「坂崎俊輔を引き抜いてこい」
「……は?」
拓海は絶句し、口を半開きにしたまま硬直する。
上司である楠の命令に、こんな間の抜けた返事をしたのは初めてだった。表情を取り繕う余裕さえない。楠はふっと鼻先で笑い、執務机の上でゆったりと手を組み合わせて言葉を継ぐ。
「公安に転職させろということだよ」
「いったい、なぜ……」
「君の高校時代の友人なのだろう?」
彼の顔にニヤリと人の悪い笑みが浮かんだ。
誰にも話していなかったのに——おそらく俊輔のことは一通り調査済みなのだろう。考えてみれば身元調査をするのは当然だ。偶然とはいえ、最重要機密にひとりで接触してしまったのだから。
しかし、通常であれば動向に注意しておく程度で、引き抜くという話にはならない。第一発見者がたまたま拓海の親友だった、ということに、何か疑惑を持っているのかもしれない。それゆえ目の届くところで管理しようというのだろう。
あるいは拓海に対しての人質ではないかとも考えられる。俊輔が公安に所属しているかぎり、拓海は裏切ることも、辞めることも、歯向かうこともできない。たとえどんな扱いを受けようとも従順でいるしかないのだ。
彼をきな臭い世界に関わらせたくなくて繋がりを絶ったのに、最悪だ。
こんなことなら本部に連絡する前に逃がしておけばよかった。あの浜辺には防犯カメラが設置されていないので、逃がしても露見することはなかったはずだ。職務をこなすことしか頭になかったあのときの自分が恨めしい。
「そんな顔をするな」
笑いを含んだ面白がるような声。
本心を悟られないよう無表情を装ったつもりだが、隠せていなかったらしい。いや、楠が並はずれて鋭いだけかもしれない。それでも素知らぬふりをして受け流しながら、藁にもすがる思いで進言する。
「坂崎にこの仕事は務まりません」
「心配はいらん。何も危険な仕事をさせようというわけではない。例の男を監視する要員が不足していてな。増員を検討していたのでちょうどよかった。彼にとっても悪い話ではないと思うが」
そう言い、楠は黒色のファイルを差し出してきた。
怪訝に思いながら受け取り、ページを繰りながらざっと目を通していく。そこには俊輔に関する情報が事細かに記載されていた。拓海の知らなかった事実も少なくない。おかげで、さきほどの言葉の意味も否応なく理解させられた。
「よろしく頼んだぞ」
有無を言わさない威圧的な口調。
拓海は無言のまま一礼し、黒いファイルを抱えて楠の執務室をあとにする。その薄いはずのファイルがやけに重く感じられて、静かに奥歯を噛みしめた。
「来てくれて嬉しいよ」
古びた二階建てアパートの一階に、俊輔は住んでいた。
約束の時間ちょうどに訪ねると、彼は明るく声をはずませて迎え入れてくれた。建物はかなり老朽化しているし、狭い台所は生活感にあふれているが、掃除は行き届いているように見える。
奥へ促そうとした俊輔のところへ、小さな女の子がトタトタと走ってきた。俊輔のズボンにしがみついてその陰に隠れながら、ひょっこりと顔を出し、くりっとした大きな目でじいっと拓海を見上げる。
「この子が娘の七海」
俊輔はそう言い、優しく慈しむように小さな頭に手をのせる。
「七つの海、って書いて七海だよ」
「本当に名前に海を入れたんだな」
「その話、覚えていてくれたんだ」
「ああ……いい名前だな」
「ありがとう」
俊輔は照れたようにはにかんだ。
彼はずっと男手ひとつで七海を育てている。妻は出産直後に出血性ショックで亡くなったのだ。すべて楠から渡された調査書で知ったことだが、その後、俊輔本人からも電話で打ち明けられていた。
「七海、この人はお父さんの親友の真壁拓海さん。七海と同じ海の入った名前だよ」
俊輔は嬉しそうに説明するが、こんな小さな子供に漢字の話をしても理解できないだろう。ただ、父親の友人ということは何となくわかったようで、大きな目をぱちくりとさせて拓海を見上げる。
「おとうさんと、なかよし?」
「ああ、そうだ……よろしく」
「うん!」
目の前にしゃがんで挨拶すると、彼女は元気よく頷いた。
調査書の写真を見たときは妻の方に似ていると思ったが、動いているところを見ると俊輔に似ているようにも感じる。本当に彼の娘なのだと実感し、何ともいえない不思議で複雑な気持ちになった。
「たいしたおもてなしはできないけど」
丸い座卓の向かいに腰を下ろした俊輔は、緑茶の入った湯飲みを差し出しながら、申し訳なさそうに言った。しかし、知人の家に招かれた経験すらない拓海には、そもそも何が普通なのかもわからない。
七海はすぐそばで積み木遊びをしていた。まだこんなに幼いのに邪魔をしないよう静かにしている。それでもときどき父親の様子をちらちらと覗っているので、やはり構ってほしい気持ちはあるのだろう。
「拓海は結婚してないの?」
「ああ……ずっとひとりだ」
いきなりそんな話題が来るとは思いもしなかった。一瞬ドクリと心臓が跳ねたが、どうにか動揺を見せずにすんだ……はずだ。
「彼女は?」
「いない」
「そっか」
俊輔は曖昧に微笑み、湯飲みに指先を添えて目を落とした。
「仕事が忙しい?」
「そうだな」
仕事が忙しいのは本当だ。
しかし、彼女や友人がいないのは多忙だからというわけではない。この仕事をしているかぎり誰とも親しくしないと決めている。禁止されているわけではないが、不器用な自分には秘密を抱えながらの付き合いは難しい。相手に危害が及ぶかもしれないという懸念もある。
