東京ラビリンス

第16話 親子

「今まで師匠と何してたわけ?」
 あからさまな不快感と、若干の怒りが含まれたぶっきらぼうな口調。
 剛三の書斎へ向かう途中の廊下で、澪は並んで歩く遥にそう尋ねられた。一瞬、振り向いてきょとんとしたものの、すぐに言わんとすることを理解する。後ろで手を組み合わせてくすっと笑うと、長い黒髪をさらりと揺らしながら彼を覗き込んだ。
「遥だって、三者面談のあと師匠とごはん食べに行ったじゃない」
「僕はごはんだけで、その日のうちに帰ってきたけどね」
 遥は仏頂面のまま刺々しく答えるが、澪はまるで気にすることなく、目を輝かせて無遠慮に踏み込んでいく。
「ね、師匠とどんな話をしたの?」
「内緒」
「男どうしの話って聞いたけど……」
「ノーコメント」
「んー、じゃあヒントだけでも」
「言わない」
 遥の態度は、悠人以上に取り付く島もなかった。当てが外れて、澪は拗ねたように口をとがらせる。
「だったら私も答えない」
「いいよ、別に」
 自分から訊いたにもかかわらず、もう興味をなくしたかのように、彼は涼しい顔でそう受け流した。これでは澪の方が困ってしまう。募る悔しさに眉をひそめながらも、ぼそりと小さな声で言い訳をする。
「ホテルのプールで一緒に泳いだだけだからね」
「一晩中?」
「まさか。もちろん部屋には泊まったけど……」
 三者面談が終わったあと、埠頭で海を見てから食事に行き、その後ホテルのスイミングプールで泳いだ。久しぶりに悠人と50mのタイムを競って、何度挑戦しても勝てなかったけれど、一時でも面倒なことを忘れられて楽しかった。いい気分転換になったと思う。
 そして、夜はそのホテルに泊まったが、やましいことなど何ひとつない。
 子供の頃はよく一緒に寝ていたし、今も泊まりがけで下見に行ったりしている。結婚の話が出てからは、さすがに多少は意識をしてしまうが、何もしないという彼の言葉を信じているし、これまで実際に何も起こっていない。そんなことは遥も知っているはずなのに、何を気にしているのか澪にはわからなかった。
「もう師匠と結婚することに決めたの?」
「……そんなの、まだわからないよ」
 あまり考えたくなかったことを蒸し返され、澪は少しムッとする。それでも遥は追及の手を緩めなかった。
「早く決めてはっきりさせなよ。これじゃ二股だよ」
「二股って……師匠とは、別に……」
 澪には二股を掛けているつもりなど微塵もない。それだけに、遥の言葉には軽く衝撃を受けた。きっぱりと否定すればよかったのだが、口から出た言葉は、なぜか自信なさげなたどたどしいものだった。
 彼は前を向いたまま、冷ややかに付言する。
「それに、先延ばしにすればするほど傷つくことになるから」
 澪は小さく首を傾げた。
「誠一が?」
「二人とも」
 確かに、先延ばしにすればするほど離れがたくなるのかもしれない。だが、今すぐ別れることなどとても出来ないし、出来たとしてもしたくない。できるだけ二人でいる時間を延ばしたいと思ってはいけないのだろうか——視線を落として考え込んでいると、遥はふと思い出したように尋ねる。
「それよりテレビは見た?」
「テレビ……?」
 澪はさらりと黒髪を揺らして振り向き、ぱちくりと瞬きをした。

「怪盗ファントムが狙っている『ある少女の肖像』について教えてください」
 最前列の若い女性レポーターが、パイプ椅子から立ち上がって尋ねた。その視線の先には、会見の主役と思われる恰幅のいい男性が、フラッシュを浴びながら、勝ち誇ったような不敵な笑みを浮かべている。
「『ある少女の肖像』は、天野俊郎が元華族に依頼されて手がけた肖像画で、描かれている少女は、橘財閥会長の亡くなられた妻だと聞いている。これまで世間にはあまり知られていない作品だ。しかし、彼の他作品と比較すると圧倒的に価値は低く、なぜファントムが欲するのかはわからない」
 今度は後方の男性リポーターから声が上がる。
「その絵を見せていただけませんか?」
