東京ラビリンス

第46話 銀の弾丸

 潜水艇は思った以上に狭かった。
 操縦席には大地がつき、座席の前列には澪と武蔵が、後列には遥が座っている。椅子は小さく、女性で細身の澪でさえ少し窮屈に感じるくらいだ。天井も一般的な乗り物ではありえないくらい低く、屈みながらでないと移動も出来ない。おまけに、窓がないためなおさら圧迫感が増しているように思えた。
「ねえ、お父さま」
「何だい?」
 澪が声を掛けると、大地はモニタから目を離すことなく返事をする。
 昨夜のことがあってから彼とどう接すればいいか悩んでいたが、それは今朝になって呆気なく解決した。彼がこれまでと変わらず話しかけてくれたので、澪も以前と同じように話すことが出来たのである。お父さま、と呼ぶことにはさすがに少し躊躇いを感じたが、彼は特に意識せず受け入れてくれたようだ。ただ、抱きしめたり頭を撫でたりということは一切なくなった。それが彼なりの線引きなのだろう。寂しくないといえばもちろん嘘になるが、拒絶されないだけありがたいとも思う。
「どこに向かえばいいか、わかってるんですか?」
「ああ、きのう武蔵に詳しく聞いたからね」
 大地はそう答えながら落ち着いた手捌きで操縦桿を動かした。少し潜水艇が揺れる。その揺れがおさまると、前面のモニタを見つめたまま再び口を開いた。
「昔、僕たちが出入り口として使っていたところは防護壁の破損による穴だったようで、もう何年も前に塞がれてしまってね。だから新しい実験体を手に入れることも出来なかったんだよ。今回、武蔵に聞いたのは正規の出入り口だそうだ。潜水艇から上がれる場所はもうそこしかないらしい。もちろん、僕らでは解錠できない魔導とやらを使った鍵が掛けられているけど」
 澪は小首を傾げる。
「メルローズなら開けられるってこと?」
「そうじゃない」
 武蔵が間髪を入れず口を挟んだ。
「あの鍵を開けられるのは現時点でおそらく二人だけのはずだ。メルローズはもちろん俺も開けられない。だが、強大な魔導力があれば解錠しなくても吹き飛ばせる。つまり、メルローズに魔導の暴発を起こさせて結界ごと破る、というのが溝端たちの計画だろう」
 そういえば——出航前に同じような話を聞いていたことを思い出した。聞いてはいたが理解しきれていなかった。結界が生体高エネルギーで作られた防護壁だということは認識しているが、暴発を起こす、結界を破る、というのがどういうことなのか今ひとつイメージが湧かないのだ。
 後列の遥が、澪と武蔵の間に身を乗り出した。
「どうやって暴発を起こさせるの?」
「メルローズはもともとかなり強い魔導力を持っていたが、橘美咲の実験でさらに強い魔導力を持つようになった。だが、使い方を学んでいないせいで制御が上手く出来ない。メルローズの場合は興奮状態になると急激に魔導力が高まるようだが、そうなると自分自身でどうすることもできなくなり、暴発——高まったエネルギーが制御を失ったまま爆発するんだ。だから、それを誘発するために興奮剤のようなものを使うんじゃないかと思う」
 武蔵は視線を落とし、まるで独り言のように述べていった。
 補足するように大地が言葉を継ぐ。
「具体的に何の薬を使うかはわからないが、いずれにしても簡単に効果が現れるものではないし、そこからエネルギーが高まるまでにも時間がかかる。溝端たちは少し先を行っているが、暴発を起こすまでには間に合う計算だ。もしすでに薬を飲まされていたら、眠らせるか気絶させるかすれば収まるだろう」
 隣の武蔵が緊張した面持ちで頷いていた。
 その表情を見ていると、目前に迫った現実であることを思い知らされ、澪もつられるように緊張が高まってきた。失敗するわけにはいかない。失敗して結界が破られれば溝端たちに攻撃され、何万、何十万という命が消えることになる。そして、下手をすれば澪たちも一緒に海の藻屑となるかもしれないのだ——。

