東京ラビリンス

ボーダーライン - 第4話 砕けた心(最終話)

 山田は高校二年生になっていた。
 遥とは中学二年でクラスが分かれて以来、一度も同じクラスにならず、一度も口をきいたことがない。それでも学校が同じだと嫌でも存在を意識させられてしまう。大財閥の息子でなおかつ常時学年トップという目立つ人物であればなおさらだ。
 そのせいかどうかはわからないが、四年以上も経つのにいまだに彼とのことを引きずっていた。忘れようとしても忘れられない。過去の思い出にもできていない。あれから何人かの女子に告白されて付き合ったが、どうしてもあの三週間と比べてつまらなく感じてしまい、いつも長続きしなかった。異常だと自覚しているがどうしようもない。他人の気持ちどころか、自分の気持ちでさえ思うようにはならないのだから。

「だから、駆け落ちじゃないってば!」
 廊下を歩いていると、教室の方から大きな声が聞こえてふと足を止める。
 橘の声だ。といっても山田が気にしている遥ではなく、その妹の方である。彼女は先日まで一ヶ月ほど誘拐監禁されていたらしいが、犯人がモデルばりのイケメンだったせいか、本当は駆け落ちではないかとまことしやかに囁かれているのだ。彼女本人は訊かれるたびに否定しているようだが、いったん立った噂はそう簡単に消えないだろう。
 何にせよ、元気そうで良かった。
 彼女ともクラスが分かれたきり一度も話をしていないが、それでも好きだった子が不幸になるのは見たくない。思ったよりも声に覇気があることに安堵しつつ、半分ほど開いた扉からちらりと中に目を向ける。人がまばらになった放課後の教室で、席に着いている澪のまわりにいつもの友人たちが集まっているのが見えた。もちろん遥もそこにいる。
「澪ちゃんは彼氏一筋だもんね」
 野並が嬉しそうにニコニコしながら言う。
 へぇ、彼氏がいるのか——山田はそう思うだけでショックは受けていなかった。彼女への想いはもうとっくに過去のものになっている。あれだけ可愛いのだから彼氏がいても不思議ではない。ただ、相手は誰なのだろうと少し気になって聞き耳を立てた。
「澪の場合はあれだよね、擦り込みみたいな? 何もかも初めてだからさ」
 鳴海が含みのある物言いでからかう。
 こんな言い方をされてはさぞかし面白くないだろう。澪だけでなく彼氏も馬鹿にされたようなものである。案の定、彼女はムッとして小さな口をとがらせていた。ふいに視線を斜めに落としてぼそりとつぶやく。
「……キスは初めてじゃなかったよ」
「はぁっ?!」
 鳴海は大きく驚愕し、机に手をついてガバリと身を乗り出した。
「ちょっと何それ初耳! いつ? 誰と?!」
「したっていうかされたんだけど……」
 澪は逃げるように身をのけぞらせながら、困惑ぎみに答える。
 それを聞いて山田はギクリとした。彼女が言っているのは間違いなく自分とのことだ。中学一年生のときに隙を突いて口づけし、直後に全力で突き飛ばされて机ごと倒れ込み、右手を骨折したあのときの——まさか、今ここで暴露するつもりなのだろうか。じわりと冷や汗が滲んでくる。
「それ誰だよ! ぶっとばす!!」
「もう終わったことだし言わないよ」
 富田はこぶしを握りしめて熱く憤慨していたが、澪はさらりと受け流した。しかし鳴海は追及をやめようとしない。
「もしかしてあの保護者?」
「……師匠は違うよ」
「じゃあ同じ学校のヤツ?」
「だから言わないってば」
「綾乃、しつこいよ」
 どうにか澪から答えを引き出そうとする鳴海を、遥が隣から窘める。それでも彼女は素直に引き下がらなかった。意味ありげに横目を流しつつ口もとを上げる。
「遥、あんたいいかげん妹離れしたら? このまま澪の世話ばっか焼いてたんじゃ、一生誰ともキスできないんじゃない?」
「余計なお世話。キスくらいしたことあるし」
「……えっ、えええええ?!!」
 鳴海だけでなく、その場にいた全員が目を丸くして遥を見た。澪のとき以上の猛烈な追及が始まるが、彼は素知らぬ顔で無視するだけである。そのうち鳴海が出任せではないかと疑い始めた。しかし、山田にはそれがまぎれもない事実だとわかっている——相手は自分なのだから。心臓がドクドクと激しい鼓動を打つのを感じながら、硬直して立ちつくす。
