東京ラビリンス

ボーダーライン - 第1話 きっかけ

 この春、山田は有栖川学園の中等部に入学した。
 有栖川学園は初等部、中等部、高等部、大学とそろっており、中等部の八割ほどは初等部からの内部進学である。山田は二割の方で、公立の小学校から受験で入学した外部生だった。初めのうちは内部進学生にいじめられるのではないかと身構えていたが、二週間ほど過ごして杞憂だとわかった。嫌みたらしく云う人がいないわけではない。だが、大半は区別なく普通に受け入れてくれていた。
 さっそく気になる女子もできた。
 席が隣になった橘澪だ。橘財閥の令嬢だと聞いているが、そうとは思えないくらい親しみやすい。いつも彼女の方から笑顔で挨拶をしてくれるし、山田が外部生だからか何かと気に掛けてくれているし、わからないことを聞けば親切に教えてくれる。明るく、優しく、快活で、そのうえルックスはアイドル並み——そんな子が自分に笑いかけてくれるのだから、気にならない方がおかしいだろう。ちなみに彼女の双子の兄も同じクラスだが、そちらの方は近寄りがたい雰囲気で、まだ一度も言葉を交わしたことはない。

「山田君、ずっと気になってたことがあるんだけどね」
 掃除の時間が終わって席へ戻ろうとしていた山田に、澪が横から声を掛けてきた。
「ん?」
「いつもネクタイ緩んでるけど、わざとなの?」
「ああ、これ……別にわざとじゃないけど」
 彼女に言われるまで緩んでいる自覚もなかった。ネクタイを締めるのにまだ慣れていないので、上手くできていないことが多いのかもしれない。触ってみると、確かに結び目の上が少し空いているように感じる。けれど、これくらい別に気にするほどのことでもないだろう。
 そう考えていると、不意にほっそりとした白い手が首もとに伸びてきた。
「えっ……?」
「じっとしててね」
 彼女はそう言い、山田の緩んだネクタイを直していく。
 意図的ではないのだろうが細い指先が何度も首回りに触れ、鼻先にいる彼女からほのかに甘い匂いがふわりと漂う——突然のことに思考が真っ白になり、山田は硬直して為すがままになっていた。
「できた!」
 彼女はパッと両手を離し、ぴょんと一歩下がって確認する。
「うん、やっぱりちゃんと結んである方がかっこいいよ」
「あ、ああ……これからそうする……」
 うろたえながらも、どうにか声を震わせないように答えた。語尾が小さく消え入ってしまったが、特に不審には思われていないようだ。彼女は長い黒髪をさらりと揺らしつつ、満面の笑みで頷いていた。

 もしかしたら——。
 ホームルーム中、横目で隣席の彼女をそっと見つめながら思う。彼女も自分に気があるのかもしれないと。何となくそうではないかと思っていたが、先ほどのネクタイの一件で確信に近いものを感じた。好きな男子以外にこんなことをするはずがない。
 彼女の方から、告白してくれるだろうか?
 告白をされたことはあるが自分からしたことはなく、どうすればいいのかよくわからない。照れくさいというのもある。何より、彼女の方から好きだと言ってほしい。しばらく逡巡して、やはり彼女が告白してくれるのを待つことに決めた。