「残念ながら現時点ではご容赦いただきたい。盗みのヒントを与えることになりかねませんからな。無事に守りきれた暁には、何らかの形でみなさんに披露することをお約束しましょう」
 別の男性リポーターが手を上げた。
「怪盗ファントムの対策はすでにお考えでしょうか」
「丁重な予告状をいただいたのだ。こちらも真正面から相対したいと思う」
 そう答えて一呼吸おくと、真正面からテレビカメラを見据えた。
「見ているか怪盗ファントムよ。扉は開けておく。二階応接室にて、この内藤自ら肖像画とともにお迎えしよう」
 会場にどよめきが起こり、目のくらむような無数のフラッシュが焚かれた。その中心に座る男性は、せり出した腹を見せつけるようにふんぞり返り、厭らしく口の端を上げていた。

 パチン——。
 打ち合わせ机に仮置きされたテレビの電源が切られた。
 録画映像を見ていた澪たち怪盗ファントムの面々は、黒くなった画面から目を離し、どことなく重たい空気に包まれつつ机の中央に向き直った。皆、何とも言いがたい微妙な面持ちをしている。
「今朝の予告状を見た内藤からの返答だ」
 剛三はリモコンを机に置きながらそう言うと、眉間に皺を刻んだ。
「わざわざ自社にマスコミを呼び集めて会見したらしい。良い話題作りになると思ったのだろう。メディアを利用して成り上がってきた内藤らしい下品な遣り口だ。あのような輩の手元に、一秒たりとも瑞穂の肖像画を置いておきたくはない」
 苛立ちを露わにしてそう言うと、ギリギリと奥歯を噛みしめ、握りつぶさんばかりにリモコンを握りしめる。無言の空間に、張りつめた軋み音が響いた。

 会見をしていた男性は、内藤茂という実業家である。
 これまで何かと剛三に対抗意識を燃やしていたようだが、当の剛三は歯牙にも掛けず、様々なちょっかいも動じることなく黙殺してきた。しかし、瑞穂の肖像画を手に入れたなどと言われては無視できない。面会したいという内藤の要求を、不本意ながらも、初めて受け入れることになったのだ。
 事前に調査したところ、その肖像画はどうやら本物らしいことが判明した。剛三は存在すら把握していなかったが、瑞穂が嫁ぐ前、彼女の父が馴染みの画家に描かせたもののようだ。最愛の娘の姿を手元に残しておきたかったのだろう。所有者である瑞穂の父が亡くなったあと、長きにわたり行方不明だったが、最近、天野俊郎の未公開作品としてひっそりと市場に現れ、それを内藤が150万円ほどで購入したのである。
 剛三は買い取らせてほしいと頭を下げたが、内藤は応じなかった。しかし——。
「飽きたら無償でお譲りしますよ。ただし、傷だらけになっているかもしれませんがね」
 あからさまな挑発である。
 内藤はそれだけのために瑞穂の肖像画を手に入れに違いない。無視され続けたことに対する復讐だったのかもしれない。だが、剛三からすれば逆恨みもいいところだ。このような理不尽な横暴を許せるはずもなく、絵画関係ということもあり、怪盗ファントムに肖像画を救出させようと決めたのである。

「しかし、計画が大幅に狂ってきたな……」
 剛三はリモコンを机に置きながらそう言い、眉間の皺を深くする。
「でも、扉を開けててくれるなら楽ですよね」
「バカもん! 真に受ける奴があるかっ!!」
 場を和ませようとした澪の言葉も、苛立っている彼には通じず、思いきり怒鳴り返されてしまった。遥は溜息を落としながら頬杖をつき、悠人は声を立てずに苦笑している。が、篤史だけは険しい表情を崩さなかった。
「現時点での問題は三つ」
 おもむろにそう言って、三本の指を立てる。
「一つ目、俺らが警備員として潜入することは不可能になった。内藤は警備会社に依頼するつもりはないらしい。万が一、これから依頼することがあったとしても、直前では準備のための時間が足りないからな」
