東京ラビリンス

第52話 新しい関係

「武蔵のところへ行きたい?」
「ダメ……かな……?」
 澪が上目遣いでおずおずと懇願のまなざしを送ると、誠一は渋い顔を見せながら、半分ほどコーヒーの入ったマグカップを口に運んだ。深く一息ついても返事をせずに考え込む。レースのカーテン越しに広がる柔らかな光が、白いシャツを着た誠一の背中を照らしていた。

 澪が誠一の部屋へ来てから三日が過ぎていた。
 朝はテーブルで向かい合って一緒に食事をとり、それから誠一を仕事に送り出し、日中はのんびりと洗濯をして、誠一が帰ってきたら一緒に夜ごはんを食べる、という日々を過ごしている。まるで新婚家庭みたいだと密かに思ったりもしたが、家事のほとんどは誠一に任せているので、そんなふうに考えるのはおこがましいかもしれない。今はまだ大切にされている客人でしかないだろう。
 最初の日は遥がずっとそばに付き添っていてくれたが、翌日は様子を見に来たくらいで、きのうはもう大丈夫と判断したのか来ることさえなかった。代わりに、というわけでもないだろうが涼風が来てくれた。彼女の持参した有名洋菓子店のケーキを食べながら、小一時間ほどたわいもないお喋りをして、まるで友達どうしのように楽しく過ごした。気をまぎらわせるには彼女が一番の適任かもしれない。
 悠人とはまだ会っていないが、きのう彼の方から澪の携帯に電話を掛けてきてくれた。久しぶりに声を聞いて何かほっとしたのを覚えている。彼は、もうしばらく誠一の家にいてほしいと頼んだあと、言いづらそうに言葉を濁しながら様子を尋ねてきた。おおよそのことは遥から聞いていたようだが、澪が明るく答えると、幾分か安堵したように声が和らぐのがわかった。
 そうやってまわりの人に支えられつつ平静を取り戻し、足の痛みもなくなってくると、武蔵やメルローズのことを思い出すようになってきた。彼女に対しては恐怖を感じていたはずだが、以前ほどではなくなっていることに気付く。
 今なら、気負うことなく彼女に会えるかもしれない——。
 そう考えて、武蔵の隠れ家へ行ってみようと思い立ったのだが、誠一がいい顔をしないだろうことは予想していた。だからといって簡単に諦めるつもりもなかった。ようやく前へ進もうという気になったのだから。

「武蔵っていうより、メルローズに会おうかなと思って……」
「でも、あいつもいるんだろう?」
 誠一は苦虫を噛み潰したような顔でそう言い、頬杖をついた。
「澪のことを信じてないわけじゃない。でも武蔵の方は諦めてなさそうだし、万が一……」
 そこで言葉を詰まらせて眉を寄せる。おそらく先日のように襲われることを懸念しているのだろうが、武蔵は決して相手の意思を蔑ろにするような人間ではない。それに——。
「遥もメルローズもいるんだから大丈夫だよ」
「まあ……それは、そうだけど……」
 いくらなんでも幼い子供の前で破廉恥な行いはしないだろう。彼がそこまで非常識でないことは誠一もわかっているはずだ。渋々ではあるが認める方向に傾いているのを感じ、澪はここぞとばかりに大きく前のめりになる。
「行ってもいい?」
「……気をつけろよ」
「うん、ありがとう」
 彼が折れてくれたことに安堵し、小さく吐息を落として感謝の言葉を口にした。しかし、誠一の表情にはいまだに不安と不満が見え隠れしている。それでも会うことを了承くれた彼の信頼に報いるために、何事もなく無事に帰ってこなければとあらためて気を引き締めた。

