あれから2年半。
領地では周辺諸国との交易が発展し、新たな鉱脈が発見され、上質な紅茶が作られるようになった。街もこれまで以上の賑わいを見せている。主に父であるシェフィールド公爵の手腕によるものだが、アイザックも関わっている。
アリアを厄災などと誰にも言わせない——。
その思いが原動力のひとつだったのは疑いようがない。
実際に厄災と見られることはかなり少なくなっているようだ。お茶会の招待もあちらこちらから届いているらしい。ただ、未成年のうちは本格的な社交をさせないという母の方針で、ほとんどは断っているのだが。
かつてはアリアのことを厄災かもしれないと避けていた弟のショーンも、徐々に態度が軟化し、いまはわだかまりもなく普通に話をするようになっている。むしろ仲が良すぎるのではないかと心配になったくらいだ。
「ショーン様は頼りになるお兄さんみたいな感じです」
アリアにそう笑顔で言われたときの複雑な気持ちを察してほしい。
確かにショーンのほうが人当たりがいいし、話も上手いし、一緒にいて楽しいだろう。もし彼と結婚したかったなどと思われていたら——そんな不安もよぎったが、ショーンには思いきり笑い飛ばされてしまった。
「あの子は兄さんのことが大好きだよ」
何でも、二人が盛り上がるのはたいていアイザックの話だという。
ショーンが昔の話をして、アリアが最近の話をして、互いに知らないアイザックについてのエピソードを情報交換しているらしい。なるほど、それでアイザックのいないところでコソコソしていたのかと得心した。
「あまり変なことは言うなよ」
「もうだいぶ話しちゃったからなぁ」
「…………」
悪びれもせずニコニコしているショーンを、じとりと睨む。
子供のころの失敗談ごときでアリアが失望するようなことはないと思うが、それでも格好悪いところはあまり知られたくない。好きなひとに良く思われたいという気持ちはアイザックにも人並みにあるのだ。
「アリア……いまあらためて君に誓う。命ある限り、いついかなるときも心を尽くすと」
彼女の手をとり、今日までずっと首から提げていた結婚指輪を左手薬指にはめる。結婚当初に作ったそれは、いまはサイズ調整するまでもなくぴったりと合う。残念ながらサイズを選んだのはアイザックではなく母なのだが。
「わたしも誓います」
アリアは指輪を見下ろしてうれしそうに微笑むと、顔を上げて応じた。
結婚した当初はまだほんの子供でしかなかったのに、すっかり美しく成長した。王妃譲りの造形美に加え、礼儀、所作、知性なども磨き上げられている。あどけなさは残るが、そこも彼女の魅力につながっていると言えるだろう。
身にまとっているのは白を基調としたドレスだ。すっきりした形でありながら、小粒の宝石をちりばめるなど精緻な意匠が凝らされて、華やかな印象になっている。首回りはこれまで着ていたハイネックと違って大きく開いていた。
正直、目のやり場に困る——。
夜会用のドレスとして特に露出が多いわけではないのだが、何せ見慣れない。母の言いつけを守っていたため、夫婦ではあるもののいまだに清い関係であり、こんなにも彼女の肌を見る機会はなかったのだ。
だが、母の見立てだけあってよく似合っているとは思う。煌びやかなドレスの存在感に彼女自身が負けていない。光をまとったような艶のある純白の髪、抜けるように白くみずみずしい肌、透明感のあるアクアマリンの瞳——どこか神聖さを感じさせる出で立ちで、誰もが目を奪われてしまいそうだ。
ちなみに結婚指輪だけは結婚した当時に母が用意したものだが、それ以外の装飾品はすべてアイザックが贈ったものである。髪飾りは十二歳の誕生日に、耳飾りは十三歳の誕生日に、ブレスレットは十四歳の誕生日に、アンクレットは十五歳の誕生日に、首飾りは十六歳の誕生日である今日この日に——。
「さあさあ、そろそろ出発する時間ですよ」