 当初の計画では、篤史が警備員の一人に成り済ますことになっていたが、さすがに警備員を雇わないのではどうしようもない。ただ、この件については事前に想定済みのはずである。何の愛着もない150万円程度の絵に対して、あの内藤が警備など頼みはしないだろう——と、先日の打ち合わせで剛三に指摘され、別案を考えておくよう言われていたのだ。
 篤史は眉を寄せて、言葉を継ぐ。
「二つ目、警備システムが利用できなくなった。内部監視や陽動作戦に、内藤邸の警備システムをハッキングして使う予定だったが、あの会見以降、どういうわけかすべての警備システムが切られている」
 このことは悠人も遥も初耳だったようで、ハッと目を見張った。
 澪は小首を傾げながら尋ねる。
「それって、こっちの計画が読まれてるってこと?」
「過去の事件から推測した可能性はあるだろうな」
 篤史は淡々と答えた。それから、小さく溜息をついて続ける。
「三つ目、仕掛けておいた盗聴器やカメラも一つ残らず外されてしまった。今は内藤邸の様子を知る術はない。だからといって再び仕掛けに行くのは危険すぎる。つまり、計画はまっさらな白紙に戻っちまったってことだ」
 これまでずっと冷静に述べていたが、最後だけ少し投げやりな口調になった。準備がすべて水の泡になったのだから無理もない。今回は悠人が別件でいろいろと忙しかったため、篤史が中心となって進めており、それゆえなおさら悔しく思う気持ちが大きいのだろう。
 しかし、悔しいだけですむ話ではない。
 予告時間が刻々と近づいてきているのに一体どうするつもりなのだろうか。いっそ中止にしてくれた方がありがたいが、怪盗ファントムのイメージを考えれば、そう簡単に予告を撤回するわけにもいかないはずだ。澪は眉をひそめ、八つ当たりぎみに口をとがらせて言う。
「私的なことにファントムを利用するからバチが当たったんですよ」
「なんだとッ!!」
 剛三はクワッと目を見開き、筋張った両こぶしを激しく机に叩きつけた。
「おまえは瑞穂が陵辱されてもいいというのか?!」
「陵辱って、そんな大袈裟な……」
 その凄まじい勢いに、澪は困惑ぎみに身をのけぞらせる。
 悠人は小さくクスッと微笑んだ。
「確かに、今回の件は私情を挟んでいるが、絵の尊厳を守るという理念には反していないよ」
 言われてみれば、この案件が今までで一番理念に叶っているのかもしれない。浅はかな目的のために傷つけられる絵画を救い出す——それは、所有者でも作者でもなく、絵そのものの尊厳を守ることに他ならないのだから。もっとも、剛三は瑞穂の肖像画を取り返すことしか頭にないようであるが。
「今から計画を練り直しても、その準備をする時間がない」
 篤史は机の上で手を組みながら言う。
「外部からのサポートが難しいこの状況では、怪盗ファントムにすべてを任せて、正面突破で絵を奪ってきてもらうしかないと思う。内藤には秘書兼ボディガードの屈強な男が二人、常に付き従っているそうだが……澪、おまえやれそうか?」
「私は反対です」
 尋ねられた澪を差し置いて、悠人が声を張った。毅然とした口調で続ける。
「澪には荷が重すぎます。今回は遥に任せた方がいい」
「私、やります」
 澪は手を上げて言った。
 やりたいと思ったわけではない。けれど、体が反射的に動いていた。遥の方がすべての能力において上であることは認めており、妬ましく思う気持ちはないはずだが、なぜかこのときばかりは大きく気持ちがざわついたのだ。
 振り向いた悠人の表情は厳しかった。
「今回は些細な失敗も許されない。意地は捨てて考えるんだ」
「……大丈夫です。必ずやり遂げますから」
 まるで心の中を見透したかのような彼の言葉に、澪は少し動揺したが、ゆっくりと右手を握りしめてそう断言した。必ずやり遂げる、やり遂げられる——自らに言い聞かせるように胸の内で復唱すると、小さく息を吸い込んで顔を上げ、にっこりと精一杯の笑顔を作ってみせた。

 その日の夜——。
