機械仕掛けのカンパネラ

第3話 見えない真意

「橘の住所、まだなの?」
「そう急かすな」
 二か月が過ぎても、橘の住所はわからないままだった。
 三億円の懸賞金が取り下げられた翌日から、すくなくとも一日一回は尋ねているが、拓海の返事はいつもつれないものだった。焦る様子さえ見られない。ただ淡々と否定の言葉を繰り返すだけである。

 誘拐事件に関連した報道は、今ではすっかり下火となっているが、記者会見から数日はかなり盛り上がりを見せていた。誘拐事件の顛末を伏せられて不完全燃焼だったのだろう。様々な憶測をめぐらせて事件を読み解こうとしていたようだ。
 七海の見た番組では、お家騒動というのが最有力として挙げられていた。後継者争いや遺産相続をめぐる問題などで、橘会長と対立する側が実力行使に出たのではないかと。その場合、身内あるいはその知人の犯行という線が濃厚らしい。
 あと、実は駆け落ちだったのではないかという説もあった。橘会長が交際を反対したところ駆け落ちしてしまったので、その二人を探し出すために、もしくは懲らしめるために、誘拐されたと偽って懸賞金をかけたのではないかと。
 どちらにしても、あの似顔絵の男は橘家と何かしら関係があるということだ。素性も掴んでいるに違いない。もう和解しているのであれば居どころも把握しているかもしれない。
 橘会長に訊けば、何らかの情報は得られる。
 その確信があるにもかかわらず、住所がわからないから会いに行けないなど、くやしくてもどかしくて落ち着かない。けれど七海にはどうすることもできない。せいぜい毎日あきらめずに拓海をせっつくくらいだ。
「ねえ、本当に調べてるの?」
「仕事の空き時間にな」
「本当にまだわからないの?」
「ああ」
 拓海は食べかけのトーストに目を落としたまま答えると、マグカップのコーヒーを一口飲んだ。
「七海、いまは仕事が忙しいんだ。もうしばらく待ってくれ」
「うん……」
 仕事が忙しいというのは嘘ではないように思う。このところ帰宅はいつも七海が寝たあとだし、今日も土曜なのに仕事に行くという。けれど、何か逃げているように感じるのは気のせいだろうか。
 彼が冷静なのはいつものことだが、お父さんの敵を取ろうと七海に言い聞かせていたときの、あの力強いまなざしがまったく見られなくなった。それどころか、この話をしているときは目を合わせてもくれないのだ。
 結局、今朝も顔を上げることなく席を立ち、シャワーを浴びに行ってしまった。七海は釈然としない気持ちのまま、その背中を横目で追いながら、食器を集めて流しに運んでいった。

 泡立てたスポンジで皿を洗いながら、もやもやと考える。
 橘の住所を調べるのに行き詰まっているだけなら仕方ないが、そもそも調べていないのだとしたら。調べたくないのだとしたら。彼の様子からするとありえなくはないと思うが、理由がわからない。
 復讐をあきらめた——?
 ふいに浮かんだ答えを認めたくなくて、顔を曇らせる。
 そういえば、父親を殺されたあの日からずっと敵を取ろうと言い続けてきた彼が、一年ほど前から口にしなくなっていた。七海に自覚が芽生えて必要なくなったと解釈していたが、もし気が変わっていたのだとしたら。
 ずっと共通の目的で結ばれた仲間だと思っていたのに、どうして。裏切られたように感じてギリと奥歯を食いしばる。そうと決まったわけではないが、その可能性があるのなら、ただじっと待っているわけにはいかない。

 食器を洗い終えて、水を止める。
 濡れた手をタオルで拭いながら、自分ひとりで何ができるだろうと思案をめぐらせる。住所を調べようにもどうすればいいのか見当もつかない。やはりどうにかして拓海に協力してもらうしかないように思う。でも、普通に頼んでも今までのようにごまかされるのがオチだ。
 何か弱みを握れば言うことを聞いてもらえるかも——ふと思いついたその考えに鼓動が速くなり、胸が苦しくなる。こんな脅迫みたいな真似をして後悔しないだろうか。けれど、そんなことを言っていたらいつまでたっても敵が討てない。
 拓海がシャワーから出てくるまでに、まだ時間はある。
 表情を引きしめ、くるりと身を翻してざっとあたりを見まわす。拓海の部屋はいつも鍵がかかっているので入れない。探れるとすれば、リビングに掛けてあるスーツの上着くらいだ。確かあの内ポケットには黒い手帳が入っているはず。ときどき家でも広げながら電話をするのを見かけていた。
 はたして、内ポケットには手帳があった。
 何か弱みになるようなことが書かれていないか、手早くめくりつつチェックする。しかし目につくのは断片や暗号のようなものばかりで、内容はほとんど理解できなかった。考えてみれば、知られてはまずいことをそれとわかる形で書くはずがない。溜息を落とし、もうあきらめようと思いながらも手が止まらず一枚めくると。
「え、これ……!?」
 そこには「タチバナ」という文字と住所らしきものが斜めに走り書きされていた。大きく息を飲んだが、考えている時間はない。すぐに電話の横に置いてあるメモ帳を一枚引きちぎって書き写すと、上着の内ポケットに手帳を戻した。

「いってらっしゃい、パパ」
 いつもどおり玄関でひらひらと手を振りながら見送る。拓海も不審に思いはしないだろう。案の定、手帳を盗み見たことに気付きもせず、扉を開けて出ていった。

 七海は玄関に立ったまま、ジャージのポケットに手を差し入れ、書き写した紙切れをそっと取り出した。住所は東京23区内。あの橘だと断言することはできないものの、それ以外に考えられない。
 どうして教えてくれなかったの?
 復讐をあきらめたわけではなかったのだろうか。でもわざと教えなかったのなら、七海に行かせるつもりはないということだ。拓海が何を考えているのかわからない。だからこそ、迂闊に問いただすわけにもいかない。
 僕ひとりでここへ行ってこよう——。
 七海に外出が許されている時間は、土日祝の日中と、平日の午後三時から日沈までだ。今日は土曜なので午前中から外出しても問題ない。日が沈むまでに帰れば知られることもないだろう。
 さっそく白いTシャツとデニムのショートパンツに着替え、ショルダーホルスターを装着し、手入れして装弾した愛用の拳銃をそこにおさめる。さらにその上からブルゾンを重ねてキャップを目深にかぶると、唇を引きむすんだ。
「お父さん、行ってくるね」
 血で汚れたイルカのぬいぐるみをギュッと抱きしめて、元に戻す。
 絶対にあの男の居どころを聞き出してくるんだ。そしてこの手で殺すんだ——強い決意を胸に、まぶしい日射しが降りそそぐ外へと飛び出していった。