東京ラビリンス

第11話 純白騒動

『セカンド、10分前だ。そろそろ準備してくれ』
「了解」
 濃紺色の空の下には、色とりどりの光が宝石のように眩く煌めいている。
 澪は高層ビル屋上の隅にペタンと座ったまま、ヘッドセットから聞こえる悠人の指示に、寒さに身を震わせながら返事をした。それだけで白い息が浮かぶ。どうせなら早く始めてしまいたい——そんな投げやりなことを思いつつ、膝を抱えてそこに顔を埋めた。
 今日はデビュー戦のときと同様、ハンググライダーで目的の美術館に降り立つ予定になっている。が、澪としてはあまり気が進まなかった。同じ方法を二度三度と繰り返して使えば、必然的に行動を読まれる危険性も高くなる——そう反論したのだが、剛三に押し切られてしまったのだ。迷惑この上ないが、久々に派手な登場を演出できることが嬉しいらしく、いつも以上に鼻息を荒くして意気込んでいた。
 すでに、怪盗ファントムの衣装を身につけ、ハンググライダーも組み立ててあった。あとは仮面をかぶってハーネスを装着するだけである。澪は溜息をつきながら、足もとの白く冷たい仮面を手に取った。そのとき——。
 ガシャガシャン!!
 ビル内部へと通じる扉が乱暴に開き、そこから男が飛び出してきた。澪は慌てて仮面をつけて息を潜める。屋上はかなりの広さがあり、そのうえ照明がほとんどないため、隅の物陰にいた澪には気付いていないようだ。
 鍵をかけてあったのに、どうして——?
 遠目であまりはっきりとは判別できないが、ブルゾンとジーンズというラフな格好で、少なくとも警察官や警備員の類には見えなかった。男はしきりにあたりを見回したあと、思い出したように扉を閉めに駆け戻る。しかし、ノブに手を掛けようとした瞬間、扉がすさまじい勢いで開き、頭を打ちつけて後方に吹っ飛ばされた。額を押さえつつ、コンクリートの上で体を丸めて苦悶の呻き声を上げる。
「もう逃げ場はないぞ!」
 そう怒号を上げて、扉から飛び出してきた二人は——。
 うそっ!!
 澪は両手で口もとを押さえて息を呑んだ。
 それは、警視庁捜査一課の岩松と、あろうことか誠一だった。岩松は、往生際悪く這って逃げようとする男に飛び乗り、その両腕をコンクリートに押さえつけた。誠一はそこに素早く手錠をかける。そして、安堵したように大きく息をつくと、額の汗を拭いながら体を起こした。
「南野、おまえは屋上を一通り調べてこい。ここへ逃げ込んだのには理由があるのかもしれん。鍵まで用意していたみたいだからな」
「わかりました」
 岩松からの指示を受け、誠一はあたりを確認しながらゆっくりと駆け出した。澪のいる場所とは反対側へ向かっている。しかし、そのうちこちらへも回ってくるだろうし、このままではいずれ見つかってしまう。澪は青ざめながら、声を潜めてヘッドセットに助けを求める。
「副司令、どうしよう。逃走犯を追って刑事が来たの」
『何だって?!』
 さすがの悠人もこれには驚きを隠せなかった。しかし、落ち着きは失っていない。すぐさま畳みかけるように状況を尋ねていく。
『気付かれていないのか?』
「はい、でも時間の問題です」
『いま仮面は?』
「つけてます」
『ハンググライダーは?』
「準備してあります」
『刑事は何人?』
「二人。でも、一人は犯人を取り押さえてるから動けないと思う」
 澪は出来うる限り端的に答えていく。余裕のある状況でないことは、誰よりも澪が一番わかっていた。恐怖感に押しつぶされそうになりながらも、取り乱さずにいられるのは、悠人なら何とかしてくれると信じているからである。
『セカンド、予定より早いがすぐに飛ぶんだ』
「わかりました」
