高い天井に暖色の柔らかい光が灯された、重厚感のある空間。
中央には穢れのない白い道がまっすぐに突き当たりの祭壇まで延びていた。両側には丁寧に使い込まれたと思われる木製の長椅子が何列か並び、その通路側は白い花で飾り付けられ、高窓のステンドグラスから落ちた光があたりに彩りを添えている。長椅子には列席者たちが静かに座っていた。
息が詰まりそうなほど厳粛な雰囲気の中、純白のウェディングドレスに身を包んだ澪は、モーニングを着た悠人にエスコートされながら、一歩、また一歩とゆっくり堅実に足を進めていく。ブーケを持つ手が少しおぼつかない。しんと静まりかえった中に衣擦れの音だけが響き、否が応でも緊張が高まっていく。
祭壇の前には、誠一がいる。
二人がその前までたどり着いて足を止めると、悠人は組んでいた腕を解き、あらためて白い手袋に包まれた手を取った。澪はベール越しにそっと悠人を見つめ、彼も澪を見つめ返し、柔らかく、ほんのすこし寂しげに微笑み合う。そして、花嫁の澪は、エスコート役の悠人から新郎の誠一へと託された。
結婚式はつつがなく進行し、終了した。
新郎新婦が腕を組み、安堵した笑みを浮かべながら教会を出ると、皆が笑顔で色とりどりの花びらを降り撒いた。そして、絵に描いたように澄みわたった青空には、荘厳なウェディングベルが高らかに鳴り響いた。
引き続き、隣接する庭園でガーデンパーティが行われる。
一面見渡す限りに広がる鮮やかな芝、木々のまばゆい新緑に、白いテーブルや椅子がよく映えていた。上空は優しい青のグラデーションで、下方に少しだけ薄い雲がかかっている。その空模様に違わず日射しもあたたかい。三月下旬だが、四月半ばの陽気だと天気予報で言っていた。庭園の隅に植わっている桜はちょうど満開である。
披露宴は行わず、このカジュアルなガーデンパーティをその代わりとしている。堅苦しいことはしたくないという澪の希望でそうすることになった。橘の後継者としての結婚式であれば、そのような我がままは許されなかっただろうが、もう橘を離れているので特に口出しはされなかった。
招待客は双方の家族と友人くらいで、そう多くはない。
剛三は結婚式にだけ列席してすぐに帰っていった。仕事が忙しいから途中で抜けるとあらかじめ聞いていたが、皆が緊張せず楽しめるようにと気遣ってのことかもしれない。大地は招待さえしていなかった。世間的には澪の父親ということになっているが、どう考えてもこの場にはふさわしくない。たとえ澪が招待したいと言っても、事情を知る誠一や悠人には大反対されただろう。
澪は結婚式のときより幾分か歩きやすいドレスに着替えて、誠一とともに庭園へと降りていく。腕を露出しているので若干の肌寒さを感じたが、気分が高揚しているためかすぐに気にならなくなった。青空の下でのパーティはとても開放的な雰囲気で、皆の表情も自然と明るくなっているような気がした。
「おまえ、あれはひどいだろ」
「えっ?」
参加してくれた皆に向けて簡単な感謝のスピーチをしたあと、各々のところを順にまわろうとしていた澪と誠一の背後から、篤史が声をかけてきた。おそらく澪への言葉だ。振り返ると、彼は軽食やデザートを山盛りにした皿を片手に、思いきり呆れたような面持ちで口をとがらせていた。
「悠人さんにエスコートさせるとかどんだけ残酷なんだよ。いくら保護者代わりだからってあれはない。おまえ自分がふった自覚はあるのか? 傷口に塩を塗り込むようなもんだろう。悠人さん今にも泣きそうな顔をしてたぞ」
「えっ……でも……」
「別に、そんな顔をしたつもりはないけどね」
背後からのその声に、サンドイッチを頬張った篤史はごふっと咽せた。
話題の本人はニコニコと微笑みながら隣に並ぶ。
「エスコートさせてほしいと頼んだのは僕の方だよ。けじめとしてね。澪を女性として好きだったのは過去のことだし、そんな腫れ物に触るような扱いはしないでほしい」
