サイファはレイチェルの部屋の前に立ち、軽快に扉を叩いた。
しかし返事はない。
耳を澄ましてみるが、静まりかえったまま、物音一つしなければ、気配すらも感じられない。窓の外から届く小鳥のさえずりだけが、やけに大きく聞こえる。
「レイチェル?」
僅かに語尾を上げて呼びかけると、静かに扉を開いて中を覗き込む。
ガランとした広い部屋。
その奥の机で、レースのカーテン越しに降りそそぐ柔らかな光を受けながら、彼女はうつぶせになっていた。背中が小さく上下している。顔は見えないが、おそらく眠っているのだろう。
サイファは音を立てないように足を進めた。
教本やノートを広げたその上で、彼女は子供のようなあどけない顔で眠っていた。細い金の髪は透きとおるようなきらめきを放っている。それを目にするだけで、サイファの口もとは自然と緩んだ。彼女の柔らかい頬にそっと指先を滑らせると、耳元に口を寄せて、慈しむような音色で名前を呼ぶ。
「レイチェル」
「ん……」
レイチェルは眠たそうな声を漏らすと、睫毛を震わせてうっすらと目を開いた。気だるそうに体を起こしながら辺りを窺おうとする。その後ろから、サイファは椅子の背もたれ越しに彼女を抱きすくめた。ふわりと広がった甘い匂いが鼻をくすぐる。
「サイファ……」
レイチェルは子猫のように目をこすりながら呟いた。そんな仕草も、サイファにはたまらなく愛おしく感じられ、思わずくすっと笑みをこぼした。
「身体には気をつけてね。眠かったらベッドで寝た方がいいよ」
「ありがとう」
彼女は小さな花がほころんだように愛らしく笑った。だいぶ意識が明瞭になってきたようで、今日が平日であることに気づいたのか、サイファに不思議そうな目を向けて質問する。
「お仕事は?」
「今日はお休み」
サイファはにっこりと答えた。今は仕事もさして忙しくはなく、また、事情を理解してくれていることもあり、希望をすれば簡単に休暇がとれるのだ。
「レイチェルは勉強していたの?」
「他に、することがないから」
彼女は少しためらいがちに、しかし笑顔を浮かべてそう言った。
万が一のことを考えて、彼女にはなるべく家の外に出ないようにと言いつけてあった。敷地外だけではなく、文字通りの家の外、つまり庭にも出ないようにという意味だ。いささか過剰な対応ではあるが、アルフォンスもそれには積極的に同意した。ことレイチェルに関しては、サイファ以上に過保護なのである。
きっかけは、先日、隠れ家で聞いたティムの話だった。
彼からはその翌日に平謝りされた。話した内容は事実だが、ずっと誰にも言わず自分の心だけに留めておくつもりだったらしい。まして何らかの行動を起こすつもりなど微塵もない、ということだ。それは嘘ではないだろう。彼のことを疑っているわけではない。1年という期間、一緒に仕事をしてきて、彼がどういう人間であるかはだいたいわかっているつもりである。
だが、彼以外の誰かがやるかもしれない。
ラグランジェ家に正面きって喧嘩を売ればどうなるか——王宮に勤めるものであれば、誰しもわかっているはずである。しかし、可能性はほぼゼロに近いだろうが、破滅覚悟ということもありうるのだ。用心するに越したことはない。
だが、彼女を閉じこめておきたい理由がそれだけではないことも、むしろそれ以上に怖れる理由があることも、サイファは自覚していた。
「ごめんね、しばらくは我慢して」
少し申し訳なさそうに言いながら、サイファは彼女の側頭部に頬を寄せ、机の上に開いたままになっていた教本とノートに目を落とす。
そこにはラウルの文字が走っていた。
家庭教師が教え子の教本やノートに文字を書き入れることは、決して不自然な行為ではない。現にサイファのものにもラウルの書いた文字がたくさん残っている。
ただ、彼女がそれを開いていたのは——。
サイファは小さな体を抱きしめる腕に、少し力を込めた。
「ラウルに、会いたい?」
レイチェルはビクリと体を硬直させた。何も答えないまま、口をきゅっと結ぶ。息さえも止めているようだ。細い指先だけが、膝の上で微かに動いた。
「正直に答えていいんだよ」
出来るだけ柔らかく、サイファはそう促した。
レイチェルは僅かにうつむくと、長い沈黙のあと、小さくも明確にこくりと頷いた。間髪入れず、いささか慌てたように言葉を繋ぐ。
「でも、会わない……から……」
「……ごめん」
サイファは低い声を落とした。彼女の華奢な肩に顔を埋めると、抱きしめる腕にさらに力を込める。縋りつくように、逃さないように、縛り付けるように——。