上機嫌の母に追い立てられるように二人で馬車に乗り、王宮に向かった。持参した招待状で受付をすませ、アリアをエスコートしながらホールに足を踏み入れると、そこには目映いばかりの煌びやかな世界が広がっていた。
「わぁ……」
アクアマリンの瞳に、キラキラとシャンデリアの光が映り込む。
今日、アリアはこの国王主催の夜会にて社交デビューする。正式に娘と認められていないので非公式ではあるが、彼女のデビュタントのために用意された場であることは、おそらくここにいる誰もが察しているだろう。
「王宮ってすごいですね」
「そうだな」
アリアはそのスケールに圧倒されたようだった。
アイザックも最初のときは同じように圧倒された覚えがある。いまでこそ夜会から遠ざかっているが、成人して数年ほどは次期公爵の義務として出席させられていた。特にこの王宮で開催されるものには。
そこで結婚相手を見つけることを期待されていたのだろうが、アイザックは誰も選ばなかった。選ぶ気にもなれなかった。当時は父にも母にもあきれられてしまったものの、そのおかげでいまがあるのだ。
ホール内に進むと、周囲がアリアに気付いたらしくざわめきが起こる。
厄災の姫という言葉も聞こえてはくるが忌避感は窺えない。噂に聞いていた幻の王女を初めて目にして、興奮しているような雰囲気である。これまで彼女の姿を見たひとはそう多くないので無理もない。
「アリアちゃん!」
臆することなく声をかけてきたのは第二王子サイラスだ。隣には妻のアンジェラもいる。
こうなるとますます注目を浴びてしまうが、生まれながらの王族である彼らはまったく意に介していない。アリアはうっすらと頬を紅潮させながら軽く膝を曲げて挨拶すると、すこし声をひそめて言う。
「あの、アリアちゃん呼びはもう卒業したいです……成人になりましたし……」
「そういえばそうだね。じゃあ、これからはアリアって呼ばせてもらおうかな」
「はい」
ほっとする彼女を見て、サイラスは愉快そうにハハッと笑ったかと思うと、ニッと口元を上げて尋ねかける。
「じゃあ、アリア、あとで僕と踊ってくれるかい?」
「もちろんです。お約束してましたものね」
ずっと以前から、アリアが夜会に行くようになったら踊ろうと約束していたのだ。
サイラスがどこまで意図しているのかはわからないが、二人がこうして談笑したり踊ったりすることで懇意にしていることが知らしめられ、その事実がアリアの後ろ盾のひとつとなるに違いない。
「アリア、お誕生日おめでとう」
今度はサイラスの隣に寄り添っていた妻のアンジェラが声をかけてきた。その言葉どおり愛おしむような優しい表情をしている。アリアもうれしそうに顔をほころばせる。
「ありがとうございます」
「またあらためてお祝いさせてね」
「はい、楽しみにしています」
例の事件以降も二人の親交はつづいており、とても仲がいい。
二人だけで出かけることは控えてもらっているが、だいたい月に一度くらいはどちらかの邸宅でお茶をしている。アンジェラは半年前に第一子の男児を出産したが、妊娠中はアリアと過ごすことがいい気分転換になったようだし、出産してからはアリアに赤子を抱かせてあげたりもしているようだ。
子供か——。
隣のアリアをそっと横目で見つめる。
いずれ遠くない未来に自分たちも子を持つことになるのだろう。公爵家の後継者として避けては通れないことである。いや、別に避けたいわけではないのだが——いまはまだ現実の話としてピンとこない。
「どうしました?」
「いや……」
視線に気付いたらしくアリアが振り向いて不思議そうに尋ねてきたが、正直に話すのは躊躇われた。向かいではサイラスがなぜか訳知り顔でニマニマとしていたものの、あえて気付かないふりをした。
ざわ、とふいに空気が変わる。
