氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

第26話 噂の再燃

「ショーン様が任務中に負傷されたとのことです」
 それはとても寒いとある日のことだった。
 朝食を終えて、そろそろ食堂から引き上げようかというころ、執事がもたらしたその報告により家族一同に緊張が走った。アイザックも息をのみ、椅子に座ったまま凍りついたように固まってしまう。
 現在のショーンの任務はサイラス第二王子の護衛である。隣国の姫との結婚に反対する勢力から守るため、若手騎士の中から抜擢されたのだ。身に危険があるかもしれないことは承知していたが——。
 執事が礼儀正しく差し出した騎士団からの書状を、父のセオドアが顔をこわばらせながら受け取り、目を通していく。
「あなた……ショーンは……」
 母のイザベラが震える声で問いかけると、父は片手で顔を押さえながらうつむき、深く息をついた。
「腕を骨折して頭も打ったが、意識はしっかりしているらしい」
「そう……」
 重傷ではあるが、とりあえず命に別条はなさそうだ。
 母は心配と安堵が入り混じったような複雑な顔をしている。その向かいでアイザックもアリアもひとまず小さく安堵の息をついた。
「殿下は無傷だ」
 父はそう言い添え、執事経由でアイザックに書状をまわしてきた。
 そこに綴られていたのは経緯と現状だ。護衛任務中、襲撃してきた男二人から殿下を無傷で守ったが、その際に鈍器で殴られて右腕を骨折したうえ頭も打ったらしい。意識はしっかりしているものの、念のため医者をつけて一日様子を見るとのことである。
「ショーンはいまどこにいるのでしょう?」
「騎士団本部の医務室だ。君に様子を見てきてもらいたい」
「承知しました」
 父の命を受け、母は真剣な表情で頷いてさっそく立ち上がる。それを追うようにアリアもあわてて立ち上がった。
「あの、わたしもご一緒しましょうか」
「アリアは家でしっかり勉強してちょうだい」
「はい……」
 母に断られて、彼女は落ち込んだように椅子に座りなおす。
 スペンサー家の一員として自分も役に立ちたかったのだろうが、同行すれば好奇の目にさらされることは避けられないし、何よりショーンは『厄災の姫』である彼女に良い感情を持っていない。母もそのあたりのことを危惧したのではないかと思う。
「あなたひとりで先生をお迎えできるわね?」
「はい、大丈夫です」
「わたくしは急な用件で不在だとお伝えして」
「わかりました」
 母は簡潔に指示を出すと、焦燥をにじませながら足早に食堂をあとにした。
 先生というのはアリアの家庭教師のことだ。知らない相手ではないし、普段から授業はひとりで受けているし、いざとなれば使用人もいるので問題はないだろう。
「父上、わたしも時間があればショーンを見てきます」
「そうだな、おまえが行けばショーンは大喜びするだろう」
「……でしょうね」
 別に喜ばせようと思ったわけではないが、それですこしでも元気になってくれるのならありがたい。アイザックなりに弟のことは大事に思っているのだ。
「アイザックもアリアも面倒をかけるが、よろしく頼む」
 父にそう言われ、アイザックとアリアは座ったまま一礼して応じた。

 朝食のあと、アイザックはいつもより早めに王宮に向かったが、執務室についたときにはもう宰相のメイソンが来ていた。すでに第二王子襲撃について耳にしているのだろう。いつになく深刻な顔をしている。
「サイラス殿下の件は聞いているな」
「はい」
 メイソンは挨拶もなしに本題に入った。
「関係者の聴取はひととおりすませているとのことだが、わたしはこれからサイラス殿下に直接お窺いしてこようと思う。君は騎士団本部にいる弟君から話を聞いてきてほしい」
「承知しました」
 もともとショーンのところへ行こうとは思っていたが、正式な職務になった。執務室を出ていくメイソンを見送ると、筆記具などの準備を手早くすませて騎士団本部へ向かった。