 そう返事をすると、すぐさま音を立てず立ち上がり、ハーネスの装着にかかる。誠一は徐々に近づいてきているが、まだ気付いてはいないようだ。しかし、静止しているときと比べて、動いている今は格段に目につきやすい。
『出来るだけ刑事とは関わらず逃げ切れ。もし飛び立つ前に気付かれたら、怪我を負わせない程度にダメージを与えて時間を稼ぐんだ。いざというときは催涙スプレーを使ってもいい』
 澪自身も、出来れば何事もなく逃げ切りたいと思っている。誠一にひどいことなどしたくない。どうか気付かないで——そんな精一杯の願いも虚しく、誠一はこちらに顔を向けると、ピタリと動きを止めて目を見開いた。
「え? 怪盗ファントム……?」
 呆然とうわごとのように言葉を落とす。しかし、すぐにハッと息を呑んで我にかえると、ファントムから目を離すことなく、全身に緊張を漲らせて声を張り上げる。
「岩松さん! 怪盗ファントムです!! 怪盗ファントムがいます!!!」
「何だと?!」
 とはいえ、岩松は身動きがとれない。誠一は何の躊躇もなく一人で突進してきた。その迫力と勢いに圧倒され、澪は思わず後ずさりながら最後の金具をはめる。そして、大急ぎでハンググライダーごとビルの縁に乗り、飛び立つべく体を外に向けようとした。
 その瞬間、強烈なビル風が下方から吹き上がった。
 短いプリーツスカートは簡単に捲れ上がり、白い翼は大きく煽られてバランスを崩す。
「っ!!」
「危ない!!」
 誠一の顔から血の気が引いた。ビルの外側に倒れていく怪盗ファントムに、懸命に手を伸ばす。
 しかし、彼に助けられるわけにはいかない。
 むき出しになった太ももに指先が届きかけた瞬間、澪はビルの縁を蹴って後ろ向きに空中へと飛び出した。同時に、視界の隅で何かが白く光った気がしたが、それが何なのかまでは確認できなかった。
「ファントムーーっ!!!」
 誠一が血相を変えて叫ぶ。
 澪は乱気流に揉まれつつも何とか体勢を立て直し、ゆっくりと旋回すると、目的の美術館を見つけて進行方向を定めた。ビルから遠ざかりながら肩越しにチラリと振り返ると、誠一は縁に手をついて身を乗り出したまま、いつまでも怪盗ファントムを目で追っていた。

「もうイヤ!」
 部屋に入るやいなや、澪はきれいに整えられたシングルベッドに飛び込み、枕元にあった大きなクッションをぎゅっと抱え込んだ。泣きたいけれど泣いてはいない。ただ、無性に何かに縋りつきたくて、柔らかなそこに深く顔を埋める。まだ戸口にいた部屋の主である遥が、静かに扉を閉めながら、諦めたように溜息を落とすのが聞こえた。
 ハンググライダーで高層ビルから飛び立ったあと、予告時間より少し早かったことを除けば、何の問題もなく盗みを完遂することができた。それゆえ、あの危機一髪の事態は、先ほどの反省会においてほとんど笑い話になっていた。しかし、当事者としてはそう簡単に片付けられないし、片付けてほしくもない。
「本当に心臓が止まるかと思ったんだから! 刑事が来ただけでも驚きなのに、それがよりによって誠一だなんて……手が届きそうなところまで追ってこられて、バレるんじゃないかと生きた心地がしなかった!!」
 その刑事が恋人であることは遥にしか言っていない。それゆえ、やり場のない気持ちを受け止めてもらおうと思い、ここへ押しかけてきたのだが、彼の態度はまったく期待に添うものではなかった。
「でもパンツ見られたの誠一で良かったんじゃない?」
「そういう問題じゃないっ!!」
 澪はベッドから跳ね起きて言い返した。身を乗り出すと、長い黒髪がさらりと揺れる。
「このままじゃ、いつか捕まっちゃうよ?」
「捕まらないようにするしかないよね」
 まるで他人事のような答え。そんなに突き放した言い方をしなくてもいいのに——澪は椅子に腰掛けようとする彼を睥睨し、少し頬を膨らませると、クッションをぎゅっと抱きしめて目を伏せる。