 それほど昔のことでもないのに、随分と久しぶりのような気がする。
 澪は鬱蒼とした緑に囲まれた一軒家を見上げて感慨に耽った。そこは武蔵に一ヶ月ほど拉致監禁されていた場所である。家の外観をまじまじと観察したのは初めてだが、木造の小さなロッジのような雰囲気で、まわりの風景にも違和感なく溶け込んで見える。ほとんど枯れ木しかなかったあの頃とは違い、瑞々しい新緑が芽吹き、雑多な草も生い茂り、生っぽい青草の匂いがあたりに漂っていた。
 何段かある木の階段をのぼって玄関の前に立ち、チャイムを押した。が、壊れているのか鳴っている気配はない。扉を強めにノックしてみても無反応だ。どうしたのだろうと思いながらドアノブをまわすと、鍵がかかっていなかったようで、そのまま何の引っかかりもなく扉が開いた。正面には毎日のように歩いた廊下が延びており、右側がお手洗いと風呂場で、突き当たりが澪の繋がれていた広い部屋になっている。
「武蔵、入るよ……?」
 声を掛けながら靴を脱いで廊下を進み、突き当たりの扉をそろりと開いた、その瞬間——。
 ドォオォォオン!!!
 轟音とともに目の眩むような光が襲いかかってきた。次の瞬間、視界のすべてが白に呑み込まれたが、どういうわけか衝撃も痛みも感じない。反射的に床に倒れ込んで身を丸めていた澪は、あたりが静まると、扉の方におそるおそる怯えた目を向ける。
「澪?」
 そこからひょっこりと顔を覗かせたのは武蔵だった。彼はひどく驚いたように目を丸くしていたが、恐怖に染まった澪の表情を見ると、失敗したとばかりに顔を歪ませて頭に手をやる。
「あー……怖い思いをさせて悪かった。まさか澪が来るとは思ってなかったから、メルローズの魔導の訓練をやってたんだよ。部屋のまわりに結界を張ってたから当たってはない、よな?」
 澪はこくりと頷くと、目の前に差し出された大きな手をとり、少しふらつきながら立ち上がった。いまだに心臓がバクバクと暴れている。大袈裟ではなく本気で死んだかと思った。実際、美咲はあの白い光に呑み込まれたせいで、右腕だけを残して跡形なく消え去ったのだから。
「大丈夫か?」
「う、ん……」
 気分的にはあまり良くないが、そう首肯する。
 武蔵に促されて部屋の中に足を進めると、その中央にメルローズが立っているのが見えた。黒地にピンクのラインが入った子供用ジャージを身につけ、緩くウェーブの掛かった灰赤色の長髪を後ろでひとつに束ねている。大きな魔導の力を放出したばかりのためか、少し息を荒くしながら、火照った顔にうっすらと汗を滲ませていた。
「まだちゃんと紹介してなかったよな」
 武蔵はそう言いながら、澪をメルローズの前へ誘導する。
「この子はメルローズ=パーカー、俺の姉さんの娘だ。年齢は8歳、9歳くらいだと思う。日本語の理解力はそれなりにあるけど、喋る方はまだ苦手みたいだな。昔は人懐っこくてよく喋る子だったんだが……」
 メルローズは鳶色の瞳でじいっと澪を見つめていた。幼稚園児といっても不自然でないくらい体が小さく、表情も無垢で、実年齢よりもずっと幼いように見える。長期にわたる監禁のせいで成長が阻害されたのだろうか。そう思うと、彼女を直視することができず曖昧に目を逸らした。
 武蔵は腰を屈めて小さなメルローズを覗き込み、向かいの澪を片手で示す。
「こっちは橘澪、俺の娘だ。遥と双子なんだよ。そっくりだろう?」
 そう言うと、メルローズは目をキラキラさせて大きく頷いた。
 武蔵は二人の手をとり半ば強引に握手をさせる。メルローズの手は小さくて柔らかくてとても温かかった。あんなに恐ろしい力を持っているなんて嘘みたいに感じる。ふと彼女にニコッと笑いかけられたことに気付くと、澪も若干ぎこちなくではあるが友好的に微笑み返した。