彼の言うとおり、エスコートは彼の方から早々に頼んできたことである。教会で式を挙げるならその役目をさせてほしいと。実際に悠人は親代わりともいえる存在なので、澪としても彼がふさわしいと思ってお願いした。ただ、けじめと考えていたことまでは知らなかった。澪への気持ちが過去のものとして決着がついたのなら良かったが、勝手ながら、ほんの少しだけ心にすきま風が吹き抜けたような寂しさも感じた。
篤史はぶっきらぼうに吐息を落とし、頭を掻いた。
「まあ、悠人さんが吹っ切れたならいいけど。こんなビッチより一途で可愛い女の方が似合うと思うし」
さらりとひどいことを言われ、澪はむうっと口をとがらせて渋い顔をした。ビッチというのはさすがに言い過ぎだし、花嫁に向ける言葉でもないと思うが、武蔵とのことを知られているだけに反論しづらい。そう感じたのは澪だけではなかったようで、隣の誠一も、正面の悠人も、軽く苦笑するだけで言い返そうとはしなかった。
「澪ー!」
綾乃が大きく手を振りながら小走りで駆け寄って来た。着ている濃青色のドレスは薄い素材の膝丈で、裾が軽やかに揺れており、シルバーのボレロとあいまってとても上品に見える。きちんと髪をまとめて薄化粧を施していることもあり、いつもの粗野なイメージを大きく覆していた。その後ろからは真子と富田もついてきている。真子はフリルのついた薄桃色のパーティドレス、富田は無難なブラックスーツを身につけていた。
「写真、撮らせてよ」
コンパクトカメラを掲げながら白い歯を見せる綾乃に、澪は笑顔で頷いた。さっそく綾乃はその場にしゃがんでカメラを構えるが、それをふいと下げると不満そうな顔を覗かせる。
「パンツ男は邪魔」
澪の隣に寄り添っていた誠一に向かってそう言い放ち、追い払うように手を振った。彼はその無礼な仕打ちにも何も言わず素直に下がったが、さすがに少々微妙な面持ちで肩をすくめていた。澪は申し訳なく思いながらごめんねと目配せし、真子と富田もいたたまれない様子でぺこりと頭を下げる。
綾乃は澪のまわりをあちこち動きまわりながら、シャッターを切りまくる。
「パンツ男のことを認めたわけじゃないんだけどさ、澪が若いうちにドレスを着せてくれたことには感謝してる。結婚式をしてくれなかったら一生恨んでたわ。さすがにウェディングドレスは結婚式じゃないと着られないしね。せっかくの美少女なんだから着なきゃもったいないもん」
「それは、気が合うね」
誠一がにこやかに切り返すと、綾乃は手を止めてニッと口もとを上げた。
すぐに、彼女は再びファインダーを覗いてシャッターを切り始める。挙式前にもウェディングドレス姿をさんざん撮っていたが、そんなに撮ってどうするつもりなのかわからない。目の保養だとか言っていたが話半分に聞いている。数分ほどして満足しきったように息をついた彼女は、心なしか寂しげに微笑み、そのコンパクトカメラを片手で軽く掲げて見せた。
「これからは今までみたいに会えなくなるし、この写真で寂しさを紛らわすよ」
「うん……」
小さいころからずっとクラスまで一緒だったのに、別々の学校になるかと思うとしんみりしてしまう。しかし、それは未来に向けて各々の道を進むからであり、悲しむことではない。
「でも、みんな第一志望に受かって良かったよね」
湿っぽい空気を払拭しようと、意図的に声をはずませて話題を変える。
「そうそう、富田にはびっくりしたわマジで」
「澪ちゃん遥くんと同じところなんだよね?」
「死ぬ気で頑張ったからな」
富田はへらっと笑い、照れくさそうに頭の後ろに手をやった。
二年生までの彼の成績では目指すことすらありえなかったはずだ。死ぬ気で頑張ったというのも大袈裟ではないのだろう。何がそれほどまでに彼を駆り立てたのかわからないが、澪と同じく譲れないものがあったのかもしれない。しかし、綾乃は胡散臭いものを見るような目を彼に向けていた。
「おっそろしい執念だよなぁ」
「だから、そうじゃないって!」
富田は焦ったようにわたわたとして言い返す。執念というのが何なのか気になるところだが、本人が否定しているので、いつもの綾乃の思い込みではないかと思う。澪はニコッと笑うと、すこし腰を屈めて上目遣いで富田を覗き込んだ。
「これからも同じ学校ってことで、よろしくね」
「おっ……おう……」
