サイラスの妻であるアンジェラとの初対面から半月後——。
アンジェラが自身の邸で開いたお茶会にアリアは招かれた。アリアが先に誘ったのだが、アンジェラの希望で彼女のほうが先に開くことになったのだ。身分が上なのでまずは自分がと考えたのだろう。
招待客はアリアだけである。二人きりで気兼ねなく親交を深めたいと考えてのことかもしれない。だからといって母の同行もなく、アリアだけで出席させるなんてまだ早いのではないかと心配していたが。
「とても楽しかったです」
帰ってきたアリアはニコニコと明るい表情をしていた。
邸について、お菓子について、お茶についてなど、声をはずませて語ってくれたが、二人で何を話したかについては触れなかった。気にはなったものの、二人が楽しい時間を過ごしたのであればそれでいい。
「わたしもいいお茶会にしないと」
アンジェラのお茶会に大いに刺激を受けたようで、アリアは意気込んでいた。
ただアンジェラには他のお茶会や公務もあるので次の予定がなかなか合わず、アリアが開催するのはもうしばらくあとになるとのことである。その分、念入りに準備ができると彼女は前向きに捉えていた。
「雪……積もってますね……」
それからさらに半月が過ぎたとある日の朝。
アリアは目が覚めるなり寝台を降りて窓の外を確認すると、心配そうにつぶやいた。普段なら喜んでいただろうが、今日は出かける予定がある。前日から雪がちらついていて積もらないよう祈っていたのだ。
「これ以上、降らなければ問題ないと思うが」
「そう願うしかないですね……」
積もっているといってもうっすらかぶるくらいである。出かける昼過ぎには、大通りの雪は融けてなくなっているのではないかと思う。隣で不安そうに顔を曇らせている彼女に目を向けると、そっと頭に手をのせた。
昼過ぎ、アリアは支度をすませて母と玄関に降りてきた。
あれからも断続的に雪がちらついていたものの、大通りの雪はほぼなくなり、馬車の走行に支障はないと判断されたのである。まだ空は鈍色だが、さすがに帰るまでの数時間で積もりはしないだろう。
二人が向かうのはチャーチル邸である。
ベルファスト公爵夫人から再びお茶会に招待されたのだ。前回はアリアと同じ年頃の女性はいなかったようだが、今回はアンジェラも招待されており、アリアは彼女と会うことを何よりも楽しみにしていた。
「行ってきます」
アイスブルーを基調としたドレスにふわふわの白い外套、アイスブルーの小花をモチーフにした髪飾りと耳飾り、胸元にはチェーンを通したプラチナの結婚指輪。そして純白の艶やかで美しい髪——全体的に淡い光を発しているかのように白く、それゆえか神聖さを感じ、彼女の可憐さとあいまって妖精のように見えた。
「仕事が終わったら迎えに行く」
「はい」
今日は休日だが、重要な会議が入っているので王宮に行かねばならない。
そのついでということで、本来はアイザックが迎えに行く必要などまったくないのだが、先日アリアに提案してみたら喜んでくれたので行くことにしたのだ。母は呆れた顔をしていたが見ないふりをした。
アリアと母が馬車で出かけるのを見送ったあと、アイザックも馬車で王宮に向かう。
ガタガタと振動を感じながら、雪で白くなった街並みをぼんやりと窓越しに眺める。お茶会はいいとして、場所がチャーチル邸であることには不安を拭いきれない。そこにはレイモンドもいるのだ。
彼の好きなひとというのが誰なのか、いまだにわからない。
違うことを願いつつ、どうしてもアリアではないかという気がしてならない。「結ばれることはない」と言っていたので、たとえそうだとしても奪うつもりはないのだろうが、やはり気がかりではある。
ふぅ——。
深く息をつき、そのまま現実から逃れるようにそっと目を閉じた。
会議を終えると、宰相のメイソンとともに馬車で王宮をあとにした。
先日、会議のあとにチャーチル邸までアリアを迎えに行くつもりだと話したところ、メイソンがそれなら自分の馬車に同乗すればいいと言ってくれたので、その申し出に甘えることにしたのだ。