「こちらです」
 受付で事情を話し、ショーンのいる医務室まで案内してもらった。
 ノックをすると中から男性の声で「どうぞ」と返事があり、扉を開ける。事務机に向かっている男性医師がおそらく声の主だろう。奥のほうに目を向けると、ふたつ並んだパイプベッドのひとつに弟のショーンが寝ていた。
「兄さん!」
 アイザックに気付くなり、彼はパッと顔をかがやかせてベッドから飛び起きた。右の前腕には添え木をされて、頭には包帯を巻かれているものの、思ったより元気そうですこし安心したのだが——。
「おい、激しい動きはするなと言っただろう」
「すみません」
 ショーンは男性医師に呆れたような口調で叱られてしまった。
 そういえば頭を打っているからここで様子を見ているのだった。あまり動かすのはよくないのだろう。アイザックはベッド脇に置かれていた丸椅子に腰掛けると、鞄から筆記具を取り出しながら言う。
「大変だったな。頭を殴られて腕を骨折したと聞いたが」
「頭は出血したけどもう止まってるし、腕は元通りになるって」
「そうか、後遺症が残らないのならよかった。騎士にも復帰できるな」
「ん……でもこんな怪我させられたなんて情けなくてさ」
「殿下をお守りしたのだから役目は果たせただろう。名誉の負傷だ」
「……ありがとう」
 さすがの彼もだいぶ落ち込んでいるらしく、いつになくしおらしい。見てるとかわいそうになってくるが、体のほうは問題なく元通りになりそうなので、そのうち時間が解決してくれると信じている。
「そういえば母上も様子を見に行くと言っていたが」
「うん、さっきまでいたよ。大急ぎで取るものも取りあえず来たみたいでさ。僕が元気なのを見て安心して、何かおいしいものを買ってくるって出て行ったところ。別にいらないって言ったんだけどね」
 そう言って肩をすくめる。
 母としては、息子のために何かせずにはいられなかったのだろう。買いに出ただけなら、すぐではないにしてもそのうちまた戻ってくるし、こちらの用件は早いところ終わらせたほうがよさそうだ。
「さっそくで申し訳ないが、体調に差し障りがないようであれば、宰相補佐として事件について話を聞かせてもらいたい」
「ああ、うん……」
 彼はうつむいてすこし考えるような素振りを見せたあと、時系列に沿って話し出した。

 早朝、サイラスと側近と護衛二人が馬車で公務に向かっていた。
 だが王宮を出てまもないところで急に馬が暴れ出した。御者がどうにか止めたが、別の馬車に乗り換えたほうがいいと判断して馬車から降りると、待ち構えていたかのように男がナイフで襲いかかってきた。
 すぐにショーンが制圧し、もう一人の護衛と側近がサイラスを守りつつ王宮へ誘導していたら、物陰にいた別の男が木の棒でショーンに殴りかかってきた。だが制圧した男を放すわけにはいかず、とっさに右腕一本で受け止めようとしたものの、受け止めきれずに頭にも一撃を食らってしまった。
 それでも意識を失わず、頭から血を流しながら強気に睨めつけたところ、男は木の棒を構えたまま動揺したように後ずさった。そして制圧された男が呻くように発した「逃げろ」の声を聞くと、踵を返して走り去った。
 ほどなくして応援が来て、ショーンが制圧していたナイフの男は逮捕された。
 木の棒で殴りかかってきた男は逃走してしまったが、現在捜索中だという。サイラスを襲ったわけではないものの、ナイフの男を助けようとしたうえ彼に逃げろと言われたのだ。仲間であることは疑いようがない。

