氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

第18話 ダンスレッスン

「イザベラ様がお呼びです。すぐに来るようにとおっしゃってました」
 穏やかに晴れた休日の昼下がり——。
 心地良い陽気に眠気を誘われつつ自室で仕事をしていると、年若い執事が呼びにきた。どうせたいしたことではないのだろう。そうに思いながらも無下にすることはできず、しぶしぶ万年筆を置いた。

「何の御用でしょうか」
 ノックして部屋に入ると、母のイザベラとアリアが組んで初歩的なダンスをしていた。傍らには家庭教師もいる。どうやらアリアに社交用のダンスを指導していたようだ。そうなると呼ばれた理由も察しがつく。
「アイザック、仕事中に申し訳ないわね。アリアがある程度ステップを踏めるようになってきたから、実際に男性と踊ってもらおうと思ってあなたを呼んだのよ」
「わかりました」
 初心者の練習では女性どうし男性どうしで組むことも少なくないが、基本的には異性と組むものだ。素直に応じてアリアのもとへ向かうと、彼女は見るからに申し訳なさそうな顔をしてペコリとお辞儀をした。
「お仕事の邪魔をしてすみません」
「夫として当然のことだ」
 さらりと応じ、さっそく彼女の手をとって組んでみたものの——。
「これは、無理がありませんか?」
 自分の胸元にも届かないところに彼女の頭があるため、身長差でどうしてもホールドが不格好になってしまう。これではまともに踊るのも難しいのではないだろうか。
「いいのよ、とりあえず男性と踊ることに慣れるのが目的ですから。あなたが嫌だというならショーンか他家のご子息にでも頼みます」
「嫌とは言ってません」
 思わずむきになって言い返した。
 アリアを厄災だと思っている弟にはとても任せられないし、他家の子息など論外だ。アリアだって知らない男と組まされるのは不安だろう。実際、アイザックが反論したことでほっとしているようだった。
「では踊りましょう。わたくしがピアノを弾きます」
 そう言って母がグランドピアノの前に座り、情感をこめるようにやわらかくしなやかな動きでワルツを弾き始める。アイザックは耳をすまし、リズムを意識しながら一拍目に合わせて足を踏み出したが——。
「アイザック、あなたちょっと待ちなさい」
 ほどなくして演奏が止まり、母が冷ややかな声でそう言いながらこちらに歩いてくる。ピアノのそばで見ていた家庭教師も何とも言えない顔をしている。
「それ、真面目にやっているのよね?」
「……そのつもりです」
 昔は踊れていたが、もう何年も踊っていないせいか忘れてしまっていた。
 こういうのは体が覚えているものとばかり思っていたのに、実際に踊ってみると足がもつれてわけがわからなくなった。アリアもつられて動きがむちゃくちゃになった。当惑しながら遠慮がちに視線を向けてくる彼女と目が合い、ひどく気まずくなる。
「まったく……」
 母は両手を腰に当て、呆れたように思いきり溜息をついた。
「何年も夜会に行くのを避けてきたせいでしょう。公爵家の嫡男として、ダンスもまともに踊れないなどあるまじきことです。きちんと踊れるようになっておきなさい。いいですね?」
「承知しました」
 アリアとは来週あらためてダンスをすることになった。つまり、それまでには踊れるようになっておかなければならない。この降って湧いた難問に、アイザックは無表情のまま内心でおおいに頭を抱えた。