「私、自信ない……」
 それは、今に始まったことではない。これまで自信を持ったことなど一度もなく、いつも不安を抱きながら、ただ命じられるままにやってきたのである。けれど、今日のことでますます不安が募り、怪盗ファントムを続けることが怖いとさえ思い始めていた。
「ねぇ、もうこんなことやめない? やめようよ?」
「じいさんが聞き入れてくれるとは思えないけど」
 むぅ、と澪はしかめ面で唇をとがらせる。言われるまでもなく、剛三の自己中心的な性格はよく知っている。確かに、いくら訴えたところで聞き入れられはしないだろう。そのくらいの優しさがあるのなら、そもそも怪盗などという犯罪行為を強要していないはずだ。
 遥はふっと小さく笑った。
「澪は上手くやってるから自信を持っていいよ。今さらやめたいなんて言わないでさ、ハタチまでの期間限定なんだから、その間だけ頑張ってみようよ。喜んでくれる人もいることだしね」
「まあ、遥がそう言うのなら……」
 納得のいかないまま、澪は低い声でぼそりと答える。澪をメインに据える今の怪盗ファントムは、彼の本意の形ではないはずだが、それでも続行を望んでいるのだろうか。割り切っているだけなのだろうか。彼の態度からは今ひとつよくわからない。
「じゃあ、僕はもう寝るから」
 気がつけばとうに0時をまわっていた。
 遥は立ち上がって部屋の灯りを消すと、澪を押しのけながらベッドに潜り込んだ。その枕元で、澪は膝を抱えて彼を見下ろし、不思議そうに小首を傾げる。
「帰れって言わないの?」
「好きにすれば?」
 ともすれば冷たく聞こえる返答であるが、そうではなく、彼なりの優しさなのだろうと澪は解釈した。好きにすればいいということは、ここにいてもいいということである。なんだかんだ言っても、遥はいつだって澪のことを気にかけてくれて、誰よりも気持ちを察してくれる、一番の理解者であることは間違いない。
「……ありがと」
 くすっと小さく笑ってそう言うと、遥の隣に潜り込み、クッションを枕にして横になった。肩が微かに触れ合う。二人が寝るには少し狭いベッドであるが、だからこそ、よりいっそう互いの温もりを感じられた。

「おはよー」
 澪と遥は連れだって教室に入ると、窓際に集まる友人たちの方へ足を進めた。一人は男子で富田拓哉(とみだたくや)、二人は女子で鳴海綾乃(なるみあやの)と野並真子(のなみまこ)である。友人というより幼なじみといった方が近いかもしれない。初等部から高等部までずっと同じ学校、同じクラスであり、その気楽さゆえか、何となくこのメンバーで過ごすことが多いのだ。
「なに見てるの?」
 澪は、すぐ後ろの自席に座りながら尋ねる。
「これこれ」
 富田は嬉々として振り返り、手にしていたものを澪の机に置いた。
 それは三流スポーツ紙だった。
 怪盗ファントムの活躍が、カラー写真入りで大きく報じられている。いや、報じるというのは言い過ぎかもしれない。大半は記者の下世話な興味と妄想を書き並べただけのものだ。いかにも三流スポーツ紙らしく、美少女怪盗、独占スクープ、などという言葉が下品に踊っている。
「きのうのファントムは久々に派手だったらしいぜ」
「へぇ、そうなんだ……」
 興奮して声を弾ませる富田から、澪は微妙に狼狽えながら目を逸らした。正体が知られそうになったわけでも、怪しまれたわけでもないが、この話題が出るだけでヒヤヒヤして寿命が縮みそうになる。
「やっぱ怪盗はこうでないとな!」
「うん、見ててワクワクするよね」
 真子はおっとりした丸顔をほころばせて同意する。
 しかし、なぜか、富田はふっと表情を曇らせて首を捻った。
「でも、仲間が捕まったとかテレビで言ってたよなぁ」