盛装した楽団が入ってきたのだ。各々の楽器を持って決められた位置につき、演奏の準備を始める。そろそろファーストダンスの時間のようだ。フロアにも手をとりあう男女がちらほらと出てきていた。
「俺らも行くか」
「ああ」
最初に踊ることが許されているのは、王族、公爵、侯爵のみである。
サイラスがアンジェラの手を、アイザックがアリアの手をとり、それぞれフロアの空いたところへ足を進めていく。もともと注目の的だったアリアが踊るということで、方々からざわめきが起こった。
「わたしたち思った以上に見られてますよね……緊張してきました……」
「まわりは気にするな。ただ練習どおりに踊ることだけを考えていればいい」
そうは言いつつも、アイザックも少なからず緊張を感じていた。
公爵家の人間として恥ずかしくない程度には踊れるようになったつもりだが、いつもと場所や状況が違いすぎるので心配ではある。だが、アリアを不安にさせないためにも堂々としていなければならないだろう。
適当なところで足を止めてアリアと向かい合う。最初に組んだときは身長差がありすぎて不格好になったが、いまはもうそんなことはない。頭ひとつも差がなく、基本を意識した美しい姿勢を崩さないままホールドを組む。
すっと指揮棒が上がり、あたりは水を打ったように静まりかえる。
互いに息を詰めて待っていると、指揮棒がしなやかに振り下ろされて華やかな音楽が始まった。音に合わせて一歩足を踏み出すまでは息もできずにいたが、そのあとはリズムに合わせて自然と身体が動いていく。
アリアも練習どおりに踊れていた。始まるまではそわそわとまわりを気にしていたが、いまはもうアイザックしか見ていない。本当にうれしそうに微笑んでいるのを見ていると、こちらも気持ちが和らいでいく。
「舞踏会で一緒に踊るという夢が叶ってとても幸せです」
「わたしもだ」
踊りながら囁き合い、微笑み合う。
氷の宰相補佐のいつになくやわらかい表情に、目撃者たちが驚いてちょっとした騒ぎになったことには、二人とも気付いていなかった。後日メイソンにからかわれて知ることになるのだが、それはまた別の話である。
ファーストダンスが終わり、そのままフロアでダンスがつづけられるのと平行して、国王陛下と妃殿下への謁見が始まった。
序列順なので、リーズ侯爵であるアイザックは王族や公爵のあとになる。順番が近くなるまで、通常であればダンスや歓談をしながら待つのだが、アリアがひどく緊張していてそれどころではなかった。
彼女にとっては、国王陛下と妃殿下に謁見するというより、実の両親と顔を合わせるという意味合いのほうが大きい。なにせ生まれてすぐに『厄災の姫』として始末されて以来、初めての対面になるのだから。
「大丈夫だ、わたしがついている」
「はい」
そっと包み込むように握った彼女の手は、思いのほか冷たかった。すこしでもあたためようとやわらかく力をこめると、その気持ちに応えるように、彼女はぎこちないながらもうっすらと微笑を浮かべた。
やがて、アイザックたちの順番がめぐってきた。
謁見は数段上の奥まったところで行う。フロアからすこし離れているとはいえ、開けた場であることには変わりないので、内密の話はできない。そのことはもちろんアリアもあらかじめ承知していた。
アリアをエスコートしながら階段を上り、二人で国王夫妻の御前に進み出ると、すっと片膝をついて最敬礼の形を取る。
「面を上げよ」
陛下の許しで顔を上げると、国王夫妻は感慨と自責がないまぜになったような表情をしていた。妃殿下はうっすらと目に涙さえ浮かべている。しかしながら公の場で娘としてアリアに接することは許されない。
「リーズ侯爵、婚姻を命じてから五年が過ぎたが、夫人とはつつがなく暮らしておるか」
「はい、素晴らしい御縁を賜りましたことを心より感謝しております」
