゲホと咽せながら涙目で顔を上げる。
「えっと……それって、ペットを飼い始めたってこと?」
「そうじゃなくて、私のおなかの中に赤ちゃんがいるの」
「あ……あのね、レイチェル……」
 彼女の突拍子もない発言に慣れているサイファも、これにはさすがに狼狽せずにはいられなかった。困惑した笑みを張り付かせながら途方に暮れる。彼女がなぜそんなことを言い出したのか見当もつかない。もちろんサイファには身に覚えなどなかった。
 もしかして、何も教わっていないのか——?
 彼女はもう15歳であり、数ヶ月後にはサイファと結婚することになっている。なのに、そういったことに関して何の知識もないのだとすれば大問題である。アルフォンスもアリスも今まで何をしていたのだと心の中で嘆息した。
 とりあえず、間違った思い込みだけでも正さなければならない。どのように説明しようか頭を悩ませながら、慎重に言葉を選んで口を開く。
「知っているかな? 赤ちゃんってコウノトリが運んでくるわけじゃないんだよ?」
「知っているわ」
 レイチェルは当然のようにさらりと答えた。
 そのまっすぐに前を見据えた表情は、夢や幻想を語る少女のものではない。
 ゾクリ、とサイファの背中に冷たいものが走った。
 まさか、本当に——?
 額に汗が滲んでいく。頭はぐちゃぐちゃに混乱していた。何が何だかわからなかった。考えもまとまらないままに上ずった声を漏らす。
「じゃあ……でも、そんなこと……だって僕たちはそんな……」
「サイファじゃないの」
 対照的に静かに落とされた彼女の言葉。
 ドクン、と飛び出しそうなほどに大きく心臓が跳ねる。同時に、頭の中に鋭い閃光が走った。そこに見えたものは荒唐無稽とも思える推測——。なぜそんなことを思いついたのか自分でもわからない。信じたくはない。だが、それは残酷なまでに抗いがたい説得力を持っていた。おそるおそる、それでもまっすぐに彼女の目を見て尋ねる。
「もしかして、ラウル……?」
 レイチェルはじっと見つめ返し、無言でこくりと頷いた。
 ——ガタン!
 サイファは両手をついて勢いよく立ち上がった。優雅な意匠の白い椅子が後方に弾き倒され、カップの中のミルクティーが波を打って縁から零れた。
 頭の中が真っ白になる。
 言いたいことも聞きたいことも山のようにあるはずなのに、口を半開きにしたまま、ただその場に立ちつくすことしかできない。白いテーブルの上に置かれた手は、固く握りしめられ小刻みに震えている。その上に、額から伝った汗がポタリと落ちた。
 僕は、馬鹿だ——。
 きつく奥歯を噛みしめてうなだれる。金の髪がはらりと頬に掛かった。窓越しに降りそそぐ明るい光が、それをより鮮やかに華やかに煌めかせ、その下の顔に深い影を落とした。
 これまで疑惑を持ったことは一度たりともなかった。二人のことを信用していたというよりも、そんなことは考えすら及ばなかったのだ。だが、その考えが頭に浮かんだとき、まるでバラバラだったパズルが一瞬で完成したかのように感じた。ピースは手元にあったのだ。一つ一つは何でもないことでも、すべてを正しく合わせれば見えてくるものがある。難しいことではない。なのに、なぜ今の今まで気づかなかったのだろうか。もっと早く気づいていれば止められたはずなのに——。
 後悔するだけでは何も始まらない。
 サイファはゆっくりと深く息をしてから顔を上げると、きょとんとしているレイチェルに、出来うる限りの落ち着いた口調で尋ねる。
「お医者さんには診てもらったの?」
「ううん、でも間違いないと思うの」
 レイチェルはサイファを見上げて真面目に答えた。
「……行こう」
 サイファは静かにそう言うと、向かいに座るレイチェルの手を取り、早足で彼女とともに部屋を後にした。ティーテーブルの上には、飲みかけのミルクティーが二つ、そのままの状態で放置されていた。

「ねぇ、サイファ、どこへ行くの?」
「医者にきちんと検査してもらうんだ」