「あれは仲間の可能性があるってだけだよ?」
 二人が話題にしているのは、きのう高層ビルの屋上に逃げてきた男のことである。コンビニのレジで強盗しようと刃物を見せたが、偶然居合わせた刑事に気付いて逃げ出し、かつて勤務していたビルに逃げ込んで捕らえられた、というのが事の顛末らしい。
 もちろん、その男は仲間でも何でもない。
 しかし、偶然にも怪盗ファントムの待機場所に逃げ込んでしまったことで、その一味ではないかというあらぬ容疑を掛けられているのだ。ただ、逮捕事由は強盗未遂の件だけである。怪盗ファントムの件はこれから捜査されるのだろうが、いずれ無関係であることは証明されるだろう。
「怪盗ファントムがコンビニ強盗なんてするわけないし、私は仲間じゃないと思うな」
 たいした根拠がないにもかかわらず、真子は確信したように声を弾ませる。その物言いは、単に面白がっているだけというより、まるで——。
「ねぇ、もしかして、真子も怪盗ファントムのことが好きなの?」
「うん、盗みは良くないっていうのはわかってるんだけどね」
 彼女は小さくはにかんで肩をすくめた。白く柔らかな頬に、ほんのりと赤みが差している。おっとりした真子にしては意外な趣味だが、彼女が言うとなんだか可愛らしく感じる。しかし、綾乃はそう思わなかったようだ。
「ったく、真子は流されすぎ」
「綾乃ちゃんは興味ないの?」
 そう尋ねられた途端、彼女の眉間に深い縦皺が刻まれた。むすっとして腕を組む。
「はっきりいって不快。美少女怪盗とか言われてるけど、顔なんてちっとも見えてないしさぁ。こんなものを美少女とかいって持ち上げてるヤツの気が知れん。絶対、マスクをとったらガッカリってパターンだよ」
「ガッカリ……」
 澪は斜め下に視線を落とし、ぼそりとつぶやいた。
「まっ、スタイルいいのは認めるけどね」
「そうそう、澪にそっくりなんだよな」
 富田は腰を屈めて、澪の体を観察するように覗き込んできた。比較対象は机の上に広げられている。慌てて、澪は少し乱暴に彼の顔を向こうへ押しやった。
「じ、じろじろ見ないでよ! やらしいっ!!」
「そうだぞ、そんな怪盗なんかと比べるなっ!」
 綾乃も同調して責め立てる。
「比べるまでもなく、断然、澪の方が上だからね」
「怪盗ファントムも負けてないと思うけどなぁ」
 富田はニヤニヤして言い返すと、机の上のスポーツ紙を開いた。その中面には——。
「きゃあぁあっ!!!」
 クラス中が振り返るほどの悲鳴を上げながら、澪は全力でスポーツ紙を掻き寄せ、くしゃくしゃになったそれを机の上で抱き込んだ。顔は、湯気が出そうなほど真っ赤に火照っている。
 その紙面にデカデカと掲載されていたのは、スカートが捲れて、白いパンツが丸見えになった怪盗ファントムの姿だった。誠一の後ろ姿も一部だけ写っている。つまり、これはきのう高層ビルの屋上で撮られたものだろう。飛び立つ瞬間、強烈な白い光を見た記憶があるが、あれがフラッシュだったのかもしれない。
「どうしたの、澪。そんなにウブだっけ?」
 綾乃は眉をひそめて不思議そうに尋ねた。両隣の富田も真子も驚いた顔をしている。理由がわかっている遥だけは、一歩引いたところで、頭を押さえて溜息をついていた。冷ややかな視線を澪に流して言う。
「自分ってわけじゃあるまいし、たかがパンツで過剰反応だよ」
「か、かわいそうじゃない! 怪盗とはいえ女の子なんだから……」
 彼の発言が助け船だったことは理解していた。素直に乗っかればよかったのだが、たかがパンツと言われたことで、澪は思わずカッとなり反論してしまう。その苦し紛れの主張に、綾乃たちの表情はますます訝しげに曇った。
「なんでそんな必死になってんの?」
「もしかして、それ、おまえなのか?」
