機械仕掛けのカンパネラ

第14話 二度目のさよなら

 高校を卒業してから約九年。
 拓海は公安に所属して仕事を続けていた。危険な仕事でも、陰惨な仕事でも、地味な仕事でも、与えられるまま淡々とこなしていく。仕事以外は食事をして寝るだけの無味乾燥な日々。恋人どころか友人のひとりもいない。
 鏡の向こうの自分はひどく澱んだ目をしている。しかし、それを嘆くことさえできないほど心は摩耗していた。どうせ夢も希望も何もない。使い捨てにされて一生を終えるのがお似合いだとやさぐれる。
 それでも、この世に生まれたことは後悔していない。
 俊輔と過ごした高校時代の三年間には一生分の価値があった。まぶしいくらい鮮やかに色づいたその記憶と、彼からのプレゼントであるオルゴールだけが、心の拠り所となっていた。

 霜が降りるほど冷え込んだある日、緊急指令が下された。
 それはとある白人風の男を秘密裏に確保することである。不審な潜水艇を捕らえようとして半壊させたが、操縦者と思われるその男が海に逃れてしまい、行方がわからなくなったという。
 長くはない鮮やかな金の髪、サファイアのような青い瞳、二メートル近くある長身、ブルゾンに濃い色のパンツ——男に関する情報はそれくらいで、名前どころか顔さえもわからないらしい。
 詳しくは知らされていないが、その男は存在自体が秘匿されなければならない最重要機密ということで、なるべく一般市民の目に触れないよう、そして都道府県警察には先を越されないよう厳命されていた。
 もし事情を知らない都道府県警察がこの男を確保すれば、かなり面倒なことになる。最悪でも記者発表だけは阻止しなければならない。マスコミに目をつけられると情報漏洩の危険性が高くなるのだ。
 しかし、捜索の手は圧倒的に不足している。
 公安部の動ける人員は全投入しているものの、そもそもが多くない。あとは自衛隊の少数精鋭が海上を捜索しているくらいだ。最重要機密ゆえ闇雲に動員するわけにはいかないのだろう。

 ザザーン——。
 波音を聞きながら、拓海は双眼鏡片手に割り当てられた砂浜を捜索する。潮の流れなどを考えると、漂着するならこのあたりではないかと推測し、公安は周辺一帯を厳重警戒していた。
 真冬の海に何の装備もなく飛び込んだとなれば、海で力尽きる可能性が高い。それでもまずは生きて泳ぎ着くことを想定する必要がある。もちろん死んでいても遺体は回収しなければならない。
 そろそろ着いてもおかしくない時間だ。
 街に逃げ込まれては発見が困難になるため、文字通り水際で止めるしかない。幸い真冬ということもあり砂浜にはほとんど人影がなく、不審な金髪碧眼の男がいればすぐにわかるだろう。
 あれは……。
 双眼鏡を覗いていると、遠方の波打ち際に何かが横たわっているのが目についた。倍率を上げて確認する。それは全身ずぶ濡れでうつぶせに倒れている金髪の男だった。長身かどうかはわからないが小柄ではなさそうだ。
 間違いない。そう確信して、足元の悪い砂浜を全力で走り出す。
 だが拓海がたどり着くより早く、作業着にブルゾンを羽織った男性があたふたと駆け寄っていった。声をかけながら肩を揺さぶったり頬を叩いたりしているが、反応はないようだ。
 やがてズボンのポケットから携帯電話を取り出して操作を始める。救急車を呼ぶつもりなのだろう。意識のない人間を発見したときの行動としては正しいが、この男が対象の人物なら非常にまずい。
「動くな、警察だ!!」
 鋭い声でそう叫び、素早く懐から銃を取り出して作業着の男性に向ける。彼は反射的に振り向くと銃口を見て青ざめたが、目が合った瞬間、二人ともその目を見開いて息を飲んだ。
「拓海?!」
 作業着の男性はかつての親友、坂崎俊輔だった。
 そういえば彼の就職先はこのあたりだったと思い出す。高校生のときより幾分か男性らしさが増しているものの、あまり変化はない。男性にしては高めのやわらかい声も当時のままだ。
 懐かしさが胸に押し寄せる。連絡を絶ったのは拓海自身であり、この再会もやっかいな事態ではあるが、それでも心はずっと俊輔を求めていたのだろう。だが、今はその感情に流されている場合ではない。
「個人的な話はあとだ。その男を引き渡せ」
「でも、意識がないし救急車を呼ばないと」
「処置はこちらでする」
「……わかった」
 警察の言葉には逆らえないと思ったのか、あるいは旧友として信用してくれたのか、どちらにしても完全に納得したわけではなさそうだが、俊輔は携帯電話を畳んでポケットにしまってくれた。
「ここで見たことは他言無用だ」
 そう彼に警告し、倒れた男に銃を突きつけて警戒しながら、懐から取り出した手錠を後ろ手に掛ける。遠くからではわからなかったがかなりの長身だ。二メートル近くあるだろう。まぶたを開いてみると瞳は青色だった。
 心臓は動いており、息もあるので、心臓マッサージ等の応急処置は必要なさそうだ。しかし顔にはまるで血の気がなく、体も冷え切っている。効果のほどはわからないが自分のコートを男に掛けた。
 電話で本部に報告すると、近くに待機しているワゴン車が男を収容することになった。そこには医療の心得のあるものも同行しているという。また、第一発見者を聴取するので留めておくよう命じられた。