 レイチェルの手を引いて王宮への道を歩くサイファは、足を止めることも振り返ることもなく答えた。どうしようもなく気が焦り、走り出したい衝動に駆られるが、それを実行に移すことはできない。もし彼女の言ったことが事実ならば、気遣わねばならない身体である。走らせて転倒するようなことがあれば、大変な事態になるかもしれないのだ。
「医者ってラウルのところ?」
「……違うよ」
 その声の冷たさに、サイファは自分のことながら驚いた。眉根をきつく寄せ、口をかたく結ぶ。こんなことではいけない——瞳を閉じて心の中で頷くと、右手の中の小さな温もりを逃さないように、強く、優しく力を込めた。
「僕に任せて」
 それは、彼女に向けた言葉であると同時に、自分自身を奮い立たせ、揺らぎそうな決心を支えるための言葉でもあった。

 王宮の一角にある一室——その扉の前に二人は立った。
 可能ならば人目を忍んで裏口から入りたかったが、残念ながら、サイファの知る限り出入口はここひとつきりである。レイチェルの手をしっかり握り直すと、小さく息を吸ってその扉を引いた。
 ラウルのところとは随分と様子が違うが、ここも王宮医師が常駐する医務室である。
 入ったところは小さな待合室になっており、すでに5人が長椅子に座っていた。正面には受付窓口がある。その横にある扉の奥が診察室で、最初に来たときには、意外と立派な設備が整っていて驚いたことを覚えている。
「こちらに名前を書いてお待ちくださいね」
 受付の女性が二人に愛想良く声を掛け、窓口から受付票とペンを差し出した。
 しかし、サイファはそれを受け取らず、窓口に手を掛けて覗き込むと、背後を気にしながら声をひそめて言う。
「内密で先生に相談したいことがあります。取り次いでもらえますか」
「……しばらくお待ちください」
 サイファがラグランジェ本家の次期当主であることを知っていたためか、彼女は無理な要望にもほとんど困惑を見せることなく、事務的にそう言い残して奥に消えていった。

「それで、何? 診察だっけ?」
 30分ほど奥の部屋で待たされたあと、この医務室の主であるサーシャが不機嫌に姿を現した。彼女は王宮医師の一人であり、まだ若いが腕は確かだと聞いている。愛想がないのが玉に瑕だが、言動がぶっきらぼうなだけで、心まで冷たいというわけではない。実際、サイファの突然の要望にも、こうやって渋々ながら応じてくれたのだ。扉に休診の札を掛け、待合室にいた5人の診察を終えてから、サイファたちを待たせていたこの部屋へ来たのである。
「個人的な、それも極秘のお願い、ということにしたいんですが」
「報告書には書くなってことね」
 サーシャは向かいのソファに腰を下ろすと、溜息まじりにサイファの意図を確認した。
「さすが話が早いですね」
「今度、昼メシくらい奢りなさいよ」
「それくらいなら喜んで」
 サイファは人なつこい笑顔で応じた。しかし、何が気に障ったのか、サーシャはなおさらムッとして気色ばんだ。面倒くさそうに視線を送りながら言葉を繋ぐ。
「それで何の診察をすればいいわけ?」
「妊娠しているか検査をお願いします」
 サイファは躊躇いもせずさらりと言う。その瞬間、サーシャは僅かに眉を寄せた。
「あんた男でしょう?」
「僕じゃなくて、この子、僕の婚約者のレイチェルを」
 サイファは隣の彼女を抱き寄せて示した。
 サーシャはじとりとレイチェルを見つめた。彼女はきょとんとしていたが、サーシャと目が合うと、途端にニコッと無邪気なまでの笑顔を見せた。まるで状況を把握できていない子供のようなその笑顔に、サーシャはどっと疲れたように深く溜息をつき、顔をしかめながら頭を押さえてうなだれた。

「してるわよ、妊娠。二ヶ月ちょっとってところね。医学的には問題なし」
 一通りの検査を済ませると、サーシャはレイチェルとともに奥の部屋に戻り、待たせていたサイファに前置きもせずテキパキと報告した。
「そうですか」
 すでに心の準備が出来ていたサイファは、動揺を見せることなく静かに返事をした。そんなサイファを見ながら、サーシャはソファの背もたれに腕をかけて、呆れたように溜息をついた。
