東京ラビリンス

第19話 牽制

 ピンポーン——。
 約束の時間より少し早く、チャイムの音が鳴り響いた。
 誠一はのんびりした声で「はーい」と応答すると、読んでいた新聞を折りたたんで玄関に向かう。今日は今年になって初めての非番であり、澪の冬休み最後の日でもある。それゆえ、久しぶりに二人でゆっくり過ごそうと約束をしていたのだ。
 この部屋で、というのは澪の希望だ。
 誠一としてはどこかへ出かけることも考えていたが、結局、彼女と二人でいられるのならどこでも構わなかった。むしろ、外より部屋の方がいいかもしれない。まわりの目を気にすることなく、誰にも憚ることなく、彼女と「恋人」でいられるのだから——。

「えへへ……」
 玄関の扉を開くと、澪は気まずそうに肩をすくめて笑っていた。その理由は訊くまでもない。彼女の隣に楠悠人が立っていたのである。彼女の武術の師匠であり、保護者的存在であり、そして婚約者候補でもある人物だ。予想外の事態に、誠一はポカンと間の抜けた顔を晒して固まった。
「ごめんね」
 澪は申し訳なさそうに眉を寄せ、口もとで小さく両手を合わせながら言う。
「師匠、心配してついてきちゃったの」
「えっ?」
 誠一はきょとんとして瞬きをするが、すぐにハッとして息をのむ。その瞬間、熱湯と氷水を同時に浴びせられたかのような衝撃を受けた。思い当たることはひとつしかない。彼は二人の関係を認めていないのだから、誠一の部屋で二人きりで過ごすと聞けば、当然——。
「あ、えっと、心配されるお気持ちはわかりますが、私はそんな……その、何もしていないとまでは言いませんが、無理強いをしたことは一度もありませんし、それなりに配慮もしているつもりですし、すべて合意のもとで……」
「じゃなくてっ!!」
 澪は顔を真っ赤にして声を上げた。そのあとに、悠人が無表情のまま説明を繋げる。
「澪が怪しい男に付きまとわれているようなので、念のため付き添ってきました」
 自分が疑われていたわけではないとわかり、誠一は冷や汗を滲ませたまま、気が抜けたように大きく安堵の息をついた。しかし、澪に付きまとう怪しい男というのが気にかかる。彼女は以前にもそれらしいことを言っており、遥もまた同じ男に付けまわされていたらしく、誠一も一度だけだが実際に目にしたことがあるのだ。フルフェイスのヘルメットで顔はほとんど見えなかったが、鋭い眼光を放つ瞳と、モデルのような人目を引く体躯はよく覚えていた。
「長身のバイク男?」
 そう澪に尋ねると、彼女は困惑ぎみに眉を寄せてこくりと頷く。
「ここまでしなくてもって言ったんだけど……」
「何かあってからでは遅いだろう?」
 悠人は横から優しく諭すように言う。何ヶ月にもわたって付きまとわれているとなれば、そこまでするのも無理からぬことである。彼の言うように、何かあってからでは取り返しがつかないのだ。
「それでは南野さん、あとはよろしくお願いします」
「あ、はい……」
 真顔で頼まれ、誠一は若干たじろぎながら返事をする。しかし、悠人はすでにこちらを見ていなかった。澪の頭にぽんと大きな手をのせると、少し身を屈め、額がくっつきそうな距離で目を合わせて言う。
「澪、帰る時間が決まったら電話して」
「……わかりました」
 澪は微かに眉をひそめつつ、諦め口調でそう答える。あからさまに不服そうな態度だが、それでも悠人は満足したのだろう。ふっと慈しむように微笑み、じゃあねと軽く右手を挙げて身を翻した。
「……あの!」
 誠一は去りゆく広い背中に声を掛けた。足が止まり、悠人は無表情を保ったまま振り返る。
「何でしょう?」
「その、よろしければ上がっていきませんか?」