「拓海……僕、ずっと心配してた」
 電話を切ると、隣にいた俊輔がおずおずと声を掛けてきた。
「あのあと何か月待っても来ないから、心配になって拓海のいた施設に行ってみたけど、そこで教えてもらった転居先にもいなくてさ。警察で尋ねても教えられないって言われるし、もうお手上げで……僕のこと迷惑だった?」
 彼は寂しげな微笑を浮かべ、肩をすくめる。
 まさかそこまで必死に探してくれるなんて思いもしなかった。迷惑だから連絡を絶ったと誤解されるなんて考えもしなかった。こんなことなら手紙だけでも出しておけばよかったと、いまさらながら後悔する。
「悪い、職務上の都合で住所を教えられなかった」
「え、職務って……警察に就職したんじゃないの?」
「そうだが、一般の警察官でも警察職員でもない」
「どういうこと?」
「悪いがこれ以上は話せない」
 それが拓海の見せられる精一杯の誠意だった。俊輔なら言いまわしから何となく察してくれるだろう。言えないような裏の仕事をしているのだと。実際、彼の眉間にはうっすらとしわが寄っていた。
「いまも連絡先は教えられない?」
「ああ」
 その答えを聞き、彼はすぐに作業着のポケットから自分の名刺を出し、裏の余白にボールペンを走らせて拓海に差し出した。目を落とすと、そこには住所と携帯電話の番号が書かれていた。
「拓海から連絡するのは禁止されてないよね? せっかく再会できたのに、このままさよならなんてしたくない。聞くなっていうことは聞かないようにする。ただ昔みたいに仲良くしたいだけなんだ。待ってるから今度こそ絶対に連絡して……絶対だよ」
 怖いくらいの真顔で押しつけられて、思わず受け取ってしまう。
 しかし彼と会うことはやはりもうないだろう。禁止されているわけではないが、いまの自分は彼と付き合うに値しない人間である。万が一、彼に危害が及ぶようなことになれば死んでも死にきれない。
「じゃあ、そろそろ昼休み終わるから」
「待て、第一発見者として聴取がある」
「そうなの? うわ、まいったな……」
 まもなく午後一時になる腕時計を見て、急いで帰ろうとしていた俊輔は、困り顔で頭をかいた。
「会社に遅れるって連絡していい?」
「ああ、警察に協力するとだけ言え」
「わかった」
 彼はその場で上司に電話して遅れることを平謝りしていた。どうやら重要な会議があったらしい。申し訳なく思うが、こちらとしても国家機密に関係する以上、独断で融通をきかせるわけにはいかなかった。

 ザザーン——。
 静かになると波の音が耳につく。
 こうやって俊輔と並んで海を見るのは高校生のとき以来だ。隣に目を向けると、彼はあのころと同じようにじっと海原を見つめていた。いまでも海が大好きで、休憩時間などに飽きもせず眺めに来ているのだろう。
 懐かしい波の音、懐かしい潮の香り、そして懐かしい親友。
 意識すればするほど胸が詰まる。何か話をしなければと思うのに、何も言葉が出てこない。何を話せばいいのかわからない。早くしなければこの時間が終わってしまうというのに——。
「オルゴール、大切にしている」
 ようやく絞り出したひとことに、彼は驚いたような顔をして振り向いたが、すぐによかったと屈託のない笑みを見せた。その一瞬で、高校生のころに引き戻されたように感じた。
 直後、慌ただしいエンジン音が聞こえて振り向くと、ちょうどワゴン車二台が到着したところだった。ようやく話を始めたばかりなのにと苦々しく思うが、仕方がない。車から降りてきた職員たちに手を上げて合図を送る。
「その男が対象者だ」
「了解した」
「彼が第一発見者だ」
「こちらへ」
 俊輔が二人の職員に挟まれてワゴン車に連れて行かれる。不安そうにちらりと振り向いた彼に、拓海は大丈夫だという気持ちをこめて頷いた。
 これで、さよならだ——。
 遠ざかる後ろ姿を見送りながら、胸の内でつぶやく。
 いくら彼が会いたがっても、こちらから連絡をしなければ会えはしない。もともともう永遠に会うつもりはなかったのだ。この奇跡のようなひとときだけで十分である。思い残すことは何もない。
 彼の連絡先が書かれた名刺に手を掛けた。
 その指がかすかに震えているのが自分でわかる。なかなか踏ん切りがつかずしばらくそのままでいたが、やがて意を決して細かく破ると、くすんだ灰色の空に掲げて冷たい潮風にさらわせた。