彼の返事に戸惑いのようなものを感じて、はたと気付く。
「あ、学部が違うからあんまり会うことはないのかな。講義とかも一緒になることはないんだっけ。でも、遥とは同じ学部だし一緒になることも多いと思うし、これからもずっと仲良くしてあげてね」
「ああ、それはもちろん……」
「澪、勝手なこと頼まないでよ」
富田の声を遮ったのは遥だった。左腕で軽々とメルローズを抱きかかえながら足を進め、彼の隣に並ぶ。この一年で身長は十五センチほど伸び、体格も幾分か男性的になっていた。身長だけなら富田を追い越している。澪とそっくりだ、女の子みたいだ、と揶揄されることはもう二度とないはずだ。
「この子、誰?」
綾乃は小さな少女を覗き込んで無遠慮に尋ねる。富田も、真子も、不思議そうに見ていた。髪も瞳も赤みがかった色で、肌は透けるように白い——そんな日本人離れした容貌が、なおさら皆の興味を惹いているのだろう。
遥はそっと地面に下ろして立たせると、頭を撫でて促す。
「みんなに挨拶して」
「……橘メルローズです」
彼女はおずおずと自己紹介して丁寧に頭を下げた。つられるように綾乃たちもお辞儀をする。が、やはりまだ要領を得ない顔をしていた。
「親戚の子?」
「僕の叔母」
「はぁっ?!」
綾乃の素っ頓狂な声にも動じず、遥は少女の頭に手をおいたまま淡々と答える。
「メルはじいさんの養子だから」
「え……ああ、そういうこと」
剛三との養子縁組は武蔵とも話し合って決めたことだ。メルローズはもはや故郷に帰ることができないため、ここで生きていくしかなく、彼女の幸せのためには最善の方法だという判断である。表向きには遠縁の子を引き取ったという形になっている。実際、澪と遥のいとこにあたるので、まったくの嘘というわけでもない。
新年度からは小学校に通うことも決まっている。年相応の基礎学力や日本語については、この一年の学習で問題のないレベルにまでなっていた。問題はコミュニケーション能力だ。長きにわたり地下室に監禁され、他人と接触する機会がなかったためか、見知らぬ人には怯えて話せない状態だった。それを、この一年、遥があちらこちらに連れ出して少しずつ慣れさせたのだ。今は無条件に怯えることはなくなってきた。それでもまだあまり会話らしい会話はできず、ひとりで小学校へ通わせるには不安を感じるが、遥はそのうち慣れるだろうと楽観視しているようだ。
遥は再びメルローズをひょいと抱き上げた。よろめいた彼女に慌てて頭にしがみつかれたが、髪が乱れても気にすることなく、軽く右手を挙げて「じゃあ」と去っていく。少し離れた人のいないところで彼女を下ろすと、ジュースを飲ませたり、軽食を小皿にとったり、あれこれとかいがいしく世話を焼き始めた。
「遥って、身内限定で面倒見いいよね」
「澪ちゃんのこともすごく守ってたよね」
「うん……」
澪は二人の様子を遠巻きに眺めながら目を細める。同じ年なのでさすがにあれほどではなかったが、困ったことがあれば何でも相談に乗ってくれたし、知らないところでも守ってくれていたらしい。しかし、自分はもう守られなくても大丈夫だ。これからはメルローズを家族として守ってほしいと思う。
「私も何か食べよっかな。澪も何か取ってこようか?」
「私はいいよ。まだ他のところもまわりたいし」
ねっ、と後ろにいた誠一に同意を求めると、彼もにっこりと微笑み返してくれた。
綾乃は付き合っていられないとばかりに肩をすくめて、軽食等の用意されたテーブルの方へ足を進める。富田もすぐに小走りで追いかけていったが、真子だけはその場に留まっていた。少し言い出しにくそうに、ほんのり頬を染めながら顔を寄せて尋ねてくる。
「澪ちゃん、ブーケトスはしないの?」
「あ、うん、直接渡したい人がいるから」
「そうなんだ……」
彼女は曖昧な愛想笑いを浮かべながら、残念そうに相槌を打つ。
「真子、もしかしてほしかったの?」
「あ、ううん、ブーケトスに憧れてただけ」
「そっか、ごめんね」
小首を傾げて詫びると、彼女は慌てて両手をふるふると顔の前で振った。できることなら期待に応えてあげたかったが、もう決めたことなので仕方がない。彼女ならこれからまた結婚式に出席する機会はあるだろう。いつかその可愛らしい夢が叶うようにと願いながら、柔らかく微笑んだ。