 三人はダイニングの方で一息入れることにした。
 武蔵はかいがいしくメルローズの汗を拭き、椅子に座らせ、オレンジジュースをグラスに入れて運んできた。あまり自分からは喋らない彼女に、何かにつけて優しく話しかけている。やはり面倒見はいいようだ。二人きりで暮らしていても心配無用だとあらためて思う。
「紅茶でいいか?」
「うん」
 澪はそう答えて、テーブルに頬杖をついたままあたりをぼんやりと見回した。澪がいた頃と何も変わっていないように見える。多少の生活感を感じさせるきれいに片付けられた台所も、ほとんど物の置かれていないがらんとした部屋も、澪が手錠で繋がれていた細い金属製のポールも、いま座っているダイニングテーブルの指定席も、まるで時が止まったかのようにそのままだった。
「どうした?」
 そう言いながら、武蔵が淹れたての紅茶を二つ運んできた。ひとつを澪に差し出し、もう一つを手前に置き、彼の指定席になっていた澪の正面に座る。ただ、あの頃と違って彼の隣にはメルローズがいた。
 澪は目を細め、白い湯気のゆらめく紅茶に手を伸ばした。
「何か、ちょっと懐かしい」
「そうだな……」
 武蔵はふっと小さく微笑んでティーカップを口に運ぶ。遠い目をして何かに思いを馳せているようだ。それが何かはわからないし訊くつもりもない。ただ、茶化されるのではないかと思っていただけに、その肯定的な反応は少し嬉しかった。

