氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

第13話 彼女の悩みごと

 季節が移ろい、吐く息がほんのりと白くなってきたころ——。
 どうもアリアの元気がなくなってきたような気がした。アイザックと向かい合っているときはそうでもないのだが、ふと彼女を見かけたときなど、思い悩むような暗い顔でうつむいていることがある。
 特にこの数日は顕著だ。食事のときまでぼんやりとしているように見受けられた。それでも話しかけたときにはしっかりと返事をするし、きちんと完食もしている。体調が悪いわけではなさそうだ。
「母上、アリアのことなのですが」
「何でしょう?」
 アリアが家庭教師と勉強しているときを見計らって、母のイザベラに声をかけた。ちょうど庭に出るところだったらしく、振り向いた彼女は大判のショールを肩にかけ、花を切るための鋏を手にしていた。
「最近すこし様子がおかしくありませんか?」
「あら、朴念仁のあなたが気付くなんて驚いたわ」
「……原因をご存知なのでしょうか」
 彼女の反応からして事情を知っているのではないかと思ったが、どうやら間違いではなかったようだ。アイザックの問いにイザベラは思わせぶりな笑みを浮かべる。
「わたくしが勝手に答えるわけにはいかないわね」
「母上はアリアが心配ではないのですか?」
「アリア自身が考えなければならないこともあるの」
 要領を得ないが、少なくとも母は放置しても問題ないと考えているのだろう。何か悩みごとがあるにしても深刻ではなさそうだ。ひとまずアイザックも見守ることにしようと決めたのだが——。

「おはようございます……」
 翌朝、寝台から起き上がったアリアを見てギョッとした。寝起きとは思えないくらい疲れた顔をしていて、うっすら隈があるようにも見える。
「もしかして眠れなかったのか?」
「えっと、すこし寝付きが悪かっただけです」
「……眠いなら無理せず寝てるといい」
「大丈夫です」
 アリアはにっこりと笑みを浮かべてそう答えると、さっと寝台を降り、引き留める間もなくパタパタと小走りで出て行った。
 アイザックは寝台に座ったまま考え込む。
 もしかしたら今日だけでなく数日前から寝付きが悪かったのだろうか。ぼんやりしていたのも寝不足であれば納得である。そんなことにも気付かずに、ひとり朝までぐっすり寝ていたのであればあまりにも不甲斐ない。
 やはり何に悩んでいるのか聞きたいところだが、彼女の様子からすると簡単には答えてくれないだろう。母にはきのうすでに断られている。勝手に答えるわけにはいかないと、思わせぶりな笑みを浮かべて——。
 ちょっと待て、もしかしてアリアが悩んでいる原因は自分ということか?
 そう考えれば母の言動にも得心がいく。ただアイザック自身にはまったくもって心当たりがなく、見当もつかない。そこまで深刻ではないのに寝付けなくなるほどの悩みとは、いったい何だろうか。
 いや、因果が逆なのかもしれない。
 アイザックのせいで寝付けないが、それを本人に言うことができなくて悩んでいるという可能性もある。そうだとしたら、彼女の快眠を阻むようなことを知らないうちに何かやらかしているのだ。
 考えられるのは、いびき、寝言、寝相あたりだろうか。あるいは寝ぼけて抱きついてしまったとか。まさか不埒な触れ方をしたなんてことは——考えれば考えるほど怖くなり、片手で顔を覆った。
 どうすれば——。
 しばらくそのまま思案をめぐらせていたものの、答えは見つからなかった。

「どうした? そんなまわりを凍りつかせるような怖い顔をして」
 王宮の執務室で宰相のメイソンと朝の挨拶をかわしたあと、そう言われた。
 すれ違う人々に思いっきり避けられていたことには気付いていた。だが、怖がらせようとしていたわけでも怒っていたわけでもない。アリアのことをどうすればいいのか思い悩んでいただけである。
「申し訳ありません。すこし考えごとをしていまして……仕事に集中します」
 席につくと、気持ちを整えるべく意識的にゆっくりと呼吸をする。
 そんなアイザックを理知的なヘーゼルの瞳が射抜く。まるで何もかも見透かそうとしているかのように。落ち着かないが、あえて素知らぬふりをして仕事に取りかかる。
「仕事に支障がないなら無理には聞き出さんよ」
「……ありがとうございます」
 メイソンの声にはかすかに笑いが含まれていた。
 詮索されたくないと思っていることなどお見通しなのだろう。ありがたいと思うと同時に、どこかいたたまれないような心境にもなる。だが、いまはいったん頭から追い出して書類と向き合うことにした。

