王都に帰った翌朝、アイザックはさっそく宰相補佐として王宮へ向かった。
馬車から降りると、やはり馬車から降りたばかりの宰相のメイソンと出会い、朝の挨拶につづいてお悔やみの言葉をかけられた。同じ公爵家ということで、祖父が隠居するまではそれなりに交流があったと聞いている。
「お心遣いありがとうございます」
「もう会えないと思うと会いたくなるな」
「そうですね……」
メイソンがうっすらと寂しそうな顔をするのを見て、アイザックも同じ気持ちになる。
向かうところは同じなので、どちらからともなく並んで王宮内に足を進める。こういうことは時折あるため特に意識することはない。二つの靴音が響く中、メイソンは横目でチラリとこちらを窺うと口を開いた。
「領地のほうはもういいのか?」
「向こうには両親が残っていますので」
「そうか」
その声には、わかりやすく安堵がにじんでいた。
シーズンオフには領地に行きたいと相談するつもりでいたが、難しそうだ。そう思いはしたものの、まだ確定したわけではないのであきらめきれず、探りを入れてみる。
「第二王子の結婚準備ですか?」
「ああ、こういうのはなかなか予定どおりに進まないものだし、イレギュラーも起こるし、何だかんだギリギリまで立て込んでしまうものだ。君がいてくれると心強いよ」
父の言ったとおりだった。
第二王子の結婚は外交にも関わる重大案件であるため、宰相補佐のアイザックが軽んじるわけにはいかない。アリアのことは心配だが、領地へ行くのはあきらめるしかないだろう。そう覚悟を決めた。
その後、メイソンとともにそこそこ忙しい日々を過ごしている。
実際に予定どおり進まなかったことも少なくなく、メイソンの発言について実感せざるを得なかった。他国が関わってくるので調整ひとつにしても気を遣う。おそらく結婚式の間際までバタバタしてしまうのだろう。
もっとも休みが取れないほどではないので、休日はいつもどおり家で公爵家の仕事をこなしたり、弟のショーンと過ごしたりしている。アリアがいないからか、彼はこのところ頻繁にスペンサー邸に帰ってくるのだ。
「兄さん、お祝いしよ!」
その日も、ショーンはノックもなしにアイザックの部屋に突撃してきた。手土産と思われる薄緑色のワインボトルを掲げながら声をはずませて。しかしまだ真っ昼間である。
「いまからそれを飲むつもりか?」
「いいだろう、お祝いなんだからさ」
「お祝いって何のだ?」
怪訝に尋ねると、彼はニコニコしながらワインボトルを持つ右腕を指さす。それでようやく気がついた。長らく右腕を吊っていた白い布がなくなっていることに。アイザックはふっと脱力して息をつく。
「それなら仕方ないな」
「やった!」
自分も何だかんだショーンには甘い。そのことをあらためて自覚させられた気がして、内心でひそかに苦笑した。
「骨折の完治に乾杯」
二人はソファに向かい合わせに座ってグラスを掲げ、白ワインを口に運ぶ。
ローテーブルの上にはチーズやナッツなどの簡単なつまみが並んでいた。グラスとともに使用人に用意させたのだ。ショーンはグラスを置くと、その右手でナッツをつまんでひょいと口に放り込む。
「自由に右手が使えるっていいよね」
負傷してからよほど不自由な思いをしてきたのだろう。上機嫌で声をはずませながら、今度は一口大に切られたチーズをつまんでみせる。食べたいというより右手を使いたくて仕方がないようだ。
「もう近衛に戻るのか?」
「まさか」
ショーンは苦笑し、右手でチーズを弄びながら言葉を継ぐ。
「これから当分はリハビリだよ。しっかり訓練して筋力と技術を戻してからじゃないと、近衛として役に立たない。でも訓練できるところまで戻れたことがうれしいんだ」
言われてみれば、右腕を吊ったまま使わずにいたのだから筋力は落ちているだろうし、そのあいだ訓練もしていないのだから腕もなまっているだろう。近衛ともなればなおさら実力は不可欠だ。
「早く戻れるようになれるといいな」
「うん、ありがとう」
うれしそうにショーンは笑った。
そういう素直なところがみんなにかわいがられる所以なのだが、その点はアリアも似ている気がする。ふと頭によぎった無邪気で屈託のない彼女の笑顔に、声に、すこし胸が苦しくなるのを感じた。
「失礼します」
とりとめのない話をしながらワインを飲んでいると、執事がノックをして入室してきた。何か封筒のようなものを手に持っているので、それを届けに来たのだろう。