「えっ?」
 まさかの富田に図星を指され、澪は大きく目を見開いて硬直した。否定しなければと焦るものの、頭の中が真っ白になってしまい、何ひとつ言葉が出てこない。
「財閥のご令嬢が怪盗なんてするわけないよー」
 そんなとき、いつもと変わらない真子の声がふんわりと降ってきた。おかげで、張りつめていた澪の心は、幾分か落ち着きを取り戻す。しかし、まだこの窮地を脱したわけではない。富田は親指と人差し指を顎に添えながら、難しい顔で考え込んでいる。
「いや、怪盗の正体が金持ちだって話は、漫画とかでは結構あるぞ」
「もし澪がファントムだったら全力で応援するけどね」
 綾乃はそう言って、軽く笑いながら左の手のひらを上に向けた。
 しかし、澪は顔を真っ赤にして、くしゃくしゃのスポーツ紙を抱え込んだまま彼女を見上げる。
「ちょっ、綾乃なに言ってるの、窃盗は犯罪なのよ?!」
「…………」
 一拍の間の後、富田と綾乃は同じタイミングであははと豪快に笑い出した。富田は大きく顔を上げて声を響かせ、綾乃はおなかを押さえて前屈みで肩を震わせる。その隣では、つられるように真子も遠慮がちに笑っていた。
「ったく、これだもんなぁ」
「やっぱり澪ってことはないな」
 笑いすぎてうっすらと涙さえ浮かべながら、綾乃と富田は口々に言う。澪には何がそんなにおかしいのかさっぱりわからない。しかし、なぜか疑いが晴れたようなので、とりあえずは素直に胸を撫で下ろした。が——。
「遥ならやりかねないけどね」
 綾乃のその一言にビクリとする。遥に矛先が向くとは思わなかっただけに驚きは大きい。しかも、半分ほど当たっているとなればなおのこと。おそるおそる遥の様子を覗うが、彼はいつもどおり顔色ひとつ変えていなかった。
「僕が女装してやってるとでも?」
「そんなムキになるなって」
 淡々と言い返した遥を、綾乃は軽く笑い飛ばす。
 しかし、富田は妙に真剣な顔つきになると、遥の全身を嘗めるように見まわした。
「でも、遥ならやってやれないことはないよな。ファントムでも、普通の女装でも、かなりイケるんじゃないか? 見た目は澪とそっくりだし……一卵性だっけ?」
「男と女なんだから一卵性はありえない」
 これまで数え切れないくらい受けてきた質問に、遥はうんざりしたように答えた。富田も何度か聞いているはずだが、忘れていたのだろう。「あ、そうか」と小さくつぶやくと、頭に手を当てながらへらっと笑って言う。
「ていうか、おまえ本当は女だったりして」
 地雷を踏んだ。
 はっきりと口にしたことはないものの、遥は女性的な外見を気にしており、そのことに言及されると機嫌が悪くなるのだ。案の定、あからさまにムッとした表情を見せた。が、すぐに小さく溜息をつくと、じとりとした目を向けて問いかける。
「一緒にお風呂も入ったのに、そういうこと言う?」
「あ、そういえば……」
 富田は記憶を辿るように斜め上に視線を流した。やがて、なぜか耳元がほんのりと色づいてくる。
「富田やらしい! なにカオ赤くしてんだよ!!」
「べっ、別にそんなこと……!」
 綾乃に勢いよく責め立てられ、あたふたと弁解にならない弁解をする。しかし、何を考えていたのかは、いくら問い詰めてられも白状しなかった。応酬を続ける二人を眺めながら、遥は面倒くさそうに声を上げる。
「で、僕の疑いは晴れたわけ?」
「あ、悪かった、悪かった」
 富田はへらへら笑いながら答えた。
「別に本気で疑ってたわけじゃないんだ。そうだったら面白いなと思っただけで。おまえらがファントムやってるんだとしたら、親友の俺らには打ち明けてくれてるはずだしな」
「さあ、それはどうかな?」
 綾乃は意味ありげに目を細め、口の端を上げる。
