東京ラビリンス

第2話 不条理な要求

「南野誠一サン」
 聞き込みを終えて警視庁へ戻ろうとしていた誠一は、背後から名を呼ばれ、隣の岩松警部補とともに振り返った。街中でフルネームを呼ばれるなど、そうそうあることではない。事件の関係者だろうかと思ったが、そこに立っていたのは、ブレザーの制服を正しく着こなし、学校指定のスクールバッグを肩に掛けている、見知った高校生の少年だった。
「遥クン、どうしたんだ?」
 誠一は少し目を大きくして尋ねた。彼は、付き合っている恋人の兄であり、何度か挨拶を交わしたことはあるが、個人的に話したことは一度もない。なのに、いきなり何の用だというのだろうか。彼の自宅や学校から離れていることから考えても、偶然ではなく、待ち伏せしていた可能性が高いと思われる。
 しかし、遥が答えるより先に、岩松警部補がひょっこりと横から割り込んできた。厳つい大きな体を屈め、愛嬌のある笑顔で人なつこく尋ねる。
「確か、キミは澪ちゃんの弟だったかな」
「兄です」
 遥は無表情のまま訂正を入れた。そして、ペコリと頭を下げて続ける。
「その節は妹がお世話になりました」
「いやいや、お世話になったのはこっちの方さ。あそこにいたのが澪ちゃんじゃなかったらと思うとゾッとするよ。俺たちにとっちゃ、いくら感謝してもしきれない恩人だ。おかげでこいつの首も繋がったしな」
 岩松警部補は白い歯をこぼしながら、節くれ立った手で誠一の頭を鷲掴みにし、ガシガシと乱暴に撫でまわした。硬めの黒髪が逆立ちボサボサになっていく。誠一は自分の失態を蒸し返された居たたまれなさに、為すがまま、ただぎこちなく苦笑するしかなかった。

 それは、今から一年半ほど前のことである。
 誠一と岩松警部補は、職務で聞き込みにまわっているときに、別の殺人容疑で指名手配されている男を見つけ、二人だけで彼を追いつめて手錠を掛けた。犯人を見つけられたのは、誠一の記憶力と観察力があったからこそで、このことに関しては大手柄といって差し支えないだろう。
 問題はその後だった。
 岩松警部補が本部に連絡を入れている間に、あろうことか気の緩んだ隙を突かれ、誠一は犯人に殴り倒された挙げ句に逃げられてしまったのだ。暴走した犯人は、手錠で両手首を繋がれたまま、隠し持っていたナイフを振りかざし、たまたま通りかかった当時中学生の澪に襲いかかる。が、澪は逆にその男を投げ飛ばし、地面にねじ伏せ、鮮やかな手並みで取り押さえたのだった。
 それが、澪との最初の出会いである。
 彼女のおかげで、一人の怪我人も出さずに事なきを得た。が、岩松警部補の言うように、そこにいたのが武術の心得のない人間だったら、最悪の事態になっていたかもしれない。そうなれば、誠一も刑事ではいられなかっただろう。つまり、誠一にとって澪は、恋人であると同時に恩人でもあるのだ。

「それで、遥クン、南野に何か用なのか?」
 岩松警部補が覗き込んで尋ねると、遥は誠一を小さく指さしながら言う。
「少し相談したいことがあるので、お借りしてもいいですか?」
「ああ、構わんぞ。だが、遅くならないうちに返してくれよ」
「ちょっと、勝手に決めないでください!」
 おおらかに笑って答える先輩に、誠一は抗議の声を上げた。借りるだの返すだの、物扱いされていることも気に入らない。しかし彼は宥めるように、それにしては少し乱暴に、誠一の頭をボンボンとゴムまりのように叩く。
「職務じゃないとか堅いこと言わずに、話くらい聞いてやってもいいだろう。あの橘財閥のご子息なんだぞ? おまえの首くらいなら軽く飛ばせるかもしれん。粗末に扱ってあとでどうなっても知らんからな」
 冗談めかした口調でそう言うと、カラリと笑顔を見せて右手を上げた。
