氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

第19話 政略結婚

 そろそろか——。
 とある晴れた休日の昼下がり。アイザックは自室で落ち着かない気持ちのまま書類仕事をしていたが、机上に置いていた懐中時計を一瞥すると、万年筆を置いてゆっくりと息をつきながら椅子の背もたれに身を預けた。
 今日は、第二王子のサイラスが来ることになっているのだ。
 彼にしてはめずらしくきちんと事前に約束をとりつけて。用件は濁していたが、何か話したいことがあるような素振りだった。わざわざ後日にあらためて家まで来るということは、内密の重大な話ではないかと思う。
「アイザック様、第二王子殿下がいらっしゃいました」
 扉がノックされ、姿を現した執事がいつもより恭しくそう告げる。
 アイザックはすぐに書類を片付けて立ち上がると、そこはかとなく緊張していることを自覚しながら、階下へと降りていった。

「やあ」
 第二王子のサイラスは応接間でゆったりとソファに座っていた。なぜかその腕にかわいらしい花束を抱えて。どういうつもりなのかさっぱりわからず眉をひそめて訝しむと、彼はふはっと噴き出した。
「これおまえにじゃないよ。ちょっと早いけどアリアちゃんの誕生日お祝い。来月は忙しくて来られそうにないからついでにと思ってさ」
「…………」
 自分に持ってきたなどと思ったわけではない。
 緊張感もなくおかしそうに笑っているサイラスをじとりと睨むと、執事にアリアを呼んでくるよう頼み、サイラスの向かいの二人掛けソファにどっかりと腰を下ろした。