「ごく個人的なお願いがあるのですが、聞いていただけますか」
 翌日——昼休憩になると、アイザックは上司である宰相のメイソンにそう切り出した。机の上の書類や資料を片付けていた彼は、その手を止め、興味をひかれたようにわずかに片眉を上げる。
「君のほうから頼みごとをしてくるとはめずらしいな。もちろん話を聞くくらいやぶさかではないが、今日、君がどこか落ち込んだ様子だったことと関係があるのか?」
「そうですね……」
 本当に鋭い。表情に出ていなくても、どういうわけか彼にはだいたい見抜かれてしまう。鋭すぎていささか怖いとさえ思うくらいだ。ただ、そう水を向けてくれるとかえって話しやすくはあった。
「きのうアリアのダンス練習につきあわされたのですが、すっかり踊れなくなっていて、次期公爵としてあるまじきことだと母に叱られました。それで、もしよろしければあなたにご指導いただけないかと思いまして」
「ハハッ、君はずいぶん夜会から遠ざかっていたからなぁ」
 アイザックが夜会に出ていたころのこともメイソンは知っている。どこか懐かしむようにそう言うと、重ねた書類を執務机の上でトントンとそろえながら言葉を継ぐ。
「しかし、なぜそんなことをわざわざわたしに頼むのかね。ダンスレッスンくらい、君のところならどうとでも取り計らえると思うが」
 もっともな疑問である。
 彼は由緒あるチャーチル家の当主でベルファスト公爵その人なのだ。ダンスの名手ではあるものの、本来であれば気軽にダンスレッスンを頼めるような人物ではない。もちろんわかってはいるのだが——。
「自分が公爵家の人間だという自覚が足りなかったせいでこうなったので、家に頼るのは気が引けるというか恥ずかしいというか……これ以上、アリアにみっともないところを見せたくないというのもあります。面倒でしたら遠慮なく断ってください」
「いや、引き受けよう」
 メイソンは悩む素振りもなく答えた。
「国の安寧のためにも、君たち夫婦には仲睦まじくあってもらわねばならない。そのために助力するのは宰相として当然のことだからな」
 そろえた書類をやさしく執務机に置くと視線を上げ、ニヤリと口元を上げる。その表情からしてあくまで軽口のつもりだとは思うが、少なからず本音も混じっているのだろう。アイザックはありがとうございますと神妙に頭を下げた。

 その日の仕事帰りに、さっそくレッスンを開始することになった。
 アイザックとしてはどこか一室を借りられればと考えていたのだが、メイソンが自宅でやりたいというのでチャーチル邸まで足を運んだ。幼いころから何度か訪れたことがあるので一応は知ったところだ。
「先日は妻のアリアがお世話になりました」
「いえいえ、とても楽しいひとときを過ごせましたわ」
「またいつか機会がありましたらお願いします」
「こちらこそ」
 玄関でベルファスト公爵夫人と顔を合わせたので、挨拶をする。
 彼女はいつも上品に微笑んでいる温厚な女性という印象だ。内心まではわからないが、少なくとも表面上はアリアを尊重してくれるだろう。そしてそのことがアリアの後ろ盾のひとつとなるに違いない。
「こちらでレッスンをしよう」
「ありがとうございます」
 案内されたのは二階の大広間だった。このような広い部屋を使わせてもらうことには申し訳なさを覚えるが、見渡してみるとグランドピアノやメトロノームも置いてあり、確かにダンスの練習には最適である。
 隅のほうに荷物を置いて何気なく窓の外に目を向けると、きっちりと整えられた立派な庭園が広がっていた。奥には池も見える。こういうのもきっとアリアは好きなのだろうな、などとぼんやり考えていたそのとき。
「アイザック!」
 どこからか自分の名前が呼ばれるのを聞いた。
 声がしたあたりに目をやると、窓のすぐ下から男性がこちらを見上げて手を振っていた。かつての同級生レイモンドだ。この家の息子なのでいても何らおかしくないのだが、正直いまは会いたくない。
「どうした、レイモンドか?」
「はい……」
 メイソンに声をかけられて目を離したわずかなその隙に、彼はいなくなっていた。返事をしないままだったことにいささか後味の悪さを覚えつつ、メイソンとダンスレッスンを始めようとしたところ——。
「本当に君だったんだな」
 レイモンドが扉を開けて大広間に入ってきた。アイザックが当惑したことにもメイソンが嘆息したことにも気付いていないのか、ニコニコとしながらこちらに歩を進めてくる。
「来たのなら声をかけてくれればいいのに」
「レイモンド、彼は遊びに来たわけではないんだ」
「それはそうでしょうね」
 メイソンが窘めてもさらりと受け流し、興味深そうなまなざしをアイザックに向けてじっと観察すると口元を上げる。
「ダンスレッスンというところかな」
 ソファもない大広間で二人してピアノのまえに立っているのだから、わかっても不思議はない。メイソンがダンスの名手であることを知っているならなおのこと。
「僕も手伝うよ」
 つづけて彼はそんなことを申し出た。
 踊れないことを知られるだけでも抵抗があったのに、ましてや見られるなんて。アイザックは思わず眉を寄せた。しかし隣のメイソンは真面目な顔で思案をめぐらせると、納得したように頷く。
「そうだな、そのほうが指導しやすいかもしれんな」
「…………」
 指導者にそう言われたら嫌とは言えない。
 アイザックとしては不本意ながら、結局、レイモンドも交えてダンスレッスンを始めることになった。