「じゃあな、俺は先に戻ってる」
「自分もすぐに戻ります!」
 立ち去っていく広い背中に、誠一は慌てて声を張り上げる。
「ゆっくりしてきていいぞー」
 岩松警部補は左手をポケットに突っ込んだまま、振り返ることなく、もういちど右手を上げてひらひらと振った。頼りになるはずの背中は、無情にも誠一を置き去りにして遠ざかっていった。

「会いに来てくれるのは嬉しいけど、できれば非番のときにしてくれるかな」
 誠一は密かに溜息をついてから、角が立たないようにやんわりとそう言った。何を考えているのかわからない彼のことは少し苦手であったが、付き合っている彼女の兄だから無下にはできない。しかし、遥はといえば、相変わらず愛想のかけらもない態度を見せている。
「非番の日も連絡先も知らない」
「君の妹に聞けばわかるだろう」
「澪には内緒だから」
 誠一はその言葉に引っかかるものを感じた。澪に内緒の話など見当もつかないが、遥の態度からすると、あまり良い内容であるとは思えない。ごくりと唾を呑み込み、緊張しながらも核心を尋ねようとした、そのとき——。
 遥はパッと車道に振り向いた。
 つられて、誠一も何気なくその視線を辿る。5、6メートル先の道路脇にいたのは、エンジンをかけたままの大型バイクにまたがり、フルフェイスのシールドを上げて、じっとこちらを凝視している長身の男だった。彼の双眸は、誠一ではなく遥を捉えているようである。
「知り合いか?」
「僕は知らない」
 観察するような目をその男に向けたまま、遥は答える。
「もしかしたら、誘拐しようと狙ってるのかも」
「誘拐?!」
 あまりにも飛躍した話に驚いて、誠一は素っ頓狂な声で聞き返した。
「もしかしたら、だよ。子供の頃に誘拐されかけたことがあるから、ありえなくはないと思って」
 言われてみれば、彼はあの橘財閥の一人息子である。誘拐を企てられてもおかしくない立場といえるだろう。彼を見つめるバイクの男が、堅気とは思えない鋭い眼光をしているのも気になるところだ。
 念のため話を聞いた方がいいかもしれないと思い、誠一はその男へと足を踏み出した。それとほぼ同時に、男は素早くシールドを下げて地面を蹴り、四輪車の間を軽快に縫いながら、鼠色のアスファルトを滑るように疾走していく。その姿は、あっというまに見えなくなった。
「行っちゃったね」
 遥は他人事のように言った。
 これだけで誘拐かどうかの判断はつかないが、男の不審な行動には何らかの意味があるような気がして、誠一は心配になってきた。当の本人に危機感が窺えないのも問題である。
「気をつけるんだぞ」
「わかってる」
 遥はそう答えると、漆黒の瞳を細めてふっと微笑んだ。
 瞬間、誠一は息を呑む。普段の無表情ではあまり思わないが、微かに綻んだその顔は、澪と重なって見えるほどよく似ていた。顔立ちや表情だけでなく、身長も体格もほとんど変わらないため、なおさらそう感じるのかもしれない。
「……何?」
「え? いや、えっと……」
 遥に訝しげに眉をひそめて尋ねられ、誠一は狼狽して口ごもった。まさか本当のことを言うわけにはいかないだろう。彼にはもちろん、澪にも、誰にも、そんな誤解を招きそうなことは知られたくない。
「そうだ、何か話があったんじゃないのか?」
「ああ、うん、澪と別れてもらおうと思って」
 一瞬にして、誠一の愛想笑いは凍り付いた。あまりにも軽い口調だったので、何かの冗談ではないかと思ったが、彼は少しも笑っていなかった。それどころか、静かに挑むような目を向けている。
「……随分はっきりと言ってくれるな」
「まわりくどいのは好きじゃないから」
「とりあえず、理由を聞かせてもらおうか」