もっとも望んだところで手に入らないこともわかっている。自分はつまらないとしかいいようのない空虚な人間だ。中身だけでなく愛想すらない。親しくしたいと思ってくれる人などいないだろう。ただひとり俊輔を除いては。
「そっちはどうなんだ」
「そんな気はないよ」
俊輔はうっすらと微笑を浮かべた。
現在、彼女も友人もいないことは調査書でわかっていた。持ち前の人当たりのよさで良好な人間関係を築いているが、いずれもその場だけの付き合いで、個人的に遊びに行ったり家に招いたりすることはないらしい。
彼の発言から察するに、亡くなった妻への想いがまだ薄れていないのだろう。娘が幼いのでそれどころではないというのもありそうだ。けれど拓海だけはこうやって娘と暮らすアパートに招いてくれた。
俊輔の友人は自分ひとりだけ——そう思うと仄暗い喜びが胸にせり上がってくる。それがいかに身勝手な感情であるかは理解している。だから絶対に悟られないようにしなければならない。
「仕事は忙しいのか」
「昔は毎日のように残業してて忙しかったけど、今は七海がいるから配慮してもらってる。その分、他の人に負担をかけて申し訳ないっていうか、ちょっと気まずいんだけど……ってごめん、なんか愚痴っちゃって」
気恥ずかしそうに肩をすくめる俊輔に、構わないと告げる。職場に不満があるなら拓海としては都合がいい。これなら——。
「俊輔、おまえ転職する気はないか?」
「えっ?」
若干緊張しながら切り出すと、俊輔は一瞬きょとんとしたあと、すぐに我にかえって苦笑する。
「高卒で技能もない僕じゃ転職なんて上手くいきっこないよ。ちょっと愚痴ったけど、こんなに配慮してくれるところなんて他にそうないと思うし、十分すぎるくらい恵まれてるってことはわかってるんだ。心配させてごめん」
チクリと胸が痛む。友人として心配する気持ちはもちろんあるが、それと転職を切り出したこととは無関係なのだ。拓海にとっては上司に命じられた任務である。そしてそれを蔑ろにすることはできない。
「高卒可で条件のいい転職先があればどうだ」
「んー……でも、転職先を探す余裕はないから」
「探さなくてもあるといったら、どうする?」
「どういう意味?」
思わせぶりに続けられる転職の話に、俊輔の眉が寄る。
できれば転職したいという言質を取りたかったが、探り探り進めていくのはいいかげん限界のようだ。そう判断すると、小さく息を吐いてすっと背筋を伸ばし、真摯に彼を見つめながら告げる。
「俺は、おまえを引き抜くためにここへ来た」
「えっ……引き抜くって、その、警察に?」
「ああ、警察といっても公安警察だけどな。心配するな。おまえに与えられるのは危険な仕事じゃないし、朝九時から夜六時までの勤務で残業もないし、今よりも働きやすいはずだ。それに……」
「ちょっと待って、どういうこと? なんで僕?」
俊輔が当惑するのも無理はない。
納得してもらうには理由を説明するしかなさそうだ。しかしながら拓海自身ほとんど何も聞かされていない。おそらくそうではないかと考える理由はあるが、憶測で話すわけにはいかない。
「上司の命令だ。人手不足を補うためだと聞いている」
「もしかして、僕が見てはいけないものを見たから?」
「……それがきっかけではある」
慎重に事実のみを伝える。
俊輔は目を伏せてじっと考え込んだ。歯切れの悪い言いまわしから何かを察したのだろう。もしかしたら、先日の聴取から不穏なものを感じていたのかもしれない。決して口外しないようにと、丁寧ながらも高圧的に言われただろうことは想像がつく。
「引き抜きってさ……強制?」
「いや、強制はできない」
その答えに、彼は大袈裟なくらいほっと息をついた。
「だったら断るよ。やっぱり今の仕事が好きだから続けたいし、それに公安って何か怖そうで関わりたくないっていうか。拓海がそこで頑張ってるのはすごいと思うんだけど……」
「給料は今の倍以上出せる」
拓海が無表情で告げると、俊輔は息を詰めた。
「海に携わる今の仕事が好きだということはわかるし、公安を怖いと感じる気持ちも十分理解できるが、娘のことを思えば、もうすこし金銭的に余裕があった方がいいだろう」
彼の窮状は調査書で把握している。
妻が生きていたころは共働きだったため幾分か余裕もあったが、父子家庭となってからはかなり生活が厳しくなっていた。娘が小学生になれば、授業料はかからなくても何かと出費がかさむのが現実だ。
俊輔は口を引き結んだ。そして隣で積み木遊びをしていた七海に手を伸ばし、まんまるの目をぱちぱちと瞬かせる小さな彼女を、自分の膝にのせてやわらかく包み込むように抱きしめる。
思案をめぐらせているのか、深くうつむいたまま微動だにしなくなった。表情は窺えない。最初のうちは父親の膝にのせられてニコニコしていた七海も、父親の様子がおかしいことに気付いて不安そうな面持ちになる。
「……わかった」
長い沈黙のあと、俊輔は短くそれだけ答えて顔を上げた。
拓海と目が合うと複雑な笑みを浮かべて肩をすくめる。情けなさとあきらめと恥じる気持ちが綯い交ぜになったような表情だ。しかし、それを感じなければならないのはむしろ拓海の方である。
本当は俊輔をこんな薄暗い世界に近づけたくなかった。なのに楠に逆らえず、弱みにつけ込んで転職を迫るという卑怯なまねをした。たったひとりの親友も守れないどうしようもない男だ。
そう自嘲する一方で、彼と同僚になれることに少なくない喜びを感じていた。これからは秘密を共有できる。もう遠ざける必要はなくなる。あのころのように親友に戻ることができるのだから。