「それにしても、まさか君が愛妻家になるとは思わなかったよ」
「……心配なだけです」
アリアのことは大切にしたいと思っているものの、そう言われるとむず痒い。
もっとも顔にはいっさい出していないつもりだったが、やはりというかメイソンには見透かされたらしくニンマリとされてしまい、アイザックはいたたまれなさから逃げるように顔をそらした。
そうこうしているうちにチャーチル邸に到着した。
馬車が速度を落としてゆっくりと正門をくぐり抜け、玄関先で止まる。王宮からほど近いため馬車であればわりとすぐだ。懐中時計を見ると、まだお茶会が終わっていないであろう時刻だった。
「わたしの部屋でお茶でも飲んでいくといい」
「ありがとうございます」
メイソンの計らいにありがたく甘えさせてもらおう。そう思いつつ馬車を降り、彼のあとについてチャーチル邸に足を踏み入れたのだが——。
「アリア様のお姿が見えなくなったようです」
廊下で使用人たちが深刻な顔をして集まっていることに気付き、メイソンがどうしたのかと声をかけると、その中のひとりが明確に困惑をにじませながらそう答えた。
「どういうことだ?」
メイソンが怪訝に眉をひそめて聞き返すが、アイザックも同じ気持ちだ。お茶会で姿が見えなくなったとはどういうことなのか、まるで状況がわからない。使用人を追及すべく氷のように冷たく鋭い視線を向ける。
「その、わたしたちにもまだ詳しいことは……」
一瞬で蒼白になった使用人がたじろぎつつ答えていると、傍らの扉が開いた。
「あなた……!」
出てきたのは、メイソンの妻であるベルファスト公爵夫人だった。
開いた扉の向こうを見ると、テーブルの設えからここでお茶会をしていたことが窺える。彼女の後ろには第二王子妃アンジェラ、母のイザベラ、メイソンの妹である侯爵夫人、それになぜか男性のレイモンドもいた。
「アリアは……?!」
思わず部屋に駆け込んでひととおり中を見まわすが、やはり彼女の姿はない。答えを求めて振り向くと、女性たちが動揺したような不安げな顔をしている中、ただひとり冷静なレイモンドが口を開いた。
「僕たちも今しがた彼女がいないことに気付いた」
「……いなくなるまでの状況が知りたい」
言いたいことはいろいろあったが、それよりもいまはアリアを見つけることが最優先だ。苛立ちも焦りも胸の内にとどめて端的に要求すると、彼はひとつ頷いてから説明を始める。
「僕が彼女に声をかけて庭園を案内したんだが、邸内に戻ったあと彼女の姿が見えなくなったようなんだ。僕はすぐに二階に上がったから、そのあと彼女がどちらに行ったのかまでは見ていない。お茶会の席には一度も戻っていないそうだ」
「…………」
アイザックは眉をひそめる。
それではまるでアリアが自らいなくなったかのようだ。だが、母に報告もしないで勝手にどこかへ行くなど考えづらい。やむにやまれぬ事情でもあったのだろうか。あるいは疑いたくはないが使用人に拐かされたということも——。
「まずは探すしかないだろう。僕が庭のほうを見てくるので、父上とアイザックは表を見てきてください。邸内は手の空いた使用人に探させましょう。母上たちはここで彼女の戻りをお待ちください」
「わたしも探すわ!」
レイモンドの指示に、アンジェラが我にかえったように声を上げた。
「わたしが一緒に行っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。ですからわたしにも責任があります。それにアリア様は友人なのです。何もせずにただじっと待ってなんていられません!」
まっすぐに強いまなざしを向けて、真摯に訴える。
一瞬、レイモンドは圧倒されたのか言葉に詰まったが、その隙にメイソンがすっと静かに進み出たかと思うと、胸に手を当てて恭しく一礼した。