「ったく、どうかしてるわ。こんな子供をよくもまあ……15歳って聞いたけど、顔だけ見てるとまるきり子供じゃない。何にもわかってないのかぽけーっとしてるし。まあ、身体だけは随分成長しちゃってるみたいだけど。何を食べたらあんなに大きくなるんだか……」
 ぶつくさと文句を言う彼女の視線は、レイチェルの胸元に注がれていた。
「聞いているの? サイファ」
「聞いていますよ」
 サイファは苦笑しながら答えた。
「あんたまさか無理やりやったわけじゃないわよね」
「そんなわけないじゃないですか」
 疑わしげに尋ねるサーシャを、サイファは軽く笑ってあしらう。しかし、内心はドキリとしていた。考えもしなかったが、ありえないとは思うが、そういう可能性もゼロとは言いきれない。頭では否定しつつも、心は不安に絡め取られる。鼓動が次第に速くなっていくのを感じた。
 レイチェルにそっと横目を流す。
 彼女はすぐにそれに気づいたようだった。不思議そうに小首を傾げると、じっとサイファを見つめながら、無言の問いに対する答えを口に上らせる。
「無理やりじゃなくて、私も好きだったから……」
「ほらね、だから言ったでしょう?」
 彼女の答えはおそらく本当のことなのだろう。少なくとも彼女の意思に反する行為ではない。もしかすると彼女自身が望んだことなのかもしれない。サイファは切り裂かれるような痛みを胸に感じたが、同時に大きく安堵もしていた。
 サーシャは呆れたように溜息をついた。
「だからって、何もわかってないようなポヤポヤのお嬢ちゃんに手を出すんじゃないわよ。あんたはもう立派な大人なんだから、考えなしに行動しちゃいけないってことくらいわかるでしょう?」
「そうですね、反省しています」
 サイファは笑顔のまま肩を竦めて見せた。
 その隣で、レイチェルは混乱したような顔でちらりとサイファに視線を送る。誤解されているにもかかわらず、それを否定しないことが理解できないのだろう。それでもこの場で尋ねたり反論したりしないのは、ここに来る前にそう言いつけておいたからである。
「で、どうするのよ」
「産みますよ」
 サイファは間髪入れずに答えた。
「どうせあと数ヶ月で結婚するつもりでしたし、少し予定が早まっただけです」
「そ、ならいいけど。後味の悪い結末は見たくないしね」
 サーシャは無愛想にそう言って脚を組んだ。
「でもそんなに簡単にいくの? サイファってラグランジェ家の次期当主なんでしょう? いろいろ面倒なことがあるんじゃない?」
「それ以前に最大の難関がありますよ」
 サイファは少しおどけたように遠回しな表現をした。
 しかし、サーシャにはすぐに何のことかわかったようだ。
「ああ、この子の両親はまだ知らないわけね。そういえばこの子の父親って、娘を溺愛していることで有名な、あのやたら体格のいいおっさんだっけ? ……あんた、殴り殺されるわよ」
「そうならないよう努力します」
 サイファは苦笑しながら、それでもしっかりとした声で答えた。
「私に出来ることがあったら言って。可能な限り協力するから」
「ありがとうございます」
 ぶっきらぼうに気遣うサーシャの言葉が、今のサイファにはとても心強く感じられた。深々と頭を下げて、精一杯の感謝の意を示す。
「しっかし、あんたはいつもやっかいごとばかり持ち込んでくるわねぇ」
 サーシャは両腕をソファの背もたれに掛けると、顔をそむけて脚を組み替えながら、照れ隠しのように急に大きな声で話題を変えた。
「ただでさえ忙しいんだから、もうこれ以上は勘弁してほしいわ。最近じゃ、色ボケラウルの世話まで焼かなきゃならないし」
「色ボケ……?」
 ラウルにはおよそ似つかわしくないその形容に、サイファはほとんど反射的に聞き返していた。その途端、サーシャは目を輝かせて、ぐいっと前のめりに身を乗り出す。
「そうなのよ! それがどうやら恋してるらしくてね。ビックリでしょ?」
 驚いて何も言えないサイファを見ると、彼女は満足げに大きな笑みを浮かべた。
「これまで真面目なだけが取り柄だったのに、このところ報告書の提出を忘れてばかりでね。かなり重度の恋煩いみたい。本人にも恋してるのか訊いてみたけど、否定しなかったから間違いないわ」
