「わたし、ベルファスト公爵家のお茶会に招待されたんです」
領地からアリアたちが無事に帰ってきてしばらく経ち、すっかり落ち着いたころ。
アリアがやわらかい陽だまりの窓際で母とティータイムを過ごしているところへ、アイザックがすこし遅れて席につくと、すぐに聞いてほしかったらしく笑顔で声をはずませて報告してきた。
「お母さまと一緒ですけど」
間を置かず、軽く肩をすくめてそう言い添える。
ベルファスト公爵夫人は約半年前に当家で開いたお茶会に出席しており、そのときにアリアとも交流を持っているので不思議はない。シェフィールド公爵家の人間と認めたからこその招待なのだろう。
母も同席するようだし、そう過剰に心配することはないのかもしれない。何より本人が喜んでいるのだから一緒に喜んでやるべきだ。そう思うものの、アリアの立場を思えばどうしても不安に駆られてしまう。
どう返事をすればいいかわからず沈黙していると、彼女は表情を曇らせた。
「アイザック様は反対ですか?」
「いや、反対というわけではないが……」
「あなたは本当に心配性ねぇ」
それまで黙っていた母のイザベラが呆れたように口をはさみ、溜息をついた。手にしていたティーカップを優雅な所作で戻して話をつづける。
「招待客はわたしと面識のある常識的な方ばかりよ。そんなに格式ばったものではないし、挨拶して普通におしゃべりすればいいだけだわ。みなさんアリアと会えるのを楽しみにしているそうよ」
それは、『厄災の姫』として興味があるということでは——。
うっすら眉をひそめたものの、アリアを傷つけるようなことを言えるはずもなく、微妙な面持ちのまま口を閉ざすしかなかった。
「アイザック様が心配してくださるのはうれしいです」
隣のアリアが静かに言う。
「でもベルファスト公爵夫人はお優しい方なので、大丈夫だと思います。わたし他のお茶会がどんなのか見てみたいですし、ベルファスト公爵夫人にもまたお会いしたいので、できれば出席したいと思っています」
ベルファスト公爵夫人についてはそれなりに信用しており、彼女と交流を持つことには賛成している。アイザックが気にしているのはあくまで他の招待客なのだ。とはいえ何の根拠もないのにやめさせられない。
「つらくなったら無理せず帰ってくるといい」
「はい!」
アリアは宝石のような青緑の瞳をキラキラとかがやかせ、満面の笑みで頷く。
それを見ていた母も満足したような顔になった。母としてはアリアの成長につながると考えているのだろうし、歓迎する気持ちもわからなくはなかった。
「では、行ってきますね」
半月ほどが過ぎ、ベルファスト公爵家のお茶会に行く日がやってきた。
アリアは濃青色を基調とした品のいい華やかなドレスを身にまとい、肩よりも長い純白の髪にはアイスブルーの小花があしらわれた髪飾りをつけている。アイザックの贈り物だ。こういう大事な場で身につけてくれることが思いのほかうれしい。
「ああ……気をつけて」
「はい」
彼女はニコッと笑って応じる。
「さあ、行きますよ」
母が声をかけると、二人はそれぞれの侍女とともに馬車に乗り、お茶会が行われるチャーチル邸に向けて出発した。
そう、お茶会はチャーチル邸で行われるのだ。
そこにはベルファスト公爵夫人の息子であるレイモンドもいる。男なのでお茶会には参加しないはずだが、顔を合わせることはできるだろう。本当にアリアに懸想しているならこの機会を逃すとは思えない。
お茶会の話を聞いたあの日、ティータイムが終わってからそのことに気付いてますます不安になったが、行くななどと言えるわけもなく、ひとりありもしない妄想に気を揉んでひたすらモヤモヤとしていた。
まあ、母もいるし滅多なことはしないだろうが——。
ただ、滅多なことをしなくてもアリアの心は奪われるかもしれない。レイモンドから挨拶を受けて頬を染めていた彼女を思い出し、眉を寄せる。恥ずかしくて照れているだけだとしても面白くはない。
王宮で仕事に没頭していれば多少は気もまぎれただろうが、残念ながら休日だ。
自室で公爵家の仕事をこなしてはいるものの、どうにも身が入らない。急ぎの仕事ではないというのもあるし、自分ひとりだからというのもあるだろう。情けないことに最近はそういうことがやけに多い気がする。
「アイザック様」
頬杖をついていると、扉をノックして執事が恭しく入ってきた。アイザックは慌てて居住まいを正す。
「どうした?」
「レイモンド・チャーチル様がいらっしゃいました。お約束はありませんが、アイザック様の都合がよければお会いしたいそうです。いかがいたしましょう」
えっ——?