「お気持ちはわかりましたし納得もしておりますが、あなたは第二王子妃です。何かあってはいけない。この家の当主として、この国の宰相として、あなたが探しに出ることは許可いたしかねます」
メイソンの発言も、自身の立場も、きっとアンジェラは正しく理解しているのだろう。つらそうな顔をしながらもグッと感情を抑え込み、すっと視線を上げてメイソンを見据えると、凛然と告げる。
「では、あなた方で必ずアリア様を見つけ出してください」
「承知しました」
メイソンは一礼して退出し、アイザックとレイモンドも同じく一礼して退出する。扉の外では使用人たちが真剣な面持ちで待機していた。アンジェラの言葉が彼らの耳にも届いていたのだろう。
「ではレイモンドが言ったように手分けして探そう」
メイソンの指示で、さっそく使用人たちが分かれて邸内の捜索に向かった。すぐにレイモンドも庭のほうに向かった。アイザックはメイソンと一緒に表を見ることになっていたが——。
「表はわたしひとりでも問題ありませんので、宰相は邸内をお願いします」
「そうだな……そのほうがよさそうだ」
単純に邸内のほうが見るべきところが多いからか、あるいは彼も使用人に疑念を抱いているからか、納得して邸内の捜索にまわってくれた。すぐにアイザックは小走りで廊下を引き返していった。
玄関から出て、まわりを確認しながら門のほうへ向かう。
アリアは見当たらないし、それらしい痕跡もひとつとして見つけられない。端のほうの雪はまだ融けておらず、ところどころに何種類か足跡がついていたが、どれもアリアのものでないことはあきらかだった。
門から通りに出ると、まずはひととおりぐるりと見まわした。離れたところにチラホラと人影が見えたものの、アリアはいない。塀に近いあたりにはすこし雪が残っていたので、足跡を確認しようと覗き込むと——。
ハッとして、白い息が上がった。
半分ほど雪に埋もれていた小さなアイスブルーの何かを、慌てて拾い上げる。氷のように冷え切ったそれは、間違いなくアイザックがアリアに贈った耳飾りの片方だった。世界でたったひとつきりの。
今日、確かにアリアはこれをつけていた。
嫌な予感にゾクリと悪寒が走る。通常であれば玄関先まで馬車で乗り付けるのだから、こんなところに落とすはずがない。たとえ落としたとしても気付かないとは思えないし、拾わないはずがない。
何者かに連行され、抵抗した拍子に耳飾りを落としたということだろうか。
いや、彼女が自らチャーチル邸を出たということも考えられる。たとえば誰かに何かされそうになって必死に逃げたとか。時間はかかるが、ここからスペンサー邸までなら徒歩でも帰れなくはない。
いずれにしても何か不測の事態があったことは間違いないのだ。一刻も早く彼女を見つけ出さなければ——アイザックはグッと歯噛みすると、冷えた耳飾りを壊さないように握り締めて邸内に駆け戻った。
「母上、家にアリアがいないか見てきてもらえませんか」
ノックもなしに勢いよく扉を開けて女性たちの待つ部屋に駆け込み、焦燥をにじませた声を上げると、ソファに座っていた母のイザベラは戸惑ったように眉をひそめる。
「どういうことです?」
「表にアリアの耳飾りが片方だけ落ちていました。何者かに連れ去られたと考えるのが自然でしょうが、何かしらの事情があって自ら外に出たという可能性もあります。もしかすると家に戻っているかもしれません」
左手を開いてアイスブルーの耳飾りを見せながら告げると、母は小さく息を呑んだが、話が終わるなりすぐさま真剣な顔になって立ち上がった。
「わかりました。スペンサー邸にいなければ周辺も探させましょう」
そう応じて、お茶会に参加していた他の夫人たちに軽く挨拶してから、待機させていた馬車で急いでスペンサー邸へと戻っていった。
アイザックは玄関を通りかかった家令に捜索状況を尋ねてみたが、いまのところ何も痕跡は見つけられていないとのことだった。つづけてメイソンがいまどこにいるのか聞こうとしたが、そのときちょうど彼が二階から降りてきた。
「アイザック、表はどうだった?」