 疲れた——。
 ひっそりと静まりかえった回廊をひとり歩きながら、アイザックは溜息をつく。
 世の常なのか、こんな日にかぎって帰りぎわに急ぎの仕事がくるのだ。おまけに一悶着まであって無駄に時間がかかった。おかげさまでだいぶ帰りが遅くなってしまったが、夕食には間に合いそうだ。
 アリアの件をどうするかについては、まだ悩んでいた。
 だが自分に原因があるのなら逃げるわけにはいかない。今晩にでもきちんと話を聞こう。何を言われるのかと考えるだけで怖じ気づきそうになるが、彼女はもっとつらい思いを抱えているかもしれないのだから。

「アイザック、二十六歳の誕生日おめでとう」
 夕食時、母にそんな言葉をかけられて思い出した。今日が自分の誕生日だということを——毎年だいたい忘れていて、母に言われて思い出すのが恒例行事である。ありがとうございますと無表情で一礼して応じる。
「そういうわけで本日はお祝いのメニューです」
 メインはステーキだった。
 アリアのときは彼女の好きなものばかりを出していたのだが、スペンサー家では誕生日にステーキというのが基本である。ただ、デザートは好みを考慮してかケーキでなくフルーツゼリーだった。
「あなたはもういらないと思ってるでしょうけど、気持ちですからね」
 食事を終えると、両親からそれぞれリボンをかけた小さな包みを渡された。
 プレゼントは毎年だいたい実用的な小物が多い。万年筆だったりインクだったりカフスボタンだったり。今年もおそらく似たようなものだろう。ありがとうございますと淡々と答えて受け取った。
 ふと隣に目を向けると、アリアがひどくいたたまれないような顔をしていた。膝の上でグッとこぶしを握り、ややうつむき加減になりながらも背筋は伸ばしたまま、何か必死にこらえているように見える。
 まさか、このところ様子がおかしかったのは——。
 直感だけで確証はない。ただ、そう考えればすべてにおいて辻褄が合う。最近になって彼女が思い悩むようになったことも、母に相談しても取り合ってもらえなかったことも、いましがたの彼女の表情も。
 しかし、アイザックは自室に戻るまで何も気付かないふりをした。

「え、あ、ちょっと……!」
 アリアの就寝時間に合わせて寝室に行くと、寝台に座っていた彼女はハッと顔を上げて目を見開き、ひどく慌てふためいた。そのとき何か小さなものを背中側に隠したようだ。気にはなったものの、いまはそれを追及するだけの気持ちの余裕はなかった。
「いますこし話をしたいのだが、構わないか?」
「……はい」
 幼気な顔に緊張が走った。
 申し訳なく思いながらも、ここで引き下がるつもりはなかった。寝台に斜めに腰掛けて彼女のほうに顔を向ける。
「このところ君の様子がおかしくて気になっていた」
「それは、すこし考えなければいけないことがあったので」
「わたしの誕生日プレゼントのことか?」
「……そうです」
 彼女は観念したように首肯した。
 それを目にしてアイザックはひそかに胸をなで下ろす。本気で悩んでいたであろう彼女には申し訳ないのだが、たいしたことではなかったし、何より自分がやらかしたわけではなくて安堵したのだ。
「わたしも君の誕生日に用意していなかったのだから、お互いさまだ」
 そもそも自分の誕生日を忘れていたくらいである。プレゼントがないからといってとやかく言えるわけがないし、言うつもりもない。しかし彼女はますます困ったような顔をして視線をさまよわせた。
「えっと……あの……お誕生日おめでとうございますっ!」
 意を決したように、リボンのかかった小さな包みを勢いよく差し出す。それはさきほど慌てて後ろに隠したものだろう。まさかアイザックの誕生日プレゼントだったとは——。
「すまない、君は用意してくれてたんだな」
「本当にたいしたものではないんですけど」
「いまここで開けてもいいだろうか?」
「……どうぞ」
 ひどく緊張した様子で答える。まるで死刑宣告でも待っているかのように。
 アイザックは丁寧にリボンをほどいて包みを開ける。中には白いハンカチが入っていた。角には藍色の飾り文字でアイザックの名前が刺繍されている。
「これは、君が?」
「お母さまに教えていただきながら練習もたくさんして頑張ったんですけど、どうしてもうまくできなくて……お渡ししようかやめようかずっと悩んでました。こんなものしか用意できなくて本当にすみません」
 彼女は寝台の上で力なくそう言いながら、しゅんとうなだれた。
「いや、十分うまくできていると思うが」
「いいんです、下手なのはわかってますから」
「……大切に使わせてもらう」
 確かに刺繍の一部が引きつっていたりほつれたりしているが、年齢を考えれば十分な出来映えだと思うし、何より一生懸命に頑張って用意してくれたというのがうれしい。胸がじわりとあたたかくなる。
「来年はもうすこしいいものを贈りますね」
「それよりあまり悩みすぎないでくれないか」
「うっ……善処します……」
 心配をかけたという自覚はあるのだろう。アリアは申し訳なさそうに身を縮こまらせて応じる。その様子を見てアイザックは思わずふっと笑い、小さな頭に手をのせた。