ピンクローズ - Pink Rose -

第31話 あの頃、思い描いた未来(最終話)

 昼下がりの白い日射しが、タイル張りの床を強く照らしている。その上に引かれている薄いクリーム色のカーテンは、小さな風を受けて緩やかにそよぎ、そこから広がる柔らかな光もほのかに揺らめいた。
 世間から切り離されたような場所。
 ラウルは一人でそこにいた。広くはないスチール机に向かい、頬杖をついて本を読んでいる。限りなく無に近い静寂の中で、規則的にページを繰る音だけが、その存在を主張していた。

 レイチェルとの約束の日から4年が過ぎた。
 家庭教師終了とともに常勤に戻ったラウルは、これといった用件もなく、医務室を離れることはほとんどなくなっていた。せいぜいが報告書の提出と会議のときくらいである。あとは滅多に来ない患者を待ち、日がな一日、読書にふけったりカルテの整理をしたりするだけだった。
 会わないというのが彼女の答えなのだと、あのときはそう考えた。
 しかし、今になって思えば、それは事情を知ったサイファの判断だったのだろう。それまで何かにつけ医務室を訪れていた彼が、その日以来、急にぱったりと来なくなったのである。レイチェルとの関係を知られてしまったとしか考えられない。
 しかし、二人は予定どおり結婚し、子供も生まれたと聞いた。
 おそらくサイファは全てを承知の上で、彼女を受け入れることを選んだのだ。意地や体面もあったのかもしれないが、それだけではなく、彼女への想いを失わなかったのだと信じたい。
 レイチェルは、今、幸せなのだろうか——。
 何度も繰り返し心の中で問いかけてきたことだが、答えが返ってくるはずもなく、また、それを知るすべも持ち合わせていない。机の上に佇む一輪挿しのピンクローズを見つめながら、ラウルはただ祈ることしかできなかった。

 ガラガラガラ——。
 ノックもなく、唐突に扉の開く音が聞こえた。
 患者が来るのは何週間かぶりである。このところ流行りだした風邪の影響で、他の王宮医師たちはみな手一杯になっているのかもしれない。そんなことを思いながら、ラウルは本を閉じて扉の方へと振り向いた。その瞬間、ハッと息を呑んで凍り付く。
「やあ、久しぶりだな」
 そこにいたのはサイファだった。人なつこい笑顔を見せながら、軽く右手を上げている。平日の昼下がりという時間からも、魔導省の制服を身に付けていることからも、おそらくは勤務中なのだろう。返答を待たず勝手に医務室へ入ると、パイプベッドに腰を下ろして両手をついた。
「ここはいつ来ても変わらないな」
「……何をしに来た」
「ラウルの顔を見たくなってさ」
 サイファはニコッと邪気のない笑みを浮かべて答える。
 しかし、そんなことを素直に信じられるはずもなかった。彼と顔を合わせたのは4年ぶりである。これまでずっと避けておきながら、突然この医務室にやってきたのは、何らかの目的があるとしか考えられない。思いきり訝しむ視線を送るが、サイファは気にする様子もなく受け流した。
「今も相変わらず?」
 軽い口調でそう尋ねると、机上のピンクローズに目を向ける。
 それだけで、ラウルには何が言いたいのか察しがついた。しかし、その意図するところまではわからない。今になって過ちを咎めるつもりなのだろうか、それとも未練がましい自分を嘲笑うつもりなのだろうか。表情は無意識のうちに険しくなっていく。
 そんなラウルを見て、サイファはふっと小さく微笑んだ。
「僕は幸せだよ」
「おまえのことなどどうでもいい」
「レイチェルも幸せだよ……多分ね」
 ラウルは眉をひそめた。口を閉ざして背を向けると、先ほどまで読んでいた本を開く。しかし、意識は彼の方に奪われたままで、文字を追っても全くといっていいほど頭には入ってこない。
「今度、娘を連れてくるよ」
「いらん」
「そう言うな。見たいだろう? レイチェルの娘を」
 淡々とした口調だったが、「レイチェルの」という部分にだけ、僅かながら力がこめられているように感じた。それで気持ちが動かせると計算していたのだろう。その小賢しさを腹立たしく思うものの、ラウルはまんまと術中にはまったことを自覚していた。
「アンジェリカっていうんだ」
「……大層な名前をつけたな」
「これほど相応しい名前はないよ」
 やや呆れ口調のラウルに、サイファは軽く笑って応じた。
 アンジェリカとは「天使のような」という意味の言葉である。それを臆面もなく名付けたうえ、相応しいとまで口にするなど、相当な親馬鹿といっても過言ではない。もっとも、レイチェルに対する保護者のような溺愛ぶりを見てきたせいか、彼の子煩悩もすんなりと納得できた。
「ラウルもあの子を可愛がってくれよ」
「おまえの娘など可愛がる義理はない」
「アンジェリカを見たら、そうは言えないと思うけどね」
 その言葉に何か引っかかるものを感じ、ラウルは怪訝に眉を寄せて振り返る。
「どういう意味だ」
「それくらい可愛いってことさ」
 サイファは軽くあしらうように答えると、パイプベッドから立ち上がり、涼やかな視線を流して口もとに微笑を浮かべた。また来るよ、とその口で言い残し、扉から出ていく。タイルを打ちつける乾いた靴音は、一定のリズムで遠ざかり、消えていった。
 医務室に静寂が戻った。
 窓からふわりと滑り込んだ風が、クリーム色のカーテンを揺らしながら、微かな木々のざわめきを運んでくる。ラウルはもう誰もいない扉を見つめて溜息を落とすと、頬杖をつき、読みかけていた本を開いてページを繰った。