それはまぎれもない本心である。正直、最初は押しつけられた幼い花嫁を面倒だとしか思わなかったが、いまとなってはアリアでよかったと心の底から思っているし、もうアリア以外など考えられない。
陛下は目を細めて頷くと、こころなしか緊張ぎみにアリアのほうへ視線を移した。
「リーズ侯爵夫人……本日、成人を迎えたのだな」
「はい」
アリアはまじろぎもせずに視線を返してそう答えたあと、一呼吸して言葉を継ぐ。
「わたしは本来であれば生まれてまもなく命を落としていたはずでした。ですがいろいろ方の尽力で命をつなぎ、居場所を与えられ、いまは皆様に良くしていただいてこうして幸せに暮らしております。救われたこの命を決して無駄にはいたしません」
陛下は神妙に頷き、隣の妃殿下は口元を両手で覆いながらあらためて涙ぐむ。二人の顔には言いたいことを言えない苦しさがにじんでいるように見えた。一方でアリアはどこかさっぱりとした顔をしていた。
謁見が終わると、約束どおりサイラスとアリアが一曲だけ踊った。
王子と王女になるはずだった実の兄妹のダンスは、当然ながら注目の的だった。世間ではあまり二人の交流を知られていないのか、その仲睦まじさに驚かれていたが、おおむね好意的に受け止められているようだった。
同時にアイザックはアンジェラと踊った。
気が進まないながらも、事前にサイラスから頼まれて承諾したのである。アリア以外の相手とうまく踊れるかは心配だったが、上級者の彼女がこちらに合わせてくれているようで、それなりに形になっていた。
「アリア様からいろいろとお話は伺っておりますわ」
「……それはどのような話でしょうか」
「ご心配なさらなくて結構ですのよ。ただの惚気話ですから」
優雅に踊りながら、アンジェラはふふっと笑って応じる。
彼女がそう思っただけで、アリアに惚気たつもりはないのかもしれないが——いったい何を話したのか気になって仕方がない。こそばゆいような面映ゆいような気持ちになりつつも、素知らぬ顔をして踊りつづけた。
その後、しばらく歓談して馬車で帰路につく。
来たときは薄闇だった空も、いまではすっかり夜の帷が降りて濃紺色になっていた。ただ、晴れているからか星も月もきれいに見える。ガタガタと揺れる馬車には、窓からほのかな明かりが射し込んでいた。
「疲れただろう」
「すこしだけ」
隣のアリアははにかみながらそう答えると、ゆっくりと前を向く。
「わたし……国王夫妻にお会いしたらどういう気持ちになるのかすこし不安でしたが、実際にお会いしてすっきりしました。わたしの家族はスペンサー家の皆さんなんだって胸を張って言えます」
言葉どおり清々しい顔をしたアリアに、じわりと胸が熱くなる。
国王夫妻がアリアを生んでくれたことには感謝しなければならないと思うが、殺そうとしたことも捨てたことも事実で、アイザックとしてはいまさら彼女のまえで親の顔をされるのは複雑な気持ちだった。
だから謁見のとき、アリアがあまり感動した様子もなく冷静に応じていたことに、そしてその内容も親子の情から一線ひいたものであったことに、国王夫妻には申し訳なく思いつつも内心ほっとしていた。
「あの……わたし、今日で成人なんです」
「ああ……おめでとう……?」
それは知っているし、今朝、誕生日プレゼントを渡して祝意も伝えたはずだ。どういうつもりなのかわからなくて困惑していると、彼女は気まずげに目を泳がせたあと、そっとアイザックの耳元に顔を寄せて内緒話のように囁く。
「名実ともにアイザック様の妻にしてくださるんですよね?」
思わず振り向くと、彼女は暗がりでもわかるくらいに顔を赤らめて目をそらした。
その意味がわからないほど鈍くはない。もちろんアイザックもいずれそのうちにとは思っていたのだが——つられるように顔が熱くなっていくのを自覚しながら前に向きなおり、そっとアリアの手を握る。
沈黙が落ちる中、スペンサー邸につくまで二人の手が離れることはなかった。