鈍色の空からしとしとと雨が降るとある日の朝——スペンサー邸に衝撃が走った。
「父が……亡くなったそうだ」
家族そろっての朝食中、父のセオドアが執事に耳打ちされてこわばった表情になり、つづいて手渡された書状をぎこちなく開いて目を通すと、静かにそう告げた。彼の言う「父」とはアイザックの祖父である。
母のイザベラも、アリアも、アイザックも手を止めて息をのんだ。
「詳しくは書かれていないが病死とのことだ。スペンサー家の使用人が直接この書状を届けに来たそうなので、間違いないのだろう。あまりにも急なことでにわかには信じがたいが……」
父の声に困惑がにじむ。
当然だろう。祖父はそれなりに高齢ではあるものの、まだまだ壮健で、昨年のシーズンオフも元気すぎるくらい元気だったと聞いている。病気になったという連絡もない。それなのにいきなり病死とは——疑うわけではないがアイザックも同じ気持ちである。
「いや、そんなことを言っている場合ではないな」
父は自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、表情を引き締める。
「できるだけ早く領地に向かわねばならない。ショーンも呼び寄せる。君たちは朝食のあとすぐに準備に取りかかってくれ」
「承知しました」
アイザックが答え、母もアリアも神妙な顔をして頷いた。
急いで朝食を終えると、それぞれ領地に向かう準備に取りかかる。
アイザックは着替えなどの荷造りを使用人に指示すると、しばらく宰相補佐の仕事を休む旨を理由とともにしたため、それを宰相に届けてもらう。弔事なので致し方ないものの、シーズンオフを前にした忙しいときに申し訳なく思う。
「アリア」
一段落して彼女の部屋へ行くと、当人は魂が抜けたようにぼんやりと椅子に座っていた。荷造りは使用人が行っているので問題ないだろうが、だいぶショックを受けているようだ。これまで親しいひとを亡くした経験がなかったのかもしれない。
顔色も良くないな——。
アイザックは彼女のまえにひざまずいて下から覗き込んだ。もともと色白ではあるが、いまは血の気が失せて不健康なくらいに青白くなっている。それでも、行かなくていいなどと簡単に言ってやれる状況ではない。
「大丈夫か?」
「はい……」
彼女は小さく頷き、ゆっくりとうつむいて表情に陰を落とした。
「ですが、なんだかまだ信じられなくて……」
「そうだな」
アイザックはほっそりとした小さな手を取り、そっと握る。
「わたしも信じられないというか信じたくない気持ちだが、おそらく向こうに着いたら嫌でも実感することになるだろうし、つらくもなるだろう。それでも君には一緒に祖父を見送ってほしいと思っている」
「それは、もちろんです」
彼女はすこし真剣な面持ちになった。
冷たかった彼女の手も、だんだんとあたたかさを取り戻してきたようだ。ひとまずは大丈夫そうだとアイザックはひそかに安堵して頷く。
「兄さん、ここにいたんだ」
扉を開けておいたので通りがかりに気付いたのだろう。いつのまにか騎士団の宿舎から帰ってきていた弟のショーンが、ひょっこりと顔を覗かせた。右腕はまだ添え木をしたまま白い布で吊られいる。
「父さんが呼んでる」
「わかった」
そう返事をしてからアリアに向きなおると、彼女はどこか気まずそうな顔をして目を泳がせていた。厄災の姫のせいで負傷したという噂を気にしているのだろう。アイザックは握ったままの手に優しく力をこめてから、立ち上がる。
「行ってくる」
「はい」
そんなやりとりのあと、いまだ心細そうな彼女を残して父の書斎に向かう。後ろ髪を引かれる思いではあるが、呼ばれているのに無視するわけにはいかなかった。
父の書斎では祖父の死因について話があった。
書状を届けにきた使用人に詳細を尋ねたところ、風邪をこじらせたのではないかと言っていたらしい。数日前に風邪をひいて自宅で療養していたが、一晩で急激に悪化して亡くなってしまったのだという。
「かくしゃくとしていたとはいえ高齢だったからな」
「そうですね……」
風邪は軽く見られがちだが命を落とすこともある。高齢であればなおのこと。いくら元気でも体は若いころよりも衰えているのだ。とはいえ、心の準備もなく身内が逝ってしまうとは思わなかった。
「アリアにはおまえから伝えてくれ」
「わかりました」
一礼して父の書斎を辞し、その足でアリアのところへ戻ろうとしたものの、途中で執事につかまった。いくつかの案件について、領地へ向かうまえに済ませておきたいので、急ぎで指示がほしいという。
そうしてあれやこれやとバタバタしているうちに、出発のときを迎えた。
馬車は人数が多いため二台だ。