 自らの宣言を違えることなく、サイファは翌日からたびたび医務室を訪れるようになった。ラウルがいくら拒絶しても懲りる様子はない。仕事の合間などにふらりとやってきて、とりとめもない雑談をして帰っていくのだ。
 まるで昔に戻ったようだった。
 ただ、話の内容は昔と少し違っていた。レイチェルや仕事の話は相変わらずだが、それに加え、娘の話を嫌というほど聞かされるようになった。あんなことを言っただの、こんなことをしただの、たわいもない出来事を嬉しそうに楽しそうに話すのだ。
 彼の考えがわからなかった。
 自慢のつもりなのか、報復のつもりなのか、それとも単純に幸せに浸っているだけなのか——いずれにしても、ラウルがそれを問いただすことなど出来るはずもなく、ただ彼の作った状況に流されるしかなかった。

 しかし、一ヶ月ほどして、サイファはまたぱったりと来なくなった。
 来てほしいわけではない。
 ただ、何の前触れもなく急に途絶えてしまうと、心配になるのも当然のことだろう。今回は4年前と違って心当たりがないので、なおさらそう思うのかもしれない。
 いきなり来たり、来なくなったり、本当に勝手な奴だ——。
 何もない空っぽな日常の中で、気がつけばラウルはそのことばかり考えていた。しかし、それでも答えに辿り着くことはなく、ひたすら悶々とするだけだった。