その枷に、レイチェルは小さな手を重ねた。
「私、お母さまにお茶を淹れてもらってくるわ」
「……いや、今日は長くいられないんだ」
ほのかな温もりに心が融けていく。本当はずっといつまでもここにいたいが、そういうわけにはいかない。サイファは体を起こしてやんわりと断ると、不思議そうに小首を傾げるレイチェルに微笑み、その頭にぽんと手をのせた。
「祖父にお願いしないといけないことがあってね」
「ルーファス前当主に……? 何を……?」
「僕たちが幸せになるために必要なこと」
サイファは努めて明るく言った。しかし効果はなかったようだ。彼女は何か言いたげに小さな口を開くものの、一言も発することなく目を伏せて深くうなだれる。その表情は明らかに自分自身を責めているものだった。
「心配しなくても大丈夫だから」
サイファは優しく元気づけながら、隣に膝をついて覗き込む。
蒼の瞳は不安定に揺れていた。
それでも、彼女は幼い表情をきゅっと引き締め、真摯な眼差しを返して尋ねる。
「私は、何をすればいいの?」
「……嘘を、つき続けて」
少し考えた後、サイファは答えた。
それを15歳の少女に強要するのは酷かもしれない。しかし、他のことはサイファが可能な限り手を打つとしても、それだけは彼女自身がやるしかないのだ。失敗は決して許されない。彼女もそのことはすでに理解しているのだろう。決意を秘めた面持ちで、その重みを受け止めるようにゆっくりと頷いた。
飾り気のない地味な黒ワンピースに、控えめなフリルの白エプロンという、典型的な身なりのメイドに案内され、サイファはやや古めかしい応接間の扉の前に立った。いつもより力を込めて、その扉をゆっくりと二度叩く。
「入れ」
扉越しにも威圧感のある声が、端的に命令を下す。
サイファは扉を開き、一歩、足を踏み入れた。そこで深々と一礼して背筋を伸ばす。
「ルーファス前当主」
「堅苦しい挨拶はなしにしよう」
言葉を継ごうとしたサイファを遮り、ルーファスは自分の座るソファの向かいを勧めた。サイファは再び一礼して、示された革張りのソファに腰を下ろすと、眼前の男をじっと注視する。彼は鷹揚に背もたれに身を預けていたが、その姿には貫禄と風格があり、また、体勢にもまったく隙は感じられなかった。
油断ならない——。
とうの昔からわかっていたことだが、彼と対峙するといつも、そのことをあらためて実感させられるのだ。
「おまえが私のところへやってくるのは、何か頼みごとがあるときくらいだな」
ルーファスはどこか楽しげな声音を響かせると、口角を上げ、すべてを見極めるような抜かりのない視線をサイファに向けた。
体中が竦むような感覚。
サイファは唇を引き結んだ。それでも退くわけにはいかない。毅然とした表情の下に戦慄を押し隠し、単刀直入に切り出す。
「私を近くラグランジェ本家の当主にしてください」
ルーファスの目が少し大きくなった。それは、単なる驚きというより、感嘆といった方が近いかもしれない。鼻から小さく息を漏らすと、抑揚のない低い声で尋ねる。
「なぜそれほどまでに急ぐのだ」
「父は……リカルド=キースは、当主の器ではありません」
サイファは臆面もなく答えた。
「私を見くびっているのか」
鋭い眼光がサイファを貫く。それが本当の理由ではないことを、ルーファスはすぐに見透かしたのだろう。だが、それも想定済みである。サイファは狼狽することなく落ち着きはらって続ける。
「事実には違いないでしょう」
ルーファスは険しい表情を崩さなかった。眉を寄せたまま睨み続けている。そして暫しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いて言う。
「おまえの思考はいつも理路整然としている。それゆえに読みやすい。だが、このところはどういうわけか必然性のない暴走が続いている。とち狂ったのかとも思ったが、実際に会ってみると以前とまるで変わっておらん。むしろ以前より聡明さを増しているようにも見える。そんなおまえが、くだらん失敗をしたり、考え無しの行動をとることはないだろう。そうなると考えられることは一つだ」
そこで言葉を切ると、サイファの瞳を奥底まで探るように見つめる。
「私の理解を超えるところで、おまえは何らかの計略を巡らせている……違うか?」
静かだが威圧感のある声で尋ねられ、それでもサイファは少しも怯むことなく、ふっと薄く笑みを浮かべた。
