東京ラビリンス

Andante - 第1話 彼女へのお礼

 娘同然に面倒を見てきた澪が結婚して、一週間が過ぎた。
 悠人はノートパソコンのキーボードを叩いていた手を止めて、眉間を押さえる。仕事のことも、家のことも、澪のことも、ここしばらくは寝る間もないくらいに忙しかったが、それもようやく少し落ち着いてきたところである。ちらりと時計に目を向けると夜の十時をまわっていた。
 すっかり冷めたコーヒーを口に運ぶ。
 悠人は澪の保護者代わりという立場でありながら、彼女のことが好きだった。結婚したいとも思っていた。彼女の祖父であり悠人が秘書として仕える橘財閥会長も、悠人と澪の結婚を望んでくれていた。だが、彼女が選んだのは別の男だったのだ。
 ありていに言えば失恋だ。彼女の年齢と自分の立場を気にして高校卒業まで待とうと思っていたのだが、その間に知らない男に持って行かれてしまった感じである。いくら後悔してもしたりない。今も完全にはふっきれていないものの、保護者として末永い幸せを願う気持ちも嘘ではない。彼女は高校卒業までこの屋敷にいることになっているので、あと一年弱ほど、悔いのないよう保護者としての役割を全うしようと考えている。
 澪は結婚前、十七年ものあいだ父親だと思っていた人に乱暴されるという残酷な目に遭った。発見したときの衝撃的な光景はいまでも脳裏に強く焼き付いている。その乱暴していた男というのが自分の親友なのだからなおさらだ。それでも澪本人の受けた衝撃とは比べものにならないだろう。
 そのとき、日比野涼風という女性に澪のことを頼んだ。さほど親しいわけではないが、ほかに女性の知人がいないので選択の余地はなかった。ただ、澪とも顔見知りなのでちょうどよかったのかもしれない。何があったのかまでは話せなかったが、それでも彼女は二つ返事で引き受けてくれた。澪の避難先まで衣服を見繕って届けたり、ケーキ持参で様子を見に行ったり、話し相手にもなってくれていたようだ。
 彼女と出会ったきっかけはとある絵画だった。二十数年前、まだ彼女が小学生になる前の話である——日比野夏彦という著名な抽象画家だった父親が亡くなり、悪どい画商に遺作を奪われたが、それを彼女のもとへ取り戻したのが悠人なのだ。日比野夏彦の遺作ということで美術的価値は言うまでもないが、娘の彼女にとってはかけがえのない形見でもあるだろう。
 それきり二十年以上ずっと没交渉だったが、半年ほど前に彼女が訪ねてきて再会した。仕事の依頼が目的だというのは本当だったと思うが、悠人に会いたい気持ちも少なからずあったようだ。初めて会った子供のころに悠人を好きになり、再会してあらためて好きになったと告白された。だが、悠人の方は澪と結婚するつもりでいたので、彼女の好意を煩わしいとしか思えず、誘いはすべて断っていた。つまり、今のところは単なる仕事上の知人でしかない。
 そんな彼女に図々しくもプライベートなことを頼んだのだから、礼をしなければならないだろう。決して忘れていたわけではないのだが、忙しい日々が続いてこれまで放置していた。今さらではあるが、再びコーヒーに口をつけてから充電中の携帯電話に手を伸ばした。

「先日のお礼をさせてください」
 電話でそう告げると、彼女は予想外だったらしく少し驚いているようだった。あれから一ヶ月以上も連絡していなかったのだから無理もない。もしかすると礼を失する悠人に失望していたのかもしれない。しかし、彼女の声はすぐに嬉しさのあふれた弾んだものに変わる。
『どんなお礼をしてくださるの?』
「希望があればお聞きしますが」
『そうね……あ、悠人さんとお食事がしたいわ』
 彼女の希望が常識的なものだったことに安堵する。自分と食事をしてもたいして面白くはないだろうが、彼女が望むのであればそのくらいは付き合うつもりだ。
「食事や店について希望はありますか?」
『すべて悠人さんにおまかせします』
「わかりました」
 そう答えたものの、どういう店を選べばいいのか悠人にはよくわからない。今まで女性を食事に連れて行くような機会はほとんどなかったのだ。お礼ということなので彼女に喜んでもらえなければ意味がない。気は進まないが、ドイツに転勤した親友の大地に助けを求めることにした。