 誠一は出来うる限り冷静に尋ねた。本人に内緒で別れさせようとするなど、随分と卑劣な行為であるが、感情的になるのは大人としての態度ではない。彼が間違った行動をとっているのなら、自分が諭さねばならないだろう。そう思っていたのだが——。
「29歳のオトナが、17歳のコドモと付き合っていいわけ?」
「うっ……」
 言葉を詰まらせた誠一に、遥は冷ややかな顔をして畳み掛ける。
「付き合い始めたのは、16になりたての頃だったよね?」
「あ、ああ……まあ……」
「マズいんじゃないの?」
 澪とそっくりの白くきれいな顔立ちで、蔑むような冷たい目を向けられて、誠一の全身から冷や汗が噴き出した。額から頬へと伝い落ちていく。それでも引き下がることなく、強気に視線を返して胸を張った。
「いや、俺たちは真剣に付き合っている。何の問題もないはずだ」
「そう……」
 遥は顔色ひとつ変えず無感情に相槌を打つと、突然、ボクシングのレフェリーが勝者にするように、その場で誠一の手首を取って高々と掲げた。
「遥クン、何を……?」
「皆さん、こちらに注目ーー」
 彼がどこか気怠そうに声を張り上げると、まわりを行く多くの人たちが振り向いた。わざわざ足を止めた人もいる。彼が何をしようとしているのか見当もつかず、また、いきなり視線を集めたこの状況に当惑して、誠一は手を掲げられたまま慌てふためいた。
「ちょっ……」
「皆さん、刑事って見たことありますか? ドラマや映画などではよく見ますが、意外と刑事に会う機会はないですよね。でもなんとこの人、本物の、しかも本庁捜査一課の刑事さんなんです」
 興味深そうに目を輝かせる人、つまらなさそうに去っていく人、横目を流して微妙に気にしている人、胡散臭そうに眉をひそめる人——向けられた反応はさまざまだった。誠一はうつむき、耳元を赤らめながら目をつむる。今すぐにでもここから逃げ出したい気分だった。
 しかし、遥は容赦なく続ける。
「その優秀な本庁の刑事さんが、なんと、17歳のじょ……」
「わーーーっ!!!」
 ようやく遥のやろうとしていることを理解した誠一は、それを掻き消すように全力で叫び声を上げた。掴まれた手を振りほどき、大慌てで彼の口をふさぐ。そして、まわりからの不審な目にごまかし笑い浮かべながら、遥を背後から抱え込んで後ずさると、人通りのない細い裏路地へ半ば強引に連れ込んだ。

「問題ないんじゃなかったの?」
 膝に両手をついて大きく肩で息をする誠一を、遥は冷ややかに見下ろして言った。やることなすことがいちいち小憎たらしい。誠一は腹立たしく思いながら、大きく溜息をついて体を起こす。
「公務員は何かと風当たりが強いんだよ。だいたい、真剣に付き合っていると言ったところで、この年の差では、そう簡単に信用してもらえるものでもないし……」
「へぇ、誠一の真剣ってその程度なんだ」
 その一瞬、誠一は心底から彼を憎いと思った。外見は澪と瓜二つといっても差し支えないが、内面はまるで違うようで、随分とえげつないことをしてくれる。遣る方ない怒りが胸に渦巻き、奥歯をギリと強く噛みしめた。
「こんなところで立ち話もなんだから、どこか喫茶店でも入らない?」
「……店の中でさっきみたいなことはやめてくれよ。本当に頼むから」
 眉をひそめて切実に懇願するものの、遥は何も答えてはくれなかった。ただ、逃がさないとばかりに誠一の手首を掴み、迷う様子もなくどこかへ向かって歩き出した。

「これ、喫茶店じゃなくて、アイスクリーム屋……」
 遥に連れてこられたのは、ショッピングビルの一角にある小さな店だった。カウンターには様々なフレーバーのアイスクリームが並んでいる。どう見てもアイスクリーム屋としか言いようがない。一応、イートインもあるにはあるが、テーブルも椅子も簡素なもので、喫茶店ほど落ち着ける場所ではなさそうに思えた。