「こう見えて、澪はけっこう秘密主義だからね。彼氏のことも隠してるしさ」
「綾乃っ!! どうしてそのこと……!」
 澪はガタッと弾かれるように立ち上がった。付き合っている人がいるということは、綾乃たちには言っていない。この場で知っているのは遥だけだと思っていた。なのに、どうして——。
「あ、本当だったんだ」
「……えっ?」
 きょとんとして聞き返すと、綾乃は人差し指を立てて得意げに話し始める。
「澪ってば高校に入ってから付き合い悪くなったし、それに、このまえの誕生日からネックレスするようになったでしょ? 薄いピンクの宝石がついてるやつ。普段はシャツの下に隠してるけど、体育の着替えのときにいつも外してるんだよね。そのときの澪の顔がまたちょっと嬉しそうでさ。これはもしかしたらもしかして、ってピーンときたわけ」
 嬉しそうな顔をした自覚はないが、あとは彼女の言うとおりである。ここまで言い当てられては反論のしようもない。
「ホントよく見てるね……」
「そりゃあ目の保養だもん」
「もうっ」
 ニカッと白い歯を見せる綾乃を、澪は軽く睨み、溜息をつきながら腰を下ろした。くしゃくしゃのスポーツ紙に八つ当たりするように、さらにくしゃくしゃに丸めていく。綾乃と真子は笑っていたが、富田は呆然とした表情のまま固まっていた。
「ほっ、本当なのか? 彼氏って……」
「ん……まあ……」
 今さら否定するわけにもいかず、澪は曖昧にそう答える。
 富田は勢いよく机に両手をつくと、目の色を変えて必死に追及してきた。
「誰? 誰なんだよ?! 俺……じゃないよな?」
「アホ!」
 綾乃は彼の後頭部をスパンと叩いた。
 澪は苦笑を浮かべ、顔の前で両手を合わせて肩をすくめる。
「ごめん、今はちょっと言えない。卒業したら話すから」
 それを聞いた綾乃の眉がピクリと動いた。腕を組み、何かを確信したようにニッと澪を見下ろす。
「ははーん、ふーん、なるほどね」
「な、何よ……」
「秘密にしてるのは、相手の立場を慮ってのことだな」
 澪の心臓がドクンと跳ねた。
 綾乃はさらに理詰めで追い込んでいく。
「卒業したら話すってことは、澪の年齢が問題なんだろうね。同じ高校生ならそんなこと気にするわけないし、相手は大人、それもかなりお堅い職業の人間なんじゃないかな。たとえば、常に品行方正なことが求められてる公務員とか」
「あ、綾乃……」
 ここまではすべて正解である。今すぐにでも逃げ出したい心境だが、そうするわけにもいかず、澪は息を詰めてただ祈るしかなかった。その反応を楽しむように、綾乃は腕を組んだまま含み笑いでもったいつける。そして、十分すぎるほどの間をとったあと、人差し指を澪の鼻先に突きつけて言った。
「ズバリ! この学校の先生でしょ!」
「……は?」
 澪は口を半開きにして、ぱちくりと瞬きをした。
 真子は心配そうに顔を曇らせて覗き込む。
「本当なの、澪ちゃん?」
「ちょっ、違う、それ絶対に違うから!」
 澪は大きくぶんぶんと両手を振って、必死に全面否定のアピールをする。しかし、綾乃はまるで信じていないようだ。円陣を組むかのように富田と真子の肩を抱き込み、澪に顔を近づけると、自分たち以外には聞こえないよう声をひそめて言う。
「私は数学の鈴木が怪しいと思ってる」
「すず……!」
「声でかいっつーの!」
 のけぞりながら大声を上げる富田の顔面を、綾乃は容赦なく平手でベチリと叩いた。他のクラスメイトに知られないための配慮だろうが、そもそも彼女の言っていることがまったくの的外れである。
「だから先生じゃないって! なんでそうなるわけ?!」
 澪は身を乗り出して言い返す。それでも、綾乃は取り合おうとしない。