 約束の日、彼女の自宅マンションまで迎えに行き、予約したレストランにタクシーで向かった。
 悠人はいつもと変わらないビジネススーツだが、涼風は膝丈のワンピースにジャケットという、仕事のときよりも柔らかい格好をしている。といってもカジュアルすぎることはなく、シンプルながら上質さを感じさせる優美なもので、格調高く落ち着いた雰囲気の店にふさわしい装いだった。
 二人は個室に通され、あらかじめ頼んでおいたシャンパンで乾杯をした。
 彼女は上品に一口つけると、満足そうに吐息を落としてにっこりと微笑んだ。飲めることは知っているのでシャンパンを用意したが、底無しではないので、飲ませすぎないよう気をつけなければならない。以前、ブランデーをハイペースであおって酔いつぶれたことがあるのだ。
「悠人さんってこういうところでデートするのね」
「しませんよ。ここへ来たのは今日が初めてです」
「あら、そうなの?」
 彼女は意外だと言わんばかりに大きな目をぱちくりとさせた。しかし、すぐにアプリコット色の唇にほんのりと笑みをのせる。
「じゃあ、デートはどんなところで?」
「恋人なんて長らくいませんから」
「どのくらいおひとりなんです?」
 まるで取り調べのように次々と不躾な質問が繰り出される。不愉快とまではいかないが微妙な心持ちになった。それでもあえて隠すほどのことではないと思い、正直に答える。
「付き合っていたのは高校生のときだけです」
「え、意外……悠人さんみたいな素敵な人が……」
「そういうことを言うのは日比野さんくらいです」
「言わなくても思っている人は多いはずよ」
 彼女の場合、社交辞令でなく本気でそう考えてそうなのでタチが悪い。
「悠人さんが気付いてないだけで、女性社員とかに裏できゃーきゃー騒がれてると思うわ。そういう輪には加わらないけど、密かに想い続けている子も何人かいるんじゃないかしら」
「どちらもないですね」
 そっけなくあしらってシャンパンを流し込んだところで、前菜が運ばれてきた。その繊細な仕事ぶりは一目で窺える。口に運んでみると味も申し分ない。さすが大地が勧めるだけのことはあると素直に感心する。目の前の彼女も微笑をたたえて美味しそうに食べていた。しかし、ふと思い出したように怪訝な面持ちで言葉を継ぐ。
「ねえ、悠人さんは自己評価が低すぎると思うわ」
「私は会長の愛人だと一部で噂になっているんです」
「……えっ?!!」
 彼女は目を見開いて唖然としていた。その様子を見て悠人はくすっと笑う。
「もちろん事実ではありませんよ」
「そうよね、そんなわけないわよね」
 彼女はあからさまにほっとした様子で苦笑を浮かべ、シャンパンをあおった。顔が火照っているのはアルコールのせいだけではないはずだ。一瞬、信じてしまっただろうことは想像に難くない。
「でも、都合がいいのであえて否定はしていません」
「都合がいいって……?」
「会長は女性嫌いなんです」
「でも、結婚されてましたよね?」
「夫婦仲はとても良かったですよ」
 橘会長の妻はすでに病気で亡くなっているが、羨ましいくらい仲の良い夫婦だった。橘会長が多忙だったため一緒にいる時間は少なかったが、不満を漏らすことなく常に互いを思いやっていた。
「男色家という意味ではなく、色目を使って近づいてくる女性が嫌いだということです。実際、過去にひどい目に遭わされていますからね。色仕掛けを相手にしなかったら、嘘の証拠をでっち上げて脅したり、セクハラだと騒ぎ立てたり」
 もっとも橘会長がそんなことに屈するわけはない。彼を陥れようなどよほどの馬鹿か命知らずである。その女性ひとりくらい赤子の手を捻るようなものだ。ただ、こんなことに煩わされるのは二度と御免だと憤慨して、身近なところから女性を排除するようになったのである。
「会長さんほどの人ならそういうこともあるわよね」
 彼女は理解を示すようにそう言いながらも、微妙な面持ちになる。
「でも悠人さんはそれでいいの? 愛人扱いだなんて」
「私もそういう意味では女性嫌いですから」
 悠人にもときどき色目を使ってくる女性はいる。目的は悠人自身でなく橘財閥だ。会長にもっとも近いとされる悠人に近づき、何かしらの情報を得るつもりなのだろう。単純に金目当てということもありそうだ。しかしながらそんなものに引っ掛かるほど愚かではないし、そもそも心を許していない相手には食指が動かない。たとえ絶世の美女が悩ましげに触れてきたとしても。
 彼女はフォークを置き、きまり悪そうに眉を下げて小首を傾げた。
「私のことも迷惑だと思ってます?」
「そうですね、初めは……」
 悠人は顔を上げ、少し表情のこわばった彼女を見つめて言葉を継ぐ。
「でも、今はあなたと知り合いになれて良かったと思っています。先日もあなたがいなければ途方に暮れていたかもしれません。澪もとても感謝していると言っていましたし、あなたのことを姉のように慕っているようです。よろしければ、これからも澪と仲良くしてやってください」
「ええ、それはもちろん」
 彼女は満面の笑みを見せながら、明るくそう答えた。
 しかし、下を向いてフォークを手にしたその一瞬、表情がふっと寂しげに翳ったような気がした。一瞬だったので本当にそうだったかは自信がないし、たとえそうだったとしても理由がわからない。気にはなったが、笑顔に戻った彼女にはもう尋ねることができなかった。