「ナイフの男は明確にサイラス殿下を狙ったんだな?」
「そうだね、僕にはそう見えた」
 あとで男の供述も確認するが、やはりサイラスの結婚を潰すための犯行かもしれない。想定した事態ではあるものの、実際に起こったとなれば衝撃を受けざるを得ない。ただ、話を聞くかぎり組織的なものではなさそうだ。
 アイザックはメモを取り終え、小さく息をつく。
 ひととおり聞くべきことは聞いた。あとは宰相のメイソンに報告して、この事件を公表するか否か、犯人をどうするか、サイラスの警備をどうするかなど、各所と相談しながら決めていかなければならない。
「ショーン、聞き取りに協力してくれて感謝する」
「兄さんの役に立てたのならよかった」
 そう言って彼はうれしそうな笑みを浮かべる。顔色は悪くないが、痛みもある中での聞き取りで少なからず無理をさせただろうし、きっとそれなりに疲れがあるのではないかと思う。
「ここで一日様子を見たあとはどうするんだ?」
「あー……一週間くらい実家で休めって言われてる」
「そうだな、それがいいだろう」
 しばらく静養できるようで安心した。利き手が使えないのだから、宿舎でなく実家にいたほうが過ごしやすいはずだ。
「一週間じゃ骨折は治らないけどね」
 ショーンは添え木をされた右腕をすこし持ち上げてそう言い、肩をすくめた。その顔にはあきらめたような寂しそうな表情が浮かんでいる。当然ながらサイラスの護衛からは外されるに違いない。
「仕事は配置転換になるのか?」
「とりあえず完治するまでは本部で雑務をあてがわれると思う」
「そうか……」
 組織にいる以上はできることをするしかない。複雑ではあるだろうが、何もしないよりは精神衛生的にもいいのかもしれない。完治して以前のように動けるようになったら、騎士にも戻れるはずだ。
「そういえばさ」
 ふと思い出したようにショーンが切り出した。
「僕が負傷したのは『厄災』のせいじゃないかって一部で噂されてる」
 ——は?
 まさかとは思うが『厄災』とはアリアのことなのか? スペンサー家に『厄災の姫』がいるから、家族のショーンに厄災が降りかかったと言いたいのか? いくらなんでもこじつけが過ぎるだろう……!
「いや、そんな怖い顔しないでよ。言ってるのは僕じゃなくてまわりのひとたちなんだしさ。現場でも医務室でもそういう話をしてるのが聞こえてきたから、兄さんには言っておいたほうがいいかなって」
「おまえもそう思っているのではないか」
 低い声で攻撃的に尋ねると、ショーンは思いのほか真剣なまなざしで見つめ返してきた。そのまま一瞬たりとも視線をそらすことなく、静かに、しかしはっきりときっぱりと迷いなく告げる。
「この件については自分の未熟さゆえだと思ってるし、責任転嫁する気はない」
 それは騎士として護衛としての彼の矜持なのだろう。だがふいに小さく息をついて複雑そうな微笑を浮かべたかと思うと、肩をすくめて付言する。
「だからって彼女が『厄災』じゃないと認めたわけじゃないから。占いを全否定するだけの根拠はないしね。いまでも兄さんやスペンサー家に厄災が降りかからないか心配してる」
「……アリアには言うなよ」
「わかってる。別に波風を起こすつもりはないんだ」
 残念な気持ちはあるが、そう簡単に考えが変わらないこともわかっている。この件を『厄災の姫』のせいにしなかっただけでもありがたいし、アリアを排除しようという気がないのであればそれでいい。
 ガタン——。
 静寂に物音が響いた。
 反射的に音のしたほうに振り向くと、男性医師が椅子を引いて戸棚に手を伸ばしているところだった。彼は視線に気付くと苦笑してアイザックのほうに向きなおる。
「うるさくしてしまって申し訳ありません」
「いえ……」
 彼がいることを失念していた。
 アリアを引き受けたシェフィールド公爵家の人間として、厄災の姫について人前で話すべきではなかったし、次男が厄災の姫を忌避していると噂が広まるのも好ましくない。もう手遅れかもしれないが——。
「心配しなくても、ここで聞いたことは口外しませんよ」
 まるでアイザックの思考を読んだかのように、彼は軽く笑って言う。
「医務室の中のことには守秘義務があると思っています。それに、わたしは占いなんて曖昧なものを信じていませんから。彼女が幸せな人生を歩めるよう願っています」
「ありがとうございます」
 穏やかながら理知的に話す男性医師の言葉を聞いて、内心ほっとした。
 ショーンに向きなおると、バツが悪そうにすっと視線をそらしてうつむいた。さすがにいたたまれない気持ちになったのだろう。アイザックは何も言えず、床に置いていた鞄をつかんで静かに帰り支度を始めた。