「鈴木って結構イケメンで優しくて、女にもてないわけないのに、30代半ばでまだ独身でしょ? だから、もしかしたらホモなんじゃないかって噂されてたんだよね。まあ、噂を立てたのは私かもしれないんだけど」
「綾乃ちゃん、前もそんなこと言ってたよね」
 真子は曖昧な苦笑を浮かべる。その話は、澪も何度か聞かされていた。実際はどうかはわからないが、根拠もなく噂を立てるのはひどい話だし、同情して庇うような発言をしたこともある。もっとも、綾乃は歯牙にも掛けなかったのだが。
「でさぁ、一度、美術部メンバーで真相を確かめに、職員室へ押しかけたことがあるんだよね。そしたら、鈴木、おかしそうに笑いながら否定してさ、君らが卒業する頃に結婚するかもね、って」
「だから、何なの?」
 澪は眉をひそめて小首を傾げた。しかし、綾乃は勝ち誇ったようにニヤリとし、顔を近づける。
「とぼけてもダメだぞ。つまり、鈴木はうちらの同級生と卒業後に結婚するってことで、これまでの話を総合すると、その相手は澪としか考えられないじゃないか」
「それ何もかも飛躍しすぎ!」
 澪は全力で言い返すと、くしゃくしゃのスポーツ紙に肘をついて頭を抱え込んだ。このまま違うと否定し続けても、思い込みの激しい綾乃は信じてくれそうもない。こうなったら、もう本当のことを話すしか——。
「あの、ここだけの話にしてくれる?」
 おずおずと懇願するようにそう尋ねると、顔を上げ、綾乃たち三人を順に見つめていく。遥にもチラリと視線を流すが、面倒そうに溜息をつくだけで、引き止めようとはしなかった。
「おっ、とうとう認めるか?」
「じゃなくて……」
 ひやかす綾乃を制したあと、澪は顎を引き、そっと眉をひそめて言う。
「相手は刑事なの」
「けっ…!」
 叫びそうになった綾乃の口を、遥が素早く背後から手で塞いだ。じたばた暴れても離そうとしない。綾乃のようなオーバーリアクションはとらなかったものの、真子も同様に驚いているようで、信じられないといった面持ちをしていた。
「遥くん、本当なの?」
「まあね」
 遥は軽くそう答えると、ようやく綾乃を解放した。彼女は苦しげに大きく息を吸い込んで振り返り、涙目で遥を睨むが、彼はまるで意に介さず涼しい顔をしている。
「他言無用だから気をつけて」
「わかってるって!」
 綾乃は腹立たしげにそう返事をした。真子もにっこりと頷いて同意する。しかし富田は——。
「俺は認めないぞ!!」
 ダンッ、と澪の机に勢いよく両手をつき、怖いくらい真剣な眼差しで覗き込んできた。
「目を覚ませ、澪! おまえ弄ばれてんだよ、その不良スケベオヤジに!!」
「ちょっと、知りもしないのに勝手なこと言わないでよ!」
 澪はカッとして身を乗り出した。
「なんで不良って決めつけてるわけ?! 富田よりよっぽど真面目だよ?! それにオヤジって年じゃないもん! まだギリギリ20代だし! スケベ……じゃない……とは言えないけど……」
「うわああああぁ!」
 間もなく始業の時間だというのに、富田は錯乱したように奇声を発しながら教室を出て行った。綾乃は腹を抱えて大笑いし、真子も遠慮がちに笑っている。遥にいたっては、額を押さえて大きく溜息をついていた。だが、澪には何がなんだかさっぱりわからない。
「富田どうしたの?」
 彼の消えていった方を指さして尋ねる。
「青春だよねぇ」
「はぁ?」
 綾乃の答えに、澪はますます混乱して眉を寄せた。しかし、綾乃も真子も笑い続けるばかりで、澪の疑問には答えようともしてくれない。やがて始業のチャイムが鳴り、二人は小走りで自席に戻っていく。遥も、澪の頭をぽんと軽く叩くと、何も言わず後ろの自席に腰を下ろした。

「ねぇ、富田まだ怒ってるの?」
「別に怒ってるわけじゃ……」