 澪は近くのビルからハンググライダーで飛び立つと、緩やかに弧を描きながら、内藤邸の正面玄関前にすっと静かに降り立った。門の外側には数多くの野次馬やマスコミが集まっており、歓声とも野次ともつかない声を上げて騒々しく盛り上がっている。対照的に、敷地内には警備員も警察も見当たらず、不気味なくらいに静まりかえっていた。
 玄関の扉は、宣言通り大きく開け放たれていた。
 こういうわかりやすいパフォーマンスは、マスコミが食いつきやすく話題になる。そう計算してのことだろう。過剰な売名行為でのし上がってきた内藤だけに、さすがにそのあたりについてはぬかりがなかった。
 澪はハンググライダーをその場に置き、用心しながら玄関へと足を踏み入れた。
『セカンド、二階へ上が……』
「副司令?」
 イヤホンから聞こえていた悠人の声が、途中で雑音に呑み込まれた。妨害電波で通信を阻害されたようだ。事前にそういう可能性もあるとは聞かされていたが、実際に連絡が取れなくなるとやはり不安になる。が、今は前に進むしかない。
 正面には、待ち構えるように幅広な階段があった。
 罠が仕掛けられていないか確認しながら、澪は一歩ずつ慎重に足を進めていく。屋敷に響くのは自分の足音だけで、あたりに人の気配は感じられない。本当に警備は頼んでいないようだ。
 階段を上りきったすぐ目の前が応接室である。飾り彫りが施された木製の扉——澪はその前に立ち、ごくりと唾を飲む。一瞬、ドアノブに触れることに躊躇したが、この扉を開かなければ始まらない。覚悟を決めると、白い手袋をはめた手で両開きの扉をゆっくりと押し開いた。

「ようこそ、怪盗のお嬢さん」
 広い応接室の奥に、不敵な笑みを浮かべた内藤が立っていた。その両側には、いかにも屈強そうなスーツ姿の男性二人が付き従っている。篤史が言っていた秘書兼ボディガードに違いない。
「君が欲しがっているのは、この絵かな」
 そう言って、内藤は肖像画を前に掲げて見せつけた。額装されていない剥き出しのキャンバスを、素手で無造作に掴んでいる。そこからは絵に対する敬意など欠片も感じられなかった。澪は顎を引き、仮面の下でキュッと下唇を噛みしめる。
 内藤は口もとを斜めにした。
「私にとっては何の価値もないものだが、君にとってはそうでもないのだろう?」
 彼の右手には金色の四角い何かが握られていた。親指でカチャッと蓋を跳ね上げ、スイッチのようなものを押すと、薄青色の炎が揺らめきながら現れる。どうやらライターのようだ。その炎で、彼は無言のまま肖像画の下方をあぶり始めた。キャンバスの縁が茶色く変色し、焦げくさい匂いが広がる——。
 ハッタリじゃない、本当に燃やしてる!!
 澪は大きく目を見開いて息を呑み、弾かれたように内藤へ突進していく。が、部屋の中ほどまで来たとき——。
「……っ?!」
 足もとがすくわれて体が宙に浮き、視界が大きく反転した。一瞬、何が起こったのかわからなかったが、あたりを見まわしてすぐに理解した。内藤の仕掛けた罠にかかり、網に絡め取られ、天井から吊されているのだと。もがいても思うように動けない。体は腰から二つ折りになっており、下手すると自分の膝で仮面を打ちつけてしまいそうだ。めくれているスカートを直すこともできない。傍らから見たら、とんでもなくはしたない格好になっていることだろう。
 内藤がゆったりと近づいてきた。
「まさか、これほど簡単に捕らえられるとはな。他にもいくつか罠を準備してあったが、少々買い被りすぎだったのかもしれん」
 吊された怪盗ファントムを見上げながら、顎に手を添え、すこぶる愉しそうにそう声を弾ませた。そして、嗜虐的な笑みを瞳に宿すと、粘り気のある視線をいやらしく這わせていく。澪の背筋にゾクリと冷たいものが走った。
「一部では性別不明と言われているが」
「……っ!!」
 内藤の無骨な指が、網越しに澪の太腿に触れた。口から飛び出しそうになった悲鳴を何とか呑み込む。しかし、それで終わりではなかった。ゆっくりともったいつけるように、もしくはじっくりと味わうように、太腿をなぞりながら付け根の方へと這わせていく。
 ——嫌っ!