「僕はストロベリーパフェ。誠一は?」
「いや、俺はいい……」
 もはや何も言い返す気になれず、誠一は右手を挙げて溜息まじりに答えた。
「そう、じゃあ、僕は席を取っておくから」
「……俺が奢るのか?」
 さっさと奥のイートインへ向かう遥の背中に、誠一はぽつりと疑問を投げかけた。遥は足を止める。そして、もったいつけるようにゆっくりと振り返ると、氷のような冷たい視線を流して小さな口を開く。
「女子高生」
「わかった、わかったよ」
 誠一は顔をしかめながらそう言い、開いた両手を顔の横に挙げて、投げやりに降参のポーズを見せた。

 どことなく嬉しそうにパフェを食べる遥の向かいで、誠一はむすっとしながら腕を組んで座っていた。目の前のパフェに夢中なのか、少しもこちらを見ようとしない彼に、じとりとした視線を送って尋ねる。
「美味いか?」
「誠一もひとくち食べてみる?」
 遥はようやく顔を上げると、山盛りの生クリームとイチゴがのったスプーンを差し出し、真顔でそんなことを尋ね返してきた。からかっているのか、本気なのか、彼の様子からは判断がつかない。誠一は小さく溜息をついて、無言で首を横に振った。
「さっきから気になっていたんだが……」
 そう前置きをして、続ける。
「誠一と呼び捨てにするのはやめてくれないか」
「澪はそう呼んでる」
 遥はスプーンを持ったまま、悪びれることなく答えた。
「澪は付き合ってるから特別だ。君とは何度か挨拶した程度で、特に親しいわけでもない。こっちの方が10歳以上も年上なんだから『南野さん』と呼ぶのが常識だろう」
 誠一が大人げなく切り返すと、遥はちらりと視線だけを寄こす。
「敬称って、敬ってもない人につけるものじゃないと思うけど」
「そんなことを言っていては、社会に出てからやっていけないぞ」
「その辺は抜かりないからご心配なく。今は、誠一に敬称をつけることにメリットを見いだせないだけ。そういう常識が求められる場なら、誠一のこともちゃんと南野さんって呼ぶから」
「あ、そう……」
 誠一は腕を組んだまま盛大に溜息をつき、そのままぐったりとうなだれた。彼と話をするだけで疲れて仕方がない。眉間に深く皺を刻みながら、ぶつくさと不満を独りごちる。
「何が楽しくて、アイス屋で男と二人きり……」
「へえ、相手が女だったら楽しいんだ?」
「まわりを見てみろ。どう見ても俺たちは浮いているぞ」
 狭い店内を見渡してみても、店員以外は若い女性しかいない。スーツと制服の男性二人が向かい合っている姿は、明らかに異質といえるだろう。しかし、遥はまわりを見ようともせず、パフェをすくいながら平然と言う。
「人の目なんて気にすることないんじゃない? 悪いことしてるわけでもないんだし」
 確かにそれは正論である。だが、好奇の視線を向けられれば、誰でも少しくらいは居心地の悪さを感じるものだ。しかしながら、遥の態度は堂々としたもので、見事なくらいに自己矛盾なく一貫していた。
「誠一は女なら誰でもいいんだね。澪に言っておく」
「えっ……」
 誠一は絶句した。しかしすぐに首を左右に振ると、大慌てで否定する。
「いやいやいや、そうは言ってないぞ」
「似たようなことは言ってたけど」
 思い返してみれば、確かにそう受け取られかねないことを口にしていた。だが、それは本意ではない。この店で男と二人きりという状況が恥ずかしかっただけである。慌てて、とっさに苦し紛れの言い訳が口をついた。
「こっ、言葉の綾というやつだ……」
「それ、失言をごまかすって意味?」
「うぐっ……」