 なぜかこぶしを握りしめながら、勝ち誇ったように力説する。
「でも、残念ながら相手がわからないのよねぇ。サイファ、あんたは知らないの? ラウルとけっこう親しいんでしょう? 聞いてはなくても予想くらいはつくんじゃない?」
「わかりませんよ」
 サイファは素っ気なく答えた。
 察しはついている。いや、確信していると言ってもいい。だが、断じてそれを悟られるわけにはいかないのだ。下手なことを言わないようにと気を引き締める。
「じゃあさ、ちょっと探ってきてくれない?」
「冗談じゃありません。僕を殺す気ですか?」
「やっぱりサイファでも無理なんだぁ」
 サーシャは派手な抑揚をつけて残念がると、頭の後ろで手を組みながらソファにもたれかかった。そして、サイファに物言いたげな視線を流して尋ねる。
「あんたは気にならないの? あのラウルなのよ?」
「先生も命が惜しかったら詮索なんて止めた方がいいですよ。ラウルの機嫌を損ねないうちにね。どうせ成就しない恋なんですから」
 サイファは冷ややかに言い切った。
「それどういうこと?」
「二人は生きる時間の流れが違う。そんな二人が寄り添って生きるなんて無理な話ですよ。たとえ、どれだけ想い合っていたとしてもね」
 静かに、しかし重々しく言葉を落とす。
 隣のレイチェルがどんな顔でそれを聞いているのか、正面を向いたままのサイファにはわからなかった。いや、わかろうとしなかった。目を向けるだけの勇気がなかったのかもしれない。
「若いのに夢も希望もないことを言うわね」
「現実的なだけですよ」
 感心したような呆れたようなどちらともつかないサーシャの言葉に、サイファはふっと小さな笑みを漏らして答えた。

 話が一段落したところで、サイファは帰ることにした。
 無理を聞いてくれたサーシャに丁寧に礼を述べると、レイチェルの手を引いて医務室を後にする。廊下にはほとんど人通りはなかった。転ばないように配慮しながら、彼女の歩調に合わせて足を進める。
 外に出ると、もう日が落ちかけていた。
 長い長い影が二人の後方に伸びている。
 地平近くから注がれる色づいた光は、まわりの空と地上を朱に染め上げていた。それは強烈なまでに鮮やかながら、何とも言いようのない物寂しさを感じさせる光景だった。
「どこへ行くの?」
「いいから来て」
 家路とは違う方向へ足を進めるサイファを見つめ、レイチェルは不安そうにしていたが、それ以上はもう何も尋ねることなく、手を引かれるまま素直についていった。
 ふたりは王宮の外れにある小さな森へとやってきた。
 ひっそりとした薄暗い散歩道には、まったく人の気配は感じられない。昼間でも寂しい場所である。夜が訪れようとしているこの時間に、あえてここに来る人間はほとんどいないだろう。
 サイファは森の中ほどで足を止め、しつこいくらいに注意深く周囲を窺った。そして、誰もいないことを確信すると、真正面からレイチェルと向かい合う。彼女は困惑したように瞳を揺らしながらサイファを見上げた。
「レイチェル、おなかの子のことは誰かに話した?」
 レイチェルは無言のまま首を横に振った。細い金の髪がさらさらと小さく揺れる。
「ラウルにも?」
「話していないわ」
「よし……」
 サイファは小さく頷いてそう呟くと、レイチェルの両肩に手を置き、強い光を湛えた瞳で覗き込む。
「レイチェル、一度しか言わないからよく聞いて」
 レイチェルは緊張した面持ちでこくりと頷き、胸元でそっと両手を重ねた。不安そうにサイファに視線を送る。それを正面から受け止めつつ、サイファは芯の通った力強い声で言う。
「君のおなかの子は僕の子だ。今後そのつもりで振る舞ってほしい」
「今後……これからずっと……?」
 レイチェルは理解できないというように首を傾げて聞き返した。
 サイファはますます真剣な表情になって答える。
「そう、僕たちは予定どおり結婚して、その子を僕たちの子として二人で育てる」
「でも……」