 澪の全身に強烈な悪寒が駆け抜けた。身を捩るが逃れられはしない。太く無骨な指で、容赦なく蠢くようにまさぐられる。それでも、涙目できつく唇を噛みしめながら堪え、悟られないよう密かに内ポケットを探った。
「女で間違いないようだな」
 薄笑いを含んだ、ひどく下卑た声が耳に届く。
「すぐに警察に引き渡してしまうのは惜しい。顔は仮面を取ってみないとわからんが、体の方はなかなか良さそうだからな。色白の吸い付くような肌も、適度に肉のついた太腿も、実に私好みだ。濡れやすいのも悪くない。少し楽しませてもらってからでも遅くはないだろう。拘束具も用意して……」
 シュゥゥゥウッ——。
 澪は内ポケットから取り出した催涙スプレーを、内藤の顔面に噴射した。
「うぐぁあああぁ!!!」
 至近距離でその直撃を受けた内藤は、悲鳴を上げて倒れ込み、絨毯の上で目を押さえてのたうちまわる。
 後方に控えていたボディガード二人が、息を飲んで雇い主のもとへ駆け出した。その片方に狙いを定め、もう一度スプレーを強く噴射すると、彼もまた目を押さえて絨毯に崩れ落ちた。もう一方は即座に飛び退いて距離を取り、身構えながらジリジリと横歩きをする。澪はその男に噴射口を向けたまま、反対の手で懐からナイフを取り出し、網縄に少しずつ切れ目を入れていった。思いのほか頑丈だったため少し時間が掛かったが、どうにかくぐれるだけの穴を開け、ひとまずその罠からは無事に脱出することができた。
 しかし、まだ仕事が残っている。
 残ったボディガードを催涙スプレーで牽制しつつ、足もとの内藤を避けながら、無造作に投げ出された瑞穂の肖像画へにじり寄っていく。これを持ち帰らないわけにはいかないのだ。しかし、あともう少しで手が届こうかというそのとき——。
 ガンッ!!
 後頭部に衝撃が走った。前のめりで絨毯に倒れ込んだ澪の上に、男が馬乗りになり、背中側で両腕を押さえて動きを封じる。
「おまえ、目は大丈夫なのか?」
「浴びた量が少なかったからな」
 頭上で言葉が交わされる。
 澪を押さえ込んでいるのは、先ほど催涙スプレーを浴びせたボディガードのようだ。どうにかして逃れようともがいてみるが、相手の方が格段に体格が良く、おまけに武術の心得もあるようで、まったくもってビクともしない。殴られた後頭部が熱く、視界がグラグラと揺れてきた。
「よくやった」
 内藤は苦しげに目を押さえながら、体を起こそうとする。
「まだマスクは外すなよ。素顔は私が曝いてやる」
「こいつは危険です。すぐに警察を呼んだ方が……」
「冗談ではない。ここまでのことをやられたんだ。たっぷりと報復せねば気が済まん。そして、マスコミを集めて大々的に晒してやる。警察に引き渡すのはそのあとだ」
 そう言いながら、片手で目を覆ったままよろよろと立ち上がる。ふらつく彼の体を、手の空いているボディガードが支えた。内藤の目はまだ見えていないようだが、回復するのも時間の問題だろう。
 このままでは、何もかもがおしまいに——。
 頭の中で激しく警鐘が鳴り響くものの、体は動かず、目の焦点も合わなくなってきた。仮面の内側に汗が伝う。それでも歯を食いしばり意識を保とうとしていた、そのとき。
 バサバサッ——。
 派手に風を切るような音を立て、黒い何かが視界を横切っていく。しかし、それが何か考えるより前に、澪の意識はすっと闇に沈んでいった。

 大人たちの話し声が聞こえる。
 会話の内容まではわからないが、優しくて穏やかな声、そして体に心地よく響くリズム。ゆったりと波に揺られているようで、何だかとても懐かしい。けれど、それは次第に遠ざかっていく。
 どうして?