「アリアの耳飾りが落ちていました」
「……やっかいだな」
そう、やっかいだ。
もし何者かに外に連れ去られたのだとしたら、行方を突き止めるのはかなり難しくなる。何の手がかりもない状況では、どのあたりを探せばいいのか見当もつかないし、そもそも他家の敷地内など探すことのできない場所も多い。
「むやみに外を探すより、まずは使用人に聞き込みをしたほうがいいかもしれんな」
「……そうしていただけると助かります」
それはすなわち邸内の人間を疑うということにつながり、そしてそれを使用人が知ることにもなるため、当主としては気が進まない難しい決断だったはずだ。それでもアリアを第一に動いてくれた彼には感謝しかなかった。
まだ邸内を捜索している使用人をひとりひとり呼び止め、メイソンと話を聞いていく。
アリアがいなくなったと思われる時間に何をしていたのか、誰といたのか、何か気になることを見聞きしていないかなどを——矛盾が見つかれば、そのあたりが怪しいということで絞り込んでいけるはずだ。
「気になることは特にありませんでした」
「そうか……何か思い出したら声をかけてくれ」
「かしこまりました」
男性使用人に話を聞いていたとき、その後ろを通りかかった年若い女性使用人が足を止めて瞠目するのが見えた。目が合うと逃げるように踵を返して立ち去ろうとしたため、アイザックは追いかけてその腕をつかんだ。
「君は何か知っているのではないか?」
「いえ……何も……」
目をそらしたまま、だいぶ青ざめた顔をして消え入るように答える。その声はあきらかに震えていたし、つかんだ腕もかすかに震えていた。この反応は知っていると白状しているようなものだ。
メイソンもそう思ったのだろう。タン、タン、とあえて靴音を打ち鳴らすようにしながら進み出ると、威圧的に彼女の前に立ち、細い銀縁眼鏡越しに怖いくらい怜悧なまなざしで見据えて言う。
「主として命じる。知っているのなら言いなさい」
さすがに主の命令となれば使用人に逆らう術はない。彼女はますます蒼白になり、ひどく顔をこわばらせてうつむきながらも答えていく。
「レ……レイモンド様は、アリア様を連れてお庭に向かわれたのですが、戻られたときはおひとりでした。不思議に思ってお声がけしたところ、一緒に戻ってきたとか君の見間違いだとか言われて……ですがどうしてもそうは思えなくて戸惑っていたら……その……よ、余計なことは言わないほうが身のためだと……」
聞き終わるまえにアイザックは全速力で走り出した。跳ぶように階段を駆け下りるが、どこから庭に出るのかわからず足が止まってしまう。
「こっちだ!」
遅れて一階に降りてきたメイソンが先導する。
彼につづいて庭に飛び出ると、雪化粧の庭園からこちらに戻ってくるレイモンドの姿が目に入った。思わずカッと頭に血がのぼり、その衝動にあらがうことなく噛みつかんばかりに詰め寄っていく。
「アリアをどこへやった?!」
怒声とともに、ぶわりと白い息が上がった。
「……僕が?」
勢いに圧倒されて驚いたような顔でのけぞりながら、さも怪訝そうに聞き返す。その反応だけであれば何も知らないように思えるが、使用人の証言があるのだ。
「おまえがどこかへやったんじゃないのか?!」
「まさか、どうして僕がそんなことをしなければならない」
「…………」
アリアをどうしても手に入れたくなったのではないか——そう思ったものの声にすることは何となく躊躇われて、グッと奥歯を食いしめて苛烈に睨めつける。彼は困ったように苦笑して肩をすくめた。
「庭にはいなかったよ」
それを聞き、アイザックは彼の胸元を押しのけて庭に駆け込んでいく。捜索場所の分担を決めたのは彼だ。アリアを庭に隠したから、見つからないよう自身で捜索することにしたとしか思えない。
「アリア!!!」
走りながら周囲を見まわして何度も大声で呼ぶが、反応はない。