「だから本当のことはもう二度と口にしないで。僕たち二人きりのときでもね。どこで誰が聞いているかわからないだろう? 誰にも知られるわけにはいかないんだ。ラウルにも当分は会わない方がいい。連絡もいっさい取らないで」
 サイファは自分の意見を押しつけるように早口で捲し立てた。その一方的な物言いに、レイチェルは戸惑ったように顔を曇らせる。
「でも、まだ家庭教師が……」
「アリスから断ってもらうよ。それは僕が頼むから心配しないで」
 サイファがそう宥めても、彼女はまだ何か言いたげにしていた。上目遣いでサイファを見ながら、おずおずと遠慮がちに切り出す。
「あのね、私、あしたラウルと一緒にお出かけする約束をしたの」
「……駄目だよ、僕が断っておく」
 サイファは低い声で諭した。そして、再び、彼女を強く覗き込みながら訴えかける。
「レイチェル、君は事の重大さを理解していないだろうけど、これはとても大変なことなんだ。このことが他に知られれば、おなかの子は確実に生きられないし、下手をすると君も……」
 結婚できなくなるのは当然のことだが、婚約解消だけですむ問題とも思えない。
 下世話な話題を好む人間は多い。ラグランジェ本家の次期当主が婚約解消したとなれば、世間から理由を詮索されることは避けられない。中絶の話もどこからか漏れる可能性が高いだろう。
 そんな醜聞をラグランジェ家は許さない。
 それよりは、事故に見せかけて殺した方が手っ取り早いし、危険因子も遥かに少なくなる。ラグランジェ家を何よりも重んじ、非情なまでに合理的な考えを持つ前当主ルーファスならば、その手段を選択しても不思議ではない。実際、ラグランジェ家の過去には、不可解な死と噂されるものがいくつもあるのだ。
「私、殺されてしまうの?」
 レイチェルはぽつりと呟くように尋ねた。
「そうならないように努力する。いや、必ず僕が守る。君も君のおなかの子も。だからお願い、僕の言うことを聞いて……」
 サイファは必死に哀願しながら、彼女の肩を掴む手に力を込める。
 レイチェルは小さくこくりと頷いた。だが、じっとサイファを見つめるその顔は、まだ事情を飲み込めていないような、どこか曖昧な表情をしていた。

「ふざけるな!!」
 応接間が震えるほどの怒号とともに、サイファは焼けるような強烈な痛みを頬に感じた。床に叩きつけられるように横向きに倒れ込む。口には生ぬるい鉄の味が広がっていった。
「誰がおまえなんぞに娘をやるか! 婚約など破棄だ!! 帰れ!!!」
「本当に申し訳ありませんでした……」
 よろりと身を起こしながら謝罪する。それだけで殴られたところがズキズキと痛み、思わず顔をしかめる。しかし、すぐに表情を引き締めると、床に両手をついて頭を下げ、真摯に言葉を繋いでいく。
「どのような謝罪でもしますし、罰を受ける覚悟もあります。ですが、レイチェルを諦めることだけは出来ません。結婚を許してくださるまで帰るつもりはありません」
「よくもぬけぬけと……おまえは殺す……殺してやる……」
 アルフォンスは低く唸るようにそう言うと、ギリギリと音が聞こえるくらいに歯がみした。サイファとの距離をじりりと詰め、大きなこぶしを強く握りしめて震わせる。そこには何本もの青筋が浮き出ていた。
「やめて!!」
 甲高い悲痛な叫び声が、張り詰めた空気を切り裂く。
 レイチェルは弾かれるように無抵抗のサイファの前に飛び出すと、彼を背に庇うように両手を広げて膝をついた。血の気が引いた真っ白な顔で、小さな口をきゅっと結び、完全に沸点に達している父親を仰ぎ見た。
「どけ! レイチェル!!」
 体の芯を震わせる怒鳴り声にも、彼女は一歩も引かなかった。何度も首を横に振って懸命に訴えかける。
「サイファは悪くない、何も悪くないの!!」
「レイチェル、いいんだ」
 サイファは後ろから静かに制止した。
 しかし、その言動がアルフォンスの怒りにさらなる油を注ぐことになった。蒸気を吹き上げんばかりの勢いで頭に血を上らせると、眉間にいくつもの深い皺を刻み、腹の底から重低音を響かせて怒りを爆発させる。