 お願い、私を置いていかないで、私たちを拒絶しないで——。

「澪、気がついた?」
「お母さま……?」
 無意識に伸ばした手の向こうに、並んで見下ろしている悠人と美咲の顔が見えた。少し離れたところには遥もいる。状況の掴めない澪は、混乱した頭であたりを見まわしながら、肘をついてゆっくりと体を起こした。ここは自分の部屋に間違いない。怪盗ファントムの赤いシャツを身につけたまま、ボタンを上から三つほど外され、いつも使っているこのベッドに寝かされていたようだ。確か、内藤邸でボディガードに取り押さえられて、それから——。
「えっと、私、どうして……?」
「師匠が助けてくれたんだよ」
 遥が答える。
「やっぱり澪一人に任せるのは不安だからって、先代ファントムの格好でこっそり乗り込んで行ってね。澪が上手くやれてたら出番はなかったはずなんだけど」
 それ、見たかった——!
 気絶する寸前に視界を横切った黒い影は、マントを翻した悠人だったのだろう。きちんと見る前に意識をなくしてしまったことが悔やまれる。もういちど着て見せてほしいと思ったが、今はとても頼めるような状況ではない。とりあえず、と遠慮がちに悠人を見上げて首をすくめた。
「あの、すみませんでした」
「この程度で済んで良かったよ」
 悠人は微笑んだ。
「えっと、肖像画は……?」
「ちゃんと盗んできたよ」
 その答えに、澪はほっと胸を撫で下ろす。そして隣の美咲に視線を移した。
「お母さまはどうして?」
「澪が心配だからに決まってるでしょう? これでも母親だもの。悠人さんから連絡をもらって、研究所から大急ぎで飛んできたわよ」
 確かに、白衣こそ着ていなかったものの、仕事用のスーツを身につけたままである。髪も、いつも研究所でしているように、後ろでひとつに束ねているだけだった。
「大地は出張中だから来られないの。ごめんなさいね」
「ううん、私なら大丈夫だから」
 こんなことで大事な仕事が駄目になっては、かえって申し訳が立たない。会えないことに寂しさを感じるものの、そこまでの贅沢を言うつもりはなかった。美咲が心配して帰ってきてくれたこと、そして母親だからと言ってくれたこと、それだけで十分すぎるくらいである。
 ふと、美咲は思い出したように言う。
「そうそう、さっき石川さんに診てもらってね。すぐに意識が戻ったら問題はないだろうけど、頭を打ってるから、念のため設備の整った病院で精密検査してもらった方がいいって」
「うん、そうする……石川さんは?」
「先に研究所に戻ってもらったわ」
 寸暇を惜しまねばならないくらい研究が忙しいということだろう。美咲も、石川も、こんなところへ来ている場合ではなかったのかもしれない。澪は心苦しさを感じつつも、薄く微笑む。
「ありがとうございます、って伝えてください」
「ええ、必ず伝えておくわ」
 美咲はニコッと笑顔で答えた。普段は凛とした姿を見せている彼女の、こういう無邪気な表情は、娘の澪から見ても可愛らしいと思う。小柄で女性らしくて、愛くるしくて、それでいて頭も良くて——どれをとっても自分には足りないものばかりだ。
「寝ていなくて大丈夫か?」
 ぼんやり考えごとをしていると、不意に悠人が割り込んできた。覗き込まれた顔の近さに動揺しつつも、澪はこくりと頷く。無理をしているわけではない。殴られた後頭部に若干の痛みは残っているが、それ以外はもう何ともなかった。
 しかし、美咲は腰に手を当て、まるで子供のように口をとがらせる。
「悠人さん、少しは反省してます? 怪盗ファントムをやるなとは言わないけれど、あまり危険なことはさせないでほしいわ。決めているのがお父さまだってことはわかってる……でも、せめてもうちょっと気をつけてあげてね」