 遥の追及は容赦なかった。感情的ではなく理性的なのが尚更たちが悪い。的確にダメージを与え、反論の術を奪っていくのである。もはや何を言っても勝てる気がしなかった。
「誠一、次はチョコレートパフェが食べたい」
「……わかった」
 誠一は半ば自棄になってそう答えると、テーブルに手をついて立ち上がった。そして、あまり多くはない財布の中身を確認しながら、鉛のような足を引きずってカウンターへ向かった。

「遥クン、君、橘財閥の御曹司なんだから、パフェくらい自分で買えばいいだろう」
 買ってきた二つ目のパフェを遥の前に置き、誠一は溜息まじりに文句を垂れた。そういう問題ではないとわかってはいたが、どうしても何か言わずにはいられなかった。しかし、遥は眉ひとつ動かさず、空になったグラスを脇に寄せると、新しいパフェのチョコレートアイスを山盛りすくった。
「確かに、家が裕福だってのは認めるけど、僕たち子供はそんなに甘やかされてないよ。何でも買ってもらえるわけじゃないし、お小遣いだって常識的な金額だし、そういう面では普通の高校生と変わらない」
 それは、本当のことなのだろうと誠一は思う。澪と接していてそう感じた。古くからの執事が仕えているとか、何部屋あるのかわからないとか、家の話については想像を超えるものがあるが、彼女自身はいたって普通で、一緒にいても財閥令嬢であることなどほとんど感じさせないのだ。
「だからって脅迫は良くない。立派な犯罪だぞ」
「17歳の子供と付き合うのも犯罪だと思うけど」
「真剣に付き合っていれば犯罪にならないんだよ」
 今度は冷静に言い返した。
 16歳になれば女の子は結婚できる——それが澪の言い分であり、誠一も一応は納得している。だからこそ澪と付き合っているのだが、本当に問題がないのかは今ひとつ確信が持てずにいた。どちらにしろ、一般的に理解してもらうのが困難だということはわかっている。遥には強硬な態度に出ているが、相手によってはこうもいかないだろう。だから、これまで二人の関係を誰にも漏らしたことはなかった。もっとも、澪の方はそうでもないようだが——。
「誠一ってロリコンなの?」
「なっ……違う違う、断じてそれは違うぞ!」
 意表を突かれて、誠一は慌てて否定する。これまで同級生と付き合ったこともあり、年下でなければならないとか、まして十代以下でなければ受け付けないとか、そのようなことは決してない。断じてない。たまたま澪が一回りほど年下だっただけのことである。そう、あくまで偶然の結果なのだ。
「じゃあ、年相応の彼女を見つけるべきだよ」
「……君、誰かを好きになったことないの?」
「ないよ」
 遥はパフェから目を離さず答えた。それを聞き、誠一は鼻先で笑って腕を組む。
「なるほどな」
「何?」
 遥は顔を上げると、訝しむように眉をひそめた。
「君、人のことをロリコンだとか言うけど、本当は自分がシスコンなんじゃないか? 他の子を誰も好きになれないくらいにな。可愛い妹を取られたのが悔しくて、こんな自分勝手なことを頼みに来たんだろう」
 誠一は勝ち誇ったように言う。これで、ようやく遥より優位に立てると思った。だが——。
「浅ましいね」
「あさ……?!」
 遥はぞっとするような軽蔑の眼差しを向けていた。
「確かに、澪のことは好きだし、大切に思ってる。でも、それは家族として当たり前のことだよね。それをシスコンだなんておかしくない? そういう目でしか見られないの? 浅ましいとしか言いようがないよ」
「…………」
 返す言葉がなかった。
 そう言われると、先ほどの自分の態度が本当に浅ましく思えてくる。遥の弱点を見つけたくて焦っていた、というのはあるだろう。けれど、あのような鬼の首を取ったような言い方はすべきでなかった。
「誠一ってさ……」