 その後も、会話は思いのほか弾んだ。
 互いの近況や仕事のこと、様々なニュース、スポーツなど話題は多岐にわたり、悠人にとってもそれなりに楽しいひとときとなった。まぎれもなく彼女のおかげである。本来はもてなす側である悠人のやるべきことなのだろうが、残念ながら会話を弾ませるような技量は持ち合わせていなかった。
 出された料理はどれも素晴らしかった。彼女にも手放しに喜んでもらえたようで胸をなでおろす。料理人の確かな腕と丁寧な仕事ぶりは素人目にもわかった。見た目も、味も、食感も、すべてが調和しつつそれぞれの良さを引き立てている。もちろんデザートのケーキやアイスクリームにも手抜かりはない。むしろ、最も力を入れているのではないかと思ったくらいだ。
 彼女は食後のコーヒーを口に運び、一息ついて微笑んだ。
「ね、悠人さん」
「何でしょうか」
「このあたりで、実はホテルを取ってあるんだ、とかいう展開になりません?」
「なりませんね」
「なぁんだ、残念」
 芝居がかったわざとらしい抑揚をつけてそう言い、肩をすくめて愉快そうにくすくすと笑う。彼女も本気で言っているわけではないのだろう。シャンパン三杯しか飲んでいないはずだが、少し酔いがまわっているのかもしれない。頬にほんのりと赤みがさしており、普段以上に饒舌になっている気がする。しかし、言葉も手元もしっかりしているので、もう少しくらいなら大丈夫だろうと思う。
「ホテルはないですが、バーであと少し飲みますか?」
「本当? ぜひお願いします!」
 酔いのせいか感情表現が率直になっているようだ。今も両手を組み合わせて無邪気に喜んでいる。仕事をしているときの凛とした態度とのギャップに、我知らずふっと笑みがこぼれた。

「悠人さん、こういうところによく来るの?」
「いえ、普段はほとんど飲みませんし」
 彼女を連れてきたのは、先ほどのレストランから徒歩数分のこじんまりとしたバーだ。過去に一度だけ大地に連れて来られたことがあるが、彼がひとり静かに飲みたいときの行きつけらしい。せまくて薄暗いながらも、カウンターやバーテンダーは正統派を感じさせ、そういうところが彼のお気に入りだったのだろう。
 悠人たちはカウンター席に並んで座っている。そこには二人だけで、あとは小さなテーブル席に数人いるだけだ。彼らの話し声も聞こえてくるが、落ち着いて会話を楽しんでいるような感じで、場の雰囲気を壊すようなものではない。
「こういうお店、悠人さんによく似合うわね」
 彼女はカクテルグラスの脚に手を掛けてそう言うと、にっこりと微笑みかけてきた。あたりが薄暗いので顔が紅潮しているかどうかはわからないが、何となくふわふわした雰囲気なのは伝わってくる。
 悠人は息をつき、手元のギムレットに視線を落とした。
「日比野さんは私を買いかぶっているようですが、仕事ばかりのつまらない人間です」
「仕事に一生懸命な人って素敵だと思うわ」
 彼女は目を細めてそう言い、グラスを顔の前に持ち上げて透明なカクテルが揺れるのを見つめる。
「私、チャラチャラした人は好きじゃないの。不器用でも誠実な人が好き」
「誠実……といえるような人間ではありません。ただ無様なだけです」
「本当に不誠実な人は、そんなことを思いもしないんじゃないかしら」
「私のずるさを知らないだけだ」
 思わずむきになって言い返してしまった。酔っているのだろうかと額を押さえてうつむいたものの、飲んでいないときにも似たような会話をしたことを思い出す。あのときはだいぶ落ち込んでいたとはいえ、彼女に対して随分と失礼なことを頼んだりもした。どうも彼女といると調子が狂う。溜息をついて隣を覗うと、酔いはどこへ行ったのか彼女はひどく真面目な顔をして前を向いていた。
「それでも悠人さんは誠実な人だと思うの。誰しも少しくらいのずるさは持っているものだし、それを自覚しているだけまともなんじゃないかしら。私は自分の目を信じているわ。悠人さんは信じてくれていないみたいだけど」
 そう言って頬杖をつきながらこちらに横目を流すと、いたずらっぽく肩をすくめる。
 もともと年齢よりも幼く見える顔立ちのためか、そういう仕草をしてもあまり色っぽくは見えない。どちらかといえば可愛らしい感じだ。その中で、ゆるく弧を描いた唇だけが、カクテルに濡れてほのかに甘い艶めきを放っていた。

