氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

第21話 再びの別離

「ちょっと時間いいかしら」
 夕食後に自室で書類仕事をこなしていると、母のイザベラがやって来た。わざわざそう確認するということは、それなりに込み入った話なのだろう。面倒だなと思いつつも顔には出さずに対応する。
「キリのいいところまで終わらせてもよろしいですか? 長くはかかりません」
「それでは待たせてもらいます」
 母は勝手にベルを鳴らして使用人にお茶の用意を頼むと、応接セットのほうへ移動する。
 アイザックとしては落ち着かないのでやめてほしかったが、言うだけ無駄だろう。こちらの何倍も言い返してくることが目に見えている。ひそかに嘆息すると、どうにか気持ちを切り替えて手元の書類に目を落とした。

「それで、用件はなんでしょうか?」
 一区切りがつくと、母の向かいに腰を下ろして用件を尋ねた。
 母は手にしていた飲みかけのティーカップを置いて、流れるような所作で空のティーカップに紅茶をそそぎ、すっと差し出した。そしてあらためて姿勢を正すとまっすぐに尋ねかける。
「あなた、今年のシーズンオフはどうするのです?」
「ああ……仕事が忙しくなりそうなので、王都に残ります」
「あらそう」
 忙しくなりそうというのは本当である。
 正式発表がまだなので母には話すわけにもいかないのだが、サイラスの婚約が間近に控えており、今後はそれに伴う仕事が増えるため、できれば王都に残ってほしいと宰相のメイソンから言われているのだ。
「アリアは連れていきますからね」
「わかっています」
「今年は一緒に行くのかと思ったわ」
「…………」
 仕事の話を聞かされるまでは実際にそのつもりだった。アリアとともに領地で過ごすのも悪くないと思っていたし、できれば一緒に行きたかった。しかしこういう状況になってしまったのだから致し方ない。
 向かいの母はもうぬるくなってそうな紅茶を口に運ぶと、そっと息をついた。
「まあ、距離を置いてみるのもいいかもしれないわね」
「…………?」
 わけがわからずアイザックは眉をひそめるが、彼女は動じることなくティーカップを戻し、軽く肩をすくめて言葉を継ぐ。
「このところずいぶんとアリアに入れ込んでいるようじゃない。誕生日も去年は覚えてさえいなかったのに、今年はずいぶんと手間暇がかかってそうな立派なプレゼントまで用意して。朴念仁のあなたが髪飾りを選ぶなんて思いもしなかったわ」
 確かに、女性に髪飾りを贈るなどいままでの自分ではありえなかった。だからといって責められる謂れはないはずだ。入れ込んでいるなどと含みのある物言いをするのは理解できない。
「きちんと愛してあげなさいと言ったのはあなたでしょう」
「ええ、ですが成人するまで手を出すことは絶対に許しませんからね」
「……言われずとも承知しています」
 奥底まで探るようなまなざしであらためての注意喚起をされて、そういうつもりは微塵もなかったものの、疑われていたのかと何とも言えない気持ちになり視線を落とす。
「それならいいのです」
 母はすっとたおやかにソファから立ち上がり、アイザックを見下ろす。
「真面目で堅物のあなたが間違いを犯すとは思っていませんけど、一応、釘を刺したまでよ」
 感情の読めない表情のまま淡々とそう告げると、もやもやとしているアイザックをその場に残して、振り返ることなく部屋をあとにした。

 パタンと扉が閉まり、アイザックは無意識に詰めていた息を吐く。
 シーズンオフの確認くらいでどうして部屋まで来たのか疑問に思っていたが、これで合点がいった。おそらくこうしてアリアとの関係について釘を刺すためだったのだろう。責任感ゆえというのは理解している。
 だが——膝の上で組んだ手に力がこもっていく。
 そのとき用意されたまま一口も飲んでいなかった紅茶が目につき、思わず手を伸ばして一息に飲み干す。すっかり冷めきっていたせいか渋みと苦みを強く感じてしまい、誰もいない部屋でひとり顔をしかめた。

 その後、深夜まで仕事をして寝室に入ると、アリアはもう眠っていた。
 アイザックはそっと揺らさないよう寝台に上がると、隣の彼女を見下ろす。何も疑っていない無防備な寝顔。きっとアイザックを無条件に信頼してくれている。その信頼を裏切ることなどできるわけがない。
 それ以前に、こんな子供をどうこうしたいなどと思うわけがない。ただ単に好ましいと思っているだけである。夫として妻を大事にしたいと思うのは当然のことで、母もそれを願っていたはずなのに。
 ふと、アリアの顔がゆるむ。
 何か幸せな夢でも見ているのかもしれない。微笑を浮かべたまま、もぞりと身じろぎしてこちらに体を向ける。アイザックはわずかに目を細め、無造作に頬にかかった純白の髪に手を伸ばすが——寸前で止めた。
 その手で自分の額をつかみ、深く息をつく。
 いまだ微笑を浮かべたままの彼女にチラリと目を向けたあと、静かに横になって目を閉じる。けれど隣からほんのりと感じるぬくもりに落ち着かない気持ちになり、なかなか寝付くことができなかった。

 それから一か月——。
 多少意識してしまう部分はあるものの、アリアとはこれまでとあまり変わりなく過ごしていた。もともとほどよい距離を保っていたのだ。寝台の上ではどうしても接触してしまうことはあるが、致し方ないだろう。
 母のイザベラも、あれ以降は何も言ってこなかった。
 念のためだったのだろうが、それにしてもなぜ疑いを持たれたのかはやはり解せない。髪飾りだけでなく、他にも何か疑わしい言動があったのだろうか。もやもやと気になりつつも尋ねることはできなかった。

「いってきます」
 そしてアリアが両親とともに領地へ出立する日になった。
 アイザックは見送りのために玄関先まで出てきていた。向かい合う彼女の顔が、声が、どこか寂しげに感じられるのは気のせいではないだろう。
「元気でな」
「アイザック様も」
「ああ」
 そのやりとりは昨年と変わらなかった。
 アリアは名残惜しそうに身を翻し、すでに両親が乗り込んでいる馬車のほうへと向かう。そのとき首からさげていたプラチナの指輪が大きく揺れて、一瞬、キラリと清冽にかがやいた。