「岩松さん!」
「おう、澪ちゃん!」
今度は、岩松をはじめとした警視庁捜査一課の刑事たち、つまり誠一の元同僚が集まるテーブルに足を向けた。来てくれたのは三人である。本当はあと三人呼んでいたのだが、仕事の都合がつかなかったらしい。全員が同時に休みをとるわけにはいかないのだろう。
「おめでとう、幸せそうで良かった」
「ありがとうございます」
「しっかし、結婚までいくとはなぁ」
「ふふっ」
誠一と澪が付き合っていることは秘密にするつもりだったのに、岩松にはひょんなことから気付かれてしまった。しかし、彼は誰にも話すことなく自分ひとりの胸におさめてくれたのだ。あの時点で騒ぎにされていたら、ふたりは別れることになったかもしれないし、誠一は何かしらの処分を受けたかもしれない。それゆえ、彼には大きな恩義を感じていた。
「南野、おまえ爆発しろ……爆発すればいい……」
まるで呪詛のような鬱々とした声が聞こえて振り向くと、小テーブルを挟んで立っていた独身組の二人が、恨めしげなまなざしを誠一に送りながらつぶやいていた。冗談なのか本気なのか今ひとつ判然としないが、そこだけ禍々しい空気が渦巻いているように見える。当の誠一は乾いた笑いを張り付かせていた。
岩松は呆れ顔で両手を腰に当てて、溜息をつく。
「おまえら、そういうこと言ってると幸せが逃げていくぞ。人を呪わば穴二つってな」
「だって、犯人を取り逃がしたのがきっかけで付き合うようになったとか、真面目に失態なく仕事してる身としては腹立たしいことこの上ないですよ。しかも高スペックの現役女子高生とかふざけんなですよ。俺には彼女さえいないっていうのに何でこの南野が!」
独身組のひとりが眉根を寄せて興奮ぎみに捲し立てた。もうひとりの方も共感して深く頷いている。要するに、二人とも彼女がほしくてたまらないのだろう。
「あの、よろしければ同級生を紹介しましょうか?」
「えっ?!」
彼氏がほしいと言っていた同級生は何人か知っているので、ちょうどいいのではないかと思ったが、なぜか二人はそろって顔を赤らめながらじりじりと後ずさる。
「いや、それはちょっとまずい、かも……なぁ?」
「さすがに……澪ちゃんの同級生は……」
あれほどうらやましがっていたはずなのに、やけに及び腰である。
岩松は腰に手を当てたまま、豪快にガハハと笑い声を上げた。
「まあ、ここは素直に南野の勇気を讃えてやろうや。女子高生と付き合う勇気も、橘会長に突撃する勇気も、おまえらにはないんだろう? 南野はあれで妙に怖いもの知らずなところがあるからな」
「いえ、自分なりに悩んだんですけどね」
誠一は曖昧に苦笑する。
どうやら周囲からは運と度胸だけで結婚したと思われているようだ。しかし、ここに至るまでの道程がいかに大変だったか澪は知っている。まわりに詰られながらも絶対に諦めなかった。何があっても手放さないよう頑張ってくれた。その努力は、怖いもの知らずの一言ではとても片付けられない。
「私はちゃんとわかってるから」
そう言いながらはずむように彼の腕にぎゅっと抱きつき、にっこりと微笑んだ。彼はすこし驚いたように目を瞬かせたが、ああ、とすぐに柔らかく微笑み返してくれた。その様子を見ていた岩松は口笛ではやし立て、独身組はますます恨めしそうに歯噛みしていた。
「澪ちゃん!!」
「涼風さん!」
建物の方から、紺色の軽やかなパーティドレスを着た涼風が手を振りながら駆け寄ってきた。遠目にも息が切れているのがわかる。よほど急いで来てくれたのだろう。どうしても外せない仕事があるので遅れる、もしかすると間に合わないかもしれない、と聞いていたので、パーティだけでも間に合って本当に良かったと思う。
「遅れてごめんなさい」
「来てくれて嬉しいです」
屈託のない笑みを浮かべて答えると、涼風も笑顔を見せた。左手を胸に当てて息を整える。
「澪ちゃん、本当にきれいだわ。すごく似合ってる」
「涼風さんがドレス選びを手伝ってくれたおかげです」