 カチャッ——。
 誠一は水を入れたヤカンをガスコンロに置くと、つまみを押しまわして火を付けた。ちらりと背後に目を向け、小さな丸テーブルを囲んで座る二人の姿を覗う。澪は落ち着きなくそわそわしているが、悠人は動じる様子もなく平然としていた。以前に会ったときと違ってスーツ姿ではないが、ジャケットを身につけており、カジュアルでありながらもきちんとした印象である。
「紅茶でよろしいですか?」
「どうぞお気遣いなく」
 悠人から社交辞令の決まり文句が返ってくるが、言われるまでもなく、気遣いのあるもてなしなど出来そうもない。安っぽいマグカップにティーバッグの紅茶が精一杯である。この部屋に来るのは澪くらいであり、今後も澪しか予定がなかったので、来客用の用意など当然ながら何もありはしない。
「ねぇ」
 戸棚を開こうと手を掛けたところへ、澪がそっと駆けてきて、肩を押しつけるように体を寄せた。怪訝に顔を曇らせながら、隣の誠一にだけ聞こえるくらいに声をひそめて尋ねる。
「どうして師匠を家に上げたりしたの?」
「いや、わざわざ澪に付き添ってここまで来てくれたのに、そのまま帰してしまうのもどうかと思ったんだよ」
 誠一もできるだけ声のトーンを落として答える。実のところ、なぜ呼び止めたのか自分でもよくわかっていなかった。ほとんど反射的に声を掛けてしまっただけである。もしかすると、彼とじっくり話してみたいという気持ちが、心のどこかでくすぶっていたのかもしれない。
 澪は拗ねたように目を伏せた。
「ようやく誠一とゆっくり過ごせると思ったのに、これじゃ何にもできないよ……」
 その言葉に、誠一の心臓はドキリと大きく脈打った。誘っているつもりはないのかもしれないが、その声も、その顔も、その目も、もはや誘っているようにしか感じられない。悠人への対抗心もあったのだろう。思わず、居間から死角になる壁に彼女を押しつけると、両肩に手を掛けたまま熱のこもった目で見つめる。
「えっ? ちょっと」
「今、ここで……」
「だ、ダメだって!」
 澪はあたふたと退けようとする。が、胸元を軽く押し返すだけであり、本気の拒絶でないことはすぐにわかった。誠一は調子に乗ってズイッと間合いを詰める。
「バレないよ」
「ちょっ……」
「キスだけだから」
「…………」
 彼女の抵抗の手は止まった。戸惑いと期待が綯い交ぜになった面持ちで息を詰めている。微かに揺らいだ漆黒の瞳に、誠一は吸い込まれるように顔を近づけていく。
「無理強いしないはずでは?」
 背後から聞こえたその冷ややかな声に、誠一は口から心臓が飛び出しそうになった。シュウゥゥ、と急速に蒸気の音がおさまっていくことに気付く。おそるおそる振り返ると、悠人が沸騰したヤカンの火を止めてそこに立っていた。横顔は醒めきっているように見えたが、瞳の奥の熱い滾りだけは隠せていない。誠一は息を呑んで立ちすくんだ。が、澪は臆することなくムッとした表情を見せる。
「別に嫌がってないです」
 そう強気に反論すると、誠一の体に手をまわしてギュッと抱きついた。
「ちょ、澪……!」
 密着して柔らかい胸が押し当てられ、あたたかい吐息が首筋に掛かり、思わずくらりとのぼせそうになる。今はまずい。彼の怒りに火をつけるだけだ。そう思いつつも、彼女を無理やり引きはがすことも出来ず、抱きつかれたままあたふたするだけだった。
 そんな誠一に、悠人は敵意を露わにした目を向けた。
 それは、どう見ても保護者としてのものではなく、彼女を想う一人の男としてのものだった。そういう方面に疎い誠一でさえもはっきりとわかるくらいである。澪との結婚を望んでいるという話も、今までどこか信じ切れずにいたが、このときようやく現実のものとして実感することができた。

 単調なエアコンの運転音に、心拍が呼応する。
 丸テーブルの上には、デザインの統一されていないマグカップが三つ置かれ、澪の持参したマフィンとクッキーが無造作に広げられていた。マグカップの紅茶からはほんのりと湯気が立ち上っている。しかし、三人とも一口つけただけで、その後は気まずい空気に絡め取られたかのように動きを止めていた。