 最初に、ステップなど基本的な部分をおさらいしていく。
 もともとひととおり踊れていたこともあってか、教えてもらうとわりとすぐにできるようになった。やはりある程度は体が覚えていたのだろう。きっかけさえあれば思い出すのは難しくないのだ。
「では実際に組んで踊ってもらおう。レイモンド、おまえ女役はできるな?」
「問題ありません」
 レイモンドも血筋なのかダンスが上手い。それも女性を惹きつける要因のひとつとなっているようだ。女役までこなせるとは知らなかったが、以前にも男性の練習につきあうことがあったのかもしれない。
 実際に組んでみると、背丈はアイザックよりやや低いくらいで、女性としては高すぎるものの、細身だからか意外と違和感はなかった。
 ただ——やけに顔が近い。それほど身長差がないので致し方ないことではあるのだが、美しい相貌が間近にあって何となく落ち着かないうえ、かすかに彼の吐息がかかって思わずドキリとしてしまう。
「もしかして照れてるのか?」
「照れてない」
 無駄に色気をたたえた顔でからかうように言われて、無愛想に言い返した。
「始めるぞ」
 メイソンの一声にハッとしてあらためて背筋を伸ばすと、すぐにメトロノームが鳴り、その音に合わせて最初の一歩を踏み出した。姿勢を崩さないよう留意しながら相手をリードし、ステップを踏んでいく。
「踊れてるよ」
 レイモンドが耳元で囁くように声をかけてきたが、反応する余裕はない。常に基本となるポジションと重心を意識しつつ、手を、足を、決められたとおりに正しく動かしつづける。
「よし、いいぞ」
 メイソンは頷いてメトロノームを止める。アイザックも足を止め、組んでいたレイモンドの手を放すとほっと息をついた。
「わりと形になっているな」
「ありがとうございます」
「動きはまだまだ固いがな」
「そうですね……」
 踊れていたころから同じようなことを母に言われていた。もともと上手くはない。踊るというより必死にこなすだけになってしまうのだ。
「リードは上手くできていたよ」
 レイモンドが隣からフォローしてくれた。それに関してはメイソンも異論がないようで頷いている。
「君に足りないのは経験だな。数をこなして慣れるにつれて動きもスムースになるし、余裕が出てきて視野も広がるし、不慮の出来事にも臨機応変に対応できるようになる。そうすれば奥方も安心して身を委ねられるだろう」
 型どおりに踊ればいいというものでもないらしい。自分だけのことならどうでもいいが、アリアのためとなればなおざりにはできない。
「次は曲に合わせてやってみるか」
「はい」
 メイソンがピアノの前に座り、蓋を開けた。
 両手を鍵盤に置き、一呼吸すると、やわらかい動きで優雅なワルツを奏で始める。彼の演奏を聴くのは随分と久しぶりだが、あいかわらず上手い。アイザックは再びレイモンドの手をとって踊り始めた。
「こっちを向いて、僕を見て」
 ピアノの旋律にまぎれて甘く囁かれる。
 しかしそれどころではない。どうにか一瞬だけ目を向けるとおかしそうに笑っていた気がするが、はっきりとは認識できない。なるほど、踊りながら談笑するなど余裕がなければできないのだと思い知った。
「……っ」
 雑念にとらわれたそのとき、足がもつれた。たたらを踏んで動きが止まる。
「すまない」
 手を放そうとしたが、レイモンドは逆に放すまいとグッと握り込んできた。そして目を見つめながら悪戯めいた笑みを浮かべて言う。
「こういうときは素知らぬ顔でつづければいいんだよ」
「ああ……」
 あらためてしっかりと組み、まだ鳴り止まないワルツの旋律に合わせて踊り始める。ときどきレイモンドから見つめられているような気配は感じたが、こちらから目を向けることはできなかった。
 ワルツが終焉を迎え、音がやむ。
 それに合わせてアイザックもゆるやかに足を止める。一息ついて正面のレイモンドに目を向けると、彼は視線を絡ませたまま何か思わせぶりに微笑んだ。アイザックはわずかに眉をひそめて組んでいた手を放す。
「悪くなかったよ」
 メイソンが立ち上がってやってくる。
「失敗は気にしなくていい。レイモンドの言うとおり素知らぬ顔で踊り直せばいいのだ。動きはまだ固いが、メトロノームで踊ったときよりはよくなっていたぞ。この調子で練習を重ねれば人並みに踊れるようになるだろう」
「ありがとうございます」
 そのあと日没近くまで、彼の助言を受けながら何度も練習を重ねた。
 翌日以降も、仕事終わりに何度かチャーチル邸で練習させてもらった。レイモンドは暇を持て余しているのか、いつ行ってもあたりまえのように邸にいて、あたりまえのように相手役を務めてくれた。
 ただ、一度だけメイソンの妻であるベルファスト公爵夫人と踊った。女性とも踊ったほうがいいと彼に勧められてのことだ。実際に小柄な女性と踊ることで気付いたこともあり、とても有意義だった。
「上手くいくといいですわね」
 最後に、彼女はどこか面白がるようにそう言ってふふっと笑った。

