「何だって?」
それは、ある晴れた休日のことだった。
アイザックはスペンサー邸の自室で公爵家の仕事をしていたが、使用人に来客を告げられ、その思いもしなかった客人の名に大きく瞠目した。次の瞬間、ハッとはじかれたように自室を飛び出していく。
乱暴に応接室の扉を開くと、そこには確かに名前を聞いたそのひとがいた。
ふわりとやわらかな金髪、なめらかな白い肌、宝石のような青緑の瞳、かすかに甘さのある端整な顔、すらりと均整のとれた身体——誰もが目を奪われるであろうこの美しい青年は、我が国の第二王子である。
「サイラス……おまえ、いったい何しに来た」
「公務が急遽中止になって暇になったからさ」
応接用のソファで優雅に紅茶を飲んでいた彼は、不躾なアイザックの言動にもいっさい動じることなく、にこやかにそう答える。そんな彼にアイザックはじとりとした視線を送り、向かいのソファに腰を下ろす。
「思いつきで行動するのはいいかげんやめろ」
「俺とおまえの仲なんだし別にいいだろう?」
「それで、何しに来た」
まっすぐにアクアマリンの瞳を見つめながら、再度問う。何を警戒しているのかはわかっているのだろう。彼はまいったとばかりに肩をすくめてみせた。
「そう怖い顔するなよ。遠縁でもある幼なじみが結婚したと聞いたんだ。祝意を伝えに来るのも、妻を紹介してもらうのも、特段おかしなことではないだろう?」
「…………」
この口ぶりからすると、やはりアイザックというよりアリアに会いに来たのだろう。死んだはずの妹が現れたとなれば気になるのは当然だ。しかも『厄災の姫』なのだから思うところがあるのかもしれない。しかし——。
「彼女を傷つけるつもりはない。約束する」
一転、真面目な顔でそう告げた彼を目にすると、警戒心は薄らいだ。
いまは互いに忙しくて顔を合わせることも少なくなったが、物心がつくまえからの付き合いなのだ。彼がこういうところで嘘をつくような人間でないことくらい、知っているつもりである。
「わかった」
そう応じると、アイザックはベルを鳴らして使用人を呼んだ。
「はじめまして、つ……妻のアリアです」
応接室に呼ばれたアリアは、第二王子をまえにしてカチコチに緊張した様子で自己紹介すると、まだ習ったばかりと思われるぎこちないカーテシーを披露する。サイラスはふっとやわらかく微笑んだ。
「そんなに硬くならなくていいよ。座って」
「はい……」
第二王子の友好的な雰囲気のおかげですこし緊張が解けたのか、アリアはわずかに表情をゆるめ、二人掛けソファに座るアイザックの隣にちょこんと腰掛けた。気のせいか、いつもより距離が近く感じる。
一瞬、サイラスは眉を上げたが、すぐにそれを覆い隠すように笑顔を浮かべると、アリアにも紅茶とケーキを勧める。そのケーキは彼の手土産で、オレンジムースとチョコレートが使われた一品だった。
「口に合うかな?」
「とてもおいしいです!」
「それならよかった」
ケーキのおかげか、アリアはすっかり気持ちがゆるんでしまったようだ。
そんな彼女を、サイラスはニコニコとしたまま目を離すことなく見つめていた。まるで監視でもするかのように。それでもアイザックはとりあえず彼を信じて見守ることにする。
「ねえ、アリアちゃん」
「はい」
アリアがフォークを置いて紅茶を一口飲んだところで、サイラスが声をかけた。本題に入るのだろう。まっすぐ視線を向けたまま膝のあいだで手を組み合わせ、すこし前屈みになる。
「僕たちが兄妹だってことは知ってるよね?」
瞬間、応接室に緊張が走った。
後ろで控えていた使用人たちは顔を凍りつかせているし、アリアは動揺して目を泳がせている。国王の子であることは口にするなと母に言われているのだ。アイザックは眉をひそめて向かいの彼をじとりと睨む。
「おまえ……」
「みんな知ってることだろう。公の場でもないんだから話くらい構わないさ。マズいと思うなら使用人に口止めしておいてくれ」
確かに、ここで口止めしておけば問題にはならないだろうが——。
王家の人間としてそれでいいのかと内心で嘆息しつつも、意向を伺うように横目を向けてきたアリアに頷き返した。すぐにサイラスはにっこりとして彼女との会話を再開する。
「君とこうして会うことができてうれしいよ」
「……でも……わたしは厄災って……」