「肝に銘じておきます」
 悠人は体を起こしながら少し笑ってそう答えると、含みのある視線を澪に流す。
「僕だって、未来の妻は大事にしたいからね」
「ちょっと! なに勝手なこと言って……!!」
 澪はカァッと頬を染めてあたふたした。二人きりのときならまだしも、今は事情を知らない母親も一緒なのに、絶対に変に思われてしまう。いったいどう説明すれば、と頭を抱えたくなったのだが——。
「あら、悠人さんとの結婚、もう決めたんじゃないの?」
 当然のような物言いで尋ねてきた。あらかじめ悠人に聞かされていたのだろうか。この様子からすると反対というわけではなさそうだ。以前にも勧めるようなことを言っていたので、特に驚きはしないが、次第に外堀を埋められているようで怖くなる。
「まだ、決めたわけじゃ……」
「今の彼氏、刑事ですってね」
「うん……」
 そこまで知っていたことにはさすがに驚いた。しかし、どう反応すればいいのかわからず、何ともいえない複雑な表情でうつむき、縋るように白いシーツをぎゅっと握りしめる。
「すべてを捨てる覚悟があるなら、貫き通しなさい」
「……えっ?」
 澪は怪訝に聞き返し、顔を上げた。
「本当に彼のことが好きなら、本当に彼と結婚したいなら、諦める前にまだ出来ることがあるはずよ。でも、困難な道を進む覚悟がないのなら、悠人さんと結婚した方が幸せになれると思うわ。最終的に決断を下すのは、澪、あなた自身だということを覚えておきなさい」
 美咲は澪を見据えて言った。
 確かに理想論としては理解できる。しかし、いくら好きな人と一緒になるためとはいえ、他のすべてを捨てるなど、現実的に不可能ではないだろうか。結局のところ選択肢は一つしかない気がする。それとも、そう思うのは甘えでしかないのだろうか——。
「美咲、あまり煽らないでくれるか」
 悠人が苦笑しながらそう言うと、美咲は悪戯っぽく笑って振り返る。
「あら、自信がないの?」
「澪を苦しめたくないだけだよ」
「相変わらず狡い大人なのね」
 意味ありげな眼差しで見つめられ、悠人は誤魔化すように顔をそむけて話題を変える。
「そうだ、澪も元気になったことだし、剛三さんのところへ行こうか」
「うん」
 澪は頷き、急いで胸元のボタンを留める。プリーツスカートのフックも外されていたので、布団から出る前にそれも留めた。剛三にも篤史にも心配を掛けただろうし、一刻も早く元気になったことを知らせたいと思う。
「美咲もだよ」
「えっ?」
 ハンドバッグを手に取って帰り支度を始めていた美咲は、きょとんとして悠人に振り向き、「私も?」と胸に手を当てて不思議そうに瞬きをする。しかし、悠人は何も答えず、ただニコニコと笑みを浮かべて美咲の肩に手を回した。

「あら、これもしかしてお母さま?」
「だから美咲を呼んだんだよ」
 執務机に置かれた瑞穂の肖像画を目にすると、美咲はパッと顔を輝かせ、少女のように愛らしく声を弾ませた。その様子を、悠人が後ろからあたたかい眼差しで見守っている。
「私にも見せて」
 隣から、澪はひょっこりと顔を出した。描かれた瑞穂を見ようと思ったのだが、肖像画そのものよりも、つい隅の焼け焦げに目がいってしまう。内藤にライターで炙られた部分だ。いきなりだったので防ぎようがなかったが、それでも傷物にした責任を感じて胸が痛む。
「やっぱり、少し焦げちゃってるね」
「これくらいで済んで良かったわい」
 剛三は椅子の背もたれに身を預けながら、溜息まじりに答えた。