「やあ、しばらく来られなくて悪かったな。寂しくて泣いてたんじゃないのか?」
 来なくなってから三ヶ月が経ち、いいかげん諦めようとしていたところへ、サイファが何事もなかったかのようにひょっこりと姿を現した。清々しいばかりの笑顔でそんな憎まれ口をたたくと、勝手に中へ入り、迷いなくパイプベッドに腰を下ろす。
「静かになってせいせいしていた」
 ラウルは冷たい視線を流して言い返した。しかし、サイファは懲りもせずにっこりと微笑むと、芝居がかった大きな抑揚をつけて話し始める。
「別にラウルのことを避けていたわけじゃないぞ。この三ヶ月は本当に忙しくて大変だったんだよ。王子の見初めた女性を口説き落としたり、頭の固い老人連中に彼女を認めさせたり、それから——」
「そんなことまでやっているのか」
 ラウルは呆れ半分に口を挟んだ。どう考えても魔導省の仕事を逸脱しているようにしか思えない。そういうことは王家に仕える者たちの役割であり、少なくとも、ラグランジェ本家当主という立場の人間がすべきことではない。
「仕事ではなく個人的に引き受けたんだよ。彼女を説得できるのは僕だけだろうしね。それに、未来の王に恩を売っておいて損はないだろう?」
 そう言うと、サイファはニッと口角を上げた。
 ラウルは無表情のまま小さく溜息をつく。
「騙されたその女が不憫だな」
「人聞きの悪いことを言うなよ。微妙な言葉の綾はあったかもしれないが、少なくとも嘘をついたつもりはないからな。まあ、どちらにしても自分のために利用したのは事実だし、責任を持って彼女の面倒は見るつもりだけどね」
 悪びれもせずに平然とそんなことを言うと、急にパッと顔を輝かせて振り向く。
「そうそう、近いうちにアンジェリカを連れてくるよ」
「いらんと言ったはずだ」
「本当はもっと早く連れてきたかったんだけど、けっこう人見知りが激しくて、王宮へ行くのをずっと嫌がっていてね。最近になってようやく承知してくれたんだ」
 嬉しそうに声を弾ませるサイファに、ラウルはうんざりして再び溜息をついた。
「性格はおまえに似なかったようだな」
「……そうだな」
 サイファは視線を落として薄く笑った。そして、目を閉じて小さく息をつくと、安っぽい軋み音を響かせながら、パイプベッドにゆっくりと上半身を横たえた。白いシーツに浅い皺が走る。後ろ向きなので表情は見えないし、何のつもりなのかわからないが、体調が悪いわけではないだろうと思う。
「用がないのなら帰れ」
 ベッドの上に投げ出された背中に、ラウルは冷ややかな声を送った。
 しかし、サイファは背を向けたまま起き上がろうとしない。
「久しぶりの逢瀬なのにつれないことを言うなよ」
「ふざけたことを言ってないでとっとと出ていけ」
 ラウルはムッと気色ばんで立ち上がると、ベッドに横たわるサイファの腕を乱暴に掴もうとする。しかし、サイファの動きの方が一瞬早かった。
 パシッ——。
 伸ばされたラウルの腕を、逆にサイファが素早く掴んだ。そのまま、見た目からは想像もつかないほどの強い力でギリギリと締めつける。痛いとさえ思うくらいだった。眉をひそめて見下ろすラウルを、仰向けになった鮮やかな青の双眸が捉えている。じっとまっすぐに、奥まで探るように、そして、どこか物憂げに——。
「もうすぐ会議に行かねばならない」
 ラウルは淡々と理由を述べて解放を訴えた。サイファの手を振り払うことなどたやすいはずだが、彼の瞳を見ていると、なぜだかそうすることはできなかった。
「逃げるのか?」
「本当のことだ」
「それなら仕方ないな」
 意外にも、サイファは拍子抜けするくらいあっさりと引き下がった。ラウルの手を放して自らの上体を起こすと、少し長めの前髪を掻き上げながら、引き寄せた腕時計に目を落とす。
「もしかすると、その辺でばったり会うかもな」
「何の話だ」
 ラウルは少し語調を強めて尋ねた。これ見よがしに時間を確認し、あえて口に出したということは、おそらく独り言ではないのだろう。ラウルを簡単に解放した理由もここにあるのかもしれない。
 だが、サイファは何も答えず笑顔だけを返した。
 いったい何を企んでいるのかと、ラウルは問い詰めるような険しい眼差しを送るが、サイファは動じることなく悠然と襟を直してパイプベッドから立ち上がった。故意なのか、偶然なのか、腕を掠めてラウルとすれ違っていく。そして、扉に手を掛けたところで動きを止めると、僅かに振り返り、妖艶なまでの笑みをその唇にのせた。
「それじゃあ、またな」
 そこには明らかに何かの含みがあった。怪訝に眉をひそめるラウルを残し、サイファはガラリと扉を開けると、長くはない金の髪をなびかせながら医務室をあとにした。