 一週間が過ぎても、彼女からの告白はなかった。
 だんだん距離が縮まっている実感はあるが、決定的な言葉はない。両想いなら早く付き合って、堂々と手を繋いだり、抱きしめたり、デートしたり、キスしたりしたいのに。妄想ばかりが広がっていく。しかし——。
「山田君、日誌お願いしていい? わたし黒板消すから」
「わかった」
 悶々とした日々も今日で終わりかもしれない。放課後、日直のため彼女と二人きりになったのだ。こんな絶好の機会を逃すわけにはいかないだろう。どうにか彼女に告白してもらえるようにしたいと思う。
 そわそわしながら日誌を書いていく。
 彼女は黒板を消したあと、黒板消しをクリーナーにかけていた。豪快な駆動音が教室中に響いている。しばらくすると、彼女はチョークの粉を吸い込んだのか急に咳き込んだ。山田は慌てて駆けつけ、後ろからクリーナーのスイッチを切って声を掛ける。
「代わるよ」
「ん、大丈夫……」
 彼女はそう言ったが、山田はやはり代わろうと黒板消しに手を伸ばした。彼女の手から抜き取ろうとするが上手くいかず、少し前屈みになると、まるで後ろから抱き込んでいるような格好になった。振り向いた彼女と至近距離で目が合い息をのむ。少し潤んだ瞳がまるで誘っているように見え、思わず——引き寄せられるように軽く唇を重ねた。
 一瞬、彼女は何が起こったかわかっていないようだった。しかし、再び山田と目が合うとカッと一気に真っ赤になり——。
「キャーーーッ!!!」
 耳をつんざくような金切り声を上げて、山田を突き飛ばす。
 あの細腕のどこに、と思うほどの非常識な馬鹿力だった。いくつもの机をなぎ倒しながら体が吹っ飛んでいく。気付けば、机や椅子と絡まるように倒れていた。あちこち打ちつけたのか全身がズキズキする。そして——。
「いっ……!」
 立ち上がろうと右腕をつくと鋭い激痛が走った。何がどうなったのかわからないが、ちょっとぶつけたという感じの痛みではない。立つこともできず、脂汗を滲ませて低い声で呻きながら悶える。
「わ……私、先生呼んでくる!」
 澪は青ざめておろおろと狼狽えていたが、やがてそう言い置くと、長い黒髪をなびかせながら走っていった。

 担任の先生に連れて行かれた病院で診てもらうと、右腕を骨折していた。
 処置が終わり待合室の長椅子に澪と並んで座っている。が、二人の間はもうひとり座れそうなくらい離れていた。互いに目を合わせようともしない。澪がどう思っているのかはわからないが、山田はひたすら気まずさを感じていた。
 何があったのか担任に聞かれるが、山田にはとてもあんなことを答える勇気はない。澪も恥ずかしさゆえか口を閉ざしている。ただ、自分が突き飛ばしたということだけは、担任を呼びに行ったときに告げていたようだ。それだけわかれば十分ではないかと思うが、担任はあくまでもその原因をしつこく追及してきた。
「圭吾!」
 不意によく知った声が聞こえてビクリとする。
 振り向くと、母親が心配そうな顔をしながら小走りでこちらに向かってきていた。担任に軽く一礼してから山田の前でしゃがみ、白い三角巾で吊されたギプスの腕をまじまじと見つめる。
「全治一ヶ月だって?」
「医者はそう言ってた」
 山田はぶっきらぼうに答える。隣で、澪が膝にのせたこぶしを強く握りしめるのが見えた。黒髪が横顔を覆い隠しているため表情はわからないが、心なしか肩もこぶしも震えているような気がする。母親もちらりと彼女を見たが、困惑したような微妙な面持ちになるだけで、どうすべきか考えあぐねているようだった。
「橘の保護者です」
 ふと向かいからそんな声が聞こえて顔を上げると、長身の男性が立っていた。保護者といっても父親ではない。両親に代わりその役割を引き受けている人のようだ。入学式のときに澪がそんなことを言っていた覚えがある。あたふたと立ち上がって会釈した山田の母親に、彼は深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。治療費はすべてこちらで持たせていただきます」
「いえ、お気になさらないでください。子供どうしの喧嘩でしょうし……」
 母親も事情を知らないので戸惑っているようだ。それを察してか、彼は長椅子に座っている山田と澪に視線を巡らせると、その正面へまわり目線の高さを合わせるように腰を屈めた。
「二人とも、何があったのか話してくれないか?」
 真面目だが威圧的ではない声音でそう尋ねてくる。当然ながら、彼女の保護者になどなおさら言えるはずもなく、山田はきまり悪さを感じながらふいと目を逸らす。彼女も口をつぐんだまま反対側に目を逸らしていた。
「何を聞いてもこうなんですよ」
 担任が途方に暮れたように溜息をついて言う。
 保護者の男性は表情を変えることなく体を起こした。そして、うつむいたままの澪を見下ろして手を差し出す。
「澪、ちょっとおいで」
 彼女はおずおずと顔を上げた。わずかに濡れた漆黒の瞳が不安げに揺らいでいる。しかしながら決意を固めたようにこくりと頷くと、差し出された手を取り腰を上げ、彼に手を引かれるまま廊下の奥へ消えていった。

