氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

エピローグ

 馬車が街に入り、ゆっくりと大通りを進んでいく。
 地面がなだらかになめらかに整備されているからか、揺れが少ない。道幅は王都の大通りよりも広いくらいで、歩道も広くとってある。よく見ると、最新のしゃれた街灯も等間隔に設置されていた。
「さすがベルファスト卿が自慢するだけのことはあるな」
「活気はシェフィールド公爵領のほうが上ですけどね」
 窓の向こうを眺めるアイザックの隣で、執事がいかにも面白くなさそうに対抗心を露わにするが、そういう言い方しかできない時点で認めたも同然だろう。アイザックとしては参考にできるところは参考にしたいと思っている。
「勝ち負けではないのだぞ」
「わかっております」
「それより頼みがあるのだが」
「何でしょう」
 執事がこちらに振り向くような気配を感じたが、アイザックはいまだ窓の向こうに目を向けたまま、若干きまりが悪いのを自覚しながら話を継ぐ。
「彼と二人きりにしてもらいたい」
「いくら主の命令でもそればかりは許容いたしかねます。相手には前科がありますし、大旦那様からもくれぐれもよろしく頼むと仰せつかっておりますので」
 予想どおり、にべもない返事だった。
 スペンサー家に仕える使用人として、当主のアイザックを危険にさらすわけにはいかないということだろう。アイザックももしかしたらという気持ちで言ってみただけで、過度な期待はしていなかった。
 仕方ない——。
 ゆるやかに流れゆく洗練された街並みを眺めながら、うっすらと眉を寄せる。狭くはないはずの馬車内にどこか気詰まりな沈黙が降りた。

「お待ちしておりました」
 中心部から外れたところにあるカントリーハウスに到着すると、男性の使用人が丁寧に出迎えてくれた。すぐに応接室に案内され、同行の執事と並んでソファに腰を下ろして面会相手を待つ。ほどなくしてコンコンと軽くノックされて扉が開いた。
「やあ、アイザック……十年ぶりだな」
 姿を現したのはレイモンドだ。
 いまは真面目に仕事をしているとメイソンから聞いていたが、ミステリアスで艶めいた雰囲気はあのころと変わらない。立ち上がろうとしたアイザックと執事を手振りで制して、向かいのソファに腰を下ろす。
「まさか再び会えるとは思わなかった」
「面会の申し入れを受けてくれて感謝する」
「君の動向はずっと追っていたよ」
 挨拶もそこそこに、彼はさらりとそんなことを切り出した。
「公爵位を継ぎ、宰相になり、どちらも立派に成果を上げているらしいな。そして息子二人と娘一人をもうけたとも聞いた。それなのにいまも氷のような美しさは衰えていない。本当にさすがだ」
「…………」
 彼の真意がわからず無言になる。
 しかし今日はそのままで終わらせるつもりはなかった。すべてに片をつけるため、用事で近くまで行くついでにという建前を用意してまで、わざわざこのベルファスト公爵領に足を運んだのだから。
「この十年、考えつづけていた……君がなぜアリアを殺そうとしたのかを」
 思わせぶりに艶のある微笑を浮かべていたレイモンドが、それを聞いて片眉を上げた。どうやら興味をひいたらしい。アイザックはまっすぐ挑むようなまなざしで見据えると、冷静に言葉を継ぐ。
「当時は真実を隠すための詭弁だと思っていたが、最後に会ったあのとき、君はおそらく嘘偽りない本当のことを話していた。つまり、わたしを厄災の姫から救いたくてやったのだ。なぜなら君の好きなひとはわたしだったから……違うか?」
 最後の問いかけに、それまで思わせぶりな微笑を崩すことなく聞いていたレイモンドが、まるで緊張の糸が切れたようにフッと息をついて脱力した。
「ようやくか」
 そう言い、何でもないかのようにつづける。
「別に君とどうこうなりたいと思っていたわけじゃない。ただ遠くから見ているだけでよかった。けれど厄災の姫を押しつけられたなんて聞いたら、放ってはおけなかった。僕が排除するしかないと君に近づいて機会を窺っていた」
 余計なお世話だったみたいだけどね、と軽く肩をすくめながら言い添える。
 彼の話したことが本当かどうかを確かめるすべはない。だが、アイザックとしてはすんなりと腹落ちした。過去の行動とも矛盾がないし、いまにして思えばではあるが何となく心当たりもある——。
「答えてくれて感謝する」
「もういいのか?」
「聞きたいことは聞けた」
 目的を果たしたので長居するつもりはない。アイザックは隣の執事とともにソファから立つが、レイモンドは腰を下ろしたままだった。ゆるりと視線を上げ、熱をはらんだグリーンアイをじっとひたむきに向けてくる。
「最後に聞きたい……君は、幸せか?」
「幸せだ」
 アイザックはまじろぎもせず見つめ返してそう答えると、颯爽と応接室をあとにした。

「よろしかったのですか?」
 カントリーハウスから馬車がゆっくりと走り出したところで、執事が気遣わしげに問いかけてきた。しかしながら何が言いたいのかよくわからず怪訝な顔になると、それを見留めて彼はすこし言葉を継ぐ。
「もっと何か言いたいことがあったのではないかと」
「いまさら言うことはない」
 真相を確かめたかっただけで、レイモンドにはとっくの昔に見切りをつけている。わざわざ個人的に何か言おうとは思わないし、もう関わり合いになる気もない。つまりはどうでもいいということだ。なのに——。
 馬車に揺られながら窓越しの薄い青空を見やり、そっと眉を寄せる。
 帰りぎわに一瞬だけ目にしたひどく寂しげな彼の微笑が、どうしてだかずっと脳裏から離れない。まるで呪いでもかけられたかのように。不本意ながら、きっとこのままいつまでも忘れることはできないのだろう。