 放課後になり、澪たち五人はそろって正門に向かって歩いていた。普段は部活の関係であまり一緒に帰れないが、今は定期試験前のため、部活は全校的に休みとなっているのだ。しかし、富田は今日一日ずっと生気のない顔をしており、今も澪を見ては溜息ばかりついている。おそらく今朝の一件が原因なのだろう。
「今まで秘密にしてたのは悪かったかもしれないけど、私にだって事情があるんだもん。富田のことは、もちろん綾乃も真子もだけど、みんなちゃんと友達だと思ってるよ? 友達だと思ってるから彼氏のこと話したんだよ?」
「わかったから! 友達友達いうな!」
 富田は苛ついたように前髪をくしゃくしゃと掻いた。彼の態度が今ひとつ掴めない。わかったとは言っているが怒りはおさまらない、ということなのだろうか——澪は困惑して顔を曇らせる。そんな二人を横目で見ながら、綾乃は顎を上げてニヤニヤしていた。
「澪は罪作りだねぇ」
「どういう意味?」
「ずっとそのままでいてよ」
「何よそれ」
 澪は唇をとがらせる。しかし、綾乃の思わせぶりで不可思議な発言は、何も今に始まったことではない。聞き返してもごまかされてしまうので、もうあまり気にしないようにしていた。

「許可を取ってからにしてください」
 正門のところで、警備員が誰かと揉めているようだった。この学校では、部外者が敷地内に立ち入るには、事前に学校側の許可を得る決まりになっている。それは保護者も例外でないという厳しいものだ。そのため警備員と言い合いになっていることは時折あり、特にめずらしい光景でもなく、生徒たちはみなチラリと一瞥するだけで通り過ぎていく。
 澪もつられるように正門に目を向けたが、警備員の陰になり、相手の姿はほとんど見えなかった。しかし、特に興味はなかったため、すぐに綾乃たちと取り留めのない話を再開して笑い合う。
「では呼び出してもらえませんか?」
「どういったご用件でしょうか」
「それ、は……」
「お帰りになってください」
「ちょっと待ってください!」
 耳に飛び込んできた聞き覚えのある声に、澪はドキリとする。
 まさか、この声って——。
「誠一?!」
 半信半疑で振り向いた澪の視線の先には、警備員と揉み合いながら、そのトランシーバーに手を伸ばしている誠一がいた。通報を止めようとしていたのだろうか。大声を上げた澪に気付くと、ほっとして表情を緩ませる。
「澪、良かった」
 そう言って警備員の脇をすり抜け、敷地内の澪に駆け寄ろうとした。が、警備員が素早く後ろから羽交い締めにする。誠一に悪気はなかったのだろうが、これでは完全に不審者であり、取り押さえられるのも無理はない。「もしかして澪の彼氏?!」などと綾乃たちが色めき立っているが、構っている場合でなく、澪は慌てて誠一のもとへ駆けていった。
「すみません! この人、私たちの知り合いなんです。少し慌てていただけで悪意はないと思いますし、すぐに出て行かせますから、今回だけはこのまま見逃してもらえませんか?」
「承知しました」
 警備員も澪が橘財閥令嬢であることは知っており、それゆえ簡単に聞き入れてくれたのかもしれない。誠一の拘束を解くと、一歩下がり、生徒であるはずの澪に恭しく一礼した。
「澪、本当に助かった、ありがとう」
 誠一は大きく安堵の息をついた。澪は小首を傾げる。
「いったいどうしたの?」
「そうだ、澪!」
 誠一はバッと勢いよく顔を上げると、澪の両手を包むように握りしめる。下校時で他の生徒たちが大勢いたこともあり、澪は当惑したが、彼の真剣な表情を見て何も言えなくなった。わざわざ学校にまで来たうえ、これだけ無茶をするということは、おそらく余程の緊急事態なのだろう。大きく不安を煽られ、ゴクリと唾を飲んだ、そのとき——。
「パンツ見せてくれっ!!」
 鈍色の寒空に、誠一の必死な声が拡散した。