 無機質な廊下に柔らかい光が射し込んでいる。
 その光を遮りながら、ラウルは書類を脇に抱えて会議室へと足を進めた。医務室から離れるにつれて人通りが少しずつ多くなる。それでも、勤務時間中のためか、昼休みの喧噪にはほど遠い。急ぎ足で通り過ぎる人や、立ち止まって中庭を眺めている人、会話をしながら歩く人たちがちらほらと目につく程度である。そんな人々とすれ違い、通り越し、角を曲がったそのとき——。
 ラウルはハッと息を呑んだ。
 冷静に考えればそれほど不思議なことでもないが、不意を突かれ、にわかには現実として受け止めることができなかった。しかし、それは夢でもなく、幻でもなく、まして見間違いなどでは決してない。
 長い廊下の先に立っているのはレイチェルである。
 緩くウェーブを描いた金の髪、薄く紅を引いた唇、胸元の開いた濃色のドレス——4年前とはだいぶ雰囲気は変わっていた。当然だが少し大人っぽくなっている。しかし、愛らしい笑顔はあのときのまま変わっていない。
 レイチェル、今、おまえは幸せなのか——。
 その言葉を胸に秘めたまま、ラウルは何も言わずに通り過ぎようとした。視線を落として足を速める。しかし、すれ違う間際に、レイチェルの方から声を掛けてきた。
「久しぶりね、ラウル」
「……ああ」
 ラウルは足を止めて応じた。
 互いに何気ないふうを装ってはいたが、その声にはともに硬さがあった。多少の気まずさと、緊張からくるぎこちなさが、言葉の途切れた二人の間に淀んでいる。
「何? 知り合い? 紹介してよ」
 そんな二人の様子に気づいているのかいないのか、彼女の隣にいた同じ年頃の女が、煌びやかな銀髪をなびかせながら、無邪気に声を弾ませてそんなことをせがむ。レイチェルは優しく微笑んで、小さな手でラウルを示した。
「こちらはラウル。王宮付きのお医者さんよ。そして、こちらはアルティナさん。今度、王子様と結婚することになっているの」
「どうも、よろしく!」
 アルティナは威勢よく右手を差し出した。一瞬、ラウルはそのざっくばらんな態度に面食らったが、それでも無表情を保ったまま、ぶっきらぼうに右手を出して握手に応じる。
「おまえか、サイファに騙されて来た女というのは」
「失礼ね、騙されてなんかないわよ!」
 そんな二人のやりとりを聞いて、レイチェルは口もとに手を当てながらくすくすと笑い出した。それだけでまわりの空気が柔らかくなる。張り詰めた心さえも和らいでいくようだった。
 ふと、下方で何か黒いものが動いたことに、ラウルは気づいた。
 そこにはレイチェルのドレスにぎゅっと縋りつく小さな女の子がいた。後ろに隠れるようにしながら、大きな漆黒の瞳で、こわごわとラウルを見上げている。肩より少し短く切りそろえられた黒髪が、微かな風にさらりとそよいだ。
 ラウルの視線に気づいたレイチェルは、にっこりと微笑むと、くるりとその女の子の背後にまわってしゃがみ、小さな体を優しく抱きしめながら言う。
「この子は娘のアンジェリカよ」
 娘? これがレイチェルの娘だと——?
 ラウルは口を閉ざしたまま目を見張った。言われてみれば、確かにレイチェルと顔立ちはよく似ている。だが、その髪と瞳の色は、彼女のものでもサイファのものでもない。
 この国で暮らすようになって以来、ラグランジェ家とは多少の関わりを持ち続けてきた。それゆえ彼らの事情はそれなりにわかっているつもりである。一族の中だけで血を繋いでいることも、そのせいか例外なく金髪碧眼であることも。
 つまり、この娘は——。
 これまでの出来事が走馬燈のように脳裏を駆け巡る。レイチェルと過ごした時間のこと、彼女が約束の日に来なかったこと、唐突に家庭教師を解雇されたこと、サイファが医務室に来なくなったこと、今になってまたやってきたこと、娘を連れて来たがっていたこと、意味ありげな言葉の数々、娘と似ていないと言ったときの反応、ラウルを見つめる物憂げな瞳、そして、娘の髪と瞳の色——それらがすべてひとつに繋がった。
「抱いてみる?」
「いや……」
 小さく首を傾げて尋ねるレイチェルに、ラウルは目を伏せて曖昧な言葉を返す。
 これまで考えもしなかった事実を突きつけられ、まだ気持ちの整理がつけられずにいた。だが、受け入れなければならない。自分の行動の結果を、レイチェルの意思を、そしてサイファの覚悟を——。