そのうちどちらへ向かうべきか迷ってしまい足が止まる。考えてみれば、パッと見てわかるようなところに放置されているわけがない。おそらく簡単には見つからないところに監禁されているのだろう。広大な庭をやみくもに駆けずりまわるのでは駄目だ——必死に考えをめぐらせていると、ようやく追いついたメイソンが息をきらせながら声をかけてきた。
「はぁっ……っ……アイザック……向こうの隅に小さな物置小屋があるから、君はそちらを確認してくれ。わたしはこの奥にある池を確認してこよう」
「わかりました」
池に落ちた可能性もあるのだと突きつけられてゾワリとする。
だが慄いている暇はない。すぐにメイソンと二手に分かれて物置小屋へ向かう。場所は知らなかったが、メイソンが指差していた小道をまっすぐ走っていくと、ほどなくしてそれらしい建物が見えてきた。
「アリア!!!」
名前を呼びながら駆けていき、古びた小さな建物の扉を慎重に引いて開ける。鍵はかかっていなかった。灯りも窓もない薄暗い中を目をこらして見まわすが、庭仕事の道具ばかりでアリアは見当たらない。
ここではないのか——?
ますます焦燥が強くなるのを感じながら、ギリッと奥歯を噛む。
人間を隠せる場所はなさそうに見えるが、一応、道具をよけたり箱を開けたりしながら隅々まで確認していく。そのとき立てかけられたガーデンフォークのそばで、何かが光ったような気がした。
何だ——?
しゃがんで手に取ると、それはちぎれた細いチェーンネックレスだった。
まさかと思いつつ即座に這いつくばって探したところ、近くの物陰にプラチナの指輪を見つけた。息を詰めたまま入口からの光にかざす。内側に刻印されていたのは、まぎれもなくアイザックたちが結婚式を挙げたあの日の年月日だった。ゾクリと背筋に冷たいものが走ると同時に、カッと頭が沸騰する。
「アリア!!!」
必死に道具を掻き分けて探していく。本当はすべてなぎ倒したいくらいの気持ちだが、アリアがいるかもしれないと思うと乱暴にはできない。どこにいる、返事をしてくれ、無事でいてくれ、どうか、どうか——!
ガタッ。
その物音はたいして大きくはなかったはずだが、やけに異質に響いた。アイザック自身が立てたものではない気がする。下のほうから聞こえたが、だからといって床の音とは違うように感じた。
地下か——?!
音が聞こえたあたりに置かれていた木箱をずらしてみると、床下へつづくと思われる扉が現れた。すぐさま把手をつかんで引き上げようとしたものの、どうやら鍵がかかっているようで開かない。
「いなかっただろう?」
そのとき背後からレイモンドの声が聞こえた。バッと振り返り、何でもないような顔をして戸口に立っている彼の姿を認めると、勢いよく飛びかかってその胸ぐらをつかみ上げる。
「そこの鍵をよこせ!」
アイザックらしからぬ乱暴な言動に驚いたのだろう。彼はよろけながら虚を衝かれたように目を丸くしていたが、すぐに平静を取り戻すと、艶やかな唇にうっすらと微笑を浮かべて軽く肩をすくめる。
「どうして僕が持っていると思うんだ?」
「君が閉じ込めたんだろう!」
「とんだ言いがかりだ」
「アリアの指輪をここで見つけたぞ!」
そう叫びながら拾った結婚指輪を彼に見せつける。瞬間、呼応するかのように再び床下からガタッと物音がした。きっとアリアが助けを求めている——アイザックは胸ぐらをつかむ手にさらに力をこめる。
「早くよこせ!」
しかし彼は口を閉ざしたままだ。
このままでは埒があかない。アイザックは力尽くで彼を押し倒して馬乗りになると、鍵を隠せそうなところを片っ端から探っていく。抵抗はされなかったが、ポケットからも懐からもどこからも見つからなかった。
「このままでは命に関わる!」
今日はただでさえ冷え込みが厳しいのに、こんな物置小屋の床下に何時間も閉じ込められていたら、本当に死んでしまってもおかしくない。彼だってアリアを死なせたいわけではないはずだ——そう思ったのだが。
「厄災などいないほうがいい」
「は……?」
アリアのことが好きでさらったのではないのか——?