「イザベラ様より書簡が届いております」
「母から?」
父から事務的な連絡が届くことはときどきあるが、母からというのはめずらしい。封を切ってもらい、ソファで書状を受け取って直筆の文字を追っていく。
「なになに? いいこと? 悪いこと?」
向かいのショーンが興味津々に身を乗り出してくる。アイザックはひととおり書状に目を通したあと、それをすっと彼に手渡した。
「読んでいいの?」
「ああ」
彼はすぐに目を落とす。そして長くはない文面を最後まで読み終えると、うっすらと笑みを浮かべながらアイザックに返してきた。
「よかったね」
「ああ」
そこに綴られていたのはアリアのことだった。
アイザックたちが帰ってから一週間ほど過ぎたころ、祖母から謝罪があったという。感情的になってひどい態度をとってしまった、申し訳なかったと。そこからすこしずつ関係が改善して、いまはもう以前と同じようにアリアをかわいがっているし、アリアも以前と同じように祖母に懐いているそうだ。
「どうせならあの子から手紙がほしかったんじゃない?」
「いや、冷静な第三者視点の報告のほうが信用できる。母なら安心させるために甘いことを書いたりはしないだろう」
アリアを信用していないというわけではないが、あまり良くない状況でも、心配させないように大丈夫だと書くかもしれない。しかし母なら事実しか書かない。少なくとも母の目には問題がないように見えているのだろう。
「それにアリアからは別件で手紙をもらっている」
「え、何の手紙だったの?」
「誕生日プレゼントを送ったから、そのお礼だ」
「へえぇ」
誕生日プレゼントは事前に準備をしていたが、誕生日の三日前に祖父が亡くなったことでそれどころではなくなり、後日プレゼントだけでもと領地のほうへ送ったところ、アリアから礼状が届いたのだ。
それが、思いのほかうれしかった。
もちろん直接お礼を言われるのもとてもうれしいが、礼状であればこのままずっと残しておける。だからたまにならこういうことがあってもいいだろう。そう前向きにとらえることができたのだ。
「兄さん、変わったよねぇ」
溜息まじりにそう言い、ショーンはグイッとグラスを傾けて白ワインを飲むと、じとりとした恨めしげなまなざしをアイザックに向ける。
「僕の誕生日なんて覚えてもいないだろ」
「……すまない」
彼がスペンサー邸にいたころは家族で祝っていたが、アイザックとしてはあくまでも受け身だったため、はっきりと何日だったかまでは覚えていない。
「正直、妬ける」
ショーンは寂しそうな笑みを浮かべて、ぽつりと言った。
アイザックはワインクーラーから薄緑色のボトルを取り、彼のグラスに注ぐ。それで許してもらおうというわけではなく、純粋に申し訳ない気持ちの表れだ。きっと次の誕生日も祝ってやることはできないだろうから——。
やがて日増しに涼しくなるのを実感するようになったころ。
父のセオドアから王都に帰るという連絡があった。もちろん母のイザベラもアリアも一緒である。そろそろだとは思っていたが、実際に帰ってくる日が決まるとそわそわしてしまう。待ち焦がれる気持ちは昨年よりもはるかに強かった。
その日——アイザックは朝から鋏を持って庭に出ると、青いリンドウを切り、使用人に預けてアリアの部屋に生けておくよう命じた。リンドウ以外も考えたが、やはりリンドウしかしっくりくるものがなかったのだ。
仕事を終えて王宮から帰り、ほどなくしてアリアたちの乗っている馬車が到着した。
玄関先で出迎えると、それに気付いたアリアがほんのりと頬を染めて馬車を降りる。癖のない純白の髪をめずらしくサイドで編み込んでおり、露わになった耳には、白とアイスブルーの小花をあしらった耳飾りが輝いていた。
「耳のやつ、さっそくつけてくれたのだな……とてもよく似合っている」
それはアイザックが贈った誕生日プレゼントだった。
年齢的に耳飾りはまだ早いかもしれないと思ったが、違和感はない。デザインがかわいらしく控えめなので彼女の雰囲気によく合っているし、昨年の誕生日プレゼントである髪飾りとも合うはずだ。というか同じ職人に依頼して合うようデザインしてもらったので、合わないはずがない。
「ありがとうございます」
アリアは頬を染めたままふわりと笑う。
母からの書状にあったとおり、祖母をはじめとする領地のひとたちとの関係も良くなり、穏やかで充実した日々を送ってきたのだろう。あのとき領地に残るという選択をした彼女は正しかったのだ。