「しばらくお世話になります」
 翌日、ショーンはスペンサー邸に帰ってきた。
 一日様子を見たかぎりでは特に問題はなかったものの、あらかじめ言われていたとおり、一週間ほど実家であるここで静養することになったのだ。あまり気が進まないようだが上司の命令では逆らえないだろう。
 右腕はがっちりと添え木をされたうえ首から白い布で吊られ、頭にも白い包帯がグルグルに巻かれており、実際の負傷程度よりも痛々しそうな見た目になっている。それゆえか彼はどこか体裁が悪そうにしていた。
「そんな他人行儀な言い方はよしてちょうだい。家族でしょう。あなたの家なんだからいつでも帰ってきていいのよ」
 母が優しく歓迎すると、ようやくほっとしたように表情をゆるめた。
 母の後ろにいたアイザックにも照れくさそうに笑いかけてきたが、そのとき隣のアリアに気付いたらしく、一瞬、驚いたように目を見開いたあと微妙に目をそらした。そして母に付き添われつつ自室へと向かう。
「やはりショーン様にはよく思われていないんですね」
 階上の足音が遠ざかり、さきほどまでいた居間に戻ろうとアリアを促すと、彼女は寂しげな微笑を浮かべてつぶやくように言った。
「怪我もわたしのせいだと思われてるんでしょうか」
「それはない。自分が未熟だからだとショーン自身が言っていた」
「そうですか……」
 しかし素直には受け止められないようだ。
 肝心のショーンがあの態度なので無理もないだろう。アイザックもこれ以上の擁護はできない。無言のまま彼女の細い肩にそっと手をまわして、居間へと促した。

 それからショーンとの同居生活が始まった。
 食事はみんなと一緒に食堂でとっている。利き手は使えないが、一口大に切った状態で出すなど配慮されているので、どうにかひとりで食べることができている。ただ、会話を楽しむ余裕まではないようだ。
 日中は自室でおとなしく本を読んだりしているらしい。頭を打っているので、しばらく運動は控えるように言われているという。せめてティータイムを一緒にと母が誘っていたが、来ることはなかった。
 やはりアリアとはあまり顔を合わせたくないのだろう。同席するのはせいぜい食事くらいである。一応、朝に会ったときなどに挨拶だけはしているようだが、形式的なもので、それ以上の会話をすることはない。
「兄さん、今日もいいかな?」
「構わない」
 夜になると、よくアイザックのところへやって来る。
 ただとりとめのない話をするときもあれば、軽くワインを飲むときもあるし、チェスなどのボードゲームに興じるときもある。退屈しているだろうから、自分がいるときくらいは相手をしてやりたいと思うのだ。
 ショーンのことは家族として大切に思っている。
 だからこそアリアとも家族として良好な関係でいてほしいのだが、彼が『厄災の姫』を信じているかぎり難しいだろう。そうではないとわかってもらうにはどうすればいいのか、まだ答えは見つけられずにいる——。

「お世話になりました」
 一週間後、ショーンは予定どおり宿舎に戻り、騎士団の仕事に復帰することになった。とはいえ骨折はまだ完治していないため、以前に話していたとおり、当分のあいだは本部で簡単な雑務をあてがわれるらしい。
 彼の挨拶に、見送りの母はどこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「水くさいわね。またいつでも気軽に帰ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
 アイザックとショーンの乗った馬車は、母とアリアに見送られながらゆっくりと軽快に走り出す。騎士団本部と王宮はすぐ近くなので同乗しているのだ。ショーンがスペンサー邸から出勤するときはたいていそうしている。
「休暇中、兄さんとたくさん話せて楽しかったな……まあ兄さんは面倒だったと思うけど」
「そんなことはない」
 即座に否定したが、ショーンはそれを単なる気遣いと受け取ったのだろう。口をつぐんだままどこか申し訳なさそうにうっすらと微笑むと、小さく息をつき、ゆっくりと窓の向こうを見やるように顔をそむけていった。
 ガタガタという馬車の走る音だけが響く中、気詰まりな沈黙がつづく。
 それでもアイザックは無言のまま前を向いて座っていた。隣のショーンもただじっと窓の外を眺めているようだったが、そのまま振り向くことなく「あのさ」と何となく言いづらそうに切り出す。
「彼女のことも申し訳なかったと思ってる」
「ああ……」
 表情は見えないが、彼なりに葛藤があったことは声から窺えた。
 そう言ってくれるだけでかなりの歩み寄りである。いつかアリアを受け入れてくれる日が来るのではないか——アイザックはかすかな希望を胸に感じながら、馬車に揺られたまま窓越しに薄曇りの空を見やり、そっと目を細めた。