「なかなか良いお部屋ですね」
 沈黙を破ったのは悠人だった。先ほどまでの重苦しい空気が嘘のように彼の声は柔らかい。誠一は見えない呪縛が解けてほっとしたものの、彼の口にした内容には困惑を禁じ得なかった。
「ありがとうございます……」
 一応はそう答えたものの、どう考えても褒めるに値するような部屋ではないのだ。一人暮らしにしては広いというだけで、取り立ててきれいでもないし、インテリアに凝っているわけでもない。単なる会話の糸口で深い意味はないのかもしれないが、もしかしたら、澪にはふさわしくないという遠回しな嫌味かもしれないと思う。
「独身の警察官はみな寮に入るものだと思っていました」
「入寮者は多いですけど、特にそういう規定はありません」
「南野さんは?」
「私も一年ほど前までは入っていました」
 最初は少し警戒していたが、雑談を交わすうち自ずと肩の力が抜けてきた。だが——。
「なるほど」
 彼は意味ありげにフッと鼻先で笑って言った。
 誠一は少し気色ばんで眉をしかめる。
「何ですか?」
「寮では澪を連れ込めませんからね」
「……そういうことではありません」
 確かに独身寮を出たのは澪と付き合い始めた頃である。だが、それは彼女のことを秘密にしなければならかったからで、家に連れ込もうなどという下心のためではない。実際、初めのうちは、澪がここに来ることを拒み続けていたのだから。
「まあ、私はどちらでも構いませんけど」
 悠人はさらりと受け流し、涼やかな顔で紅茶を口に運ぶ。その態度に、誠一はカチンときて顔をしかめた。これまで成り行きを静観していた澪も、おそらく同じ気持ちだったのだろう。じとりと恨めしげに悠人を睨みつけると、引き結んでいた口を解き、感情を抑えた低い声で切り出す。
「あの、喧嘩を売るのはやめてもらえます?」
「売ってるつもりはないけどね」
「十分すぎるくらい売ってますっ!」
「そう見えたのなら申し訳なかった」
 悠人は身を乗り出した彼女の頭にぽんと手を置き、先ほどまでとは別人のようににっこりと笑みを浮かべた。澪は不満げに口をとがらせつつも小さく頷く。やはり、彼は名前だけの保護者代理というわけではなさそうだ。
「楠さん……」
 渇いた喉から、少し掠れた声を絞り出す。
 悠人は急に醒めた顔になって振り向いた。澪もきょとんとして振り向く。一気に二人の視線を浴び、誠一は思わずごくりと唾を飲み込んだ。体ごと悠人に向き直って正座をすると、固いこぶしを膝にのせ、ゆっくりと噛みしめるように述べていく。
「私は、澪さんと真剣にお付き合いしています。澪さんの方も同じ気持ちだと思います」
 その発言に、澪は面食らったように目を見開いたが、すぐに真面目な顔になってこくりと頷いた。
「私も真剣です」
「それで?」
 悠人は冷ややかに先を促す。
 誠一の額に汗が滲んだ。
「……楠さん、あなたは澪さんの保護者同然の立場と伺いました。でしたら、何よりも彼女の幸せを第一に考え、あなたの望みではなく、彼女の気持ちを尊重すべきではないでしょうか」
 正論だという自信はあった。だからこそ、年齢も立場も上である悠人に向かって、このような諫言を口にしているのだ。澪のことを大切に思っているのであれば、少しは動揺するかと思ったが、彼は顔色一つ変えずに言ってのける。
「私には澪を幸せにする自信があります。南野さん、あなたよりもずっと」
「…………」
 誠一は絶句したあと、もやもやした胸の内から必死に言葉を紡ぎ出す。
「あなたは……澪の家族も同然なのに、そんな人が……」
「血が繋がっていなければ何の問題もないでしょう」
 静かながらも強硬な口調で、悠人は遮るように答えをかぶせてきた。まるで議論は無駄だと言わんばかりである。法律的には確かに何の問題もない。けれど、そういうことではなく——誠一はそっと視線を上げる。
「私は……、澪さんのことを第一に考えています」
「まだ17歳の澪に手を出しておいてよく言いますね」
 間髪入れず、悠人は痛いところをついてきた。手を出したという表現については納得しがたいが、そのこと自体は事実であり、ただ黙ってうつむくしかなかった。しかし、澪は悠人をきつく睨みつけて突っかかる。
「師匠こそよくそんなことが言えますね」
「僕はキスまでしかしてないだろう?」
「……えっ?」
 一瞬にして、誠一の脳内は真っ白になった。呆然と澪に目を向ける。
「ちっ……違うの! したんじゃなくてされたの!」
 澪は顔を真っ赤にして、両手をふるふると振りながら必死に否定した。つまり、合意ではなく無理やり——相手の意思に反して行為に及ぶような人ではないと、かつて彼女は主張していたはずだが、結局のところ買い被りにすぎなかったということだろう。彼女の信頼を裏切ったその男に、誠一は無言で怒りと蔑みの視線を送る。
 それでも彼の飄々とした態度は崩れない。
「そのときは、まだ彼氏がいるなんて知らなかったからね」
「いなければいいってものじゃないです」
 澪は責め立てるように続ける。
「だいたい、キスだけなんて言い訳したところで、師匠も手を出したことに変わりないです。誠一のことをとやかく言う資格なんてありません。自分のことを棚に上げるなんて卑怯じゃないですか」
「じゃあ、帰ったら続きをしようか」
 悠人は満面の笑みを浮かべて、とんでもないことを口にした。
 血の気が引いて蒼白になる誠一とは対照的に、澪はカァッと茹でだこのように顔を紅潮させる。
「どうしてそうなるんですかっ!」
「変わりないんだろう? キスまででも、最後まででも」
「……撤回します」
 固く握りしめたこぶしを膝に下ろすと、悔しげに眉を寄せ、低い声でぼそりとそう言葉を落とす。誠一も無意識に顔を曇らせた。不安はおさまるどころか大きくなる一方である。なにせ、二人は同じ屋根の下で暮らしているのだから——。
「そろそろ帰るよ」
 唐突に、悠人はそう言って立ち上がった。
 誠一はつられるように顔を上げて、息を呑む。すぐ隣で見上げたその姿に圧倒された。背が高いというのもあるだろうが、武術を嗜んでいるからか、体は適度に筋肉がついて引き締まり、立ち姿が美しくさまになっているのだ。こんなことで張り合うつもりはないが、それでも言いようのない敗北感に襲われる。
「南野さん、ありがとうございました」
 その声で我にかえると、慌てて立ち上がり小さくぺこりと会釈する。隣の澪も、微妙に視線を逸らしつつ立ち上がった。そんな彼女を見て、悠人はどことなく寂しげに吐息を落として薄く微笑む。
「澪に嫌われることばかりしてしまうな」
「わかってるんだったらやめてください」
 澪は口をとがらせて至極もっともなことを言った。しかし、彼と目が合うと、困惑ぎみにうつむいて小声で付け加える。
「……嫌いにはなれませんけど」
 悠人の目にはっきりと安堵の色が浮かんだ。
 しかし、誠一の胸には釈然としないものがわだかまった。ずっと親子同然に暮らしてきたのだから、澪の性格上、そう簡単に嫌いになったりはしないだろう。嫌いになってほしいわけではない。ただ、わざわざそれを彼に告げてしまっては、調子づかせるだけではないだろうか。出来ることなら今すぐにでもあの家を出てほしい——無理だとはわかっているが、そう願わずにはいられなかった。