自分たちだけでドレスを決めるのは不安だったので、何度も披露宴に出席しているという彼女についてきてもらったのだ。絵画に携わる仕事をしているのできっと美的感覚も信頼できるはず、というのも理由のひとつである。実際、彼女の的確な助言はとても役に立ったし感謝もしている。だから——。
「涼風さん、これもらってください」
そう言って、手にしていたブーケをまっすぐ彼女に差し出した。
花嫁からブーケをもらう意味はもちろん理解しているのだろう。突然のことにきょとんとしていたものの、すぐに面映い表情になり、照れ隠しのようにいたずらっぽく言葉を返す。
「なぁに? 行き遅れないように心配してくれてるの?」
「いえっ、そんなつもりじゃ……涼風さんに幸せになってほしくて」
「ありがとう」
クスッと笑い、彼女は両手を伸ばしてブーケを受け取った。目を細めて柔らかくそれを見下ろす。
「澪ちゃんの気持ち、無駄にはしないつもりよ」
「え、もしかしてもう予定があったりします?」
「ん……今は秘密だから訊かないでね」
涼風に恋人がいることさえ知らなかったのに、この言い方だと結婚も決まっていそうな感じだ。となると、悠人のことは完全に吹っ切れたということだろう。すこし寂しい気もするが、彼女のためにはこの方が良かったのだと思う。じゃあいつか教えてくださいね、などと胸元で両手を合わせて声をはずませるが、そのあいだ彼女はずっと下を向いたままだった。何か様子がおかしい。
誠一も気付いたようで、横からおずおずと気遣わしげに声を掛ける。
「あの、大丈夫ですか? 汗がすごいですけど……」
「は……走ってきたので……お水、あります?」
「取ってきます」
誠一は水を取りに走っていく。
涼風の額からは大量の汗がだらだらと流れ落ち、顔面は蒼白で、何かを堪えているような表情をしている。とても普通とは思えない状態だ。つい先ほどまでは軽く汗が浮かんでいる程度だったのに、いつのまにこんなことになっていたのだろう。
ふいに涼風の体がふらりと揺らめいた。直後、ぷつんと糸が切れたように崩れる。
「涼風さん!」
すんでのところで抱き留めたので頭は打たなかったものの、意識はなくしているようだ。ブーケとハンドバッグは手から離れて芝に転がっている。近くの人たちは何があったのかと不思議そうにこちらに目を向けるが、悠人はいち早く気付いたらしく直後に駆けつけてきた。
「どうした?」
「急に倒れて……」
澪が涼風の上半身を仰向けに抱えたまま答えると、彼は向かいに片膝をつき、目を閉じている彼女を上から覗き込む。
「涼風、涼風っ!」
「ん……」
呼びかけながら軽く頬を叩くと、彼女はかすかな声を漏らして眉をしかめ、瞼を小さく震わせながら目を開く。その大きな漆黒の瞳は、上から覗き込んでいる悠人と澪をぼんやりと捉えた。
「あれ、わたし……?」
「倒れたんですよ」
澪はほっとしながら、安心させるような優しい口調で答える。
涼風は小さく吐息を落としてつらそうに目を閉じた。
「ごめんなさい、本当に……」
「いいから黙っていろ」
悠人は静かにそう言うと、彼女を横抱きにして立ち上がり建物の方へ足を進める。中で休ませるのだろう。澪は投げ出されていたブーケとハンドバッグを拾い、悠人のあとを追って駆け出した。
「もう本当に大丈夫なのに……」
「無理しない方がいいですよ」
涼風は事務室の仮眠ベッドのようなところに寝かされていた。傍らには澪が付き添っている。涼風をここまで抱きかかえてきた悠人は、すぐに戻ると言って部屋を出て行った。携帯電話をポケットから取り出していたので、どこかに連絡するつもりなのかもしれない。
澪が不安そうにじっと見つめていると、涼風は力なく微笑んだ。
「多分ただの貧血だからそんなに心配しないで。今までにも何度かあるの。最近ちょっと仕事が立て込んでいたから、それで……」
「ごめんなさい、忙しかったのに無理を言って」
「ううん、私もどうしても行きたかったんだもの」
どうしても抜けられない仕事があると言っていた涼風に、少しでもいいから来てほしいと懇願したのは澪である。ただ、彼女が楽しみにしてくれていたのも本当だと思う。どちらか一方の責任というわけではないし、そもそもそんなことを論じるのは無意味だろう。