「たとえそうだとしても、訊かれて素直に答えると思いますか」
「答えなければ当主の座を認めない、と言ったらどうする」
ルーファスは悠然と肘掛けに頬杖をつきながら問いかける。
「あなたはそれほど小さな人間ではないでしょう」
「長く権力を手にするものは、皆、慎重なものだ。私とて例外ではない」
「だとしたら、答えたとしても認められることはなさそうですね」
サイファは爽やかに笑って言った。
しかし、ルーファスの表情はピクリとも動かなかった。ただ、全てを見透かすような青い瞳でじっとサイファを見据えている。そこには攻撃的な強い光が宿っていた。
「下手なハッタリだな」
「さあ、どうでしょう」
互いに正面から視線をぶつけ合い、絡め合い、探り合う。
息の詰まるような、長い、長い沈黙。
その重苦しい空気に押しつぶされないよう、サイファは気を張って耐える。先に目を逸らせたら、口を開いたら負けだと思った。だが、それは浅はかな考えであることを知る。
「いいだろう」
ルーファスが静寂を破った。
「今すぐというわけにはいかんが、結婚式と同時に就任ということで手を打とう」
「ありがとうございます」
サイファはその場で頭を下げる。しかし、これが礼を述べる類のものでないことは理解していた。ルーファスは負けたわけでも譲歩したわけでもない。挑戦状を叩きつけたのだ。ここからが戦いの始まりなのだろう。彼の獰猛さを増した瞳がそれを物語っていた。
「ただし、リカルドはおまえが説得しろ」
「たやすいことです」
サイファは無感情に答えると、立ち上がって一礼し、静かに応接間を後にした。
入れ替わりに、別の扉から大きな体が応接間に入る。無言で足を進めると、先ほどまでサイファが座っていた場所に腰を下ろし、深く溜息をついた。
「これを聞かせるために私を呼んだのですか?」
「面白かっただろう?」
ルーファスは口の端を吊り上げた。
「悪趣味ですね」
アルフォンスは腕を組んで窓の外に目を向けた。
すぐに、ルーファスの妻が二人分のチーズケーキと紅茶を運んできた。そのケーキはアルフォンスが手土産として持参したものである。
「このチーズケーキはなかなか美味しいですよ」
アルフォンスの機嫌はもう直っていた。嬉々として子供のように頬張る彼の姿を見て、ルーファスは呆れたように眉をひそめながらも、勧められるまま一欠片を口に運ぶ。
「……甘いな」
ぼそりとそう呟くと、フォークを置き、ストレートの紅茶を口に運んだ。
アルフォンスはゆっくりと手を止めた。
「あなたも、サイファには随分と甘いですね」
「不服のようだな」
淡泊な口調でそう聞き返すと、ルーファスはティーカップをソーサに戻し、皮の擦れる鈍い音を立てながら、背もたれに深く身を預けた。
アルフォンスはうつむいたまま答える。
「不思議に思っているだけです。ラグランジェ家の品位を貶めたサイファに何の罰も与えず、婚姻を認め、さらにあの若さで当主にするなど……」
「それだけの価値があるということだ」
ルーファスは答えた。それは全ての疑問に対する簡潔明瞭な答えである。それでもアルフォンスは感情的に受け入れがたく、眉間に皺を寄せ、迷いを含んだ複雑な顔を見せていた。
「おまえは自分の娘のことがあるせいで冷静に考えられないのだろう。あの二人の子供は、ラグランジェ家の飛躍のためには必要な存在だ。この調子で10人くらい作ってほしいものだな」
愉快そうにそんなことを言うルーファスを、アルフォンスは抑えきれない反感を滾らせながら凝視した。彼に自覚はなかったものの、それは睨んでいるとしかいいようのない眼差しだった。
「気に入らんか」
「いえ……」
感情を抑えた声を落とすと、奥歯を噛みしめて目線を外す。彼は、勝算のないものに真っ向から対立するほど無謀ではなかった。
ルーファスは冷たく目を細めた。
「おまえはレイチェルにいつまでも無垢な子供のままでいてほしかったのだろう。だが、そんなものはとうになくなっていたのだ。あの子はおまえの願いを酌み取って、そういう振る舞いを続けていたにすぎん」
「子供を演じていたと?」
「おそらく無意識だろうがな。レイチェルは他人が自分に望むことを敏感に感じ取り、それに応えようとするところがある。サイファは彼女におまえとは違うものを求めたのだろう。それが女か、共犯か、それとも他の何かかはわからんがな」
そう言うと、彼は窓越しに遠くの空を仰ぎ見た。端整な横顔に柔らかな陽光が降りそそぎ、その立体感をよりいっそう際立たせている。