 広くはない玄関で、悠人は窮屈そうに腰を屈めて靴を履くと、誠一たちに振り返って丁寧に頭を下げた。
「それでは失礼します。帰りはまた迎えに参りますので」
「いえ、私が責任を持ってご自宅までお送りします」
「……わかりました。それではよろしくお願いします」
 正直いえば、迎えに来られるのでは落ち着かない。もちろん遅くならないうちに帰すつもりではあるが、せっかく彼女と二人きりの時間を過ごすのだから、なるべく他のことに気を取られたくなかった。彼に嫌味を言われる心配もせず、ただ溺れるくらい彼女にだけ没頭していたい——。
「くれぐれも節度ある付き合いを」
 誠一の考えていることなどとうに承知しているのだろう、悠人は去り際に冷ややかな視線を流してそう釘を刺す。誠一はギクリとし、縫い付けられたように身じろぎひとつできなかった。
 バタン——。
 重い扉が閉まるのを、誠一と澪は並んで眺めていた。
「澪、ごめんな」
「うん……私も」
 澪は前を向いたまま小さくそう答えると、誠一に抱きつき、甘えるように肩口に顔を埋めてきた。胸元に当たる小さな硬いものは、誕生日に贈ったピンクダイヤのペンダントだろう。見える見えないにかかわらず、誠一と会うときはいつも身につけてくれているのだ。
 次の誕生日も、彼女にプレゼントを贈れるだろうか——。
 誠一は彼女の背中にそっと手をまわし、優しく、そして次第に強く、その柔らかな温もりを抱きしめた。