「サイファが悪くなければ誰が悪いというのだ!」
「殺すなら私を殺して!!」
 レイチェルは瞳を潤ませながら、全力で声の限りに叫んだ。
 アルフォンスはその迫力に圧されて息を呑んだ。当然ながら、彼が愛娘に手を上げることなどできない。だからといって許すこともできない。ただ全ての元凶であるサイファを刺すように睨みつけるだけだった。
「アルフォンス、とりあえずここは引いて。レイチェルの体に障るわ」
 それまで黙って成り行きを見守っていたアリスが、ソファから腰を上げて静かに言った。握りしめられた大きなこぶしに、細い手を添えて制止する。
「話はあらためてにしましょう」
「くっ……」
 アルフォンスは悔しげに声を詰まらせると、修羅のような形相でサイファを一瞥し、床をドカドカと踏み鳴らしながら応接間を後にした。叩きつけるように閉められた扉の向こうから、何かを盛大にひっくり返したような音がいくつも重なり合って聞こえてきた。

「レイチェル、大丈夫?」
「サイファ、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
 床に座り込んだままのサイファが背後から声を掛けると、レイチェルは涙を溢れさせながら倒れ込むように抱きついてきた。彼女も少しは事の重大さを実感したのだろう。体を震わせながら、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。
 サイファはその背中にそっと手をまわし、あやすように軽くポンポンとたたく。
「僕は平気だから。でも、約束だけは忘れないで」
 声をひそめて耳元で囁くようにそう言うと、レイチェルはサイファの肩に顔をのせたまま、小さくしゃくり上げながらこくこくと頷いた。彼女の涙がサイファの頬に触れる。その温かさは、少しの痛みを伴って、胸にじわりと沁み込んできた。

「サイファ、今日はとりあえず帰ってくれる?」
 アリスは抱き合う二人を見下ろしながら淡々と言った。
「アルフォンスは私が説得するわ。今は感情的になっているけれど、冷静に考えればわかるはずよ。二人の結婚を認めるしかないということ、それが誰にとっても最善だということがね」
「本当に申し訳ありません」
 サイファは立ち上がって深々と頭を下げた。ズキズキと疼く頬を、金の髪が掠めていく。それだけでさらに痛みが増したような気がした。
 アリスは少し顔を曇らせて続ける。
「あと数ヶ月後には結婚する予定の二人なんだから、私個人としては認めてあげればいいと思っているけれど、ラグランジェ家としては大変なことなのよ。アルフォンスだけではなく、前当主ルーファスの許しも得なければならないわ」
「はい、説得するつもりです」
 もちろんそのことも忘れてはいなかった。しかし、アルフォンスほど説得は困難ではないだろう。彼はレイチェルとサイファの子供を待ち望んでいるのだ。ラグランジェ家にさらなる飛躍をもたらすであろう、二人の能力を受け継ぐ優秀な子供を——。そのためには、これくらいのことは不問に付すのではないかというのがサイファの目算だった。
「そこまで考えているのなら、もう私が言うことは何もないわね」
 アリスは両手を腰に当てて小さく息をついた。
 サイファは重々しく頭を下げた。これで何度目だろうかと思う。しかし、このくらい大したことではない。土下座をすることも、罵られることも、軽蔑されることも、殴られることでさえも、すでに覚悟を決めていたのだ。
「それにしても意外だったわ」
 一息ついて緊張が弛んだのか、アリスはそれまでとはまったく違うのんびりした声でそう言うと、立てた人差し指を唇に当てて斜め上に視線を流した。
「サイファって理性的だし、次期当主の自覚もあるし、そういう間違いを起こすなんて考えもしなかったわ。今でもまだ信じられないくらい」
「僕もただの男ですよ」
 サイファは苦笑しながら言った。そんな彼を、アリスは探るような眼差しで覗き込む。
「ねぇ、もしかしてレイチェルが誘ってきたのかしら? あの子さっき自分が悪いって言っていたでしょう? サイファに何度も謝っていたのも、そういうことなんじゃない?」