「占いなんて僕はもともと信じてないから」
そういえば——彼は生誕時の占いで『太陽のように慕われる』と言われたことから、『太陽の第二王子』と称されるが、占いで決めつけられるなんてうんざりだとよくこぼしていた。もちろん対外的には笑顔で応じていたけれど。そんな彼が、アリアを『厄災の姫』などと決めつけるわけがなかった。
「むしろ君に申し訳なく思っている。本来は姫として王宮で暮らしていたはずなのに、占いのせいで孤児になって教会暮らし、いまは厄災の姫なんて囁かれ、あげくまだ十歳なのに無理やり結婚させられて」
「いえっ、サイラス様が悪いわけじゃないです!」
恐縮したように、アリアはふるふると胸元で両手を振りながら応じた。さらさらとした髪が頬にかかり、ぱっちりとした目はいつもよりも見開かれている。そのアクアマリンのような青緑の瞳は正面の兄とそっくりだ。
そんな彼女を見て、サイラスはふっとやわらかく目を細めた。
「結婚はつらい?」
「えっと……最初はわけがわからないまま連れて行かれて怖かったんですけど、ここに来たらすぐに事情を説明してくれて、いまは皆さん良くしてくださってるので毎日が楽しいです」
アリアははにかみながらも率直に答える。何となく察してはいたが、本人の口からきちんと聞いたのは初めてかもしれない。毎日が楽しいと思えているならよかったと、内心でひそかに安堵していると——。
「そうはいっても夫がこんな顔してたら怖いんじゃない?」
サイラスが冗談めかしながら人差し指を向けてきた。アイザックは眉を寄せるが、アリアがどう答えるのかと思うと柄にもなく緊張してしまい、何でもないかのような素振りで紅茶に手を伸ばす。
「怖くはありません。アイザック様はいつも気遣ってくれますし、お茶にもつきあってくれますし、話もちゃんと聞いてくれますし、寝台でもすごく優しくしてくれますし」
ングフッ——飲みかけていた紅茶が変なところに入ってむせた。
向かいではサイラスが大笑いし、彼の護衛もつられるように噴き出しそうになり、使用人たちも必死に笑いをこらえているようだった。ただアリアだけが状況を理解できずにきょとんとしていた。
「好かれてるみたいでよかったじゃないか」
アリアがケーキを食べ終えて勉強に戻るために退出し、再びサイラスと二人になると、彼はニヤニヤとしてからかうようにそう切り出した。
「まさか同じ寝台で寝てるとは思わなかったけどな」
「母の命令だ。言っておくが断じて手は出していない」
「そこは疑ってないさ」
おまえ無駄に真面目だしな、そんな度胸はないだろう、声をかけるのも躊躇してそうだ、などと笑いながら好き勝手なことを口にする。じとりと睨むと、彼はおどけるように大仰に肩をすくめてみせた。
「俺としては相手がおまえでよかったと思ってるよ。まあ、ここに来るまでは心配もしてたんだが……アリアがつらい思いをしてるならどうにかしてやりたかったし、夫婦仲がうまくいってないなら取り持ってやりたかった。おまえはただでさえ子供に怯えられそうな顔をしてるのに、意思疎通も不得手だしな」
「…………」
血のつながった妹としてそれなりに大事に思っているなら、心配するのも当然だろう。彼の言うとおり子供に好かれるタイプではないし、実際、最初はひどく怯えられていた。
「でも」
サイラスはそうつづけると、ふっと笑みを浮かべてまっすぐにアイザックを見つめる。
「アリアはおまえの良さをちゃんとわかってた。俺の妹だけあって、意外と俺と似てるんじゃないかな。だからおまえとも相性がいい……だろ?」
「おまえとは似ていないがな」
思わず言い返したものの、確かに似ているところもあるかもしれない。アリアもわりとすぐにみんなと打ち解けたし、意外と行動力もある。顔は王妃似だが、サイラスもどちらかといえば王妃似と言われている——。
「何だ?」
そのとき彼が思わせぶりにニヤニヤしていることに気付き、眉をひそめて尋ねたが、すました顔で「別に」とごまかされてしまった。眉間のしわを深くするものの、彼はまるで意に介さず優雅に紅茶を口に運んで一息つく。
「俺はさ、おまえにも妹にも幸せになってほしいんだ」
「…………」
きっとそれは本心なのだろう。
だからこそむず痒いような気まずいような気持ちになり、アイザックは何も言葉を返せないままそっと目を伏せた。