「そろそろ師匠が迎えに来る時間だよ、行こう」
 遥がちらりと腕時計を見て声を掛けると、澪は頷いて立ち上がった。その表情は怪訝に曇ったままである。遥のキスの相手が、経緯が、気になって仕方ないのだろう。鳴海、野並、富田も奥歯に物がつまったような顔をしていたが、もう無駄だと悟ったのか問い詰めることなく口をつぐんでいた。
「あっ……」
 半開きの扉からぼんやりと眺めていたら、こちらに向かって歩き出した遥と目が合い、思わず小さな声をもらす。彼は少し驚いたように目を大きくしたが、すぐにもとの無表情に戻って澪に振り返る。
「用事ができたから先に帰って」
「えっ、用事?」
 それには答えることなく小走りでこちらに駆けてくると、とっさに扉の陰に隠れた山田を見つけ、何も言わず手首を鷲掴みにして強引に廊下を走り出す。山田はわけもわからず、ただ遥に引っ張られるまま足を進めるだけだった。相変わらず白くて細くてきれいな手だなと思いながら——。

 気付けば、技術実習室の前にいた。
 この先は行き止まりになっており、放課後にこんなところまで来る生徒も先生もめったにいない。しんと静まりかえった中に、少し息の乱れた山田と、息ひとつ乱していない遥だけが立っていた。
 ずっと握られたままだった手首が解放される。
 そのごく近い距離のまま、遥は感情の読めない瞳でじっと見つめてきた。中学一年生のときよりも身長差が大きくなっていることを実感する。彼もあのときより背は伸びているはずだが、むしろ小さくなっているように錯覚しそうだった。顔は昔よりも幼さが抜けていっそうきれいになった。男子に言うのはおかしいかもしれないが、それ以外に形容しようがない。白いなめらかな肌も、大きな漆黒の瞳も、形のいい薄い唇も……唇……ドクドクと心臓が痛いくらいに暴れ出す。頬は上気して熱い。
「話、聞いてたよね?」
「え……あ、いや、盗み聞きじゃなく通りかかっただけで……」
「あれ以上は言わないし、名前を出すつもりもない」
 遥はあたふたした山田の言い訳を遮り、毅然とそう告げると、わずかに表情を硬くして言葉を継ぐ。
「だから、澪とのことは黙っていてほしい。約束を破っておきながら勝手だけど」
「いや、むしろバラされて困るのは俺の方だし、頼まれなくても言うつもりなんてない」
「そう、よかった」
 その声から安堵が伝わってきた。
 山田が澪に不意打ちでキスをしたことも、澪が山田を突き飛ばして骨折させたことも、双方の合意で誰にも話さない取り決めになっていた。山田としては名前が出ていないので約束を破られたとは思っていないし、たとえそうなるのだとしても自分から吹聴するメリットは何もない。少なくとも、女子から冷たい目で見られることは間違いないのだから。
「僕のことは好きにして構わないから」
「好き、に……?」
「言いふらしてもいいよってこと」
 一瞬、あらぬ勘違いをしそうになってドキリとしたが、遥が男子トイレでキスしてきた件についてのようだ。まぎらわしい言い方しやがって——と内心で悪態をつきつつ、ほっとしたような残念なような微妙な心持ちになる。
「そんなことするわけないだろう」
「そう、ありがとう……じゃあね」
「待て!」
 あっさり身を翻して帰ろうとする遥の腕をとっさに掴み、引き留めた。遥はほんの少し驚いたような顔を見せたが、すぐに元の無表情に戻り、大きな漆黒の瞳でじっと山田を見つめて言う。
「何?」
 冷ややかに尋ねられたが、特に何か用事があるというわけではない。ただ、あの日から密かに渇望してきた二人きりの時間を、こんなに呆気なく終わらせたくはなかった。
「……なっ、名前」
「えっ?」
「名前、呼んでくれよ。昔みたいに……」
 さすがに真顔でこんなことを懇願されては困惑するだろう。そう思ったが撤回する気にはなれなかった。案の定、遥はわずかに眉をひそめて怪訝な面持ちになった。しかし——。
「……圭吾」
 彼の唇が、静かに自分の名前を紡ぐ。