 それは大胆な推測だったが、筋は通っていた。レイチェルの少し行きすぎた行動の理由としても納得がいく。彼女には悪いと思ったが、サイファはあえてそれに乗ることにした。
「それでも悪いのは僕の方です」
「どっちもどっちね。まったく、子供だと思っていたのにこの子は……」
 アリスはそう言って溜息をつくと、サイファの腕に縋りつくレイチェルを見下ろし、窘めるようにその額を人差し指で弾いた。そして、再びサイファに視線を戻し、真面目な顔になって言う。
「サイファ、何があっても諦めないでね。レイチェルのためにも」
「たとえ諦めろと言われても、諦めるつもりはありませんから」
 レイチェルの華奢な肩を抱き寄せ、その手に力を込めながら、サイファはにっこりと力強く微笑んで答えた。

「父上、母上、お話があります」
 サイファは自宅に戻ると、居間の扉を開くなりそう切り出した。
 両親はソファで向かい合って何か話をしていたようだが、その声につられてほとんど同時に振り向いた。
「サイファ! おまえどうしたんだ、その顔……」
 途端にリカルドはぎょっとしてサイファを指さした。
 その理由はわかっていた。鏡を見たわけではないが、殴られたところが腫れている自覚はある。もしかすると、変色もしているのかもしれない。相当ひどい状態になっているのだろう。
「これからあなたがする話と関係があるのね?」
 一方のシンシアは落ち着きはらっていた。実際のところはわからないが、少なくとも表面上はそう見えた。聡明な光を宿した双眸で、射抜くようにサイファを見据えている。
 それでもサイファが怯むことはなかった。
「はい、説明させてください」
「聞きましょう」
 シンシアはリカルドの隣に移動して座り直すと、先ほどまで自分がいた向かい側を示し、サイファにそこに座るように促した。

 サイファは今日の出来事を端的に話した。
 ほとんどはありのままだったが、最も肝心な部分だけは事実を伏せてごまかした。つまり、サイファがおなかの子の父親であるという前提で話を組み立てた。もっとも、ことさらにそれを強調する必要はない。疑われることはまずありえないのだ。サイファがそうだったように、おそらく誰も考えもしないことである。
 両親の顔はみるみるうちに険しくなっていった。
 サイファが話し終わると、シンシアは怖いくらいの真剣な眼差しを向けて言う。
「サイファ、あなたにはいつも言っていたはずよ。ラグランジェ本家次期当主としての自覚を持ち、場の感情に流されることなく、自らの冷静な判断をもって、常にその名に恥じない行動をとるよう心掛けなさいと」
「申し訳ありません」
 サイファは神妙な顔で頭を下げた。事実はどうであれ、母親を落胆させたことには違いない。ラグランジェ家の当主に相応しい人間であるようにと、彼女はこれまで厳しくも愛情を持って育ててくれた。その恩を仇で返す結果になってしまい、本当に心苦しく思う。
「終わったことをしつこく責めても始まらないわ。あなたももう十分に反省しているのでしょう。お説教はこれで終わり。ここからは今後の対処について考えましょう」
「そうだな……」
 リカルドも溜息をつきながら同意した。しかし、あまりの難題に苦悶の表情を浮かべる。ゆっくりと腕を組むと、首を斜めにして考え込んだ。
 シンシアはサイファから目を逸らさずに尋ねる。
「あなたの気持ちは固まっているのね?」
「はい、僕はレイチェルと結婚します」
 サイファは前を向いて毅然とした口調で断言した。
「そうは言っても問題は山積しているぞ」
 リカルドは腕を組んだまま眉根を寄せた。
 だが、シンシアはその非建設的な意見を無視して話を進めていく。
「アリスはどう言っているの?」
「アルフォンスを説得すると言ってくれています」
「そう、アリスが味方なら心強いわ」
 少し安堵したように息をつくと、再び厳しい顔つきになって続ける。
「まずはアルフォンスの説得ね。アリスと相談してからこちらの出方を決めるけれど、早いうちに私たちも謝罪に行った方がいいでしょうね」