 うつむいて考え込んでいると、遥は思いついたようにそう切り出す。
「どんな理由があっても犯罪は許せない?」
「……当然だろう。これでも俺は刑事だぞ」
「ふーん……」
 遥は意味ありげにそんな相槌を打つと、再びパフェをすくいながら軽く言う。
「やっぱり澪と別れてよ」
「なんでそうなるんだよ」
 誠一はわけがわからず眉をひそめた。犯罪が許せないから澪と別れろなど、もはやただの言いがかりとしか思えない。いや、言いがかりの体さえなしていない。しかし、わかっているのかいないのか、遥は強気を崩すことなく続ける。
「詳しい理由は言えないけど、このまま誠一と付き合い続けていたら、澪はいずれ苦しむことになる。澪のために別れてって頼んでるんだよ」
 その静かな迫力に圧倒され、誠一はうっすらと額に汗を滲ませた。組んだ腕の中で握りしめた手も、じわりと湿り気を帯びてくる。それでも、とってつけたような言い分に納得できるはずもなく、落ち着いた態度を装いながら反論する。
「俺が別れを切り出したら、澪は苦しむことになると思うが?」
「ずっと付き合っていた方が、結果的には苦しむことになるの」
 遥は迷いなくきっぱりと言い切ると、大きな漆黒の瞳で、心の奥まで見透かすようにじっと見つめた。
「とにかく、澪のことを大切に思うなら別れてよ」
 誠一は眉根を寄せる。
「遥……いったい、俺の何が気に入らないんだ?」
「誠一のことは好きだよ」
 遥は上目遣いでそう言うと、悪戯っぽい妖艶な笑みをその唇にのせた。それは、一瞬、彼が男であることを忘れてしまうくらいのものだった。澪とそっくりなきれいな顔で、澪にはない色気をまとっている——不覚にも動揺してしまった誠一をよそに、遥はすぐに真顔に戻って続ける。
「澪にしてはまともな人を選んだと思ってる。できれば僕も反対なんてしたくなかった。上手くいってほしいと願ってさえいた。ついこの前まではね。でも、状況が変わってしまったから仕方がないんだよ」
 なぜここまで別れさせようとするのだろう——誠一は単純に疑問に思った。もしも今の遥の言葉が本心ならば、彼個人の感情が理由ではないということになる。年の差を問題視しているわけでもなさそうだ。澪と付き合い続ければ彼女が苦しむことになる、というのが本当だとしたら、それは一体どういうことなのだろうか。
「せめて、理由を教えてくれないか」
「理由は言えないって言ったはずだよ」
「そんな都合のいい話があるか!」
 誠一はカッとしてテーブルに右手をついた。しかし、前のめりになる気持ちを必死に抑えると、その手をグッと握りしめて膝に下ろした。納得したわけではない。澪と別れろの一点張りで、その真意を話そうとしない彼に、苛立ちと不安は募る一方だった。
「忠告はしたから」
 遥は突き放すようにそう言うと、空になったパフェグラスに放り投げるようにスプーンを戻した。カランカラン、と耳障りな音が二人の間に響く。
「ごちそうさま」
 感情の窺えない義務的な声が、うつむいた誠一の耳に届いた。
 遥は立ち上がって紺色のスクールバッグを肩に掛けると、座ったままの誠一を一瞥して店を出て行った。ただの一度も振り返らない。まるで、用件以外には興味がないと言わんばかりに——。

 テーブルには、二つの空になったグラスが残されていた。
 誠一は眉を寄せてそれを見つめながら、先ほどの遥との会話を心の中で反芻する。肝心なことは避けているものの、彼の言葉は基本的に率直だった。少なくとも嘘を言っているようには思えない。
 もしも、本当に自分と付き合うことが、澪を苦しめることになるとしたら——。
 誠一はテーブルに肘をついて祈るように両手を組み合わせると、その上に額をのせ、細く息を吐きながらゆっくりと目を閉じた。