 数分ほどして、保護者の男性がひとりで戻ってきた。
 その表情は先ほどまでとあまり変わっていなかったが、何か張りつめた空気を纏っているように感じられた。おまけに体の横では固くこぶしが握られている。おそらく、もう澪からすべて——。
「話を聞いてきました」
 感情を押し殺したような声がそう告げた。
 山田はビクリと肩を震わせると、背中を丸めてうつむき顔をこわばらせる。額には大粒の汗が浮かんできた。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるが、逃げたところでどうにもならないし、そもそも逃がしてくれるはずがない。次第に血の気が引いていくのがわかった。
「澪が言うには——放課後、一緒に日直の仕事をしているときに、彼に不意打ちでキスをされて、驚いて思わず突き飛ばしてしまった、ということらしいのですが」
 全部、知られてしまった。バラされてしまった——。
 山田は青ざめた。それでも彼がどんな表情をしているのか気になり、うつむけていた顔をおそるおそる上げていく。そこには凍てつくような鋭い視線があった。殺される、と本能的に身の危険を感じてしまうほどの。目を逸らしてもなお凄まじい怒気が伝わってきた。
「ちょっとあんた本当なの?!」
 狼狽した母親に胸ぐらを引っ掴んで詰問される。山田はだらだらと大量の汗を流しながら、何も答えず逃げるように顔をそむけた。しかし、そのわかりやすい態度は認めたも同然といえる。
「このバカッ! なんてことを!!」
 母親は山田を怒鳴りつけてバシッと頭を叩いた。そして、乱暴に押さえつけて頭を下げさせると、そのまま彼女自身も深く腰を折って許しを請う。
「本当に、本当に申し訳ありませんでしたっ!!」
「…………」
 澪は橘財閥の令嬢だ。彼女がどう思っているのかはわからないが、保護者がひどく怒っていることは伝わってくる。とても許してもらえるとは思えないくらいに。だとすれば、自分は、家族は、いったいどんな報いを受けるのだろうか。そう考えると急に怖くなってきた。
 沈黙が続く。一向に彼からの返事はない。だが——。
「あの……もういいです……」
 ふいに遠くから弱々しい声が聞こえてきた。振り向くと、澪が少し離れたところで所在なさげに立ち、おずおずと遠慮がちにこちらを覗っていた。
「私も怪我させちゃったし、お互いさまってことで……ねっ?」
 そう言って小首を傾げると、緊迫した空気をやわらげるように微笑んでみせる。ぎこちなくもひたむきに。保護者の男性は息をのんで複雑な表情を浮かべた。

 その後、大人たちで話し合いがなされ、大事になることなく決着した。
 山田の治療費はすべて橘が負担してくれるという。母親はこちらに原因があるのでと断ろうとしたが、橘の方がどうしても引かなかったらしい。ただし、今日の出来事は決して口外しないようにと念を押された。山田を怪我させたことより、山田にキスされたことを知られたくないのだろう。できればなかったことにしたいとでも思ってそうな感じだ。
 澪自身は、どう思っているのだろう——。
 結局、その後も彼女と二人で話をすることはできなかった。気まずさゆえか、保護者の命令か、澪はずっと山田から距離をおいていたのだ。やがて、保護者に肩を抱かれて病院をあとにする彼女を無言で見送る。山田は言葉にならないもやもやした思いを胸に燻らせたまま、わずかに眉を寄せた。