「そうだな、それは避けられないだろうな……」
「あなたもサイファのように殴られることを覚悟しておいて」
「えっ?!」
 リカルドは隣のシンシアに振り向き、目を見張って素っ頓狂な声を上げた。しかし、シンシアは、今さら何をという半ば呆れたような面持ちで付言する。
「それだけのことをしたのよ、サイファは」
「そ、そうだね……」
 すでにリカルドの顔からは血の気が失せていた。引きつったごまかし笑いを張り付かせている。サイファの顔の状態を見て、同じ目に遭わされるのだと思えば、怖くなるのも当然だろう。
「申し訳ありません」
 サイファはソファに座ったまま深々と頭を下げた。
「サイファ、あなたは部屋に戻って休んでなさい。用があればこちらから呼ぶわ。それと、その顔、冷やしておいた方がいいわね。かなり腫れているわよ」
 シンシアは歯切れよく指示を送る。
「はい」
 サイファは素直に返事をすると、丁寧に一礼して居間を後にした。

 カタン——。
 サイファは二階の自室へ戻ると、静かに扉を閉めた。
 灯りもつけず暗い部屋で立ちつくす。
 窓際のティーテーブルには、レイチェルと紅茶を飲んでいたときの状態がそのまま残っていた。ただそのときの温度はもうそこにはない。月明かりを受けて、白い陶器が冷たい光を放っている。
 ——自分は、何も、何一つ間違っていない。
 サイファは薄い唇をきゅっと結び、僅かに顎を引いた。
 レイチェルを見捨てていいはずがない。そもそも二人を仲良くさせようとしたのはサイファである。自分の好きな二人が仲良くしてくれると嬉しかった。ただそんな単純なことしか考えず、してはいけないことも教えず、こうなるまで何も気づかなかった自分にも責任がある。そして何より、サイファ自身が彼女を失いたくなかったのだ。
 彼女を助けるための選択肢は二つあった。
 ひとつはサイファがおなかの子の父親になること。
 もうひとつはすべてをラウルに託すこと——。
 サイファは迷うことなく前者を選択した。もしかすると、それは彼女のためというよりも、彼女と離れたくないという自分自身の身勝手な思いによるものかもしれない。彼女のことは全力で守るつもりだが、ラグランジェ家にいる限り、つらい思いをさせてしまうことは避けようがない。まして、ラグランジェ家を捨てて逃げ切る力などあるはずもないのだ。
 それでも、自分の選択は間違っていなかったと思う。
 確かにラウルの圧倒的な魔導力を持ってすれば、ラグランジェ家から逃げることも、ラグランジェ家を黙らせることも可能である。何の不安もない環境で、彼女は大きな力に守られながら安穏と過ごしていくことができるだろう。
 だが、二人は生きる時間の流れが違うのだ。
 そのことがサイファの唯一の拠り所だった。長い目で見れば自分の方が彼女を幸せにできるという自信を持てた。今後の人生を懸けてそれを証明していくつもりである。
 しかし、それも一方的な押しつけでしかない。
 もしも彼女に二つの選択肢を提示したら、どちらを取っただろうか——。
 頭を掠めた不安から逃れるように、サイファは顔をそむけてうつむいた。
 ふと、壁掛けの鏡が視界の端に入った。そこに映し出されている哀れな姿は、とても自分とは思えないほどだった。あらためて正面から向かい合う。殴られた部分は想像以上に痛々しかった。輪郭が変わるほどに腫れ上がり、内出血のためか黒ずんだように変色している。
「はは……ひどい顔だな……」
 小さな声で自嘲ぎみに呟くと、両手を伸ばして鏡に手をついた。小さく顎を引き、上目遣いで向こう側の自分をじっと見つめる。差し込んだ月明かりが、鮮やかな青の瞳を冷たく輝かせていた。
 ラウル、おまえには渡さない。絶対に——。
 鏡に手をついたまま、奥歯を食いしばって下を向く。全身が強張った。肩は小刻みにわななき、爪先は強く押しつけられて白くなっている。
 雫がひとつ、震える頬を伝った。
 それは拭われることなく滑り落ちると、月明かりを受けて刹那に煌めき、音も立てず密やかに床の上で砕け散った。