にわかには理解することができなかった。しばらく時が止まったように頭がまっしろになったあと、ハッとして弾かれたように立ち上がる。
「レイモンドがここに来ているのか?」
「はい、応接室にお通ししております」
「わかった」
アイザックは逸る気持ちのまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
「やあ」
応接室の扉を開けると、レイモンドが優雅にソファに腰掛けて紅茶を飲んでいた。言葉もなく固まっているアイザックに振り向き、人当たりのいい笑みを浮かべる。
「急に訪ねて悪かった」
「いや……用件は何だ?」
「せっかちだな」
あからさまに訝しむアイザックを見て、彼はおかしそうに笑いながらそう言い、ティーカップを置く。
「君の奥方がうちに来ているらしいから、暇を持て余してるんじゃないかと思ってね。ワインを持ってきたからよかったら二人で飲まないか?」
「……真っ昼間だぞ」
「たまにはいいだろう」
「仕方ないな」
いかにも呆れたように溜息をつきながらそう応じたものの、内心では彼がアリアと顔を合わせていなかったことにひどく安堵し、心が軽くなるのを感じた。
「乾杯」
レイモンドが持参した赤ワインを二人で飲む。
手頃ながらおいしいと評判の銘柄で、実際、高級ワインにも引けを取らないくらいだとアイザックも思う。気軽な訪問の手土産としてはうってつけだろう。こちらで用意した生ハムともよく合っている。
「いいマリアージュだな」
「ああ……」
レイモンドもワインと生ハムの相性を気に入ったようだ。
ただ、その表現に鼓動が跳ねた。マリアージュは結婚を語源とする言葉だが、こちらが勝手に意識しているだけで他意はないと思いたい。彼はもう一口ゆっくりと優雅にワインを味わってから、グラスを置く。
「もう仕事は落ち着いてるんだろう」
「とりあえずはな」
第二王子の結婚に向けてすべきことは多岐にわたり、それなりに忙しくはあるが、いまのところは休日も取れていて平時とそう変わらない。彼には宰相の父親がいるので、そういう状況であることはだいたい把握していたのだろう。
「来年にはまた忙殺されそうだが」
「だろうね」
レイモンドは軽く笑い、今度は一口サイズのチーズに手を伸ばした。
「ダンスの練習はしてるのか?」
「月一くらいのペースでな」
「奥方とは上手く踊れてるか?」
「まあ、それなりには」
月一といってもシーズンオフは離ればなれになっていたので、あれからまだ三回しか練習していない。とりあえずは忘れない程度に踊っているといったところだ。母には表情のことで文句を言われつづけているが。
彼はふっと笑い、チーズを手にしたままゆったりとソファに身を預けた。
「でも奥方とでは身長が違いすぎて組むのも難しいくらいだし、君自身の練習にはならないだろう。しっかりとダンスの練習がしたいのなら僕がまたつきあうよ」
「……必要があればな」
アリアと踊らせたくない、組ませたくない、と言っているように聞こえるのは穿ちすぎだろうか。些細なことでも怪しく思えてならない。ただの親切心で言ってくれたのであれば本当に申し訳ないのだが。
いっそ、アリアが好きなのか本人に訊いてみれば——。
チーズを食べてワインを飲んでいる彼をチラリと上目遣いで窺いながら、そんなことを考えてみたものの、正直に答えるとはかぎらない。否定されても信じられないのなら結局は真実などわからないままである。
もっとも彼の気持ちを知ったところで何が変わるわけでもない。たとえ本当にアリアのことが好きだとしても、どうにもならないことは本人もわかっているだろう。知りたいのは自分が気になるからというだけだ。
「奥方が心配か?」
ふいにからかうような声音でそう問われて、ドキリとする。
お茶会のことを言っているのだろうが、アリアを心配しているという点では当たらずとも遠からずだ。彼を疑った後ろめたさもあって何となく目を泳がせながら、まあ、と歯切れの悪い言葉を返すと、彼はくすりと笑った。