「絵の価値がわからぬ奴は本当にやっかいだな。そもそも保管方が悪かったようで、埃や汚れがこびりつき、かなり傷もついている。少し修復をした方がいいだろう。そのあとは、額に入れてここに飾っておくつもりだ」
 澪は頷いた。
 そして、あらためて肖像画に目を落とす。絵の中の祖母は、今の澪よりも少し若いくらいだろうか。まだあどけなさが残っていたが、表情は凛としており、可愛らしさの中にも気品漂う美しさがあった。
「瑞穂おばあさま、きれい」
「うむ。本当に美しくて、慎ましやかで、気品のある娘であった。何故これが受け継がれなかったのか……」
 剛三は気難しそうに眉を寄せてそう言うと、腕を組みながら、じとりと観察するような視線を澪に流す。それだけで、彼の考えていることは十分すぎるほど理解できた。
「どうせ私には気品なんてないですっ」
 澪はやけっぱちに口をとがらせる。と、背後から抑えた笑い声が聞こえてきた。
「澪は現代的なだけだよ」
「それ、フォローになってます?」
 思いきり眉をしかめて振り返り、悠人を睨む。だが、彼はくすくすと笑い続けるだけで、言い訳しようともしなかった。その態度に、澪はますますムッとして頬を膨らませる。
「そんな顔をするでない」
 宥めるような剛三の声が耳に入った。一瞬、自分に向けられた言葉かと思ったが、どうもそうではないらしい。剛三はどっしりと椅子に腰を下ろしたまま、僅かに眉をひそめ、申し訳なさを滲ませながら美咲の方を見つめている。
「何もおまえが責任を感じることはないのだからな」
「誤解ですわ。少し他のことを考えていただけです」
「なら良いが……」
 にっこりと応じる美咲とは対照的に、剛三はどこか釈然としない様子だった。
「もしかして、何か困ったことでもあるのか?」
「誰だって多少の困難は抱えているでしょう?」
「……美咲、もっと私たちを頼っても良いのだぞ」
 もどかしげに目を細め、奥歯に物の挟まったような物言いをする。おそらく研究所の不正資金提供という事実を受けての言葉だろう。もっとも、美咲が関与しているかわからないし、そうであったとしても、この曖昧な言い方では伝わっていないかもしれない。だが、公安に固く口止めされている以上、具体的に言及することは出来ないのだ。
「お父さまには十分に良くしていただきました」
 美咲はわかっているのかいないのか、感情のこもった温かみのある声でそう答える。
 剛三の表情はいっそう渋く険しいものになった。
「私はおまえの父親だ。遠慮はいらん」
「では、ひとつだけお願いいたします」
「うむ」
 そう頷き、執務机の上で両手を組み合わせ、緊張ぎみに次の言葉を待った。
 美咲はくすっと可愛らしく笑ってから口を開く。
「澪と遥に、あまり危険なことをさせないでくださいね」
「いや、そうではなくおまえ自身のことでだな……」
「私は二人の母親です」
 困惑を露わにする剛三を遮り、美咲は微笑を湛えたまま、柔らかくも毅然と言い放った。
「……今後は気をつけよう」
 剛三は観念したように溜息まじりに答える。もっとも、気をつけると言っているだけなので、実質的には何も変わらないかもしれない。しかし、あの剛三が押し切られたという事実には、大きな驚きを感じずにはいられなかった。いつもの強引な態度はどこへやら、美咲には振り回されっぱなしである。
 おじいさまにとっては、やっぱり娘ってことなのかな——。
 二人にはまったく血の繋がりがなく、多くの時間を共有してきたとも思えないが、それでも形だけの親子ではなかった。その絆のようなものを実感できたことが、澪にとっては無性に嬉しく、そして、少し羨ましかった。