前の馬車には父のセオドアと弟のショーンと母のイザベラと侍女、後ろの馬車にはアイザックとアリアと執事と侍女が乗った。セオドア付きの執事であり家令でもあるハリスは、タウンハウスに残ることになった。
アイザックは伝えそびれていた祖父の死因について、馬車に揺られながら並んで座るアリアに話した。父から聞いたことをほとんどそのまま端的に。
「風邪……」
彼女は複雑そうな顔でつぶやいた。声にも信じがたい気持ちがにじんでいる。
「断定はできないが、おそらくそうではないかという話だ。こじらせると肺をやられることもある。高齢ならそこまでめずらしいことではない」
「そう、ですか……」
アイザックは窓の外に目を向ける。
そこは王都を出てすぐのところで、見渡すかぎり建物もなく遠くまでひらけている。鈍色の空からはいまだ細やかな雨が降りつづいているが、そのとき脳裏に浮かんだのは薄青色に晴れわたった空だった。
「来年は一緒に行こう——そう君に言ったが、まさかこんな形になるとはな」
領地から帰ってくるはずのアリアたちが帰ってこず、アイザックが迎えにいったあの日、ひとつの馬でのんびりと帰りながら告げた言葉だ。
今度のシーズンオフには本当に一緒に行くつもりでいた。公爵の後継者としてというのもあるが、アリアと向こうで一緒に過ごすことも楽しみにしていた。なのにまさか祖父を弔うことになるとは。
アリアも隣で神妙な顔をして頷く。
「おじいさまもアイザック様に会いたがってました」
「ああ……」
その話は、アリアからも母からも聞いていた。
もうずいぶんと長いあいだ領地には帰っておらず、祖父にも会っていない。こんなことなら一度くらい帰っておけばよかった。そんな後悔がじわじわと湧き上がるが、それでもまだ、祖父が死んだという明確な実感は持てずにいた。
実感が湧いたのは、領地に着いて祖父の亡骸に触れたときだった。
記憶よりも皺が増えて顔も白かったものの、ほとんどやつれていなかったこともあり、対面しただけではまだ半信半疑だった。しかし触れてみるともうすっかり冷たくて、そのとき急にゾクリと衝撃を感じた。
「おじいさま……」
それはアリアも同じだったのだろう。アイザックにつづいて棺に横たわる祖父の顔にそっと触れると、いまにも泣き出しそうに顔をゆがめ、みるみるうちに目を潤ませながら噛みしめるようにつぶやいた。
祖父は明るく豪快なひとだった。厄災の姫などまるで信じずに笑い飛ばし、アリアをかわいがっていたと聞いている。だから他のみんなもアリアに好意的で、居心地よく過ごせていたのだろう。けれどいまは——。
「ごめんなさい。まだ気持ちの整理がつかないの……ごめんなさい……」
この家に到着したとき、祖母はつらそうにアリアから目をそらしてそう言ったきり、使用人に支えられながら自室に引っ込んでしまった。使用人もあからさまにアリアを忌避しているように見える。
まさか、とアイザックは眉をひそめる。
どうやら祖父が死んだのは『厄災の姫』のせいだと思っているらしい。いや、そう決めつけてはいないのだろうだが、そうかもしれないと疑っているくらいの空気は感じる。気のせいではないはずだ。
「ご案内します」
ひとり残っていた若い女性使用人が気まずげに対応する。
アリアも自分が避けられていることに気付いているのだろう。女性使用人について歩きながら次第に顔が青ざめていく。アイザックだけでなく、後ろにいるアリア付きの侍女もひどく心配そうにしていた。
「何なんですかあれ!」
両親たちとは別に用意された滞在用の部屋に案内されて、アイザックとアリアと執事と侍女の四人だけになると、まっさきに侍女が口を開いた。この邸の使用人の態度がよほど腹にすえかねていたらしい。
「どう見ても若奥様を避けてましたよね。いまさらあんな占いを信じて、ご隠居様のことを若奥様のせいにしてるんでしょうか。そんなことあるわけないのに……若奥様が罪悪感を覚える必要なんてまったくありませんから!」
そう力説するが、アリアは困惑ぎみに力のない笑みを浮かべるだけである。
侍女の言ったことは確かに正論ではあるものの、自分を責めるような雰囲気の中にずっといなければならないのはつらいだろう。特に自分のせいで亡くなったと思われている祖父の葬儀となれば針のむしろだ。
「アリア」
片膝をつき、まっすぐに彼女を見つめて声をかける。
「君のせいではないし、何も悪くないのだから堂々としていればいい。ただ、実際問題として葬儀ではさらに責めるような空気になる可能性が高い。もし、その場にいることがつらいようであれば葬儀に出なくても構わない」
「いえ……許されるなら、おじいさまをお送りしたいです」
アリアは静かに、だがしっかりと意志を感じさせる声でそう答えた。