 会議が終わったあと、ラウルは何年かぶりに外に出た。王宮の外れにある小径を淡々と辿っていく。背後からの喧噪が次第に小さくなり、代わりに、さわさわと葉の擦れる音が降りそそいだ。しばらく歩を進め、蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチをくぐると、眼前の視界が一気に開ける。
 そこには、果てしなく優しい青空と、色鮮やかなバラ園が広がっていた。
 ラウルは引き込まれるように細い坂道を降りていった。隅に佇む大きな木のもとに腰を下ろすと、ざらついた木の幹に体重を預けて目を閉じる。少し湿った土の匂い、ひんやりした木陰の地面、頬に当たる暖かい風、ほのかに甘いバラの匂い——そんなものを感じながら小さく息を吸い込んだ。
「やあ、また会ったな」
 頭上から降りかかった声に驚いて目を開くと、そこには笑顔で覗き込むサイファがいた。そよ風にさらさらと揺れる金の髪が、木漏れ日を受けて透き通るように煌めいている。
「おまえ、なぜ……」
「あのあとずっとここで待っていたんだよ。もしかしたらラウルが来るかもしれない、なんてちょっとそんな予感がしてさ。まさか本当に来るとは思わなかったけどね」
 サイファは小さく肩を竦めて見せる。
 ラウルはうつむいて溜息をついた。
「おまえ、少しは真面目に仕事をしろ」
 それを聞いて、サイファは懐かしそうにくすりと笑った。そして、立ったまま背後の木にもたれかかると、腕を組み、遠くの空を見上げて真面目な顔で目を細めた。
「会ったんだろう? レイチェルと娘に」
「……ああ」
「今度、また連れていくよ」
 ラウルは何も答えられなかった。風に揺れる薄紅色のバラを眺めて眉を寄せる。
「ねえ、ラウル」
 サイファはあらためて切り出した。
「僕は欲しいもののためには手段を選ばない」
「知っている」
 ラウルは正面を向いたまま答えた。彼のことは子供の頃から見ているのだ。今さら言われるまでもなく、彼がそういう人間であることは理解していた。そして、これから何を言おうとしているのかも——。
「僕から逃れられると思うなよ」
 今になって彼がラウルに近づいてきたのは、おそらく娘を守るためだろう。異端の外見を持つ彼女が、ラグランジェ家でどういう扱いを受けているかは察しがつく。もしかすると命すら危ういかもしれない。それがわかってしまった以上、そしてその責任が自分にある以上、逃れることなど出来るはずもない。
 風が強く吹いた。長い焦茶色の髪が横に大きく流される。
 ラウルは鉛のように重たい口を開いた。
「サイファ、今、おまえは幸せなのか」
「これからもっと幸せになるよ」
 サイファはその瞳に空を映したまま答えると、さらりと金の髪をなびかせて振り向く。
「あの頃、思い描いた未来を手に入れるんだから」
 そのとき彼の見せた眩い笑顔は、澄み渡る青空のように曇りなく、しなやかな風のように力強く、そして、大地に咲き誇るバラのように気高さを感じさせるものだった。まっすぐに未来を見据え、行動し、誰よりもレイチェルを幸せにしようと努力する——そんな彼の行動と信念がそこに表れているのだろう。
 多分、ずっと前からわかっていた。
 とても、彼には——。
 ラウルは立てた膝に腕をのせたまま、果てしなく広がる空を仰いで目を細めると、すぐ隣に立つ凜とした気配を感じながら、そっと瞼を下ろして瞳を閉じた。