アルフォンスは僅かに顎を引いた。
「だからといってサイファの行為が正当化されるわけではない」
「感情に流されて目を曇らせるなということを忠告しただけだ」
ルーファスは空を眺めたまま素っ気なく答える。アルフォンスのことはあまり眼中にはないような素振りだった。おそらくはサイファのことを考えているのだろう。彼に入れ込む理由はわからなくはない。だが——。
「リカルドは良い傀儡だ、と言っていませんでしたか?」
その問いかけで、ルーファスはようやく視線を戻した。ゆっくりとアルフォンスに向き直ると、深く息をついて答える。
「ああ、だが表に立つ者として、あまりにも威厳がなさ過ぎる。サイファの言うように当主の器ではない。ただ従順なだけが取り柄の出来損ないだ。人の好さで皆に好かれてはいるようだが、ラグランジェ家は畏怖される存在でなければならない。そろそろ打開策を考えねばと思っていたところだ」
重く厳しい口調で述べると、その身を深くソファに沈め、小さく眉をひそめて続ける。
「とはいえ、他の子供たちもリカルドと変わらんからな」
「性格はみんな母親似ですね」
リカルドには弟と妹が一人ずついるが、三人とも優しく穏やかな性質で、そのためかきょうだいの仲も良かった。しかし、そんなことは、ルーファスにとっては何の評価にもならないのである。
「性格だけではなく、頭脳も、魔導の能力もだ」
返す言葉の端々に、抑えきれない苛立ちが覗いていた。
「あいつは妻としては従順で申し分ない女だが、子供の母親としては物足りなかった。その点、シンシアは優秀だ。あれを選んだ私の目に間違いはなかっただろう。彼女の聡明さを、サイファは受け継いだのだからな」
ラグランジェ本家の次期当主は10歳になるまでに婚約者を定められる。当然ながら本人が選ぶことはできない。そんな事情もあり、ルーファスは、親に押しつけられた妻よりも、自らが選んだシンシアの方を誇りに思っていた。それは、これまでも幾度となく本人が口にしてきたことである。彼はさらに調子に乗って続ける。
「おまえの娘の潜在能力も素晴らしいぞ。私の子供を産ませたいくらいだ」
耳を疑う言葉が聞こえた。アルフォンスは頭の中が真っ白になり、即座に反応できなかった。膝に置いたこぶしを、青筋が立つほど強く握りしめ、低く震える声を絞り出す。
「冗談にしては、度が過ぎます」
「安心しろ、手を出したりせん」
ルーファスはさらりと流した。
彼の倫理観は、アルフォンスのそれとは大きく乖離している。必要があれば、そのくらいのことは何の躊躇もなく実行するだろう。だが、今回のことに関しては単なる例え話であり、願望はあるのだろうが、少なくとも現時点では本気ではなかったようだ。いまだに許しがたい気持ちは燻るものの、しつこく食い下がることに意味はないと思い、昂ぶった感情を抑えて話を本筋に戻す。
「サイファが何を考えているかわからないのに、当主に据えて良いのですか」
「退屈していたところだ」
ルーファスは含みを持った薄笑いを浮かべる。
「リカルドと違って、あいつは素直に言いなりにはならんだろう。対立は必至だな。おまえはどちらにつく? 私か、サイファか」
挑発的に問いかけられ、アルフォンスはごくりと喉を鳴らした。少し考えてから、額にうっすら汗を滲ませつつも、今の気持ちを正直に答える。
「中立でいさせてください」
ルーファスはフッと鼻先で笑った。
「今はそれでもいいだろう。だが、どちらかを選択しなければならないときが、いずれ来るかもしれん。覚悟だけはしておけ」
「……楽しそうですね」
その声には無意識に角が立った。しかし、気づいているのかそうでないのか、ルーファスはまるで気に掛ける様子もなく、不敵に笑みを浮かべて答える。
「ラグランジェ家の幸福ために必要なことを為そうとしているだけだ」
その言葉をどこまで信じていいのか、アルフォンスには判断がつきかねていた。
「父上、ラグランジェ本家当主を退いてください」
「……え?」
向かいに座るサイファの露骨な要求に、リカルドの目は点になった。思考が停止したのか、短い一言を発したきり、蝋人形のように固まって動かない。
同席していたシンシアは、鋭く険しい視線を向けて追及する。
「理由を言いなさい」
「ラグランジェ家のためには、その方が良いと判断しました」
「私を見くびらないでちょうだい。本当の理由を言いなさい」