ひどく混乱して、馬乗りになったまま呆然と仰向けのレイモンドを見下ろす。その顔には苦しそうな寂しそうな複雑な微笑が浮かんでいた。胸に置いていた手からはドクドクと強い鼓動が伝わってくる。
君は、いったい——。
いや、それよりもまずはアリアだ。
何か使えるものはないかと必死にあたりを見まわした。そのとき隅に立てかけてあったツルハシが目に留まりハッとする。即座に取ってくると、ガツンガツンと何度もそれを振り下ろして鍵を壊し、扉を引き開ける。
「アリア!!!」
床下には、猿ぐつわをされて両手両足を縛られたアリアが転がされていた。
うっすらと開いた目からアクアマリンの瞳が覗く。ぐったりとしているものの意識はあるようだ。アイスブルーのドレスは土や埃で汚れ、裾が大きくめくれて細い脚があらわになっているが、その脚も擦り傷だらけでところどころ血がにじんでいる。
「アイザック!」
ツルハシで壊す音やアリアを呼ぶ声が外まで聞こえていたのだろう。宰相のメイソンが驚いた様子で物置小屋に駆け込んできた。そのとき気怠げに体を起こすレイモンドに気付いて彼はハッと息を呑む。
「アリアは床下に監禁されていました。やはりレイモンドの仕業のようです。申し訳ありませんが、彼を外に連れ出していただけませんか」
「わかった」
そう応じるとレイモンドの腕をつかんで立ち上がらせ、物置小屋から連れ出していく。レイモンドに抵抗するような素振りはなかった。ただ、後ろ向きなのでどんな顔をしているのかまではわからない。
その姿が見えなくなると、アイザックは床下へつづく簡易的な短い階段を降りる。
「もう大丈夫だ」
その声がけに、アリアはかすかに睫毛を震わせて薄目を開いた。揺れるアクアマリンに応えるべくアイザックは力強く頷いてみせると、傷に障らないように慎重に横抱きにして階段を上り、いったん床に下ろした。
すぐに猿ぐつわと両手両足の拘束を解いていき、めくれたドレスの裾を直す。
腕や脚には、擦り傷だけでなく打撲らしき痕もいくつか見受けられた。しかし衣服を脱がされたり破かれたりしたような形跡はない。どうやら陵辱されたということはなさそうで、ひとまずはこっそりと安堵する。
「アイザックさま……」
かすれた小さな声からも、冷えきった青白い肌からも、ぐったりした様子からも、寒さのせいで衰弱しているのではないかと思われる。アイザックは上着を脱ぎ、これだけでもないよりはマシだろうと彼女の体に掛けた。
「帰ろう」
かすかに頷いた彼女を再びそっと抱き上げて、邸内へ向かう。
物置小屋からすこし離れたところにはレイモンドがいた。父親に腕をつかまれているからかおとなしくしていたが、こちらを目で追っているようだ。アイザックは必死に怒りをこらえ、彼の視線からアリアを隠すようにして足早に通りすぎた。