「そろそろ帰りましょうか。送ります」
 悠人は腕時計に目を落としてそう言った。
 このバーに入ってからすでに一時間が過ぎている。二人ともゆっくり飲んでいたのでまだ一杯だけだが、あまりアルコールに強くない彼女に配慮し、このくらいで切り上げた方がいいだろうと考えたのだ。しかし、彼女は不満そうに口をとがらせる。
「もう帰るの?」
「あしたの朝、後悔することになりますよ」
「悠人さんとなら何があっても後悔しないわ」
「朝まではいられないので帰りましょう」
「もう……」
 悠人の言いたいことが伝わっているのかは疑問だが、渋々ながら聞き入れてくれたようだ。グラスの底にわずかに残っていたカクテルをきれいに飲み干し、小さく一息つくと、隣の悠人を見つめて物憂げな儚い微笑を浮かべた。

 タクシーを拾い、彼女のマンションへ向かった。
 やはり酔っていたらしく、彼女はタクシーが動き出してまもなくうとうとし始めた。角を曲がったときに悠人の肩にこてんと寄りかかる。すぅ、すぅ、と規則的に寝息を立てているのが伝わってきた。押し返すのも冷たいような気がして、とりあえずそのまま寄りかからせておくことにした。
 起こしても目を覚まさなかったらどうしようかと思ったが、マンション近くになると自ら目を覚ましてくれた。寝ぼけながらもまっすぐに座り直す。十五分ほどではあるが睡眠をとったおかげか、しばらくすると幾分かすっきりした顔になってきた。
 やがてマンションに着き、彼女を部屋の前まで送り届けようとしたものの、オートロックなので心配ないと断られてしまった。遠慮なのか警戒なのか本心はわからない。どうしようか悩んだが、受け答えがしっかりしているので大丈夫だろうと判断し、彼女の意思を尊重してひとりで帰すことにした。
「今日はごちそうさまでした。悠人さんと過ごせてとても楽しかったです」
「あまり気の利いたことはできませんでしたが、楽しんでいただけたのなら何よりです」
 そう言葉を交わしたあと彼女はタクシーを降りる。が、ふと何かを思い出したように開いた扉に手を掛け、腰を屈めながら中の悠人を覗き込んできた。肩より少し短い黒髪がさらりと頬にかかる。
「今度は私の方から誘っても構いません?」
「……それは……構いませんが……」
「慰めてあげるって約束しましたよね」
 面食らう悠人に、彼女は臆することなくにっこりと微笑みかける。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 彼女が離れると、タクシーは扉を閉めてゆっくりと走り出した。
 悠人は後部座席に身を預けてぼんやりと思考を巡らせた。彼女に慰めてもらうなどという約束をした覚えはないが、憂さ晴らしに付き合ってあげるとなら言われたことがある。もっとも、これも彼女が一方的に言っただけで約束を交わしたわけではない。
 嫌なら断ればいい。
 シンプルに考えるならそれだけのことだが、嫌だと思えないので困っていた。彼女の気持ちに応えるつもりはないのに、プライベートな付き合いをするのも気が引ける。期待を持たせるだけというのは残酷ではないだろうか。しかし、彼女がどう考えているかもわからないのに、そんな理由で断るというのも傲慢なように思う。
 答えを出すには、悠人はあまりにも経験が少なすぎた。
 細めた目を窓の外に向けて、夜に浮かんだ光の景色が流れていくのを眺める。久しぶりのアルコールだったので自分も少し酔っているのかもしれない。まともに働かない頭を自覚して嘆息すると、今は思考を放棄し、このやっかいな難問を先送りすることに決めた。