 アリアとダンスをしてから一週間後。
 母に言われていたとおり再びダンスをすることになった。今度はきっと踊れる——そう信じられるくらいには練習してきたつもりだが、絶対ではない。アリアを前にするとにわかに緊張が高まるのを感じた。
「アリア、面倒をかけてすまない」
「いいえ」
 アリアはやわらかく笑っていた。
 その表情にアイザックはすこしほっとしながら彼女と組む。身長差があるので不格好になるのはどうしようもない。母がピアノを奏で始めると、その音に合わせてやわらかく丁寧にリードしつつ足を踏み出す。
「わぁ」
 彼女の唇からかすかな驚嘆の声がまろび出る。
 前回とあまりに違ったからだろう。足がもつれることなくスムースに踊れているし、リードもできている。もちろん名手であるメイソンには遠く及ばないが、その彼から及第点をもらっているのだ。
「悪くなかったわ」
 曲の終わりに合わせてゆるやかに足を止めると、母が椅子から立った。
「これならアリアに恥をかかせないですむでしょう。本当は仲睦まじそうに談笑でもしてほしいのですけど……余裕がなくて難しいのなら、せめてその怖い顔だけでもどうにかしてちょうだい。不仲だと思われるわ」
「……わかりました」
 正直、顔をどうにかするのは難しい気がする。
 それができるのなら氷の宰相補佐などと呼ばれていない。ただ、今日は緊張のせいでいつもより怖くなっていたかもしれないので、慣れれば多少はよくなるのではないかと希望は持っている。
「もっともアリアが夜会に出るのは成人してからですけどね。そのときまでいまのダンスを維持して、顔も改善しておかなければなりません。そうね……月に一度くらいはあなたたちが練習する時間を設けましょう」
 横目で隣を窺うと、同じくこちらを窺うアリアと視線がぶつかった。彼女はおかしそうにふふっと笑う。それを見て、アイザックはすこし心が軽くなるのを自覚した。
「よろしく頼む」
「はい!」
 彼女は透明感のある純白の髪をさらりと揺らしながら、はじけるような笑顔で頷いた。