 やがて、潜水艇は狭い海中洞窟のようなところに進み入った。前面のモニタには流れる岩肌が映し出されている。慎重な操縦でそこを抜けてゆっくりと浮上すると、ほどなく水面に出た。あたりは先ほどまでと同じくごつごつした岩で覆われている。まるで地下洞窟の最奥のような景観だ。
 数メートル離れた水面にはもう一つ似た大きさの潜水艇があり、その前で、少し怯えた顔をした男性がこちらに銃を構えて立っていた。溝端の仲間だろう。作業服らしきものを着ているので潜水艇の技術者かもしれない。
「これじゃあ出るに出られないね」
「俺に任せてくれ」
 武蔵はそう言うなり梯子をすいすいと登り、上部のハッチを開け、軽やかに飛び出して岩の地面に着地した。とっさの出来事に反応できなかった男性は、慌てて武蔵に銃口を向け直すと、奥歯をグッと噛みしめながら引き金を引く。
 バァン——!
 洞窟内に銃声が轟いた。
 澪は思わず口もとを押さえてヒッと息をのんだ。しかし、モニタに映っている武蔵に撃たれた様子はない。彼は勢いよく地面を蹴って飛び出すと、男性の懐にこぶしを叩き込み、崩れ落ちた体を横たえて拳銃を奪い取った。
「もういいぜ」
 武蔵がこちらに向かって声を張る。
 大地、澪、遥はそれぞれあたりを警戒しつつハッチから外に出た。そこは、人為的な照明が灯されているわけではないが、どこからともなく光が漏れ入ってくるようで、やや薄暗くはあるものの普通に周囲を見渡せる状態だった。
「銃弾、外れたの?」
「いや、結界を張って防いだ」
 この国の周囲すべてに張り巡らされている防護壁も結界といわれている。規模は違うが基本的に同じものなのだろう。ミサイルでさえ防げるという話だから、銃弾が防げても何ら不思議ではない。今にして思えば、米国大使館の応接室でも同じように銃弾を防いでいたのだろう。だとすれば——。
「このまえ撃たれたのは結界を張らなかったから?」
「そうだよな、結界を張れば良かったんだよな」
 武蔵は半ばやけっぱちのような口調でそう答えると、倒れた男性の上着を脱がせ、その袖を乱暴に破りとっていく。澪からは背中しか見えず表情はわからないが、怒っているような、不満げなような、なんとなく苦々しい様子は伝わってきた。
「あのときはすでに何度も魔導を使っていたせいで、とっさに結界を張るだけの力は残っていなかった。あれしきのことで情けない話だが……地上は魔導の素となる物質が希薄なせいで、魔導を放射するにしても結界を張るにしても、こっちの何倍もの労力が必要になるんだ。そのくせ効果は数分の一しか期待できない。酸素の多いところで炎は大きくなるが、酸素の少ないところでは炎は小さくなる、っていうのと似たようなものだな。逆にメルローズにとっては、ここは暴発を誘発しやすい危険な環境だといえる」
 淡々と説明しながら、破った袖で男性の手首と足首をそれぞれ縛り上げる。そして流れるような所作で立ち上がり振り返ると、男性から取り上げた拳銃をこちらに放り投げた。緩やかな弧を描いて大地の手にすとんと落ちる。
「まだ弾が入っている。使い方はわかるか?」
「まあな。久しぶりだから腕はなまってそうだけど」
 大地はニッと口もとを斜めにして両手で構えた。その銃口は武蔵を捉えているが、彼が顔色ひとつ変えないのを見ると、小さく苦笑して後ろのポケットにしまった。
 武蔵は親指で潜水艇を示し、口を開く。
「おまえにはここで潜水艇を見張っていてもらいたい。ヤバい事態になったら潜水艇に乗っていったんここから離れろ。潜水艇がなくなったら地上に戻りようがないからな。事態が落ち着いたら俺たちを迎えに戻ってきてくれ」
 大地は一瞬ピクリと眉を動かしたが、すぐに真顔で考え込んだ。
「……美咲のことは、頼んでいいんだな」
「ああ、復讐はしないと言っただろう」
 武蔵の指示が理にかなっていることは理解していても、やはりどうしても不安が残るのだろう。相手が美咲に恨みをもっているのだから当然である。それでも決意を固めたように表情を引き締めると、一歩踏み出し、重々しく彼の右肩に手をおいて力を込めながら懇願する。
「必ず、美咲を連れ帰ってくれ」
 うつむき加減になった大地を感情の読めない目で見下ろしながら、武蔵は「ああ」と低い声で返事をした。