 それだけで体中の血が沸き立った。全身に電流が駆け抜けた。遥以外の誰にも感じたことのない感覚である。今までずっと戸惑い、悩み、葛藤してきたが認めざるを得ない。同性にこんな感情を持つことは異常なのだろうが、自分は、遥のことを——。
「ずっと、忘れようとしても忘れられなかった。何でだよ……俺はあの三週間で仲良くなれたと思ってたのに、治ったら急にそっけなくなって……俺は……おまえのことを……」
「僕はただ責任を果たしただけだよ。誤解させたのなら申し訳ないけど」
 微塵も興味がないとばかりに冷ややかに門前払いされ、カッと頭に血が上った。両肩に手を掛けて乱暴に背後の扉に押さえつける。ガシャンと派手な音があたりに響いた。肩に掛ける手に力を込めながら、睨むように、縋るように、感情の読めない漆黒の瞳を見つめる。
「少しくらい、楽しいとか嬉しいとか思っただろう?」
「どうして? 僕は面倒だとしか思ってなかったよ」
「じゃあ、何で……っ!」
 何であんな気を許したような笑顔を見せたりしたんだ。そもそもあんなキスをするから忘れられなくなるんだ——そう言いたかったが口には出せなかった。グッと言葉を詰まらせて奥歯を噛みしめる。
 それでも、遥は目を逸らさなかった。
 まるで責められているかのように感じると同時に、劣情が刺激される。吐息がかかるくらいの至近距離で見つめられて気がおかしくなりそうだ。心臓はうるさいくらいに暴れている。なのに、彼は無表情を崩すことなく平然としているのが腹立たしい。
 おまえも、忘れられなくしてやる——。
 肩に置いていた両手で、今度は顔を両側から固定するように包み込んだ。頭と顔の小ささと肌のなめらかさをあらためて実感しつつ、少し身を屈めて口づける。単に触れ合わせるだけのものではなく、吐息ごと奪い去るかのような激しいものだ。さすがに驚いたのかビクリと身を引こうとして扉がガシャンと音を立てたが、逃がしはしない。彼の頭を押さえる手に力をこめながら、ますます深く、無理やり舌をねじこみ絡め合わせていく。どうしようもなく甘くてたまらない。舌を絡めるほどに、唾液を味わうほどに、ますます渇望が大きくなっていった。
 彼がこういうキスに慣れていないことはすぐにわかった。もしかすると初めてなのかもしれない。そう思うだけで頭がどうにかなりそうなほど高揚してしまう。もっと、もっと、衝撃を受けて一生忘れられなくなればいい。俺のことを意識せざるを得なくなればいい——。
 そのうち遥が肩に掛けていた鞄を廊下の床に滑り落とし、苦しげに腕を掴んできたので、山田は我にかえりようやく唇を離した。途端に彼は大きく息を吸い込んだ。その目は心なしか潤み、頬はほんのりと上気し、得も言われぬ色香をまとっているように見える。しかし。
「気が済んだ?」
 彼は濡れた口もとを手の甲で拭い、醒めた声でそう言うと、冷ややかに山田を見上げて畳みかける。
「相手の気持ちを無視して衝動的に行動するところ、相変わらずだね。あらためた方がいいよ」
 山田は血の気が引いた。呆然として何も言葉を返すことができずにいると、遥は落ちた鞄を肩にかけ直して山田の前からひょいと抜け出し、何事もなかったかのように平然と歩き去っていく。
「待ってくれ!」
 狼狽したまま、遠ざかる彼の背中に声を投げた。その足が止まったのを見て言葉を継ぐ。
「悪かった、どうしても俺のことを意識してほしくてつい……反省してる……」
「僕は、相手を尊重しないひとを好きにはならない。女でも、男でも」
 返ってきたのは遠回しの拒絶。
 ちらとも振り返ることもなく去っていく背中を見つめながら、山田は呆然と立ちつくした。追いかけたい気持ちはあるものの、足が縫い付けられたように動かない。やがて角を曲がり視界から姿が消えると、全身から力が抜けてその場に崩れ落ちた。
 目の奥が熱くなり、視界がぼやける。
 取り返しのつかないことをしたのだと思い知り、山田は膝を引き寄せ、そこに顔を埋めて大きく頭を抱え込んだ。無造作に髪をくしゃりと掴む。そのまま奥歯を食いしばりぎゅっと目をつむると、一粒の涙がこぼれ、白く冷たい廊下の床に落ちて砕け散った。