もしかしたら葬儀の途中でいたたまれなくなるかもしれないが、とりあえずは彼女の気持ちを尊重することにした。アイザックはわかったと頷き、そっと背中を押して彼女をソファに促すと向かい合わせに座る。
「あの……」
侍女は部屋に用意されていた紅茶を淹れて二人に出すと、おずおずとそう切り出す。アリアの侍女だが、いまはアイザックのほうを見ながら声をかけている。
「どうした」
「これまではみなさんとても良くしてくださってたんです。ご隠居様ご夫妻も若奥様のことをとてもかわいがってらっしゃいましたし、使用人たちも朗らかに接してくれていました。ですから急に変わってしまったことがどうしても理解できなくて……」
どう答えるべきか——アイザックはうっすらと立ちのぼる湯気を見つめて逡巡する。
祖母には心のどこかで『厄災の姫』を怖れる気持ちがあったのかもしれない。そんな中、あまりにも急に祖父が亡くなった。やり場のない悲しみを抱え、怖れていた『厄災の姫』と結びつけて考えてしまうのも無理からぬことだ。そしてそれを止めてくれる祖父はもういない。
「祖母はいま、何かのせいにしないと正気ではいられないのかもしれない」
「だからってみんなしてこんな……」
彼女はくやしそうに眉をひそめてグッとこぶしを握るが、それ以上は言わなかった。感情的になってしまったと自覚したのだろう。失礼しましたと頭を下げる。アイザックは膝のあいだで両手を組み合わせながら頷いた。
「祖母に同調しているものもいれば、祖母の意向に沿っているだけのものもいるだろう。とりあえず使用人の態度をあらためるよう家令に言っておく。それでどれだけ改善されるかはわからないが」
「ありがとうございます」
侍女はほっとしたようにすこし表情をゆるませるが、アリアは逆に困惑していた。
「そこまでしていただかなくても……」
「他家であればよほどのことがないかぎりは口を出さないが、ここはスペンサー家だ。次期当主の妻を蔑ろにする態度を許しておくわけにはいかない」
そう説明すると、完全にではないが一応は納得したようだった。
アイザックは後ろに控えていた執事にその場で指示を出し、さっそく家令のもとへ向かわせる。葬儀までに使用人全員に周知してもらわねばならないのだから、すこしでも早いほうがいいだろう。
あまり期待はできそうにないが——。
そう思いつつも顔には出さず、侍女の用意してくれた紅茶を一口飲んだ。
つられるように向かいのアリアも紅茶に手を伸ばし、そっと口をつけるが、その顔には整理のついていないような複雑な感情が浮かんでいた。これだけさまざまなことが起きれば無理もないだろう。
その後、使用人たちの態度はいささか改善された。
祖母はまだアリアと顔を合わせようとしないが、使用人たちがあからさまに避けるといったことはなくなった。とはいえ、表情からも態度からも歓迎していない空気は感じる。アリアも気付いているだろうが傷つく様子は見せなかった。
葬儀は、翌日、教会にて厳かに執り行われた。
友人知人のみならず、領民もたくさん駆けつけて祖父との別れを惜しんでくれた。棺にはあふれんばかりに色とりどりの花が手向けられている。それが領主として生きてきた彼への何よりの餞になるだろう。
棺を閉める段になると、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえてきた。
隣のアリアも目に涙をためていたが、それでも最後の別れをするためにまっすぐ棺を見つめている。時折まわりから向けられる責めるような怯えるような視線にも動じない。黒いドレスで凜と立つ姿は美しかった。
葬儀を終えて外に出ると、いまだ鈍色の空から細やかな雨が降りしきっていた。
これから埋葬のため親族や友人たちだけ墓地に移動する。傘を使っているひともいれば使わないひともいる。霧雨なのですぐにびしょ濡れになることはないだろう。アイザックとアリアはひとつの傘に入っていた。
神父の祈りのあと、祖父の棺が土に埋められていく。
それを見守りつつ、各々が心の中で思いをめぐらせて最後の見送りをする。誰も口を開こうとせず、しとしとと雨の降りしきる音、雨が傘に当たる微かな音、シャベルで土をかける音くらいしか聞こえない。
きっと天命なのだろう——。
数日前まで元気に過ごし、最後は驚くほどあっけなく逝ってしまったが、それが何となく祖父らしいとアイザックは思った。長く床に伏せるなど似合わない。この年まで健康に生きられて幸せだったのではないだろうか。
隣を窺うと、まっすぐ前を見据えるアリアの頬に雫がひとつ伝っていた。それが雨なのか涙なのかはわからない。アイザックは無言のまま、さしていた傘をそっとすこしだけアリアのほうへ傾けた。