 潜水艇の正面に、洞窟の奥に続く道がひとつだけあった。足元さえ見えないほど暗くて狭い岩のトンネルだ。武蔵が魔導の光で照らしながら先頭を歩き、そのすぐ後ろから澪と遥がついていく。しばらく道なりに進んでそこを抜けると、急に視界が大きく開けた。
「わぁ……」
 見上げても見上げ足りないほどの壮大な空間は、ゴシック様式を思わせる建築物が造り上げていた。装飾は何も施されていないが、まるで宮殿の大広間のようである。その天井からは神の祝福を思わせる光が降りそそぎ、凛とした冷涼な空気と相俟って、息をのむような神聖な佇まいを醸し出していた。
「元々は王宮だったらしい。今は移転して別のところに建てられているが、地下だけは侵入者を阻む迷宮として残されたんだとか。まあ、迷宮を抜けたところで鍵を開けないことには入れないけどな」
「溝端さんたちは迷宮を抜ける必要はないんだよね?」
「ああ……だが、あいつらがどこに向かったのか……」
 迷宮というだけあって、大広間から四方八方に通路が延びている。すべてしらみつぶしに探していてはとても間に合わない。かといって、手がかりとなるようなことは何もなさそうに思える。武蔵も難しい顔でじっと考え込んでいた。
「三人で手分けして探したら……」
「それは駄目だ。俺から離れるな」
 澪の提案を即座に却下するが、良い考えは思い浮かばないらしく表情は険しい。この状況で行き先を論理的に推測することなど不可能だろう。ますます眉間に深い皺の刻まれた武蔵に、遥は呆れたような溜息まじりの口調で忠告する。
「じっとしてたら時間の無駄だよ」
「それもそうだな……」
「考えながらでも探していかないと」
 武蔵は硬い面持ちを崩すことなく頷いた。そのとき、澪はあることを思い出してハッとする。
「ねえ、武蔵って魔導力を持っている人の気配がわかるんじゃなかった?」
「ああ、だがそこそこ近くないと無理だ。魔導力が高まれば別だが……」
 そこまで言うと、彼は唐突に大きく目を見開いて顔を上げた。愕然とした表情で正面を見やっている。その様子に、澪はそこはかとない不安を覚えて顔を曇らせた。
「どうしたの?」
「あっちだ!」
 武蔵は視線の先に延びる通路に向かって全速力で駆け出した。メルローズの気配を察知したのだろうか。それとも、不穏なことが起こっているのだろうか。澪と遥は事情のわからないまま彼を追って走り出した。

 ミサキ、ミサキっ——。
 舌足らずな幼い声が扉の向こうから漏れ聞こえてきた。おそらくメルローズのものだろう。切迫した声音ではないが健気に何度も呼びかけている。たどり着いた武蔵がすぐさま重厚な両開きの扉を押し、澪と遥も加勢するが、鍵が掛けられているのかビクともしなかった。
 中からカチャリと無機質な音が響いたあと、溝端と思しき声がそれに続く。
「橘美咲女史、これまでのあなたの働きには感謝しています。何ひとつ恨みはありませんが、日本の未来のためにここで犠牲になっていただきたい。この弾丸で、二十年以上にわたる長き悪夢と恐怖を終わらせる」
 犠牲って、弾丸って——?!
 澪はすうっと血の気が引いていくのを感じた。いったい何がどうなっているのだろうか。一緒にいるはずの美咲の声が聞こえてこないことにも、大きく不安が煽られる。
「二人とも退け!」
 武蔵は両脇にいた澪と遥を下がらせると、両手を前に突き出し、鍵穴の付近に強烈な白い光を放射する。何かが弾けたような音がして、その部分が大きくひしゃげた。澪、遥とともに、再び力を込めて扉を押し開けていく。
「お母さまっ!!」
 薄く開いた扉から、澪は誰よりも先に中へ駆け込んでいった。そこには予想通りの三人がいた。濃紺のスーツを身につけて冷ややかな顔をした溝端が、左手でメルローズを自分のもとに押さえつけ、右手の拳銃を美咲の胸元に突きつけている。引き金にはしっかりと指がかかっていた。それを目にした澪はビクリとして足を止める。
「澪?!」
 振り向いた美咲が目を見開く。
 澪は意を決して突進しようと大理石の床を蹴ったが、直後、武蔵に後ろから上腕を掴んで引き留められた。体が大きく斜めに仰け反り、長い黒髪がしなやかに舞う。美咲が息をのんで口を開きかけた、そのとき。
 バァン——!
 無機質な広間に、耳をつんざくような銃声が反響する。
 美咲の小柄な身体は、血しぶきを上げながら後ろに弾き飛ばされて床に倒れた。カラカラと転がる薬莢が脱げたパンプスに当たって止まる。その間にもみるみる白衣が鮮血に染まり、大理石の床にも赤い液体が広がっていく。鼻をつく硝煙の匂いは殊更に現実であることを主張するが、それでもなお信じがたく信じられない——澪は武蔵に支えられながら、その光景をただ茫然と漆黒の瞳に映していた。