眉を吊り上げて語気を強める彼女を見て、サイファはフッと小さく笑った。その小馬鹿にしたような態度に、彼女はますます怒りを露わにする。
「何がおかしいの?!」
「ルーファス前当主と同じことをおっしゃるので、つい」
厳しい一喝にも動じず、サイファは人当たりの良い笑みを浮かべながら、小さく肩を竦めて答えた。
それを聞いた瞬間、シンシアはハッと息を呑んだ。
「まさか、サイファあなた……」
「はい、すでにルーファス前当主の承諾はいただいてきました」
サイファはさらりと答える。
シンシアの双眸に非難の色が浮かんだ。言いたいことはたくさんあったのだろう。だが、それらは胸に押しとどめたまま、ただひとつ重要なことだけを尋ねる。
「ルーファス前当主は……何と、おっしゃったの?」
「レイチェルとの結婚式と同時に就任だそうです」
「父が承諾しているのなら、私に反対する理由はないよ」
それまで二人のやりとりを見守っていたリカルドが、冷静に意見を述べた。
「あなた……」
「確かに私よりサイファの方が当主に向いているからね」
悲しげなシンシアを宥めるように、彼は人の好い笑顔で、ごく自然にそんなことを付言する。そこからは悲嘆も自嘲も感じられなかった。あらためて真面目な顔になると、サイファを見つめて続ける。
「だけど、おまえはそれでいいのか? 当主といってもラグランジェ家を思いどおりに動かせるわけではないんだよ。何かと煩雑なことも多い。私にはシンシアがいるので助かっているが、今のレイチェルではまだおまえの助けにはならないだろう」
「わかっています」
そんなことは以前から理解していたし、覚悟もしていた。今のような状況にならなかったとしても、いずれ当主になることは決まっていたのだ。多少、その時期が早まっただけのことである。
「サイファ、あなたはレイチェルを守るために、出来る限りの力を手に入れようとしているのね?」
シンシアは静かに言う。
思いもよらなかった鋭い洞察に、サイファは目を大きくした。薄く微笑んで溜息をつくと、「母上には敵いませんね」と言いながら、両の手のひらを上に向けて見せる。考えのすべてを見透かされたわけではないが、それでも事情も知らずにここまで言い当てた母親には、素直に感服するより他になかった。
「あなたが責任を感じて、彼女を雑音から守ろうとする気持ちはわかるわ。けれど、そんな個人的事情で当主になろうとするのは間違っている。別の方法を考えなさい」
彼女の言い分はもっともだった。反論の余地はない。だが、自分が間違っているとわかっていても、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「申し訳ありません。しかし、この決定を覆すつもりはありません。私は当主になります。ラグランジェ本家当主として、年齢や経験不足を言い訳にせず、父上や母上以上に良い仕事をすると誓います」
「わかった」
「リカルド……」
シンシアの声には同情が滲んでいた。
「父が承諾しているんだ。決定事項だよ。それに、レイチェルを守りたいというサイファの気持ちを尊重してやりたいとも思う」
リカルドは優しく包み込むように微笑んだ。観念したのか、シンシアはもう何も言わなかった。
「ありがとうございます」
サイファは淡々と礼を述べると、精一杯の感謝を込めて深々と頭を下げた。長くはない金色の髪がさらりと頬を撫でる。ふと目元が熱を帯びていくのを感じた。
また、両親を裏切ってしまったのかもしれない。
それでも後には引けないのだ。
レイチェルと生まれてくる子供を守るため、出来る限りの手を打っておかなければならない。単に誹謗中傷を軽減するためならば、ここまではしなかっただろう。それよりももっと懸念すべき重大なことがあるのだ。
子供の髪と瞳が、ラグランジェ家としてはありえない色になるかもしれない——。
ラグランジェ家の人間は誰しも、これまで例外なく青い瞳と金色の髪を持っていた。それは一族のみで子孫を繋いできた結果であり、ラグランジェ家の誇りでもあった。
だが、違う血が混じれば、その伝統も崩れる。
さらに悪いことに、ラウルの瞳も髪も濃色であり、遺伝的にはレイチェルのものより強い。つまり、子供の髪や瞳の色は、ラウルのものに近くなる可能性が高いのだ。
もし、そうなったら——。
彼女と子供を守りきれるだろうか。いや、守らねばならない。そのためにここまでのことをしているのである。弱気になりそうな自分を心の中で叱咤すると、サイファは小さく息をつき、表情を凜と引き締めて顔を上げた。