それに——。
またしてもすこし成長して大人びてきたように見える。背が伸びて、腕も気のせいなどではなくすらりとしてきたし、顔もどことなく子供っぽさが抜けつつあるのではないか。そんなことを考えながら見つめていると。
「あなた、いつまでそうやって立ちつくしているつもり?」
アリアの後ろにいた母が呆れたような声を上げる。その隣には父もいる。アリアにつづいて馬車を降りたのだろうが、いま声を聞くまで二人のことは存在すら忘れていた。
「失礼しました」
いささか気恥ずかしさを覚えながらも顔には出さず、アリアを促して玄関に入る。
背後で母がふふっと笑っていたことには気付かないふりをした。
「アイザック、あなたに話しておきたいことがあります」
夕食後に自室で黙々と書類仕事をこなしていたところ、母が訪ねてきた。アイザックに用があるときは呼びつけることが多く、こうして自ら出向いてくることはあまりない。
「そちらへどうぞ」
ソファに座ってもらうと、アイザックも書類を片付けてから向かいに腰を下ろす。母の平然とした態度からはどういう話か見当もつかない。
「お茶は要りますか?」
「結構よ。長居はしません」
「では本題に入りましょう」
「アリアのことです」
思わずピクリと眉が動く。もう問題はないものとばかり思っていたが、そうではなかったのだろうか。口を引きむすんだまま怪訝なまなざしを送ると、それに答えるように母は静かに話をつづける。
「先日、アリアは大人になりました」
「…………???」
何を言っているのかわからなかった。しかし母はいたって真面目な顔をしており、冗談を言っているようには見えない。
「アリアはまだ十三歳のはずですが」
「法的な話ではなく、子をなせる身体になったということです」
「ああ……」
ようやく理解した。将来的には本当の夫婦となって子をなす必要があるのだから、夫のアイザックにも無関係ではないが、いきなりそう言われてもどう反応すればいいかわからない。気まずさを感じて曖昧に目を伏せる。
「そのうち家庭教師をつけて夫婦生活に必要な知識などを学んでもらうつもりですが、ひとまずわたくしからざっくりと話しておきました」
「……お手数をおかけしました」
どのように話したのかはものすごく気になるものの、とても尋ねられない。
とりあえずアリアはいつもと変わらない様子に見えた。玄関先で出迎えたときも、お茶を飲みながら話したときも、怖がることも嫌がることもなくアイザックと接している。それを思い起こしてひそかに安堵した。
「わかっているでしょうけど、アリアが成人するまで手を出すことは許しません。もしそのようなことがあれば、爵位剥奪のうえ我がスペンサー家から追放します」
母は真剣なまなざしでアイザックを見据えて釘を刺す。以前にも言われたことではあるが、以前よりもいっそう厳しい物言いになった気がする。
「まあ、あなたはそんなことをしないと信じてますけどね」
言うべきことを言ったあと、母はさっと立ち上がって振り返りもせず部屋をあとにした。返す言葉に窮していたアイザックをひとり残して。それは、もしかしたら彼女なりのささやかな配慮だったのかもしれない。
その後、雑念から逃げるように仕事に没頭し、寝室に入るころには深夜になっていた。
当然、アリアはもう寝ていた。いつものようにすやすやと寝息を立てて無防備な寝姿をさらしている。まったく警戒などしていない。それだけアイザックのことを信頼しきっているということだろうか。
「…………」
立ったまま、無垢な寝顔をじっと見下ろす。
三年後にはこの子と——うっかり良からぬことを思い浮かべそうになり、慌ててふるふると頭を振る。いまは何も考えなくていい。変わらぬ日々を過ごせばいい。そう自分に言い聞かせてどうにか雑念を追い払おうとする。
「ん……」
かすかな声をもらして、華奢な体がもぞもぞと掛布の下で動いた。
ドキリとしたが、ただの寝返りだったようで目を覚ました気配はない。ほどなくして再びすやすやとかすかな寝息が聞こえてきて、ほっと息をつき、そのおかげかすこし気持ちが落ち着いたようで冷静になれた。
寝よう——。
揺らさないようそっと寝台に上がり、体を横たえる。
彼女とは接触しない程度に離れているが、それでも彼女のいる側からほんのりとぬくもりが伝わってくる。いつものことなのに妙に意識してしまい、その日はひさしぶりになかなか寝付くことができなかった。