 紅茶を飲み終わってしばらく休憩したあと、メルローズの訓練が再開された。といっても、今度は魔導を放出するようなものではなく瞑想だ。安定的に魔導を制御するために必要なことらしい。澪には目をつむってじっとしているだけにしか見えないが、気を集中させたり、魔導の力を抑えたり、いろいろと訓練のための作法があるのだと言っていた。
 武蔵はそのまま続けるようメルローズに言い置くと、少し外を歩こうと澪を誘った。メルローズに聞かせたくない話があるのかもしれない。そう考えて、澪はあえて理由を尋ねることなくついていった。
 木々の隙間から、幾筋もの光が射し込んでいる。
 澪は隠れ家から少し離れた林道を歩きながら、隣の武蔵にちらりと視線を送った。ここまでずっと無言で歩き続けているが、ただ散歩するだけのつもりなのだろうか。怪訝に思っていると、ようやく彼は少し緊張ぎみの声で切り出した。
「メルローズな」
「……うん」
 澪は少し鼓動が速くなるのを感じた。やや間をおいて話が続く。
「小笠原でのことはまったく覚えていないらしい。溝端に連れて行かれたことも、橘美咲が撃たれたことも、魔導が暴発したことも、きれいさっぱり記憶が抜け落ちている。美咲はどこ、会いたい、って無邪気に言ってくるからきつかった」
 武蔵は苦しげに声を落とした。
 澪は後ろで手を組んでそっと振り向く。
「それで……?」
「気は進まなかったが、いつまでも隠し通せるものでもないし、橘美咲が死んだという事実だけは教えておいた。二度と会えないことがわかると泣きじゃくったが、どうにか受け入れてくれたみたいだ」
 そっか、と安堵の息をついたが、話はまだ終わっていなかった。
「だからな……おまえに頼むのも残酷な話だと思うが、小笠原での具体的な話は避けてくれないか。自分が起こした暴発で橘美咲の体が消し飛んだなんて、メルローズには知られたくない。あの子はまだほんの小さな子供なんだ」
「うん、わかってる」
 もとより彼女を傷つけるつもりはない。遥が言ったように、美咲が亡くなったのはある意味で自業自得であり、メルローズはむしろ実験体にされた被害者なのだ。故意に撃った溝端ならともかく、実験のために暴発した彼女を恨むのは筋違いである。
 武蔵はうつむいて視線を落としたまま、僅かに目を細めた。
「感謝する……勝手ばかり言うが、メルローズと仲良くしてくれるとありがたい」
「うん、私も仲良くできたらいいなって思ってる。身内になるんだもんね」
 メルローズの魔導力に恐怖心を持っていたし、今でも完全に払拭できたとはいえないが、それでも仲良くしたいという気持ちに嘘はない。そう思っているからこそ、わざわざ誠一に許可をもらってここまで来たのである。
「魔導の制御の方はうまくいきそう?」
「ああ、そっちは何の問題もない」
 先ほどまでの神妙さはどこへいったのか、武蔵は急に得意気になった。
「ラグランジェの血を引いてるだけあって才能がある。俺の見込み以上だった。サイファさんはそのことも見抜いてたんだろうな。まだ魔導を自在に使えるまでには至っていないが、とりあえず安定はしてきたし、近いうちに暴発の心配もなくなると思う」
「へぇ、すごい……」
 そんな段階まで進んでいるとは思いもしなかった。彼も予想外にうまくいって驚いているのだろう。言葉の端々から隠しきれない興奮が窺えた。教えるのは苦手などと言っていたが、そうとは思えないくらい楽しんでいるように見える。
「澪もやってみるか?」
「えっ、私? 無理だよ」
 思いがけない提案に驚き、澪は右手をふるふると横に振る。
 武蔵は横目を流したままニッと口の端を上げた。
「おまえも名門ラグランジェ家の血を引いてるんだぞ。魔導の力はそれなりに持ってるんだから、単純に放出するだけなら難しくないはずだぜ。遥にも教えてるが、筋は悪くないしそのうち使えるようになるだろうな」
「遥が……?」
 澪は考え込みながら顔をうつむける。興味はあるが、やはり自分にあの強大な力を扱えるとは思えない。見るだけでも恐怖心がよみがえるというのに。しかし、率直にそんな理由を言ってしまえば、武蔵に余計な心配を掛けることになるだろう。
「じゃあ、いつか気が向いたらね」
「魔導を使えて損はないと思うけどな。いざというとき護身術としても役に立つし……もう少し早く教えておけば……」
 ドクン、と大きく心臓が跳ねた。
 澪が足を止めると、続いて武蔵も足を止める。草を踏みしめながらゆっくりと振り返ったその顔は、怖いくらい真剣で、同時に何か言いたいことを堪えているようにも見えた。もしかして——喉がカラカラになるのを感じながら、ゆっくりと口を開く。
「……知ってるの?」
「会長秘書に聞いた」
「そう……」
 考えてみれば、遥を預かってもらおうというのだから、その理由を話していても不思議ではない。まして武蔵とは血の繋がりがあるのだから。澪は小さく吐息を落とし、自分の足元を見つめて薄く自嘲の笑みを浮かべた。
「17年も積み重ねたのに、壊れるのはあっというまだね」
「これで踏ん切りがついただろう。あいつは父親じゃない」
「ん……」
 不意に泣きたくなり、手の甲を口もとに当てて目をつむると、小さく鼻をすすりながら顔をそむけた。滲んだ涙が溢れないように、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら気持ちを整えていく。ひんやりとした風が頬をかすめ、長い黒髪がさらさらとそよいだ。
「俺じゃ、駄目か?」
 静かに落とされたどこか思い詰めたような声。振り向くと、鮮やかな青の瞳がまっすぐに澪を捉えていた。
「何が?」
「父親」
 武蔵に冗談めかした感じはなかった。澪は濡れた目をぱちくりさせる。
「急に、どうして……?」
「放っておけないんだよ。もちろん戸籍上のことはどうしようもないし、実際に父親だとしゃしゃり出ることはないが、気持ちの拠り所になれるのならと思ってな。正直いって今のところ全然自覚はないが、そう思えるように、思ってもらえるように、出来る限りの努力はしていくつもりだ」
 別に、彼に父親を求めていたわけではなかったが、身内として思ってくれる気持ちが嬉しかった。胸がキュッと締め付けられてあたたかくなる。先ほどとは別の意味でまた少し泣きたくなった。思わず潤んでしまった目元を拭いながら、小さく笑みを浮かべて言う。
「遥の父親にもなってあげてね」
「あいつの方が嫌がりそうだけどな」
 武蔵は両手を腰に当てて苦笑する。思いきり嫌そうな顔をする遥がありありと目に浮かび、澪もつられるように笑った。
「あれ、そういえば遥はどこ? いなかったよね?」
 薄情だが、今になって初めて彼がいないことに気付いた。ここに来ることは言っていなかったので、もしかすると行き違いになったのかもしれない。電話しておけば良かったかなと軽く後悔していると、武蔵は不思議そうな顔をして尋ね返してきた。
「聞いてないのか?」
「何を?」
「小笠原へ行くって」
「……え?」
 澪は目を見開き、呼吸さえ忘れてしまったかのように凍りついた。目的は何なのか、誰と行くのか、どこへ行くのか——次々と疑問が浮かぶものの、頭が真っ白になってしまい何も考えられない。上空でさえずる鳥の鳴き声だけが、やけに大きく聞こえていた。