「それより、こちらこそごめんなさい。澪ちゃんのハレの日にこんな失態……」
「そんなことは全然。涼風さんが無事ならそれでいいの」
明るい声でそう答えると、彼女はぎこちなくも微笑を浮かべて応じてくれた。けれど、自責の念に駆られていることは一目瞭然である。罪悪感など簡単に払拭できるものではない。気持ちがわかるだけに、安易に慰めの言葉をかける気にはなれなかった。
やがて、悠人が携帯電話をポケットにしまいながら戻ってきた。
「医者を呼んだ」
「大袈裟よ」
涼風は困惑ぎみに口をとがらせたが、悠人は淡々と言い返す。
「澪や僕を安心させるためにも診てもらってほしい」
「じゃあ、このパーティが終わったら自分で行くわ」
「医者を呼んだと言っただろう。間もなく来る」
「もう、わかりましたっ」
涼風は若干拗ねたようにツンとして答えた。彼女がそんな子供じみた態度をとるのが意外で、でも可愛くて、失礼ながら思わずくすりと笑ってしまう。その拍子に、彼女は何かを思い出したようにハッと澪に振り向いた。
「私、ブーケって……」
「ちゃんとありますよ」
にっこり微笑んで後方の机を示した。そこには、澪が拾ってきたブーケとハンドバッグが置いてある。倒れたときに手から落としただけなので、繊細なブーケもほとんど傷んでいない。涼風は肘をつき少しだけ体を起こして確認すると、ほっと安堵の息をついた。
ふと悠人が後ろからパイプ椅子の背もたれに手をつき、澪を覗き込みながら言う。
「澪、君はもう戻るんだ」
「でも……」
そう言いかけた澪に、彼は真顔で畳みかける。
「日比野さんには僕がついているから心配はいらない。戻ってパーティを続けることが、君にしかできない君の役目だ。これでパーティが台無しになってしまったら、日比野さんも気に病んでしまうだろうからね」
「……わかりました。涼風さんのこと、お願いしますね」
涼風にこれ以上の心労を与えることは当然ながら本意ではない。彼女自身にもそのとおりとばかりに微笑まれてしまっては、もはや従うしかなかった。音を立てないよう静かにパイプ椅子から立ち上がると、ペコリと二人にお辞儀をして扉の方へ足を進めた。
部屋を出る間際、ちらりと背後の二人を見やった。
先ほどまで澪が座っていたベッド脇のパイプ椅子に悠人が腰を下ろし、簡易ベッドに横たわっている涼風が柔らかく微笑んでいる。悠人の表情は後ろ向きなのでよく見えないが、二人の空気感や距離感がただの知り合いではないように思えた。
涼風、って呼んでたよね——?
先ほどは「日比野さん」だったが、庭園で倒れた彼女に声を掛けたときは「涼風」だったことを思い出す。もしかして、とひとつの憶測にドクンと胸が高鳴った。涼風が「今は秘密」と言っていたのもそう考えれば合点がいく。
廊下の向かいから、誠一が心配そうな顔をして近づいてきた。
「彼女、大丈夫か?」
「うん、もう意識も戻って普通に話もできてるから。ただの貧血だって涼風さんは言ってたけど、師匠は念のためお医者さんを呼んで診てもらうって。今も師匠がついてるから大丈夫だよ。おまえは邪魔だから出ていけって追い出されちゃった」
最後は冗談めかして肩をすくめる。
その説明からも、その態度からも、深刻な状況でないことが伝わったのだろう。誠一はほっと胸を撫で下ろしていた。自分たちのパーティで倒れたということで、少なからず責任を感じていたのかもしれない。
「戻るか?」
「うん」
答える声がはずんだ。抱きつくように彼の腕をとって軽やかに歩き出す。
「どうしたんだ? やけに機嫌がいいな」
「うん、でも今はまだ内緒」
お茶を濁しながらも自然と顔がほころんでしまう。
涼風に素敵な恋人ができればいいなとずっと思っていた。それ以上に、悠人を支えてくれる女性が現れることを願っていた。もしこの両方が最高のかたちで現実になったのなら、こんなにも嬉しいことはない——自分のことのように心を踊らせながら、誠一とともにあたたかい光に包まれた庭園へと駆け降りていった。