「アリアちゃん成長したなぁ」
 一目見るなり、サイラスはそんな感嘆の声を上げた。
 そういえば彼がアリアと顔を合わせるのは前回の誕生日以来だった。それ以降もスペンサー邸に来たことはあるが、アリアは領地に行っていたため不在だったのだ。三か月会わなかっただけでも成長を感じたのだから、一年近くとなれば当然である。
「サイラス殿下、ご無沙汰しております」
 アリアは頬を染めてはにかむと、ドレスのスカートをつまみながら膝を折って挨拶した。かがやくような純白の髪がさらりと揺れて頬にかかる。
「髪、伸ばしてるんだ?」
「はい、社交界に出るには伸ばさないといけないそうなので」
「短いのもかわいかったけど、長いのも似合いそうだね」
 いまは肩よりやや短いくらいに切りそろえられている。特に決まりはないはずだが、貴族階級の成人女性はみんな当然のように長髪なので、確かに社交界に出るには伸ばしたほうがいいのだろう。
「これ、ちょっと早いけどお誕生日のお祝い。おめでとう」
「わあ……ありがとうございます、うれしいです」
 サイラスが立ち上がってアリアに花束を手渡すと、彼女はふわりと笑う。
 今年は淡いピンク色を基調としたかわいらしいものだ。華やかで、可憐で、優しくて、品がある——そんなアリアのイメージで作ってもらったのだろうか。実際にこうして抱えていてもよく似合っている。
「今日はアイザックに話があって来たんだけど」
「あ、では、わたしはこれで失礼しますね」
「いや、アリアちゃんにも同席してほしいんだ」
 何だって——?
 ひとりソファに座っていたアイザックは思わず眉を寄せる。アリアにも関係する話なのだろうか。サイラスのことはそれなりに信じているものの、何となく不安になる。そのあいだにサイラスはアリアの花束を侍女に預けさせた。
「さあ、アリアちゃんも座って」
「あ、はい、失礼します」
 これではどちらが家の人間かわからない。
 アリアがいささか当惑ぎみにアイザックの隣に腰を下ろし、サイラスも向かいに座った。すぐに使用人が紅茶と菓子を用意するが、それが終わると、サイラスが待ち構えていたかのようにすっと切り出す。
「すまないが人払いを頼む」
「……ああ」
 そこまでするのか——。
 アリアが国王夫妻の子であることを話題にしたときでさえ、人払いなどしなかった。緊張が高まるのを感じながら使用人たちに退出を命じると、彼らは一礼して辞した。応接間にいるのは、アイザック、アリア、サイラス、彼の護衛の四人だけになる。
「それで、何の話だ」
「そう焦るな」
 サイラスはもったいつけるようにゆったりと紅茶を飲み、ティーカップを置く。アイザックも、アリアも、固唾をのみながらじっと彼の出方を窺っていたが——。
「アリアちゃん、最近、ダンスの練習をしてるんだって?」
 思いもしない話に二人して虚を衝かれた。
 どう考えても本題ではないだろう。どこからそんな情報を得たのかも気になるところだが、それ以上にまだもったいつけるのかとアイザックは苛立った。しかし隣のアリアは当惑しながらも素直に答える。
「はい、社交の場に出るときのために習っています」
「もうひととおり踊れるようになった?」
「一応は……でも余裕がないので談笑したりはできなくて」
「そこまで求められるんだ」
 サイラスは同情めいた苦笑を浮かべた。
 当然ながら社交界にもダンスが不得手なひとは少なからずいるし、踊りながら談笑するのも必須ではない。とはいえできるに越したことはなく、アリアが社交デビューとなれば注目を浴びることは避けられないので、母としては恥をかかないように厳しく指導しているのだろう。
「そういえばアイザックとも踊ってたりするの?」
「はい、アイザック様はリードが上手で踊りやすいです」
「へえ」
 そう言いながら、サイラスが面白がるような視線を向けてくる。
 学生のときにダンスの授業を一緒に受けていたので、あまり上手くないということは知られているのだ。ちなみにサイラスはかなり上手い。王子ということで幼少期より厳しく仕込まれたと聞いている。
「社交デビューしたら僕とも踊ってくれる?」
「ぜひお願いします」
 サイラスと踊れば、アイザックが実はそう上手くないことに気付かれてしまう。だからといって踊るなとは言えない。ひそかに眉を寄せていると、サイラスがこちらに振り向いて思わせぶりにふっと口元を上げた。
「おまえには僕の妻と踊ってもらおうか」
「妻って……結婚もしていないだろう」
「アリアちゃんがデビューしてからの話さ」
 言われてみれば、アリアが社交デビューするまでにはまだ四年以上ある。そのあいだに結婚している可能性は高いだろう。王族である以上、次男であっても気ままに独身でいつづけることは許されない。
「もしかして結婚の話でも出ているのか?」
 ふと予感がして尋ねてみると、彼の顔にどことなく気まずげな笑みが浮かんだ。
「まあね……今日はそのことを友人として伝えておきたくて来たんだ。くれぐれも正式発表までは内密にしてほしいんだが、もうすぐ婚約することになっている。相手は隣国グレンシュタインの姫だ」
 そう言って絵姿をローテーブルに広げる。
 描かれていたのは、緩くウェーブしたワインレッドの髪にアンバーの瞳をもつ女性、というより少女だろうか。つり目がちで気が強そうだが、そこも含めて王女らしい高貴な雰囲気を醸し出している。
「現在十四歳で、もうすぐ十五になるらしい。十六になるのを待って結婚する」
 聞くまでもなく政略結婚だろう。
 最近、宰相が秘密裏に動いているような気配を感じていたが、それだったかと得心した。自分が蚊帳の外だったことは残念だが、センシティブな問題なので関わる人間を減らしたいというのも理解できる。
 なにせ隣の小国グレンシュタインとはあまり友好的な関係にないのだ。だからこその政略結婚なのだろうが。確か王女は一人なので、その唯一の王女を差し出すということが重要な意味を持つに違いない。
 しかし、当事者のサイラスにどんな言葉をかければいいのかはわからない。アリアも何となく察したらしく戸惑ったような面持ちで目を泳がせる。
「そんな顔するなよ」
 軽く噴き出しながらサイラスが言った。
「そもそもおまえらだって政略結婚みたいなものだろう。俺はこれでも王子だから昔からその覚悟はしていたし、そろそろだろうと思ってた。相手が若すぎるのはいささか不安だけど、それでもおまえらのところよりはマシだからな」
 そう冗談めかすが、さすがに外国の王女は想定していなかったのではないか。昔ならともかく、周辺の情勢が安定してからはめっきり少なくなっているのだ。
「何かあったら相談に乗ってくれ」
「ああ……役に立てるかはわからないが」
「頼りにしてる」
 王子である彼が個人的なことを話せる相手は多くない。アイザックはその数少ない一人であると自負している。結婚について有益な助言はとてもできそうにないが、話を聞くくらいならできるだろう。
 彼はふっと笑い、今度はアリアにやわらかい表情を向けた。
「アリアちゃんにもお願いがあるんだ」
「わたしにですか?」
 目をぱちくりさせて不思議そうに聞き返す彼女に、サイラスは微笑みかける。
「姫が嫁いできたら仲良くしてもらえないかな。異国からひとりで来るとなれば心細いだろうしね。年が近いアリアちゃんとなら打ち解けられるかもしれないと思って」
 なるほど、アリアを同席させたのはこのためだったのか——。
 しかし、気の強そうな異国の姫と仲良くなどできるのだろうか。向こうが友好的ならいいがそうとは限らない。心配性のアイザックとしてはどうしても不安を覚えてしまうが、アリアは真剣な顔になって頷いた。
「もちろんです。住み慣れたところを離れる心細さは、わたしにもわかりますから」
「ありがとう」
 サイラスに安堵の色がにじんだ。
 彼はきっと妻となる少女のことを心から案じているのだろう。政略結婚とはいえ、体裁だけの夫婦になるつもりはないようだ。その点、ひどく消極的だったアイザックとは違って誠実であると言えた。

「じゃあな」
 その後、しばらくとりとめのない話を楽しんでからサイラスは帰路についた。
 おそらくこれから結婚の準備などで忙しくなるはずだ。アイザックとは仕事関係で顔を合わせることもありそうだが、アリアに会いにくる余裕はなくなるのかもしれない。だからいまのうちにと思ったのだろう。
「グレンシュタインについて勉強しておいたほうがいいですよね」
 彼を見送ったあと、アリアが前を向いたままふとそんなことをつぶやいた。
 それほど気負っている様子はないものの、引き受けたからには責任を果たさなければと考えているのだろう。そういう真面目なところがアリアらしいともいえるが——。
「あまり無理をすることはない。気が合う合わないもあるだろうし、向こうがどういう心持ちでいるかもわからないし、努力しても仲良くできるとは限らないからな」
「それでも歩み寄る努力はしたいです」
 そう答えると、彼女はくるりとまわりこむように振り返って笑顔を見せる。
「わたしも同じ年頃の友達ができたらうれしいですし」
「……そうだな」
 ふと劇場で出会ったレオという少年のことを思い出す。アリアは国の都合により故郷の人間関係を断ち切られてしまい、そのせいで気の置けない同年代の友達もなくして、やはり寂しさはあったのだろう。
 アイザックは目を伏せる。
 まだ見ぬグレンシュタインの姫がどういう人物かはわからないが、せめて友好的であってくれたら。アリアのためにも、サイラスのためにも——いまはただ静かにそう願うことしかできなかった。