「今日のお茶会にはシェフィールド公爵夫人も同席してるんだから、心配はいらないさ。誰もわざわざ公爵家の不興を買うような真似なんてしない。内心でどう思っていようとも表面上は友好的に接するだろうね」
そう応じると、急にすっと真面目な顔になる。
「ただ、一部ではシェフィールド公爵家ごと忌避する向きもある」
「……わかっている」
表立ってではないものの、一部貴族が距離をおこうとしていることには気付いている。そのくらいのことでシェフィールド公爵家は揺らがないが、万が一、この流れが大きくなればどうなるかわからない。
その現状に、もしアリアが気付いたら。
自分自身が忌避されるより、自分のせいでシェフィールド公爵家の立場が悪くなるほうがつらいだろう。彼女自身は何も悪くないのに自分を責めてしまうかもしれない。今回のお茶会では大丈夫だろうが——。
「すまない、余計なことを言ったな」
「いや……」
難しい顔をしていると、レイモンドが申し訳なさそうな笑みを浮かべて謝罪してきた。
余計なこととまでは思っていないが——アイザックはもやもやした気持ちのままグラスに手を伸ばし、ワインを呷った。アルコールで体が熱くなってくるのを感じながら、空になったグラスを置く。
「そのうち厄災なんて消えるさ」
息の詰まりそうな沈黙の中、ひとりごとのようにぽつりと落とされたその言葉は、おそらくきっと彼なりの慰めだったに違いない。
「ごきげんよう」
その後、気を取りなおして雑談をしていたところ、イザベラとアリアが出かけたときと同じ衣装のまま挨拶に来た。お茶会を終えて帰宅し、レイモンドの来訪を聞いてすぐさまここへ足を運んだのだろう。
二人ともにこやかで、その表情のどこにも陰のようなものは見当たらない。母はともかく、アリアがそれほどうまく取り繕えるとは思えないので、お茶会で特に問題は起こらなかったのだと察せられたが。
もうそんな時間になっていたのか——。
彼女たちが帰ってくることなどすっかり頭から抜け落ちていた。というかわざわざ顔を出すとは思いもしなかった。
もしかすると、レイモンドは最初からこれを狙っていたのではないか。アリアと会うためにここへ来たのではないか。そんな疑念も湧き上がるが、たとえそうだとしてもいまとなってはもう手遅れである。
「うちに来ているとは存じ上げなかったわ。お茶会で居づらかったかしら」
「いえ、フラフラしているのはいつものことですから」
レイモンドはすぐさま立ち上がってにこやかに応じると、イザベラのまえに跪いて手にキスをした。つづいてアリアにも同じように跪いて手にキスをした。母のときよりも長く感じるのは気のせいだろうか。
「しばらく見ないあいだに美しく成長なさいましたね」
「え……あ、ありがとうございます……」
アリアは頬を紅潮させながらドギマギと応じた。
彼がどんな顔をしているのかは見えないが、きっと数多の女性を惹きつけるあの艶やかな笑みを浮かべているのだろう。思わず眉をひそめると、彼はそれを見透かしていたかのようにチラリと振り向いて口の端を上げる。
「アイザックにはとても大切にされているようだ」
一瞬、アリアはきょとんとしたが、すぐにくすぐったそうに笑いながら「はい」と声をはずませた。さきほどまでとは違って心を許したかのように表情がやわらかい。まだ彼に片手を預けたままなのに——。
「ゆっくりしていってちょうだいね」
挨拶を終え、イザベラとアリアがそろってにこやかに退出する。
レイモンドはそれを笑顔で見送り、静かに扉が閉まるのを見届けるとソファのほうに戻ってきた。さきほどまで座っていたところに再びゆったりと腰を下ろす。
「うらやましいな」
「え?」
「何でもないよ」
どことなく寂しそうな笑みをたたえたまま、彼はワインに口をつける。
言われてみれば、彼にも好きなひとがいるのだから羨んでも不思議はない。もしそれがアリアならなおのこと——アイザックではなく自分が彼女を大切にしたかった、それができる立場になりたかった、そんなふうに思っているのかもしれない。
「…………」
だがアイザックに言えることはない。
その言葉にも、その表情にも、何ひとつ気付かなかったことにして、いつもどおり無表情のままワインに口をつけた。